翌朝。
目が覚めると、身体に僅かな疲労が残っていた。昨日の初出撃で初めて海に出て、深海棲艦と戦った。帰投後は執務室へ報告に向かい、そのまま武道場で竹刀まで振ったのだから、身体を休めるという意味では、あまり褒められた行動ではなかったのだろう。
それでも、身体は思ったほど重くない。むしろ――妙に調子がいい。
上体を起こして腕を回す。肩にも背中にも、昨日の艤装を背負っていた感覚が残っていた。痛みはなく、僅かな張りがあるだけだ。
「……問題ないな」
身支度を整え、黒い第一種軍装に袖を通す。朝食を済ませると、そのまま訓練場へ向かった。
今日から私は、正式に艦娘としての基礎訓練を受けることになっている。昨日の戦闘で自分の身体について分かったことは多かったが、まだ分からないことの方が多い。特に――艤装。
戦闘中は、砲撃も移動も回避も、ほとんど無意識に行っていた。身体が知っている。そんな感覚だった。だからこそ、今度は自分の意思で理解したかった。
◆◆◆
訓練場へ着くと、海を見下ろす岸壁に一人の艦娘が立っていた。濃紺の軍帽に、長い黒髪。昨日の出撃で旗艦を務めた那智だった。
「来たか」
「ああ」
「集合時刻より随分と早いな。昨日は眠れたのか?」
「……あまり」
正直に答えると、那智の眉が僅かに寄った。彼女の視線が私の顔から肩、腰、足元へと下りていく。昨日とは違う、状態を確かめるための視線だった。
「無理はするな。違和感があればすぐに申告しろ」
「了解した」
「返事だけはいいな」
那智は小さく息を吐き、海へ向き直った。
「本日の訓練は、海上航行と艤装制御の基礎から始める。昨日のお前は戦えていたが、扱えていたとは言い難い」
「違いがあるのか?」
「大いにある。艤装に身体を動かされることと、自分の意思で艤装を動かすことは違う。昨日のお前は、ほとんど前者だ」
反論はできなかった。海へ出た瞬間から、身体は私の意思より早く動いていた。敵を見つけ、距離を測り、砲塔を向け、引き金を引いた。私が判断したというより、土佐の身体が答えを知っていた。
「だから今日は、その違いを覚えろ。艤装を展開しろ」
意識を集中させると、背中に巨大な鋼鉄の感触が生まれた。主砲、副砲、機関。昨日も感じた重量だが、今は昨日ほどの違和感がない。
足を海面へ置く。水面が僅かに沈み、軍靴の周囲に波紋が広がった。一歩、また一歩。身体が前へ進む。
「速度を上げろ」
「了解」
機関の出力を上げた瞬間、景色が流れた。予想以上の加速に上体が揺れる。反射的に出力を落とすと、今度は艤装の重量に引かれて姿勢が崩れた。
「力みすぎだ。速く進もうとするな。艤装に速力を伝えろ」
「……同じではないのか?」
「違う。お前は自分の脚で海を走ろうとしている。艤装はお前の身体の一部だ。脚だけで動かそうとするな。機関も舵も、すべてを使え」
剣道でもそうだった。腕だけで竹刀を振れば姿勢が崩れ、脚だけで前へ出れば次の動きが遅れる。身体全体を一つにする。ならば、これも同じだ。
足の裏、膝、腰、肩。そして背中の機関。すべてを意識し、波に合わせて重心を置く。今度は身体と艤装が同じ速度で前へ出た。
「……こうか」
「悪くない」
那智が初めて頷いた。
加速、維持、旋回、停止。失敗するたび、身体のどこが遅れたのかを確かめて修正する。やがて指定地点で、ほとんど姿勢を崩さず停止できた。
「……できた」
「一度できただけだ。身体に染みつくまで繰り返せ」
「ああ。もう一度頼む」
「言われなくても、そのつもりだ」
◆◆◆
航行訓練を終える頃には、額に汗が浮かんでいた。那智が海上の訓練標的へ目を向ける。
「次は砲撃だ。目標までの距離を測れ」
標的を見た瞬間、砲塔が僅かに動いた。
「止めろ。今、砲塔を動かしたのは誰だ」
「……私だ」
「本当にそうか?」
言葉に詰まる。身体が勝手に照準を合わせようとしていた。
「身体に答えを出させるな。まずお前が考えろ」
砲塔を正面へ戻し、改めて距離、風向き、波、着弾までの時間を自分の意思で確認する。その上で砲塔を動かした。
「撃て」
轟音。砲弾は標的の僅か手前に着弾し、高い水柱を上げた。
「外れたな」
「ああ」
着弾位置を見て不足した距離を修正する。二射目は標的の中央を捉えた。
「命中だ」
昨日は身体が勝手に動いた。今日は違う。自分で狙い、自分で修正し、自分で撃った。その違いは大きかった。
「飲み込みが早いな」
「そうか?」
「少なくとも、昨日着任した者の動きではない」
「艦娘としては昨日が初日だ」
「それは知っている。川内から聞いていたが、お前は少し会話がずれるな」
「……そうだろうか」
那智が僅かに眉間を押さえた。
◆◆◆
「基礎だけで終わりじゃないんだ?」
振り返ると、艤装を展開した川内が海面に立っていた。
「川内」
「お疲れ、土佐。結構当ててたね」
川内は那智に呼ばれ、模擬戦の相手として来たらしい。互いに演習弾を使用し、土佐は主砲の直撃判定を一度、川内は三度の有効打で勝利となる。
「遠慮しなくていいからね」
「分かった」
「本当に当てたら駄目だからな」
那智が釘を刺す。
開始の声と同時に、川内の姿が横へ流れた。速い。砲塔を向けても、照準が合う前に進路を変える。演習弾が艤装へ当たり、軽い衝撃が身体を揺らした。
「川内、一発目」
「止まった標的とは違うでしょ?」
「ああ」
川内は進路を細かく変え、こちらに照準を合わせる時間を与えない。重い主砲で追えば、その分だけ反応が遅れる。
追うな。
私は砲塔を止めた。ただ川内の肩、腰、視線、艤装の向きを見る。
剣道と同じだ。相手が動き始めてから追っても遅い。次にどの間合いへ入ろうとしているのかを読む。
川内の視線が私の左へ動き、腰が僅かに沈む。私は半歩だけ後ろへ下がり、艤装を旋回させた。
加速した川内の進路と、主砲の正面が重なる。
「えっ――」
「そこまで!」
川内は目前で急停止した。主砲は彼女の正面へ向いている。
「判定、土佐」
川内は砲口を見上げ、やがて困ったように笑った。
「追うのをやめて、私が来る場所で待ったんだ」
「ああ。視線と腰を見れば、ある程度は分かる」
「それ、戦艦の戦い方なのかな」
「分からない。ただ、私にはこの方がやりやすい」
川内は声を立てて笑った。
「そっか。じゃあ、土佐の戦い方なんだね」
その言葉に胸の奥が僅かに動く。私の戦い方。まだそう呼べるほどのものではない。それでも、悪くないと思った。
「次は負けないよ、土佐」
「ああ。私も、次は最初の一発を受けない」
川内が一瞬目を丸くし、楽しそうに目を細めた。
「言うようになったね」
◆◆◆
訓練を終え、艤装を解除すると、全身に溜まっていた疲労を感じた。だが、嫌な疲れではない。
「今日はここまでだ。午後は休め」
「まだ動ける」
「動けるかどうかを聞いているのではない」
那智に即座に返された。隣では川内が小さく笑っている。
「土佐。午後も何かするつもりだったでしょ」
「弓を引こうと思っていた」
「ほらね」
那智の眉間に皺が寄る。
「休めと言ったはずだ」
「弓道は休息に近い」
「どこがだ」
結局、短時間だけという条件で許可を得た。素直に礼を言うと、那智は「礼を言うくらいなら最初から休め」と息を吐き、川内の笑い声が訓練場に響いた。
◆◆◆
昼食と短い休憩を終え、一人で弓道場へ向かった。
弓と矢を借り、射場に立つ。弓を持つと、懐かしい感触が不思議なくらい手に馴染んだ。
足踏み。胴造り。呼吸を整え、肩の力を抜く。
弓を引く。
――軽い。
今の私には、人間だった頃とは比べものにならない力がある。だからといって力任せに引けばいいわけではない。肩、背中、腰、呼吸。身体全体を使う。
一射目は中心から僅かに外れた。二射目はそれより中心に近い。身体が変わっても、やることは変わらない。その力を自分の意思で扱えて、初めて意味がある。
三本目の矢を取ったとき、射場の外から声が聞こえた。
「……誰かいますね」
道場の入口に、赤城と加賀が立っていた。
「土佐?」
加賀の目が僅かに見開かれる。
「加賀。赤城もいたのか」
赤城は私の弓と的を交互に見て、柔らかく微笑んだ。
「少し見ても?」
「構わない」
二人の前でもう一射する。矢は的の中心近くへ突き刺さった。
「……綺麗ですね」
赤城はそう言ったあと、艦娘の身体としては少し力が入っていると指摘した。
「肩で引こうとせず、もう少し背中へ預けてみてください。土佐さんの身体なら、弓の重さに対抗する必要はありませんから」
赤城の動きを見て試してみる。肩の力を抜き、背中を開くように引くと、身体に無理がなく、妙にしっくりきた。
「……こちらの方が落ち着くな」
「でしょう?」
もう一度、足踏みからやり直す。呼吸と身体の動きを重ね、矢を放つ。
乾いた音。矢は的の中心へ入った。
「……見事ですね」
少しだけ嬉しかった。それが顔に出ていたのか、赤城の笑みが深くなる。
人間だった頃の経験と、艦娘となった身体。どちらか一方に合わせる必要はない。両方を理解し、自分のものにしていけばいい。
その隣で、加賀は何も言わず私を見ていた。
◆◆◆
加賀は土佐の射形を黙って見つめていた。
足踏み、胴造り、弓構え。視線、呼吸、身体の軸。矢を放った後の姿勢まで、すべてが静かに繋がっている。
それは加賀にとって見慣れた動きでもあった。弓を扱う者の動き。自分と同じものを使い、同じように的を見つめている。
だが、同じではない。土佐の射形には剣道で培ったものも混ざっていた。揺れない足元。射る直前まで相手の動きを読むような目。戦艦としての力強い身体を、静かな呼吸で抑えている。
戦艦として生まれなかったはずの妹。その妹が今、自分の目の前で弓を引いている。
土佐が弦を放す。矢は真っ直ぐに飛び、的の中心へ突き刺さった。
加賀の胸の奥が、僅かに揺れた。
懐かしい。けれど、何を懐かしいと思っているのかは分からない。戦艦だった頃の記憶も、土佐と共に海を走った記憶もない。
それでも、もし自分が戦艦として完成していたなら。もし土佐も完成していたなら。こうして隣で弓を引く姿を、当たり前のように見ていたのだろうか。
「加賀さん。随分、土佐さんのことを見ていますね」
赤城の声で我に返る。
「そうでしょうか」
「ええ」
加賀は、矢を抜くため的へ歩く土佐の背中へ視線を戻した。
「……なんとなく、気になるだけです」
胸の内に、一つの言葉が浮かぶ。
妹。
まだ本人へそう呼びかけたことはない。土佐もまた、加賀をそう呼ばない。それでも、その言葉は昨日より僅かに現実味を帯びていた。
◆◆◆
弓を片付けたところで、加賀が私の名を呼んだ。
「土佐。あなたの弓は、とても綺麗ですね」
「……そうか?」
「ええ。あなたらしいと思います」
その意味はよく分からなかった。ただ、加賀の視線はどこか柔らかかった。
「教えてくれてありがとう、赤城。加賀も、見ていてくれてありがとう」
加賀の目が僅かに見開かれる。
「……私は、何もしていません」
「それでもだ」
「そう。では、その言葉は受け取っておきます」
道場を出ようとしたところで、赤城に呼び止められた。
「土佐さん。今度は三人で引きませんか?」
赤城と、その隣に立つ加賀を見る。
「私も一緒でいいのか?」
「もちろんです」
加賀も静かに頷いた。
「あなたがよければ」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「なら、また頼む」
二人へ頭を下げ、道場を出た。
人間だった頃の私。戦艦として生まれるはずだった土佐。二つは別々のものではない。
昨日よりも、ほんの少しだけ。私はこの身体を理解できるようになっていた。
まだ知らない。
この日から、加賀が以前より少しだけ私を気にするようになったことを。
戦艦として生まれなかったはずの姉が、同じく生まれなかったはずの妹を。
少しずつ、自分の家族として意識し始めていたことを。