土佐、海を往く   作:海の藻

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第7話 土佐、頼ることを覚える

それから、幾日かが過ぎた。

 

出撃。訓練。演習。そして、また出撃。

 

同じことの繰り返しに見えても、まったく同じ日は一つとしてなかった。海の状態も、敵の動きも、共に出撃する艦娘も、演習で向かい合う相手も違う。

 

そのたびに失敗し、考え、次の機会に試した。そうして日々を重ねるうちに、私は少しずつ艦娘としての身体へ馴染んでいった。

 

初めの頃は、歩くときでさえ力加減を考えていた。扉を開けるとき、食器を持つとき、誰かと肩が触れそうになったとき。人間だった頃と同じつもりで動けば、思いもよらない力が出る。刀の訓練で木を倒してからは、なおさら慎重になった。

 

それでも、いつまでも身体を恐れているわけにはいかない。必要なのは力を使わないことではなく、どれほどの力を、どの瞬間に使うべきなのかを知ることだった。

 

海上航行にも慣れた。艤装を背負った状態での重心移動も、以前ほど意識しなくなり、砲撃の反動を受けても姿勢を崩さず次の動作へ移れる。

 

戦艦として戦うことに、ようやく身体と意識の両方が馴染み始めていた。

 

同時に、鎮守府で誰かと過ごすことにも、少しずつ慣れていった。

 

◆◆◆

 

刀を妖精さんへ預けてから、数日が経った朝。

 

食堂で朝食を終えた私は、提督に呼ばれて屋外訓練区画へ向かった。以前使った場所とは違い、周囲には土嚢が積まれ、奥には丈夫そうな木材で作られた標的が並んでいる。訓練区画を囲う柵までも、以前より高い。

 

中央には、見覚えのある黒鞘の刀を抱えた妖精さんが立っていた。その隣には天龍と龍田。少し離れた場所では、長門さんが腕を組んで待っている。

 

「来たか、土佐」

 

「ああ」

 

妖精さんが抱えている刀へ、自然と視線が向いた。

 

「安全確認、終わりました!」

 

「刀に問題は?」

 

「ありません! 刀身も柄も鞘も、全部大丈夫です。木を斬ったくらいでは壊れません!」

 

「木を斬ったのは事故だ」

 

「知ってます!」

 

その返事を聞いていた龍田が、口元へ手を添えて笑う。

 

「刀が丈夫でよかったわねぇ。今度は何本倒しても大丈夫そうよ」

 

「倒さない」

 

「ふふ。冗談よ」

 

やはり、冗談には聞こえない。

 

長門さんが軽く咳払いをした。

 

「本日の目的は、土佐へ刀を返却することと、艦娘としての出力を管理した状態で扱えるか確認することだ。私が全体を監督する。刀の扱いについては天龍から指導を受けろ」

 

「分かった」

 

天龍は妖精さんから刀を受け取り、鞘に収めたまま両手で差し出した。

 

「まず言っておくが、人間だった頃の剣道と同じつもりで振るなよ。今のお前は、速く振ろうと思えば簡単に振れる。だから最初に覚えるのは、速く振ることじゃない」

 

「何を覚える?」

 

「止めることだ」

 

刀を受け取る。数日ぶりに、左手へ黒鞘の重みが戻った。それだけで僅かに呼吸が深くなる。

 

「抜いてみろ」

 

左腰へ鞘を当て、柄へ手をかける。鍔を押し、ゆっくりと刀を抜いた。朝の光が刀身を滑る。

 

重さも、柄の感触も、何も変わっていない。

 

「……戻ってきたな」

 

小さく呟くと、天龍の口元が僅かに緩んだ。

 

「嬉しいのは分かるが、ここからは訓練だ。正面の標的へ向かって構えろ。振り下ろして、刃を寸前で止める」

 

指示に従い、標的の前へ立つ。刀を正眼に構え、呼吸を整える。

 

踏み込み、刀を振り下ろす。

 

風切り音。

 

刃が標的の手前で止まった――つもりだった。

 

切っ先が表面へ触れ、細い傷が入っている。

 

「今のは駄目だ」

 

天龍の声が飛ぶ。

 

「止めた」

 

「止めきれてねえ。頭の中で止めた位置と、実際の切っ先がずれてる」

 

標的の傷を見る。当てないと決めたものへ刃が届いた以上、成功とは言えない。

 

「もう一度だ」

 

構え直す。

 

「土佐」

 

今度は長門さんから声がかかった。

 

「腕だけで止めようとするな。艤装の出力を抑えるときと同じだ。踏み込みから止めることを考えろ。刀を振ったあとで慌てて力を抜いても遅い」

 

海上航行の訓練で教わったことを思い出す。止まる直前に機関を切るのではない。どの位置で止まるのかを先に決め、そこへ向けて全身の動きを整える。

 

刀も同じだ。振り始めてから止めるのではなく、構えた時点で止める場所まで決める。

 

二度目の刃は標的へ触れなかった。だが、今度は距離が離れすぎている。

 

「今度は遠すぎるな」

 

「当てなかった」

 

「そういう問題じゃねえ。敵を斬るなら、届く距離まで入らなきゃ意味がないだろ」

 

「難しいな」

 

「だから練習するんだよ」

 

天龍は笑わなかった。できなかったことを責める様子もなく、次に直すべきことだけを示している。

 

三度目は近すぎた。四度目は止める直前に力み、切っ先が揺れた。五度目は踏み込みが浅い。

 

繰り返すたびに、天龍の指摘が飛ぶ。長門さんは少し離れた場所から私の身体全体を見ており、龍田もときおり静かに口を挟んだ。

 

「肩に力が入っている」

 

「踏み込む前から腰が浮いているぞ」

 

「腕の速さへ脚がついていっていない」

 

「刀ばかり見ない方がいいわ。斬る相手を見て」

 

三人の声を聞き、一つずつ動きを修正する。

 

以前なら、一人で答えを探そうとしていただろう。同じ動作を何度も繰り返し、自分で違和感の理由を考えたはずだ。

 

だが、自分では見えないものがある。刀を振っている最中には気づけない身体の傾き。自分では正しいと思っていた間合い。無意識に入った余計な力。

 

それを、三人はすぐに見つけた。

 

「もう一度、頼む」

 

構え直す。

 

「今度は力を抜け。速さはいらねえ」

 

「長門さん。踏み込みは?」

 

「先ほどより僅かに浅くしろ。止まる位置だけを見るな。そこへ至るまでの動きを揃えろ」

 

「龍田は?」

 

龍田の目が僅かに細くなる。

 

「斬る直前に息を止めているわ。弓を引くときと同じように、呼吸を動きへ合わせてみたら?」

 

「分かった」

 

三人の言葉を頭の中で整理する。

 

速さを求めない。踏み込みから止まる位置までを一つの動きにする。標的だけを見る。呼吸を止めない。

 

構える。息を吸う。踏み込みながら、ゆっくりと吐く。

 

腰、肩、腕、刀。すべてが同じ流れで動く。

 

切っ先が標的へ近づく。

 

止める。

 

風だけが、標的の表面を撫でた。

 

天龍が刀と標的の間を確かめ、その口元を僅かに上げる。

 

「今のは悪くねえ」

 

「できたか?」

 

「一度だけな」

 

一度できただけでは、身についたとは言えない。

 

「なら、もう一度だ」

 

「そう言うと思ったぜ」

 

何度も振る。同じ位置へ、同じ速さで、同じように止める。成功することもあれば、僅かにずれることもあった。それでも、最初より明らかに安定している。

 

十度目の刀が、標的の寸前で静かに止まった。

 

「そこまで」

 

長門さんの声が響く。

 

刀を下ろす。腕だけではない。脚も背中も、思った以上に疲れている。

 

「まだできる」

 

反射的に言った。

 

「できるかどうかは聞いていない。今日の訓練はここまでだ。疲労した状態で真剣を振り、また制御を誤れば意味がない」

 

隣で天龍も頷く。

 

「長門の言うとおりだ。続きは明日にしろ」

 

以前なら、納得できるまで一人でも続けようとしたかもしれない。だが木を倒したときも、自分ではまだ制御できているつもりだった。

 

今の自分より、見ている者の判断を信じるべき場面もある。

 

「分かった」

 

刀を鞘へ戻す。

 

天龍が少し驚いたようにこちらを見た。

 

「随分素直だな」

 

「また預けることになりたくない」

 

「なるほどな。今日は木を倒さなかったし、上出来じゃねえか」

 

「最初から倒すつもりはない」

 

「標的も斬ってねえしな」

 

「一本目は傷をつけたけどな」

 

龍田が楽しそうに肩を揺らす。

 

「少し寂しいわねぇ。土佐が木を倒さなくなったら、からかう理由が一つ減ってしまうでしょう?」

 

「別の理由を探さないでくれ」

 

刀は、今度こそ私の左腰へ戻った。

 

自分の力だけで扱えるようになったわけではない。天龍に刀を見てもらい、長門さんに身体の使い方を教わり、龍田に呼吸のずれを指摘された。

 

三人の助けを借りて、ようやく一度、正しい位置で止めることができた。

 

それでいいのかもしれない。

 

「天龍。龍田。長門さん。今日は、ありがとう」

 

天龍は一瞬だけ目を丸くし、照れ隠しのように頭を掻いた。

 

「礼は、まともに扱えるようになってからでいい」

 

「それでもだ」

 

「そうかよ」

 

龍田は嬉しそうに目を細める。

 

「どういたしまして。また一緒に練習しましょうね」

 

長門さんも静かに頷いた。

 

「次は、同じ動きを最初から再現してみせろ」

 

「分かった」

 

黒鞘へ手を添える。

 

今度は、一人で答えを探す必要はない。

 

そう思えた。

 

◆◆◆

 

「土佐、右だ!」

 

長門さんの声が演習海域へ響く。

 

考えるより早く、私は右へ踏み込んだ。直前までいた場所を演習弾が通り過ぎ、海面を激しく叩く。

 

巻き上がった水飛沫の向こうで、長門さんの砲塔が旋回していた。追撃が来る。

 

進路を変えず、そのまま前へ出る。

 

「今度は!」

 

相手の視線、肩の向き、艤装の傾きを拾い、長門さんが避ける方向へ狙いをずらす。

 

撃つ。

 

長門さんは左へ回避した。演習弾は艤装のすぐ脇を通り抜け、背後へ着弾する。

 

「惜しい!」

 

「くそ」

 

以前なら、砲塔が長門さんを捉えることさえ難しかった。今はまだ当てられなくても、回避させ、次の一発へ繋がる位置まで動かせる。

 

「だが、最初の頃よりずっといいぞ。私の回避方向を読んだな?」

 

「ああ。だが、少し遅かった」

 

「自分で分かっているなら上出来だ。それで、どうする?」

 

「次は当てる」

 

「楽しみにしている」

 

直後、複数の砲声が重なった。

 

水柱の間を抜け、距離を詰める。砲撃を避け、撃つ。外す。修正し、再び撃つ。

 

身体が重くなっても、足は止めない。

 

悔しい。まだ届かない。

 

それでも、こうして真正面から撃ち合えることが楽しかった。

 

◆◆◆

 

演習終了の合図が響く。

 

「今日はここまでだ」

 

「ありがとうございました」

 

「最後の一発は悪くなかったぞ」

 

「当たっていない」

 

「今までなら、あの位置へ撃つこともできなかっただろう? 焦るな、土佐。昨日のお前と比べろ」

 

「そうだな」

 

「もっとも、次も簡単に勝たせるつもりはないがな」

 

「望むところだ」

 

二人で岸へ戻る。艤装を解除した途端、緊張が途切れ、肩へ疲労がのしかかった。

 

「土佐、お疲れ様」

 

岸では、陸奥さんがタオルを持って待っていた。

 

「随分濡れたわね」

 

差し出されたタオルを受け取る。

 

「ありがとう」

 

「ほら、きちんと拭きなさい」

 

自分で髪を拭こうとしたが、陸奥さんはタオルの端を持ったまま離さない。

 

「……陸奥さん?」

 

「貸して」

 

「自分でできる」

 

「知っているわよ」

 

言い終わる前に、タオルが頭へ被せられた。陸奥さんの手が、その上から髪を拭き始める。

 

「子供ではないんだが」

 

「知っているわよ。でも、放っておくと適当に拭いて終わりにするでしょう?」

 

心当たりがあった。

 

「それに、こうしている土佐、可愛いんだもの」

 

「そういうものか?」

 

「そういうもの」

 

初めの頃なら、すぐにタオルを取り返していただろう。けれど、何度か世話を焼かれているうちに、断る理由も分からなくなった。

 

「土佐は真面目すぎるのよ。演習が終わると、すぐに反省を始めるでしょう?」

 

「次に勝つためには必要だから」

 

「だからよ。休む時間まで次のことを考えていたら、身体より先に気持ちが疲れてしまうわ。もう少しくらい、人に任せてもいいの」

 

「覚えておく」

 

「本当に?」

 

「努力する」

 

「よろしい」

 

タオルが頭から離れる。

 

僅かに名残惜しいと思った自分に気づき、私は何も言わず軍帽を被り直した。

 

◆◆◆

 

数日後、武蔵さんとの演習が終わった。

 

港へ戻り艤装を解除した瞬間、身体全体が急に重くなる。足へ上手く力が入らず、踏み出すと身体が僅かに揺れた。

 

「おい、土佐。大丈夫か?」

 

大丈夫だ。問題ない。まだ歩ける。

 

いつもの言葉が喉まで出かかった。

 

「少し……疲れただけだ」

 

口から出たのは、別の言葉だった。

 

武蔵さんの眉が僅かに上がり、どこか満足そうに笑う。

 

「なら、休め」

 

太い腕が背中へ回り、肩を支えられる。

 

「歩くことはできる」

 

「知っている」

 

「では――」

 

「私がこうしたいんだ。黙って借りておけ」

 

自分の足で歩けないわけではない。それでも、支えてもらった方が楽なのは事実だ。

 

「分かった」

 

武蔵さんの肩へ僅かに体重を預ける。

 

「最初からそう言えばいい」

 

「子供扱いしていないか?」

 

「していない。戦艦一隻を運んでいると思っている」

 

「私は荷物か?」

 

「随分とよく喋る荷物だな」

 

武蔵さんが豪快に笑う。

 

以前なら、きっと断っていた。

 

だが今は、誰かに頼れば楽になることを知っている。頼ったからといって、自分が弱くなるわけではないことも、少しずつ分かり始めていた。

 

◆◆◆

 

「お疲れ様です、土佐さん」

 

岸の休憩所では、大和さんが待っていた。

 

武蔵さんに肩を借りて歩く私を見ると、表情がすぐに心配そうなものへ変わる。

 

「随分頑張ったようですね」

 

「まあ……」

 

「まあ、ではない。少しやりすぎたかもしれんな」

 

武蔵さんが答える。

 

「武蔵。無茶な演習をさせたのではありませんよね?」

 

「本人も楽しんでいたぞ」

 

「それと、限界まで続けていいかどうかは別です」

 

「次から……気をつける」

 

近くの椅子へ座らされ、大和さんが飲み物を差し出す。

 

「こちらをどうぞ。一度に飲まず、ゆっくり飲んでください」

 

「ありがとう、大和さん」

 

冷たい水分が喉を通り、熱の残った身体へ染み込んでいく。

 

「今日は、かなり疲れていますね」

 

「自覚はある」

 

「それなら、何も考えずに少し休みましょう」

 

背もたれへ身体を預ける。それでも、演習のことが頭へ浮かんだ。

 

「土佐さん。今、演習のことを考えていましたね?」

 

「分かるのか?」

 

「分かります。次のために、今は休むことも必要ですよ」

 

穏やかな声だった。それでも、逆らおうとは思わなかった。

 

「分かった」

 

目を閉じる。近くで武蔵さんと大和さんが話す声が聞こえる。

 

ただ、二人がそばにいることだけは分かった。

 

「こうしていると、最初の頃とは随分変わりましたね」

 

「私が?」

 

「ええ。最初は何をしても、『自分でできます』『大丈夫です』と答えていましたから」

 

本当に問題がなかったわけではない。

 

何をどう頼めばいいのか、分からなかっただけなのかもしれない。

 

「今は?」

 

「今は、きちんと頼ってくださいます」

 

「……武蔵さんに捕まっただけだ」

 

「でも、振りほどかなかったでしょう?」

 

隣で武蔵さんが笑う。

 

「そういうことだ、土佐」

 

「私は嬉しいですよ」

 

大和さんが柔らかく続けた。

 

「土佐さんが、私たちを信じてくださっているということですから」

 

返す言葉が見つからなかった。

 

否定する理由も、見つからなかった。

 

◆◆◆

 

また別の日。

 

食堂でいつもの席へ座ると、大和さんが私の膳へ視線を向けた。

 

「土佐さん、今日はきちんと食べていますか?」

 

「食べている」

 

「本当に?」

 

「た……ぶん」

 

「たぶんでは困りますね。これもどうぞ」

 

大和さんが料理を一皿こちらへ寄せる。

 

「まだ食べるのか?」

 

「はい」

 

「食べられる。ありがとう、大和さん」

 

素直に受け取ると、向かいに座る陸奥さんが笑った。

 

「最近、すっかり素直になったわね」

 

「そう?」

 

「前なら、絶対に『自分で取ってくる』と言っていたもの」

 

「大和さんが食べろと言うから」

 

「私のせいですか?」

 

「そういう意味ではない」

 

二人の視線が集まる。

 

なぜ断らなかったのか。なぜ武蔵さんの肩を借り、陸奥さんに髪を拭かれても、その手を止めなくなったのか。

 

答えは、思っていたより単純だった。

 

「……二人がいると、任せても大丈夫だと思えるから」

 

陸奥さんと大和さんが顔を見合わせる。

 

「まあ。嬉しいことを言ってくださいますね」

 

「そうね。では、これからも遠慮なく甘えてもらいましょうか」

 

「ほどほどにしてくれ」

 

「無理ね」

 

陸奥さんは即答した。

 

「今まで我慢していた分もあるもの」

 

「我慢していたようには見えなかったが」

 

「これでも遠慮していたのよ?」

 

信じられず大和さんを見る。大和さんは笑顔のまま否定しなかった。

 

少し離れた席から視線を感じた。

 

加賀がこちらを見ている。

 

目が合うと、すぐに食事へ視線を戻した。隣にいる赤城が加賀へ何かを囁き、加賀の眉が僅かに動く。

 

何を話しているのかは聞こえない。

 

ただ、加賀がもう一度こちらを見たことだけは分かった。

 

◆◆◆

 

さらに何日か経った頃。

 

長門さんとの演習を終え、岸へ戻る。

 

今日も勝てなかった。有効打は増え、以前より長く動きを追えるようになった。それでも最後には進路を完全に読まれ、主砲の射線へ追い込まれた。

 

艤装を解除しても身体は軽くならない。脚にも肩にも重い疲労が残っている。

 

「土佐、お疲れ様」

 

陸奥さんがタオルを持って待っていた。

 

その姿を見た瞬間、考えるより先に言葉が出た。

 

「……疲れた」

 

自分でも驚いた。

 

これまでなら、大丈夫だと答えていた場面だった。

 

陸奥さんも一瞬だけ目を丸くする。だが、すぐに柔らかく笑った。

 

「でしょうね。ほら、こちらへ座って」

 

「うん」

 

近くの椅子へ腰を下ろす。

 

返事まで自然に出た。

 

陸奥さんが後ろへ回り、濡れた髪へタオルを当てる。以前なら「自分でやる」と言っていた。

 

今は何も言わず、目を閉じる。

 

「今日は長門が相手だったの?」

 

「うん」

 

「どうだった?」

 

「また負けた。でも、前よりは動けた。有効打も取った」

 

「それなら上出来ね」

 

「負けたのに?」

 

「昨日の土佐より強くなったのでしょう?」

 

長門さんと同じことを言う。

 

「そうだな」

 

「なら、今日はそれで十分よ」

 

タオルを持つ手が止まり、代わりに陸奥さんの指先が頭をゆっくりと撫でた。

 

気持ちいい。

 

緊張していた肩から、少しずつ力が抜けていく。

 

もう終わるのだろうか。

 

そう思った瞬間、口が動いた。

 

「もう少し」

 

「ん?」

 

陸奥さんの手が止まる。

 

言ってから、急に恥ずかしくなった。だが、一度口にした言葉を取り消すこともできない。

 

「そのままでいい」

 

視線を逸らして付け加える。

 

陸奥さんは目を丸くしたまま、しばらく動かなかった。やがて、その表情がゆっくりと崩れる。

 

心から嬉しそうな笑みだった。

 

「はいはい」

 

再び、頭を撫でられる。先ほどよりも手つきが優しい。

 

「甘えられるようになったじゃない」

 

「うるさい」

 

「ふふ」

 

それでも、私は離れなかった。

 

少し離れた場所では、演習後の確認を終えた長門さんがこちらを見ていた。目が合うと僅かに口元を緩め、そのまま別の方向へ歩いていった。

 

◆◆◆

 

いつの間にか、私は一人ですべてを抱え込まなくなっていた。

 

刀を握れば、天龍や長門さんの指示を聞く。自分では気づけないことを、龍田に指摘してもらう。

 

演習で濡れれば、陸奥さんが持つタオルへ手を伸ばす。身体が重ければ、武蔵さんの肩を借りる。休めと言われれば、大和さんの隣で休む。

 

長門さんには厳しく鍛えられた。一度できたことでは褒められない。けれど、できるようになったことを見落とされることもなかった。

 

武蔵さんには、競い合う楽しさを教えられた。負けても笑い、上手く動けば自分のことのように喜ぶ。肩を借りるときにも理由を求めない。

 

陸奥さんには、人に甘えることを少しずつ覚えさせられた。断っても世話を焼き、受け入れれば嬉しそうに笑う。

 

大和さんは、何も言わなくても疲労へ気づいた。飲み物を渡し、食事を勧め、休む場所を作ってくれる。

 

そんな毎日が、いつの間にか当たり前になり始めていた。

 

◆◆◆

 

ある日の演習後。

 

私は陸奥さんの隣に座っていた。

 

夕暮れの海が、岸壁の向こうへ広がっている。演習を終えた艦娘たちの声、艤装を整備する妖精さんたちの足音、遠くから聞こえる波の音。

 

少し前までなら、演習後は一人で道場へ向かっていた。

 

だが今は、陸奥さんの隣で何もせず海を眺めている。

 

「今日はどうだった?」

 

「前よりは動けた。でも、最後に判断を誤った」

 

「今から反省会を始めるつもり?」

 

「少しだけ」

 

陸奥さんが笑う。

 

「今日は、もうおしまい。明日になってから考えればいいの。今は休む時間」

 

「分かった」

 

背もたれへ身体を預ける。

 

疲れていた。脚も肩も重い。

 

けれど、それを隠す必要はない。

 

「疲れた」

 

今度は驚かなかった。

 

自分の言葉として、自然に口から出た。

 

「お疲れ様」

 

陸奥さんが穏やかに答える。

 

隣を見る。陸奥さんはこちらへ何も求めず、ただ私がどうするのかを待っていた。

 

それなら。

 

ほんの少しだけ身体を傾ける。

 

陸奥さんの肩へ頭を預けた。

 

彼女の身体が僅かに強張る。目が見開かれ、私の横顔へ向けられた。驚いている。

 

それでも、離れようとはしなかった。

 

「少しだけ」

 

陸奥さんの表情を見ないまま呟く。

 

「ええ。どうぞ」

 

いつもより僅かに柔らかい声だった。

 

陸奥さんの手が、そっと頭へ伸びる。触れる直前、一度だけ指先が止まった。

 

それから、壊れ物を扱うように髪へ触れる。

 

ゆっくりと撫でられる。

 

目を閉じる。

 

不思議と落ち着いた。

 

以前なら、こんなことはしなかった。自分のことは自分でやる。誰かに頼る必要なんてない。そう思っていた。

 

でも、ここでは頼ってもいいらしい。

 

「……陸奥さん」

 

「なあに?」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

返事を聞きながら、目を閉じたまま小さく息を吐く。

 

戦うときは、戦艦として。訓練するときは、仲間として。

 

そして疲れたときくらいは、誰かに甘えてもいい。

 

そんなことを、私は少しずつ覚えていた。

 

陸奥さんは何も言わず、隣にいる私の重みを受け止めていた。

 

頼られたことが、嬉しかった。

 

同時に、胸の奥が理由もなく僅かに速く打っている。

 

妹のように可愛がっているから。

 

きっと、それだけだ。

 

そう思いながら、陸奥さんはいつもより少し長く、私の髪を撫で続けていた。

 

 

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