土佐、海を往く   作:海の藻

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第2話 土佐、初出撃

翌朝。

 

「……眠れなかった」

 

目を覚まして最初に出た言葉が、それだった。

 

別に緊張していたわけではない。明日の出撃に備えて早く寝ようと思っていたのだが、目を閉じるたびに海が見えた。

 

何もない海。青い空。白い波。

 

そして、その先にいる何か。

 

夢なのか、記憶なのか。結局、よく分からないまま朝を迎えた。

 

ベッドから起き上がり、身支度を整える。黒い第一種軍装に袖を通し、軍帽を被る。腰に差した短剣へ手を添え、留め具を確かめた。

 

「……よし」

 

鏡を見る。

 

昨日と同じ顔。同じ自分。

 

なのに、もう昨日までの自分には戻れないような気がした。

 

◆◆◆

 

食堂で朝食を済ませ、指定された集合場所へ向かう。

 

港へ続く通路の前には、すでに四人の艦娘が集まっていた。

 

中心に立っているのは、濃紺の軍帽を被った長い黒髪の艦娘。凜とした立ち姿と、隙のない眼差し。彼女が今回の旗艦であることは、一目で分かった。

 

その隣には、昨夜食堂で会った川内がいる。私に気づいた川内が、軽く手を上げた。

 

「おはよう、土佐」

 

「ああ。おはよう」

 

「本当に一緒になったね」

 

川内が楽しそうに笑う。その声に、残る二人もこちらを見た。

 

柔らかな髪を風に揺らす艦娘は、穏やかな目で私を見上げている。その隣では、銀色の髪をした艦娘が腕を組み、私の軍装から足元までを遠慮なく観察していた。

 

「全員揃ったな」

 

中央の艦娘が口を開く。低く、よく通る声だった。

 

「今回、旗艦を務める那智だ。こちらは軽巡洋艦の川内。駆逐艦の時雨と叢雲だ」

 

「僕は時雨。よろしくね、土佐」

 

時雨が小さく微笑む。

 

「叢雲よ。足を引っ張らないでちょうだい」

 

叢雲は腕を組んだまま、顎を少し上げた。

 

「ああ。努力する」

 

「努力じゃなくて、ちゃんとついてきなさいって言っているの」

 

「善処する」

 

「あなたね……」

 

叢雲の眉が寄る。その横で、川内が堪えきれないように吹き出した。

 

「土佐って、やっぱり面白いね」

 

「そうか?」

 

「そういうところよ」

 

叢雲が呆れたように息を吐いた。

 

那智は私たちのやり取りを黙って見ていたが、やがて僅かに口元を緩めた。

 

「初出撃を前にして、過度に気負ってはいないようだな」

 

「気負っているつもりはない」

 

「ならばいい。ただし、油断とは別だ」

 

那智の目が真っ直ぐに私へ向けられる。

 

「土佐。お前は今回が初出撃だ。火力は当てにしているが、実戦経験はない。私の指示なく前へ出るな」

 

「了解した」

 

即答すると、那智は短く頷いた。

 

そこへ提督が現れ、私たちの前で立ち止まる。

 

近海に、深海棲艦の小規模艦隊が確認された。敵は軽巡一隻、駆逐艦四隻。今回の任務は、その撃滅。

 

那智を旗艦として、土佐、川内、時雨、叢雲の五隻で出撃する。

 

説明を終えた提督が、改めて私を見た。

 

「土佐は初出撃だ。無理に前へ出る必要はない」

 

「了解した」

 

そう答えながら、胸の奥では別の声がしていた。

 

『前へ出ろ』

 

……まただ。

 

昨日から何度も聞こえる。誰の声なのかは分からない。

 

だが、その声には焦りがあった。苛立ちも。そして――悲しみも。

 

それはまるで、何かを待ち続けている者の声だった。

 

「土佐?」

 

顔を上げると、川内がこちらを見ていた。

 

「どうしたの?」

 

「いや。何でもない」

 

「そう?」

 

川内は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

 

那智が港へ向き直る。

 

「これより出撃する。各艦、準備に入れ」

 

四人の空気が変わった。先ほどまでの僅かな柔らかさが消え、それぞれの顔に艦娘としての緊張が宿る。

 

私も港へ目を向けた。その向こうに、朝の海が広がっていた。

 

◆◆◆

 

艤装を展開する。

 

「――っ」

 

背中に、巨大な鋼鉄の感触が生まれた。重い。けれど、不思議と身体はそれを知っていた。

 

砲塔。主砲。機関。

 

艤装を構成する一つ一つの存在が、まるで自分の身体の一部であるかのように理解できる。

 

「これが……」

 

戦艦。これが、土佐。

 

「大きいね」

 

時雨が私の艤装を見上げる。

 

「さすが戦艦ってところかしら」

 

叢雲も目を細めていた。言葉は素っ気ないが、その視線には隠しきれない関心がある。

 

川内は艤装の砲塔を眺めながら、感心したように声を漏らした。

 

「近くで見ると、すごい迫力だね」

 

「……そうだな」

 

答えながら、私は海へ足を踏み出した。水面へ軍靴の底が触れる。

 

――沈まない。

 

当然のことなのに、驚いた。

 

水面に立っている。波を踏んでいる。海が、自分の足元にある。

 

一歩。また一歩。身体が自然に前へ進んでいく。

 

「土佐、問題はないか?」

 

先に海へ出ていた那智が振り返る。

 

「ああ。大丈夫だ」

 

「ならば速力を上げる。遅れるな」

 

那智を先頭に、艦隊が港を離れる。

 

機関の出力を上げると、身体が水面を滑り始めた。風が軍帽の鍔を叩く。波が左右へ分かれ、白い飛沫となって流れていく。

 

その瞬間、胸の奥が震えた。

 

『海だ』

 

頭の中で、声がした。

 

『海だ』

 

同じ言葉。なのに、自分が言っているようで、自分ではないような。不思議な感覚だった。

 

水平線を見る。どこまでも続く青。

 

その景色を見た瞬間、胸の奥から言葉にならない感情が込み上げてきた。

 

嬉しい。

 

そう思った。自分でも驚くほど、嬉しかった。

 

初めて海を走る。初めて艤装を身につける。初めて戦場へ向かう。それなのに、心のどこかでずっと待ち続けていたような気がする。

 

「土佐」

 

並走していた時雨に呼ばれ、そちらを見る。

 

「どうした?」

 

「いや」

 

時雨は私の顔を見つめたあと、静かに微笑んだ。

 

「少し、嬉しそうに見えたから」

 

「私が?」

 

「ああ」

 

自分の口元に手を触れる。笑っているつもりなどなかった。

 

少し前を進む叢雲が、肩越しにこちらを見る。

 

「初出撃で浮かれすぎないことね。海は綺麗なだけじゃないわよ」

 

「分かっている」

 

「本当に分かっているならいいけれど」

 

叢雲は前へ向き直った。

 

川内が私の反対側へ並ぶ。

 

「でも、最初に海へ出たときのことって、結構覚えてるものだよ」

 

「川内も嬉しかったのか?」

 

「どうだったかな。私は夜の海の方が好きだし」

 

「夜?」

 

「うん。夜戦とか最高だよ」

 

妙に声を弾ませる川内を、那智が振り返った。

 

「川内。今は隊列を保て」

 

「分かってるって」

 

川内は笑いながら元の位置へ戻っていく。

 

再び水平線へ視線を向ける。

 

『ようやく』

 

そんな言葉が浮かんだ。

 

『ようやく、海へ出られた』

 

――土佐が、そう言った気がした。

 

◆◆◆

 

「敵影!」

 

川内の声が通信に響いた。空気が変わった。

 

前方、水平線の向こうに黒い影が見える。

 

「深海棲艦……」

 

初めて見る。怖い。そう思った。

 

当然だ。今まで戦ったことなどない。だが、身体は違った。

 

艤装が敵を認識している。

 

距離。方位。速度。射程。

 

頭の中へ、次々と情報が流れ込んでくる。

 

「敵艦隊、軽巡一、駆逐四。事前情報と一致するよ」

 

時雨が落ち着いた声で報告する。

 

那智は敵影を見据えたまま、即座に指示を出した。

 

「単縦陣を維持。川内、時雨、叢雲は敵駆逐艦を牽制。土佐は最後尾から主砲射撃に備えろ」

 

「了解!」

 

三人の声が重なる。

 

私は自分の砲塔を見た。

 

「……これを」

 

撃つのか。

 

手が震える。人間だった頃の私が怖がっている。

 

けれど、土佐は違った。

 

『撃て』

 

頭の奥から声がした。

 

『撃て』

 

砲塔が旋回する。私はそれを止めなかった。

 

川内たちが左右へ展開し、敵駆逐艦の進路を制限する。水面を駆ける三人の間を、砲弾と水柱が交差した。

 

「土佐、敵軽巡を狙え」

 

那智の声が届く。

 

「初弾だ。焦るな。確実に照準を合わせろ」

 

「了解」

 

距離を測る。敵の速度と進路。波の向き。こちらの速力。

 

考えるより先に、必要な情報が頭の中で組み上がっていく。

 

照準が合う。

 

「撃て!」

 

轟音。

 

身体全体が震えた。砲煙が視界を覆い、放たれた砲弾が海面を越えていく。

 

遠くで巨大な水柱が上がった。

 

直撃ではない。だが至近弾の衝撃で敵軽巡の体勢が崩れ、その進路が大きく乱れる。

 

「初弾で夾叉……?」

 

叢雲の驚いた声が聞こえた。

 

「土佐、修正できる?」

 

川内が敵駆逐艦へ砲撃しながら問いかけてくる。

 

「ああ」

 

答えた声が震えていた。

 

「撃てる……」

 

私は本当に、撃てる。

 

砲塔を僅かに修正する。先ほどの着弾位置から、次に敵が取る進路を読む。

 

「私、本当に……」

 

戦艦なんだ。

 

その瞬間、胸の奥から別の感情が溢れた。

 

嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 

それだけではない。悔しい。悲しい。寂しい。

 

相反する感情が、一度に押し寄せてくる。

 

「……何だ、これ」

 

涙が出そうになる。

 

理由が分からない。私は今日まで、この艦を知らなかった。土佐という名前すら、昨日初めて聞いた。

 

なのに、どうしてこんなにも――

 

『撃てる』

 

頭の中で声がする。

 

『戦える』

 

それは歓喜だった。

 

これまで一度も使われることのなかった身体。戦うことなく終わった艦。海へ出ることすらなかった存在。

 

その土佐が、今、初めて海にいる。初めて砲を撃っている。

 

「……そうか」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

「嬉しいんだな」

 

胸の奥にあった感情が、さらに大きくなる。それは、悲鳴のようでもあった。

 

なぜ私は戦えなかった。なぜ海へ出られなかった。なぜ自分は――完成しなかった。

 

頭の中に、一瞬だけ光景が浮かぶ。

 

まだ完成していない艦体。静かな造船所。海を知らない巨大な船。

 

何もできない。ただ、そこにいるだけ。そして、時間だけが過ぎていく。

 

「……っ」

 

息が詰まる。砲塔の動きが僅かに止まった。

 

「土佐!」

 

那智の声が飛ぶ。

 

「敵を見ろ。記憶に呑まれるな」

 

鋭い声だった。

 

私は息を吸い、目の前の海を見た。ここは造船所ではない。私は今、海の上にいる。

 

「……了解」

 

再び敵軽巡へ照準を合わせる。

 

「撃てる」

 

今度は、はっきりと口にした。

 

「戦える」

 

声はまだ震えている。それでも、今度は笑っていた。

 

「今度は、ちゃんと戦える」

 

砲撃。

 

轟音が海を震わせる。

 

二度目の砲弾は、敵軽巡の中央へ直撃した。黒い艦体が大きく傾く。噴き上がった炎と煙の向こうで、敵影が海面へ崩れ落ちた。

 

「敵軽巡、撃沈を確認!」

 

時雨の声が届く。

 

残る敵駆逐艦が一斉に散開する。

 

「逃がすな」

 

那智が告げる。

 

「任務は撃滅だ。川内と時雨は左翼、叢雲は右翼。土佐は私に続け」

 

「了解!」

 

川内が敵艦の進路へ回り込む。

 

「そっちは行かせないよ!」

 

軽巡の速力を生かし、退路へ先回りする。敵駆逐艦が針路を変えた先では、時雨がすでに砲を構えていた。

 

「残念だったね」

 

静かな砲撃音。時雨の砲弾が敵艦を捉える。

 

反対側では、叢雲が敵の砲撃をぎりぎりでかわした。水柱の合間を縫うように距離を詰め、鋭く砲口を向ける。

 

「新人ばかり見ているんじゃないわよ!」

 

砲撃。敵駆逐艦の一隻が炎に包まれる。

 

「土佐、右舷!」

 

那智の声に反応し、身体が動いた。

 

敵駆逐艦がこちらの死角へ回り込もうとしている。身体が海面を滑り、砲塔が敵を追う。

 

狙う。撃つ。

 

至近距離で放った副砲が敵艦を捉えた。黒い影が水面を転がり、そのまま動かなくなる。

 

――楽しい。

 

そう思ってしまった。それが怖かった。

 

人間だった自分は戦争を知らない。殺し合いを好む人間でもない。なのに、土佐は戦うことを喜んでいる。

 

その感情を、完全に否定することはできなかった。

 

なぜなら、その喜びは土佐が初めて手にしたものだからだ。

 

海。砲。戦う力。そして、自分が存在しているという実感。

 

「……これが」

 

敵を追う砲塔を感じながら、呟く。

 

「あなたの望んでいたものなのか」

 

答えはない。けれど、胸の奥には確かな熱が残っていた。

 

「土佐、前方!」

 

川内の声。

 

最後の敵駆逐艦が、川内の牽制を振り切ってこちらへ向かってくる。損傷している。それでも砲口は、真っ直ぐに私を狙っていた。

 

「避けなさい!」

 

叢雲が叫ぶ。

 

敵の砲が火を噴く。回避は――間に合わない。

 

そう判断した瞬間、那智が私と敵艦の間へ滑り込んだ。

 

砲弾が海面へ着弾する。高く上がった水柱が那智の姿を覆う。

 

「那智!」

 

「騒ぐな。直撃ではない」

 

水煙の向こうから、那智の低い声が返る。

 

「敵だけを見ろ、土佐」

 

その一言で、思考が戻った。

 

敵駆逐艦は砲撃直後。次弾装填まで、僅かに時間がある。

 

照準を合わせる。今度は、手が震えなかった。

 

「これで終わりだ」

 

主砲を放つ。

 

砲弾が敵艦を正面から捉えた。爆煙が広がり、最後の黒い影が海へ沈んでいく。

 

しばらくして、海上から敵影が消えた。

 

時雨が周囲を確認する。

 

「敵艦隊、全五隻の撃沈を確認。残存艦はいないよ」

 

通信の向こうで、川内が息を吐いた。

 

「撃滅完了、だね」

 

叢雲は炎の消えていく海面を見つめ、それから私へ目を向けた。

 

「初出撃にしては、やるじゃない」

 

「褒めているのか?」

 

「一応ね。ただし、途中で止まったことと、最後の敵弾への反応は減点よ」

 

「……そうか」

 

「そこで落ち込むんじゃなくて、次に生かしなさい」

 

言い方は厳しいが、その目には先ほどまでの警戒が薄れていた。

 

那智が艦隊の中央へ戻ってくる。艤装に損傷は見当たらない。

 

「那智。さっきは――」

 

「礼は帰ってから聞く」

 

言葉を遮り、那智は周囲を見渡した。

 

「任務は完了した。各艦、損傷を報告」

 

川内、時雨、叢雲が順に異常なしと答える。

 

「土佐、損傷は?」

 

「ない」

 

「ならば帰投する。隊列を再編しろ」

 

那智が鎮守府の方角へ向き直る。私もその後ろについた。

 

振り返れば、先ほどまで戦っていた海には波だけが残っている。

 

初めての戦闘。初めての砲撃。そして、初めて敵を沈めた。

 

胸の奥には、歓喜と悲しみが混ざった熱が残っていた。

 

◆◆◆

 

帰路の海は、行きとは違って見えた。もう海そのものは怖くない。むしろ、離れることが少し寂しかった。

 

「土佐」

 

時雨が速度を合わせ、隣へ並ぶ。

 

「なんだ?」

 

「戦っているとき、笑っていたね」

 

「……そう見えたか?」

 

「ああ」

 

時雨は責めるでもなく、静かに私を見つめている。

 

「嬉しかった?」

 

問いかけに、すぐには答えられなかった。正直に言えば――

 

「……ああ」

 

小さく頷く。

 

「嬉しかった。戦えることが」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。

 

嬉しい。けれど、それと同じくらい悲しい。

 

私ではない誰かが、ずっと待っていた。海へ出ることを。戦うことを。自分が存在した証を残すことを。

 

「……変な話だな」

 

「何が?」

 

「戦うことが嬉しいなんて」

 

時雨は少しだけ考えたあと、海へ目を向けた。

 

「そう思うこと自体が悪いとは、僕は思わないよ」

 

「そうなのか?」

 

「その気持ちで何をするかは、土佐が決めることだから」

 

穏やかな声だった。

 

前方を進んでいた叢雲が振り返る。

 

「だからって、戦場で自分を見失っていい理由にはならないわよ」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「ああ。次は止まらない」

 

叢雲は私の顔をしばらく見つめたあと、ふっと口元を緩めた。

 

「なら、覚えておきなさい」

 

川内もこちらへ寄ってくる。

 

「でも、初出撃であれだけ撃てたのはすごいよ。初弾からほとんど修正なしだったし」

 

「身体が勝手に動いたんだ」

 

「身体が?」

 

「自分で考えて動いたというより、そうするものだと最初から理解していた」

 

川内の表情から、僅かに笑みが消える。

 

「艦の記憶ってこと?」

 

「分からない」

 

「そっか」

 

川内はそれ以上深く聞かず、代わりに私の肩を軽く叩いた。

 

「まあ、分からないなら、これから知ればいいんじゃない?」

 

「これから?」

 

「土佐は昨日来たばっかりなんだし。艦娘としては、まだ一日目でしょ」

 

「……そうだな」

 

「それに、うちの妹ならこういう話も真面目に聞いてくれるよ」

 

「神通か」

 

「覚えてたんだ」

 

川内が嬉しそうに笑う。

 

「当然だ。紹介すると言っていただろう」

 

「うん。帰ったら話しておくね」

 

「頼む」

 

そのやり取りを、那智は前方から黙って聞いていた。やがて、視線だけをこちらへ向ける。

 

「土佐」

 

「何だ?」

 

「初出撃としては上出来だ。火力も、敵の動きを読む能力も申し分ない」

 

「そうか」

 

「だが、実戦で動きを止めたことと、敵の砲撃に反応できなかったことは事実だ」

 

那智の声は厳しい。それでも、突き放すような響きではなかった。

 

「強い火力を持つ者ほど、自分一人で戦えると思い込みやすい。今日、お前を守ったのはお前自身ではない。この艦隊だ」

 

「……ああ」

 

川内が敵の進路を塞いだ。時雨が敵を捉えた。叢雲が砲撃を引きつけた。そして、那智が私の前へ出た。

 

私一人では、敵艦隊を撃滅できなかった。

 

「覚えておく」

 

「ならばいい」

 

那智は前へ向き直った。

 

少し離れたところで、叢雲が満足そうに頷いている。時雨は穏やかに笑い、川内は私の肩をもう一度叩いた。

 

「また一緒に出撃しようね、土佐」

 

「ああ」

 

私は海を見る。波は静かだった。

 

「……また来よう」

 

今度は、胸の奥の誰かにではなく、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。

 

それでも、胸の奥から確かに返事があった気がした。

 

『ああ』

 

とても満足そうな声だった。

 

◆◆◆

 

港へ戻ると、整備担当の妖精さんたちが一斉に駆け寄ってきた。

 

「おかえりー!」

 

「ぶじだったー!」

 

「きずないよー!」

 

「ほんとー?」

 

小さな妖精さんたちが艤装の周囲を飛び回り、あちこちを確認している。

 

「……問題ないようだな」

 

艤装を解除する。背中から巨大な重量が消え、身体が一気に軽くなった。

 

「ふう……」

 

思わず息を吐く。

 

「初出撃、お疲れ様」

 

川内が隣から私の顔を覗き込んだ。

 

「ありがとう」

 

「どうだった?」

 

「どう、とは?」

 

「初めて海に出た感想」

 

少し考える。

 

海の上に立ったときの感覚。艤装を身につけたときの感覚。砲を撃ったときの感覚。どれも初めてのはずなのに。

 

「……不思議だった」

 

「不思議?」

 

「ああ。初めてじゃないような気がした」

 

「初めてなのに?」

 

「自分でも変だと思う」

 

川内は興味深そうに私を見たあと、軽く笑った。

 

「まあ、艦娘ってそういうところもあるからね」

 

「それにしても、落ち着きすぎよ」

 

妖精さんに艤装を預けた叢雲が会話へ入ってくる。

 

「普通、初めて海へ出たらもっと慌てるものよ」

 

「私は十分慌てていたつもりだが」

 

「砲撃するとき、全然そんなふうに見えなかったけど」

 

「同感だ」

 

那智も頷く。

 

「少なくとも、砲撃時の判断だけを見れば新人とは思えなかった」

 

返す言葉がない。

 

確かに、戦闘中のことを思い返しても、一連の動作に迷いはなかった。敵を見つけた。距離を測った。砲塔を動かした。照準を合わせた。そして撃った。

 

「……身体が知っていたんだ」

 

「そのようだな」

 

那智は私の顔を見つめる。

 

「だが、その力を自分のものとして扱えるかは、これからのお前次第だ」

 

「ああ」

 

私は頷いた。

 

時雨が私の口元へ視線を向ける。

 

「やっぱり、まだ少し笑っているね」

 

「……そう見えるか?」

 

「見えるよ」

 

自分では気づかなかった。だが、指先で触れてみると、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。

 

「楽しかった?」

 

川内が尋ねる。

 

「……ああ」

 

今度は迷わず頷いた。

 

「楽しかった」

 

叢雲が何か言いかけて口を閉じる。那智も黙ったまま私を見ていた。

 

誰も、その感情を責めなかった。

 

「ただ」

 

川内の声が少しだけ真面目になる。

 

「無理はしないでね」

 

「分かっている」

 

「初出撃で張り切りすぎて沈んだら、笑えないから」

 

――沈む。

 

その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に知らない光景が浮かんだ。

 

巨大な艦体。海ではない場所。静かな時間。何もできない。何も始まらない。そして、自分が消えていく。

 

「……っ」

 

胸元を押さえる。

 

「土佐?」

 

時雨がすぐに一歩近づく。

 

「……大丈夫だ」

 

深呼吸する。光景は、もう消えていた。

 

けれど、胸に残った感情だけは消えない。悔しい。悲しい。寂しい。

 

それなのに、今日海へ出た瞬間だけは、そのすべてが報われたような気がした。

 

「……今日は、ありがとう」

 

四人へ頭を下げる。

 

川内が目を丸くし、叢雲の眉が僅かに上がった。時雨は柔らかく微笑んでいる。

 

那智だけは表情を変えなかったが、その眼差しは先ほどよりも穏やかだった。

 

「礼を言う必要はない」

 

那智が答える。

 

「艦隊として当然のことをしたまでだ」

 

「それでも、ありがとう」

 

重ねて告げると、那智は僅かに目を細めた。

 

「……そうか」

 

「こちらこそ。次も頼りにしてるよ、新人戦艦さん」

 

川内が笑う。

 

「新人……か」

 

その言葉に、私も少しだけ笑った。

 

私はまだ新人だ。戦い方も知らない。鎮守府のことも知らない。艦娘としての自分が何者なのかも、まだ分からない。

 

それでも。

 

「また一緒に出撃しよう」

 

そう言うと、川内と時雨が頷く。

 

叢雲は腕を組み直しながら、顔を少しだけ逸らした。

 

「次は、私たちに庇わせるんじゃないわよ」

 

「ああ」

 

那智も軍帽の鍔へ手を添える。

 

「次があるなら、今日の経験を生かせ。それができる者なら歓迎しよう」

 

「了解した」

 

その言葉が、妙に嬉しかった。

 

◆◆◆

 

四人と別れた私は、そのまま執務室へ向かった。報告を済ませなければならない。

 

廊下を歩く身体には、まだ海の感覚が残っていた。足元が僅かに揺れているような気がする。

 

実際には、ただの錯覚だ。それでも、陸地に戻ったという実感はまだ薄かった。

 

執務室の前で立ち止まり、三度ノックする。

 

「土佐です」

 

「入れ」

 

「失礼する」

 

扉を開ける。提督は執務机に向かっていた。

 

「帰ったか」

 

「ああ。予定どおり、敵艦隊を撃滅した」

 

「損害は?」

 

「こちらはなし。敵艦五隻、すべて撃沈を確認している」

 

「初出撃としては上出来だな」

 

「……そうか」

 

提督は手元の報告書へ目を落とした。

 

「砲撃の命中率も悪くない。初めてにしては、随分と落ち着いていたそうだな」

 

「……身体が勝手に動いた」

 

「ほう?」

 

「自分で考えて動いたというより、そうするものだと身体が理解していた」

 

提督が顔を上げる。

 

「艦娘としての感覚か」

 

「おそらく」

 

「気になることは?」

 

「……ある」

 

少し考える。

 

「戦闘中、知らない記憶が見えた」

 

「記憶?」

 

「ああ。造船所のような場所だ。完成していない艦があった」

 

提督の表情が僅かに変わる。

 

「それ以上は?」

 

「分からない」

 

嘘ではない。まだ、自分でも整理できていなかった。

 

「そうか。無理に思い出そうとする必要はない」

 

「分かった」

 

報告書を提出する。提督はそれを受け取り、頷いた。

 

「今日はもう休め」

 

「……そうする」

 

踵を返す。

 

「土佐」

 

「何だ?」

 

「初出撃、ご苦労だった」

 

一瞬、言葉が出なかった。

 

「……ああ」

 

それだけ答えて、執務室を出た。

 

◆◆◆

 

向かった先は、自室ではなかった。

 

武道場。

 

昨日訪れた場所だ。

 

引き戸を開ける。中には誰もいない。

 

「……よし」

 

竹刀を一本手に取る。昨日と同じように構える。

 

正眼。

 

呼吸。足。重心。

 

身体の感覚を一つずつ確かめる。

 

「――」

 

振る。

 

ヒュッ、と空気を切る音。

 

もう一度。さらに一度。

 

昨日と同じ動作。けれど、昨日とは違う。

 

「……速い」

 

自分で分かる。身体能力が、明らかに上がっている。

 

なら、どこまで違う。

 

踏み込む。一歩。二歩。

 

面。小手。胴。

 

基本の型を繰り返す。

 

身体が軽い。速い。強い。

 

だが――

 

「……違う」

 

まだ馴染んでいない。頭で次の動きを考えた瞬間には、身体が先に動いてしまう。

 

「……っ」

 

竹刀を止め、息を整える。

 

もう一度。今度は何も考えず、身体に任せる。

 

踏み込む。振る。止める。

 

「……」

 

今度は、しっくりくる。

 

昨日までの自分なら、ここまで速くは動けない。ここまで深く踏み込めない。ここまで正確に竹刀を操れない。

 

それでも、やっていること自体は私が長年積み重ねてきたものだ。

 

構えも、足運びも、間合いも、呼吸も。すべて、自分の経験だ。

 

「なら……」

 

もう一度構える。

 

「合わせればいい」

 

自分の経験。そして、土佐の身体。

 

どちらか一方に合わせる必要はない。自分の方を変える。身体の方も変える。その中間を探す。

 

竹刀を振る。一振り。二振り。三振り。

 

止めない。

 

額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。それでも振る。

 

昨日までの自分なら、この回数には到底耐えられない。だが、今の身体は違う。

 

疲労が少ない。回復も早い。

 

なら、もっとやれる。

 

振る。振る。振る。

 

「――っ!」

 

踏み込み、振り下ろす。

 

竹刀がぴたりと止まった。

 

今度は違和感がない。

 

自分の身体を、自分の意思で動かせた。

 

速さも、力も、距離感も。すべてが、自分の感覚の中に収まっている。

 

「……これだ」

 

小さく呟く。

 

艦娘になったことで得た身体能力。それは借り物ではない。土佐の力なのかもしれない。

 

けれど、今この身体を動かしているのは私だ。

 

「私の身体だ」

 

竹刀を握り直し、もう一度構える。今度は目を閉じた。

 

海を思い出す。砲撃。艤装。深海棲艦。

 

そして、あの感情。

 

『戦いたい』

 

胸の奥から湧き上がった、あの感情。

 

目を開く。竹刀を振る。

 

今度は、それを否定しなかった。

 

戦いたい。そう思う自分がいる。

 

けれど、戦うためだけに生きる必要もない。

 

剣を振るのも、弓を引くのも、海へ出るのも。すべて、自分で選べばいい。

 

「……土佐」

 

胸の奥へ語りかける。

 

「お前の力は、私が使う」

 

一振り。

 

「私の経験も、お前に渡す」

 

もう一振り。

 

「だから――」

 

最後の一振り。竹刀が鋭く空気を切り裂いた。

 

「一緒にやろう」

 

静寂。

 

返事はない。けれど、胸の奥にあった違和感が、ほんの少しだけ薄れた。

 

私は竹刀を下ろした。

 

「……悪くない」

 

壁の鏡を見る。

 

そこに映っているのは、戦艦土佐の姿。けれど、その目に宿っているものは、間違いなく私自身のものだった。

 

昨日までは、「自分」と「土佐」の境界を探していた。

 

今は違う。境界を消してしまえばいい。

 

どちらが自分なのかを決める必要などない。

 

私は土佐で。土佐もまた、私なのだから。

 

竹刀を元の場所へ戻し、窓の外を見る。夕暮れの海が見える。

 

今日、初めて海へ出た。そして、初めて戦った。

 

完成することなく終わった戦艦が、何十年もの時を越えて、ようやく自分の役目を果たした。

 

明日もまた、海へ出る。

 

今度は、もっと上手く戦えるだろう。

 

そう思った。

 

それが、楽しみだった。

 

 

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