翌朝。
「……眠れなかった」
目を覚まして最初に出た言葉が、それだった。
別に緊張していたわけではない。明日の出撃に備えて早く寝ようと思っていたのだが、目を閉じるたびに海が見えた。
何もない海。青い空。白い波。
そして、その先にいる何か。
夢なのか、記憶なのか。結局、よく分からないまま朝を迎えた。
ベッドから起き上がり、身支度を整える。黒い第一種軍装に袖を通し、軍帽を被る。腰に差した短剣へ手を添え、留め具を確かめた。
「……よし」
鏡を見る。
昨日と同じ顔。同じ自分。
なのに、もう昨日までの自分には戻れないような気がした。
◆◆◆
食堂で朝食を済ませ、指定された集合場所へ向かう。
港へ続く通路の前には、すでに四人の艦娘が集まっていた。
中心に立っているのは、濃紺の軍帽を被った長い黒髪の艦娘。凜とした立ち姿と、隙のない眼差し。彼女が今回の旗艦であることは、一目で分かった。
その隣には、昨夜食堂で会った川内がいる。私に気づいた川内が、軽く手を上げた。
「おはよう、土佐」
「ああ。おはよう」
「本当に一緒になったね」
川内が楽しそうに笑う。その声に、残る二人もこちらを見た。
柔らかな髪を風に揺らす艦娘は、穏やかな目で私を見上げている。その隣では、銀色の髪をした艦娘が腕を組み、私の軍装から足元までを遠慮なく観察していた。
「全員揃ったな」
中央の艦娘が口を開く。低く、よく通る声だった。
「今回、旗艦を務める那智だ。こちらは軽巡洋艦の川内。駆逐艦の時雨と叢雲だ」
「僕は時雨。よろしくね、土佐」
時雨が小さく微笑む。
「叢雲よ。足を引っ張らないでちょうだい」
叢雲は腕を組んだまま、顎を少し上げた。
「ああ。努力する」
「努力じゃなくて、ちゃんとついてきなさいって言っているの」
「善処する」
「あなたね……」
叢雲の眉が寄る。その横で、川内が堪えきれないように吹き出した。
「土佐って、やっぱり面白いね」
「そうか?」
「そういうところよ」
叢雲が呆れたように息を吐いた。
那智は私たちのやり取りを黙って見ていたが、やがて僅かに口元を緩めた。
「初出撃を前にして、過度に気負ってはいないようだな」
「気負っているつもりはない」
「ならばいい。ただし、油断とは別だ」
那智の目が真っ直ぐに私へ向けられる。
「土佐。お前は今回が初出撃だ。火力は当てにしているが、実戦経験はない。私の指示なく前へ出るな」
「了解した」
即答すると、那智は短く頷いた。
そこへ提督が現れ、私たちの前で立ち止まる。
近海に、深海棲艦の小規模艦隊が確認された。敵は軽巡一隻、駆逐艦四隻。今回の任務は、その撃滅。
那智を旗艦として、土佐、川内、時雨、叢雲の五隻で出撃する。
説明を終えた提督が、改めて私を見た。
「土佐は初出撃だ。無理に前へ出る必要はない」
「了解した」
そう答えながら、胸の奥では別の声がしていた。
『前へ出ろ』
……まただ。
昨日から何度も聞こえる。誰の声なのかは分からない。
だが、その声には焦りがあった。苛立ちも。そして――悲しみも。
それはまるで、何かを待ち続けている者の声だった。
「土佐?」
顔を上げると、川内がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや。何でもない」
「そう?」
川内は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
那智が港へ向き直る。
「これより出撃する。各艦、準備に入れ」
四人の空気が変わった。先ほどまでの僅かな柔らかさが消え、それぞれの顔に艦娘としての緊張が宿る。
私も港へ目を向けた。その向こうに、朝の海が広がっていた。
◆◆◆
艤装を展開する。
「――っ」
背中に、巨大な鋼鉄の感触が生まれた。重い。けれど、不思議と身体はそれを知っていた。
砲塔。主砲。機関。
艤装を構成する一つ一つの存在が、まるで自分の身体の一部であるかのように理解できる。
「これが……」
戦艦。これが、土佐。
「大きいね」
時雨が私の艤装を見上げる。
「さすが戦艦ってところかしら」
叢雲も目を細めていた。言葉は素っ気ないが、その視線には隠しきれない関心がある。
川内は艤装の砲塔を眺めながら、感心したように声を漏らした。
「近くで見ると、すごい迫力だね」
「……そうだな」
答えながら、私は海へ足を踏み出した。水面へ軍靴の底が触れる。
――沈まない。
当然のことなのに、驚いた。
水面に立っている。波を踏んでいる。海が、自分の足元にある。
一歩。また一歩。身体が自然に前へ進んでいく。
「土佐、問題はないか?」
先に海へ出ていた那智が振り返る。
「ああ。大丈夫だ」
「ならば速力を上げる。遅れるな」
那智を先頭に、艦隊が港を離れる。
機関の出力を上げると、身体が水面を滑り始めた。風が軍帽の鍔を叩く。波が左右へ分かれ、白い飛沫となって流れていく。
その瞬間、胸の奥が震えた。
『海だ』
頭の中で、声がした。
『海だ』
同じ言葉。なのに、自分が言っているようで、自分ではないような。不思議な感覚だった。
水平線を見る。どこまでも続く青。
その景色を見た瞬間、胸の奥から言葉にならない感情が込み上げてきた。
嬉しい。
そう思った。自分でも驚くほど、嬉しかった。
初めて海を走る。初めて艤装を身につける。初めて戦場へ向かう。それなのに、心のどこかでずっと待ち続けていたような気がする。
「土佐」
並走していた時雨に呼ばれ、そちらを見る。
「どうした?」
「いや」
時雨は私の顔を見つめたあと、静かに微笑んだ。
「少し、嬉しそうに見えたから」
「私が?」
「ああ」
自分の口元に手を触れる。笑っているつもりなどなかった。
少し前を進む叢雲が、肩越しにこちらを見る。
「初出撃で浮かれすぎないことね。海は綺麗なだけじゃないわよ」
「分かっている」
「本当に分かっているならいいけれど」
叢雲は前へ向き直った。
川内が私の反対側へ並ぶ。
「でも、最初に海へ出たときのことって、結構覚えてるものだよ」
「川内も嬉しかったのか?」
「どうだったかな。私は夜の海の方が好きだし」
「夜?」
「うん。夜戦とか最高だよ」
妙に声を弾ませる川内を、那智が振り返った。
「川内。今は隊列を保て」
「分かってるって」
川内は笑いながら元の位置へ戻っていく。
再び水平線へ視線を向ける。
『ようやく』
そんな言葉が浮かんだ。
『ようやく、海へ出られた』
――土佐が、そう言った気がした。
◆◆◆
「敵影!」
川内の声が通信に響いた。空気が変わった。
前方、水平線の向こうに黒い影が見える。
「深海棲艦……」
初めて見る。怖い。そう思った。
当然だ。今まで戦ったことなどない。だが、身体は違った。
艤装が敵を認識している。
距離。方位。速度。射程。
頭の中へ、次々と情報が流れ込んでくる。
「敵艦隊、軽巡一、駆逐四。事前情報と一致するよ」
時雨が落ち着いた声で報告する。
那智は敵影を見据えたまま、即座に指示を出した。
「単縦陣を維持。川内、時雨、叢雲は敵駆逐艦を牽制。土佐は最後尾から主砲射撃に備えろ」
「了解!」
三人の声が重なる。
私は自分の砲塔を見た。
「……これを」
撃つのか。
手が震える。人間だった頃の私が怖がっている。
けれど、土佐は違った。
『撃て』
頭の奥から声がした。
『撃て』
砲塔が旋回する。私はそれを止めなかった。
川内たちが左右へ展開し、敵駆逐艦の進路を制限する。水面を駆ける三人の間を、砲弾と水柱が交差した。
「土佐、敵軽巡を狙え」
那智の声が届く。
「初弾だ。焦るな。確実に照準を合わせろ」
「了解」
距離を測る。敵の速度と進路。波の向き。こちらの速力。
考えるより先に、必要な情報が頭の中で組み上がっていく。
照準が合う。
「撃て!」
轟音。
身体全体が震えた。砲煙が視界を覆い、放たれた砲弾が海面を越えていく。
遠くで巨大な水柱が上がった。
直撃ではない。だが至近弾の衝撃で敵軽巡の体勢が崩れ、その進路が大きく乱れる。
「初弾で夾叉……?」
叢雲の驚いた声が聞こえた。
「土佐、修正できる?」
川内が敵駆逐艦へ砲撃しながら問いかけてくる。
「ああ」
答えた声が震えていた。
「撃てる……」
私は本当に、撃てる。
砲塔を僅かに修正する。先ほどの着弾位置から、次に敵が取る進路を読む。
「私、本当に……」
戦艦なんだ。
その瞬間、胸の奥から別の感情が溢れた。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
それだけではない。悔しい。悲しい。寂しい。
相反する感情が、一度に押し寄せてくる。
「……何だ、これ」
涙が出そうになる。
理由が分からない。私は今日まで、この艦を知らなかった。土佐という名前すら、昨日初めて聞いた。
なのに、どうしてこんなにも――
『撃てる』
頭の中で声がする。
『戦える』
それは歓喜だった。
これまで一度も使われることのなかった身体。戦うことなく終わった艦。海へ出ることすらなかった存在。
その土佐が、今、初めて海にいる。初めて砲を撃っている。
「……そうか」
誰に言うでもなく呟く。
「嬉しいんだな」
胸の奥にあった感情が、さらに大きくなる。それは、悲鳴のようでもあった。
なぜ私は戦えなかった。なぜ海へ出られなかった。なぜ自分は――完成しなかった。
頭の中に、一瞬だけ光景が浮かぶ。
まだ完成していない艦体。静かな造船所。海を知らない巨大な船。
何もできない。ただ、そこにいるだけ。そして、時間だけが過ぎていく。
「……っ」
息が詰まる。砲塔の動きが僅かに止まった。
「土佐!」
那智の声が飛ぶ。
「敵を見ろ。記憶に呑まれるな」
鋭い声だった。
私は息を吸い、目の前の海を見た。ここは造船所ではない。私は今、海の上にいる。
「……了解」
再び敵軽巡へ照準を合わせる。
「撃てる」
今度は、はっきりと口にした。
「戦える」
声はまだ震えている。それでも、今度は笑っていた。
「今度は、ちゃんと戦える」
砲撃。
轟音が海を震わせる。
二度目の砲弾は、敵軽巡の中央へ直撃した。黒い艦体が大きく傾く。噴き上がった炎と煙の向こうで、敵影が海面へ崩れ落ちた。
「敵軽巡、撃沈を確認!」
時雨の声が届く。
残る敵駆逐艦が一斉に散開する。
「逃がすな」
那智が告げる。
「任務は撃滅だ。川内と時雨は左翼、叢雲は右翼。土佐は私に続け」
「了解!」
川内が敵艦の進路へ回り込む。
「そっちは行かせないよ!」
軽巡の速力を生かし、退路へ先回りする。敵駆逐艦が針路を変えた先では、時雨がすでに砲を構えていた。
「残念だったね」
静かな砲撃音。時雨の砲弾が敵艦を捉える。
反対側では、叢雲が敵の砲撃をぎりぎりでかわした。水柱の合間を縫うように距離を詰め、鋭く砲口を向ける。
「新人ばかり見ているんじゃないわよ!」
砲撃。敵駆逐艦の一隻が炎に包まれる。
「土佐、右舷!」
那智の声に反応し、身体が動いた。
敵駆逐艦がこちらの死角へ回り込もうとしている。身体が海面を滑り、砲塔が敵を追う。
狙う。撃つ。
至近距離で放った副砲が敵艦を捉えた。黒い影が水面を転がり、そのまま動かなくなる。
――楽しい。
そう思ってしまった。それが怖かった。
人間だった自分は戦争を知らない。殺し合いを好む人間でもない。なのに、土佐は戦うことを喜んでいる。
その感情を、完全に否定することはできなかった。
なぜなら、その喜びは土佐が初めて手にしたものだからだ。
海。砲。戦う力。そして、自分が存在しているという実感。
「……これが」
敵を追う砲塔を感じながら、呟く。
「あなたの望んでいたものなのか」
答えはない。けれど、胸の奥には確かな熱が残っていた。
「土佐、前方!」
川内の声。
最後の敵駆逐艦が、川内の牽制を振り切ってこちらへ向かってくる。損傷している。それでも砲口は、真っ直ぐに私を狙っていた。
「避けなさい!」
叢雲が叫ぶ。
敵の砲が火を噴く。回避は――間に合わない。
そう判断した瞬間、那智が私と敵艦の間へ滑り込んだ。
砲弾が海面へ着弾する。高く上がった水柱が那智の姿を覆う。
「那智!」
「騒ぐな。直撃ではない」
水煙の向こうから、那智の低い声が返る。
「敵だけを見ろ、土佐」
その一言で、思考が戻った。
敵駆逐艦は砲撃直後。次弾装填まで、僅かに時間がある。
照準を合わせる。今度は、手が震えなかった。
「これで終わりだ」
主砲を放つ。
砲弾が敵艦を正面から捉えた。爆煙が広がり、最後の黒い影が海へ沈んでいく。
しばらくして、海上から敵影が消えた。
時雨が周囲を確認する。
「敵艦隊、全五隻の撃沈を確認。残存艦はいないよ」
通信の向こうで、川内が息を吐いた。
「撃滅完了、だね」
叢雲は炎の消えていく海面を見つめ、それから私へ目を向けた。
「初出撃にしては、やるじゃない」
「褒めているのか?」
「一応ね。ただし、途中で止まったことと、最後の敵弾への反応は減点よ」
「……そうか」
「そこで落ち込むんじゃなくて、次に生かしなさい」
言い方は厳しいが、その目には先ほどまでの警戒が薄れていた。
那智が艦隊の中央へ戻ってくる。艤装に損傷は見当たらない。
「那智。さっきは――」
「礼は帰ってから聞く」
言葉を遮り、那智は周囲を見渡した。
「任務は完了した。各艦、損傷を報告」
川内、時雨、叢雲が順に異常なしと答える。
「土佐、損傷は?」
「ない」
「ならば帰投する。隊列を再編しろ」
那智が鎮守府の方角へ向き直る。私もその後ろについた。
振り返れば、先ほどまで戦っていた海には波だけが残っている。
初めての戦闘。初めての砲撃。そして、初めて敵を沈めた。
胸の奥には、歓喜と悲しみが混ざった熱が残っていた。
◆◆◆
帰路の海は、行きとは違って見えた。もう海そのものは怖くない。むしろ、離れることが少し寂しかった。
「土佐」
時雨が速度を合わせ、隣へ並ぶ。
「なんだ?」
「戦っているとき、笑っていたね」
「……そう見えたか?」
「ああ」
時雨は責めるでもなく、静かに私を見つめている。
「嬉しかった?」
問いかけに、すぐには答えられなかった。正直に言えば――
「……ああ」
小さく頷く。
「嬉しかった。戦えることが」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。
嬉しい。けれど、それと同じくらい悲しい。
私ではない誰かが、ずっと待っていた。海へ出ることを。戦うことを。自分が存在した証を残すことを。
「……変な話だな」
「何が?」
「戦うことが嬉しいなんて」
時雨は少しだけ考えたあと、海へ目を向けた。
「そう思うこと自体が悪いとは、僕は思わないよ」
「そうなのか?」
「その気持ちで何をするかは、土佐が決めることだから」
穏やかな声だった。
前方を進んでいた叢雲が振り返る。
「だからって、戦場で自分を見失っていい理由にはならないわよ」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ。次は止まらない」
叢雲は私の顔をしばらく見つめたあと、ふっと口元を緩めた。
「なら、覚えておきなさい」
川内もこちらへ寄ってくる。
「でも、初出撃であれだけ撃てたのはすごいよ。初弾からほとんど修正なしだったし」
「身体が勝手に動いたんだ」
「身体が?」
「自分で考えて動いたというより、そうするものだと最初から理解していた」
川内の表情から、僅かに笑みが消える。
「艦の記憶ってこと?」
「分からない」
「そっか」
川内はそれ以上深く聞かず、代わりに私の肩を軽く叩いた。
「まあ、分からないなら、これから知ればいいんじゃない?」
「これから?」
「土佐は昨日来たばっかりなんだし。艦娘としては、まだ一日目でしょ」
「……そうだな」
「それに、うちの妹ならこういう話も真面目に聞いてくれるよ」
「神通か」
「覚えてたんだ」
川内が嬉しそうに笑う。
「当然だ。紹介すると言っていただろう」
「うん。帰ったら話しておくね」
「頼む」
そのやり取りを、那智は前方から黙って聞いていた。やがて、視線だけをこちらへ向ける。
「土佐」
「何だ?」
「初出撃としては上出来だ。火力も、敵の動きを読む能力も申し分ない」
「そうか」
「だが、実戦で動きを止めたことと、敵の砲撃に反応できなかったことは事実だ」
那智の声は厳しい。それでも、突き放すような響きではなかった。
「強い火力を持つ者ほど、自分一人で戦えると思い込みやすい。今日、お前を守ったのはお前自身ではない。この艦隊だ」
「……ああ」
川内が敵の進路を塞いだ。時雨が敵を捉えた。叢雲が砲撃を引きつけた。そして、那智が私の前へ出た。
私一人では、敵艦隊を撃滅できなかった。
「覚えておく」
「ならばいい」
那智は前へ向き直った。
少し離れたところで、叢雲が満足そうに頷いている。時雨は穏やかに笑い、川内は私の肩をもう一度叩いた。
「また一緒に出撃しようね、土佐」
「ああ」
私は海を見る。波は静かだった。
「……また来よう」
今度は、胸の奥の誰かにではなく、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
それでも、胸の奥から確かに返事があった気がした。
『ああ』
とても満足そうな声だった。
◆◆◆
港へ戻ると、整備担当の妖精さんたちが一斉に駆け寄ってきた。
「おかえりー!」
「ぶじだったー!」
「きずないよー!」
「ほんとー?」
小さな妖精さんたちが艤装の周囲を飛び回り、あちこちを確認している。
「……問題ないようだな」
艤装を解除する。背中から巨大な重量が消え、身体が一気に軽くなった。
「ふう……」
思わず息を吐く。
「初出撃、お疲れ様」
川内が隣から私の顔を覗き込んだ。
「ありがとう」
「どうだった?」
「どう、とは?」
「初めて海に出た感想」
少し考える。
海の上に立ったときの感覚。艤装を身につけたときの感覚。砲を撃ったときの感覚。どれも初めてのはずなのに。
「……不思議だった」
「不思議?」
「ああ。初めてじゃないような気がした」
「初めてなのに?」
「自分でも変だと思う」
川内は興味深そうに私を見たあと、軽く笑った。
「まあ、艦娘ってそういうところもあるからね」
「それにしても、落ち着きすぎよ」
妖精さんに艤装を預けた叢雲が会話へ入ってくる。
「普通、初めて海へ出たらもっと慌てるものよ」
「私は十分慌てていたつもりだが」
「砲撃するとき、全然そんなふうに見えなかったけど」
「同感だ」
那智も頷く。
「少なくとも、砲撃時の判断だけを見れば新人とは思えなかった」
返す言葉がない。
確かに、戦闘中のことを思い返しても、一連の動作に迷いはなかった。敵を見つけた。距離を測った。砲塔を動かした。照準を合わせた。そして撃った。
「……身体が知っていたんだ」
「そのようだな」
那智は私の顔を見つめる。
「だが、その力を自分のものとして扱えるかは、これからのお前次第だ」
「ああ」
私は頷いた。
時雨が私の口元へ視線を向ける。
「やっぱり、まだ少し笑っているね」
「……そう見えるか?」
「見えるよ」
自分では気づかなかった。だが、指先で触れてみると、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「楽しかった?」
川内が尋ねる。
「……ああ」
今度は迷わず頷いた。
「楽しかった」
叢雲が何か言いかけて口を閉じる。那智も黙ったまま私を見ていた。
誰も、その感情を責めなかった。
「ただ」
川内の声が少しだけ真面目になる。
「無理はしないでね」
「分かっている」
「初出撃で張り切りすぎて沈んだら、笑えないから」
――沈む。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に知らない光景が浮かんだ。
巨大な艦体。海ではない場所。静かな時間。何もできない。何も始まらない。そして、自分が消えていく。
「……っ」
胸元を押さえる。
「土佐?」
時雨がすぐに一歩近づく。
「……大丈夫だ」
深呼吸する。光景は、もう消えていた。
けれど、胸に残った感情だけは消えない。悔しい。悲しい。寂しい。
それなのに、今日海へ出た瞬間だけは、そのすべてが報われたような気がした。
「……今日は、ありがとう」
四人へ頭を下げる。
川内が目を丸くし、叢雲の眉が僅かに上がった。時雨は柔らかく微笑んでいる。
那智だけは表情を変えなかったが、その眼差しは先ほどよりも穏やかだった。
「礼を言う必要はない」
那智が答える。
「艦隊として当然のことをしたまでだ」
「それでも、ありがとう」
重ねて告げると、那智は僅かに目を細めた。
「……そうか」
「こちらこそ。次も頼りにしてるよ、新人戦艦さん」
川内が笑う。
「新人……か」
その言葉に、私も少しだけ笑った。
私はまだ新人だ。戦い方も知らない。鎮守府のことも知らない。艦娘としての自分が何者なのかも、まだ分からない。
それでも。
「また一緒に出撃しよう」
そう言うと、川内と時雨が頷く。
叢雲は腕を組み直しながら、顔を少しだけ逸らした。
「次は、私たちに庇わせるんじゃないわよ」
「ああ」
那智も軍帽の鍔へ手を添える。
「次があるなら、今日の経験を生かせ。それができる者なら歓迎しよう」
「了解した」
その言葉が、妙に嬉しかった。
◆◆◆
四人と別れた私は、そのまま執務室へ向かった。報告を済ませなければならない。
廊下を歩く身体には、まだ海の感覚が残っていた。足元が僅かに揺れているような気がする。
実際には、ただの錯覚だ。それでも、陸地に戻ったという実感はまだ薄かった。
執務室の前で立ち止まり、三度ノックする。
「土佐です」
「入れ」
「失礼する」
扉を開ける。提督は執務机に向かっていた。
「帰ったか」
「ああ。予定どおり、敵艦隊を撃滅した」
「損害は?」
「こちらはなし。敵艦五隻、すべて撃沈を確認している」
「初出撃としては上出来だな」
「……そうか」
提督は手元の報告書へ目を落とした。
「砲撃の命中率も悪くない。初めてにしては、随分と落ち着いていたそうだな」
「……身体が勝手に動いた」
「ほう?」
「自分で考えて動いたというより、そうするものだと身体が理解していた」
提督が顔を上げる。
「艦娘としての感覚か」
「おそらく」
「気になることは?」
「……ある」
少し考える。
「戦闘中、知らない記憶が見えた」
「記憶?」
「ああ。造船所のような場所だ。完成していない艦があった」
提督の表情が僅かに変わる。
「それ以上は?」
「分からない」
嘘ではない。まだ、自分でも整理できていなかった。
「そうか。無理に思い出そうとする必要はない」
「分かった」
報告書を提出する。提督はそれを受け取り、頷いた。
「今日はもう休め」
「……そうする」
踵を返す。
「土佐」
「何だ?」
「初出撃、ご苦労だった」
一瞬、言葉が出なかった。
「……ああ」
それだけ答えて、執務室を出た。
◆◆◆
向かった先は、自室ではなかった。
武道場。
昨日訪れた場所だ。
引き戸を開ける。中には誰もいない。
「……よし」
竹刀を一本手に取る。昨日と同じように構える。
正眼。
呼吸。足。重心。
身体の感覚を一つずつ確かめる。
「――」
振る。
ヒュッ、と空気を切る音。
もう一度。さらに一度。
昨日と同じ動作。けれど、昨日とは違う。
「……速い」
自分で分かる。身体能力が、明らかに上がっている。
なら、どこまで違う。
踏み込む。一歩。二歩。
面。小手。胴。
基本の型を繰り返す。
身体が軽い。速い。強い。
だが――
「……違う」
まだ馴染んでいない。頭で次の動きを考えた瞬間には、身体が先に動いてしまう。
「……っ」
竹刀を止め、息を整える。
もう一度。今度は何も考えず、身体に任せる。
踏み込む。振る。止める。
「……」
今度は、しっくりくる。
昨日までの自分なら、ここまで速くは動けない。ここまで深く踏み込めない。ここまで正確に竹刀を操れない。
それでも、やっていること自体は私が長年積み重ねてきたものだ。
構えも、足運びも、間合いも、呼吸も。すべて、自分の経験だ。
「なら……」
もう一度構える。
「合わせればいい」
自分の経験。そして、土佐の身体。
どちらか一方に合わせる必要はない。自分の方を変える。身体の方も変える。その中間を探す。
竹刀を振る。一振り。二振り。三振り。
止めない。
額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。それでも振る。
昨日までの自分なら、この回数には到底耐えられない。だが、今の身体は違う。
疲労が少ない。回復も早い。
なら、もっとやれる。
振る。振る。振る。
「――っ!」
踏み込み、振り下ろす。
竹刀がぴたりと止まった。
今度は違和感がない。
自分の身体を、自分の意思で動かせた。
速さも、力も、距離感も。すべてが、自分の感覚の中に収まっている。
「……これだ」
小さく呟く。
艦娘になったことで得た身体能力。それは借り物ではない。土佐の力なのかもしれない。
けれど、今この身体を動かしているのは私だ。
「私の身体だ」
竹刀を握り直し、もう一度構える。今度は目を閉じた。
海を思い出す。砲撃。艤装。深海棲艦。
そして、あの感情。
『戦いたい』
胸の奥から湧き上がった、あの感情。
目を開く。竹刀を振る。
今度は、それを否定しなかった。
戦いたい。そう思う自分がいる。
けれど、戦うためだけに生きる必要もない。
剣を振るのも、弓を引くのも、海へ出るのも。すべて、自分で選べばいい。
「……土佐」
胸の奥へ語りかける。
「お前の力は、私が使う」
一振り。
「私の経験も、お前に渡す」
もう一振り。
「だから――」
最後の一振り。竹刀が鋭く空気を切り裂いた。
「一緒にやろう」
静寂。
返事はない。けれど、胸の奥にあった違和感が、ほんの少しだけ薄れた。
私は竹刀を下ろした。
「……悪くない」
壁の鏡を見る。
そこに映っているのは、戦艦土佐の姿。けれど、その目に宿っているものは、間違いなく私自身のものだった。
昨日までは、「自分」と「土佐」の境界を探していた。
今は違う。境界を消してしまえばいい。
どちらが自分なのかを決める必要などない。
私は土佐で。土佐もまた、私なのだから。
竹刀を元の場所へ戻し、窓の外を見る。夕暮れの海が見える。
今日、初めて海へ出た。そして、初めて戦った。
完成することなく終わった戦艦が、何十年もの時を越えて、ようやく自分の役目を果たした。
明日もまた、海へ出る。
今度は、もっと上手く戦えるだろう。
そう思った。
それが、楽しみだった。