それから、幾日かが過ぎた。
出撃。訓練。演習。そして、また出撃。
同じことの繰り返しに見えても、まったく同じ日は一つとしてなかった。海の状態も、敵の動きも、共に出撃する艦娘も、演習で向かい合う相手も違う。
そのたびに失敗し、考え、次の機会に試した。そうして日々を重ねるうちに、私は少しずつ艦娘としての身体へ馴染んでいった。
初めの頃は、歩くときでさえ力加減を考えていた。扉を開けるとき、食器を持つとき、誰かと肩が触れそうになったとき。人間だった頃と同じつもりで動けば、思いもよらない力が出る。刀の訓練で木を倒してからは、なおさら慎重になった。
それでも、いつまでも身体を恐れているわけにはいかない。必要なのは力を使わないことではなく、どれほどの力を、どの瞬間に使うべきなのかを知ることだった。
海上航行にも慣れた。艤装を背負った状態での重心移動も、以前ほど意識しなくなり、砲撃の反動を受けても姿勢を崩さず次の動作へ移れる。
戦艦として戦うことに、ようやく身体と意識の両方が馴染み始めていた。
同時に、鎮守府で誰かと過ごすことにも、少しずつ慣れていった。
◆◆◆
刀を妖精さんへ預けてから、数日が経った朝。
食堂で朝食を終えた私は、提督に呼ばれて屋外訓練区画へ向かった。以前使った場所とは違い、周囲には土嚢が積まれ、奥には丈夫そうな木材で作られた標的が並んでいる。訓練区画を囲う柵までも、以前より高い。
中央には、見覚えのある黒鞘の刀を抱えた妖精さんが立っていた。その隣には天龍と龍田。少し離れた場所では、長門さんが腕を組んで待っている。
「来たか、土佐」
「ああ」
妖精さんが抱えている刀へ、自然と視線が向いた。
「安全確認、終わりました!」
「刀に問題は?」
「ありません! 刀身も柄も鞘も、全部大丈夫です。木を斬ったくらいでは壊れません!」
「木を斬ったのは事故だ」
「知ってます!」
その返事を聞いていた龍田が、口元へ手を添えて笑う。
「刀が丈夫でよかったわねぇ。今度は何本倒しても大丈夫そうよ」
「倒さない」
「ふふ。冗談よ」
やはり、冗談には聞こえない。
長門さんが軽く咳払いをした。
「本日の目的は、土佐へ刀を返却することと、艦娘としての出力を管理した状態で扱えるか確認することだ。私が全体を監督する。刀の扱いについては天龍から指導を受けろ」
「分かった」
天龍は妖精さんから刀を受け取り、鞘に収めたまま両手で差し出した。
「まず言っておくが、人間だった頃の剣道と同じつもりで振るなよ。今のお前は、速く振ろうと思えば簡単に振れる。だから最初に覚えるのは、速く振ることじゃない」
「何を覚える?」
「止めることだ」
刀を受け取る。数日ぶりに、左手へ黒鞘の重みが戻った。それだけで僅かに呼吸が深くなる。
「抜いてみろ」
左腰へ鞘を当て、柄へ手をかける。鍔を押し、ゆっくりと刀を抜いた。朝の光が刀身を滑る。
重さも、柄の感触も、何も変わっていない。
「……戻ってきたな」
小さく呟くと、天龍の口元が僅かに緩んだ。
「嬉しいのは分かるが、ここからは訓練だ。正面の標的へ向かって構えろ。振り下ろして、刃を寸前で止める」
指示に従い、標的の前へ立つ。刀を正眼に構え、呼吸を整える。
踏み込み、刀を振り下ろす。
風切り音。
刃が標的の手前で止まった――つもりだった。
切っ先が表面へ触れ、細い傷が入っている。
「今のは駄目だ」
天龍の声が飛ぶ。
「止めた」
「止めきれてねえ。頭の中で止めた位置と、実際の切っ先がずれてる」
標的の傷を見る。当てないと決めたものへ刃が届いた以上、成功とは言えない。
「もう一度だ」
構え直す。
「土佐」
今度は長門さんから声がかかった。
「腕だけで止めようとするな。艤装の出力を抑えるときと同じだ。踏み込みから止めることを考えろ。刀を振ったあとで慌てて力を抜いても遅い」
海上航行の訓練で教わったことを思い出す。止まる直前に機関を切るのではない。どの位置で止まるのかを先に決め、そこへ向けて全身の動きを整える。
刀も同じだ。振り始めてから止めるのではなく、構えた時点で止める場所まで決める。
二度目の刃は標的へ触れなかった。だが、今度は距離が離れすぎている。
「今度は遠すぎるな」
「当てなかった」
「そういう問題じゃねえ。敵を斬るなら、届く距離まで入らなきゃ意味がないだろ」
「難しいな」
「だから練習するんだよ」
天龍は笑わなかった。できなかったことを責める様子もなく、次に直すべきことだけを示している。
三度目は近すぎた。四度目は止める直前に力み、切っ先が揺れた。五度目は踏み込みが浅い。
繰り返すたびに、天龍の指摘が飛ぶ。長門さんは少し離れた場所から私の身体全体を見ており、龍田もときおり静かに口を挟んだ。
「肩に力が入っている」
「踏み込む前から腰が浮いているぞ」
「腕の速さへ脚がついていっていない」
「刀ばかり見ない方がいいわ。斬る相手を見て」
三人の声を聞き、一つずつ動きを修正する。
以前なら、一人で答えを探そうとしていただろう。同じ動作を何度も繰り返し、自分で違和感の理由を考えたはずだ。
だが、自分では見えないものがある。刀を振っている最中には気づけない身体の傾き。自分では正しいと思っていた間合い。無意識に入った余計な力。
それを、三人はすぐに見つけた。
「もう一度、頼む」
構え直す。
「今度は力を抜け。速さはいらねえ」
「長門さん。踏み込みは?」
「先ほどより僅かに浅くしろ。止まる位置だけを見るな。そこへ至るまでの動きを揃えろ」
「龍田は?」
龍田の目が僅かに細くなる。
「斬る直前に息を止めているわ。弓を引くときと同じように、呼吸を動きへ合わせてみたら?」
「分かった」
三人の言葉を頭の中で整理する。
速さを求めない。踏み込みから止まる位置までを一つの動きにする。標的だけを見る。呼吸を止めない。
構える。息を吸う。踏み込みながら、ゆっくりと吐く。
腰、肩、腕、刀。すべてが同じ流れで動く。
切っ先が標的へ近づく。
止める。
風だけが、標的の表面を撫でた。
天龍が刀と標的の間を確かめ、その口元を僅かに上げる。
「今のは悪くねえ」
「できたか?」
「一度だけな」
一度できただけでは、身についたとは言えない。
「なら、もう一度だ」
「そう言うと思ったぜ」
何度も振る。同じ位置へ、同じ速さで、同じように止める。成功することもあれば、僅かにずれることもあった。それでも、最初より明らかに安定している。
十度目の刀が、標的の寸前で静かに止まった。
「そこまで」
長門さんの声が響く。
刀を下ろす。腕だけではない。脚も背中も、思った以上に疲れている。
「まだできる」
反射的に言った。
「できるかどうかは聞いていない。今日の訓練はここまでだ。疲労した状態で真剣を振り、また制御を誤れば意味がない」
隣で天龍も頷く。
「長門の言うとおりだ。続きは明日にしろ」
以前なら、納得できるまで一人でも続けようとしたかもしれない。だが木を倒したときも、自分ではまだ制御できているつもりだった。
今の自分より、見ている者の判断を信じるべき場面もある。
「分かった」
刀を鞘へ戻す。
天龍が少し驚いたようにこちらを見た。
「随分素直だな」
「また預けることになりたくない」
「なるほどな。今日は木を倒さなかったし、上出来じゃねえか」
「最初から倒すつもりはない」
「標的も斬ってねえしな」
「一本目は傷をつけたけどな」
龍田が楽しそうに肩を揺らす。
「少し寂しいわねぇ。土佐が木を倒さなくなったら、からかう理由が一つ減ってしまうでしょう?」
「別の理由を探さないでくれ」
刀は、今度こそ私の左腰へ戻った。
自分の力だけで扱えるようになったわけではない。天龍に刀を見てもらい、長門さんに身体の使い方を教わり、龍田に呼吸のずれを指摘された。
三人の助けを借りて、ようやく一度、正しい位置で止めることができた。
それでいいのかもしれない。
「天龍。龍田。長門さん。今日は、ありがとう」
天龍は一瞬だけ目を丸くし、照れ隠しのように頭を掻いた。
「礼は、まともに扱えるようになってからでいい」
「それでもだ」
「そうかよ」
龍田は嬉しそうに目を細める。
「どういたしまして。また一緒に練習しましょうね」
長門さんも静かに頷いた。
「次は、同じ動きを最初から再現してみせろ」
「分かった」
黒鞘へ手を添える。
今度は、一人で答えを探す必要はない。
そう思えた。
◆◆◆
「土佐、右だ!」
長門さんの声が演習海域へ響く。
考えるより早く、私は右へ踏み込んだ。直前までいた場所を演習弾が通り過ぎ、海面を激しく叩く。
巻き上がった水飛沫の向こうで、長門さんの砲塔が旋回していた。追撃が来る。
進路を変えず、そのまま前へ出る。
「今度は!」
相手の視線、肩の向き、艤装の傾きを拾い、長門さんが避ける方向へ狙いをずらす。
撃つ。
長門さんは左へ回避した。演習弾は艤装のすぐ脇を通り抜け、背後へ着弾する。
「惜しい!」
「くそ」
以前なら、砲塔が長門さんを捉えることさえ難しかった。今はまだ当てられなくても、回避させ、次の一発へ繋がる位置まで動かせる。
「だが、最初の頃よりずっといいぞ。私の回避方向を読んだな?」
「ああ。だが、少し遅かった」
「自分で分かっているなら上出来だ。それで、どうする?」
「次は当てる」
「楽しみにしている」
直後、複数の砲声が重なった。
水柱の間を抜け、距離を詰める。砲撃を避け、撃つ。外す。修正し、再び撃つ。
身体が重くなっても、足は止めない。
悔しい。まだ届かない。
それでも、こうして真正面から撃ち合えることが楽しかった。
◆◆◆
演習終了の合図が響く。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
「最後の一発は悪くなかったぞ」
「当たっていない」
「今までなら、あの位置へ撃つこともできなかっただろう? 焦るな、土佐。昨日のお前と比べろ」
「そうだな」
「もっとも、次も簡単に勝たせるつもりはないがな」
「望むところだ」
二人で岸へ戻る。艤装を解除した途端、緊張が途切れ、肩へ疲労がのしかかった。
「土佐、お疲れ様」
岸では、陸奥さんがタオルを持って待っていた。
「随分濡れたわね」
差し出されたタオルを受け取る。
「ありがとう」
「ほら、きちんと拭きなさい」
自分で髪を拭こうとしたが、陸奥さんはタオルの端を持ったまま離さない。
「……陸奥さん?」
「貸して」
「自分でできる」
「知っているわよ」
言い終わる前に、タオルが頭へ被せられた。陸奥さんの手が、その上から髪を拭き始める。
「子供ではないんだが」
「知っているわよ。でも、放っておくと適当に拭いて終わりにするでしょう?」
心当たりがあった。
「それに、こうしている土佐、可愛いんだもの」
「そういうものか?」
「そういうもの」
初めの頃なら、すぐにタオルを取り返していただろう。けれど、何度か世話を焼かれているうちに、断る理由も分からなくなった。
「土佐は真面目すぎるのよ。演習が終わると、すぐに反省を始めるでしょう?」
「次に勝つためには必要だから」
「だからよ。休む時間まで次のことを考えていたら、身体より先に気持ちが疲れてしまうわ。もう少しくらい、人に任せてもいいの」
「覚えておく」
「本当に?」
「努力する」
「よろしい」
タオルが頭から離れる。
僅かに名残惜しいと思った自分に気づき、私は何も言わず軍帽を被り直した。
◆◆◆
数日後、武蔵さんとの演習が終わった。
港へ戻り艤装を解除した瞬間、身体全体が急に重くなる。足へ上手く力が入らず、踏み出すと身体が僅かに揺れた。
「おい、土佐。大丈夫か?」
大丈夫だ。問題ない。まだ歩ける。
いつもの言葉が喉まで出かかった。
「少し……疲れただけだ」
口から出たのは、別の言葉だった。
武蔵さんの眉が僅かに上がり、どこか満足そうに笑う。
「なら、休め」
太い腕が背中へ回り、肩を支えられる。
「歩くことはできる」
「知っている」
「では――」
「私がこうしたいんだ。黙って借りておけ」
自分の足で歩けないわけではない。それでも、支えてもらった方が楽なのは事実だ。
「分かった」
武蔵さんの肩へ僅かに体重を預ける。
「最初からそう言えばいい」
「子供扱いしていないか?」
「していない。戦艦一隻を運んでいると思っている」
「私は荷物か?」
「随分とよく喋る荷物だな」
武蔵さんが豪快に笑う。
以前なら、きっと断っていた。
だが今は、誰かに頼れば楽になることを知っている。頼ったからといって、自分が弱くなるわけではないことも、少しずつ分かり始めていた。
◆◆◆
「お疲れ様です、土佐さん」
岸の休憩所では、大和さんが待っていた。
武蔵さんに肩を借りて歩く私を見ると、表情がすぐに心配そうなものへ変わる。
「随分頑張ったようですね」
「まあ……」
「まあ、ではない。少しやりすぎたかもしれんな」
武蔵さんが答える。
「武蔵。無茶な演習をさせたのではありませんよね?」
「本人も楽しんでいたぞ」
「それと、限界まで続けていいかどうかは別です」
「次から……気をつける」
近くの椅子へ座らされ、大和さんが飲み物を差し出す。
「こちらをどうぞ。一度に飲まず、ゆっくり飲んでください」
「ありがとう、大和さん」
冷たい水分が喉を通り、熱の残った身体へ染み込んでいく。
「今日は、かなり疲れていますね」
「自覚はある」
「それなら、何も考えずに少し休みましょう」
背もたれへ身体を預ける。それでも、演習のことが頭へ浮かんだ。
「土佐さん。今、演習のことを考えていましたね?」
「分かるのか?」
「分かります。次のために、今は休むことも必要ですよ」
穏やかな声だった。それでも、逆らおうとは思わなかった。
「分かった」
目を閉じる。近くで武蔵さんと大和さんが話す声が聞こえる。
ただ、二人がそばにいることだけは分かった。
「こうしていると、最初の頃とは随分変わりましたね」
「私が?」
「ええ。最初は何をしても、『自分でできます』『大丈夫です』と答えていましたから」
本当に問題がなかったわけではない。
何をどう頼めばいいのか、分からなかっただけなのかもしれない。
「今は?」
「今は、きちんと頼ってくださいます」
「……武蔵さんに捕まっただけだ」
「でも、振りほどかなかったでしょう?」
隣で武蔵さんが笑う。
「そういうことだ、土佐」
「私は嬉しいですよ」
大和さんが柔らかく続けた。
「土佐さんが、私たちを信じてくださっているということですから」
返す言葉が見つからなかった。
否定する理由も、見つからなかった。
◆◆◆
また別の日。
食堂でいつもの席へ座ると、大和さんが私の膳へ視線を向けた。
「土佐さん、今日はきちんと食べていますか?」
「食べている」
「本当に?」
「た……ぶん」
「たぶんでは困りますね。これもどうぞ」
大和さんが料理を一皿こちらへ寄せる。
「まだ食べるのか?」
「はい」
「食べられる。ありがとう、大和さん」
素直に受け取ると、向かいに座る陸奥さんが笑った。
「最近、すっかり素直になったわね」
「そう?」
「前なら、絶対に『自分で取ってくる』と言っていたもの」
「大和さんが食べろと言うから」
「私のせいですか?」
「そういう意味ではない」
二人の視線が集まる。
なぜ断らなかったのか。なぜ武蔵さんの肩を借り、陸奥さんに髪を拭かれても、その手を止めなくなったのか。
答えは、思っていたより単純だった。
「……二人がいると、任せても大丈夫だと思えるから」
陸奥さんと大和さんが顔を見合わせる。
「まあ。嬉しいことを言ってくださいますね」
「そうね。では、これからも遠慮なく甘えてもらいましょうか」
「ほどほどにしてくれ」
「無理ね」
陸奥さんは即答した。
「今まで我慢していた分もあるもの」
「我慢していたようには見えなかったが」
「これでも遠慮していたのよ?」
信じられず大和さんを見る。大和さんは笑顔のまま否定しなかった。
少し離れた席から視線を感じた。
加賀がこちらを見ている。
目が合うと、すぐに食事へ視線を戻した。隣にいる赤城が加賀へ何かを囁き、加賀の眉が僅かに動く。
何を話しているのかは聞こえない。
ただ、加賀がもう一度こちらを見たことだけは分かった。
◆◆◆
さらに何日か経った頃。
長門さんとの演習を終え、岸へ戻る。
今日も勝てなかった。有効打は増え、以前より長く動きを追えるようになった。それでも最後には進路を完全に読まれ、主砲の射線へ追い込まれた。
艤装を解除しても身体は軽くならない。脚にも肩にも重い疲労が残っている。
「土佐、お疲れ様」
陸奥さんがタオルを持って待っていた。
その姿を見た瞬間、考えるより先に言葉が出た。
「……疲れた」
自分でも驚いた。
これまでなら、大丈夫だと答えていた場面だった。
陸奥さんも一瞬だけ目を丸くする。だが、すぐに柔らかく笑った。
「でしょうね。ほら、こちらへ座って」
「うん」
近くの椅子へ腰を下ろす。
返事まで自然に出た。
陸奥さんが後ろへ回り、濡れた髪へタオルを当てる。以前なら「自分でやる」と言っていた。
今は何も言わず、目を閉じる。
「今日は長門が相手だったの?」
「うん」
「どうだった?」
「また負けた。でも、前よりは動けた。有効打も取った」
「それなら上出来ね」
「負けたのに?」
「昨日の土佐より強くなったのでしょう?」
長門さんと同じことを言う。
「そうだな」
「なら、今日はそれで十分よ」
タオルを持つ手が止まり、代わりに陸奥さんの指先が頭をゆっくりと撫でた。
気持ちいい。
緊張していた肩から、少しずつ力が抜けていく。
もう終わるのだろうか。
そう思った瞬間、口が動いた。
「もう少し」
「ん?」
陸奥さんの手が止まる。
言ってから、急に恥ずかしくなった。だが、一度口にした言葉を取り消すこともできない。
「そのままでいい」
視線を逸らして付け加える。
陸奥さんは目を丸くしたまま、しばらく動かなかった。やがて、その表情がゆっくりと崩れる。
心から嬉しそうな笑みだった。
「はいはい」
再び、頭を撫でられる。先ほどよりも手つきが優しい。
「甘えられるようになったじゃない」
「うるさい」
「ふふ」
それでも、私は離れなかった。
少し離れた場所では、演習後の確認を終えた長門さんがこちらを見ていた。目が合うと僅かに口元を緩め、そのまま別の方向へ歩いていった。
◆◆◆
いつの間にか、私は一人ですべてを抱え込まなくなっていた。
刀を握れば、天龍や長門さんの指示を聞く。自分では気づけないことを、龍田に指摘してもらう。
演習で濡れれば、陸奥さんが持つタオルへ手を伸ばす。身体が重ければ、武蔵さんの肩を借りる。休めと言われれば、大和さんの隣で休む。
長門さんには厳しく鍛えられた。一度できたことでは褒められない。けれど、できるようになったことを見落とされることもなかった。
武蔵さんには、競い合う楽しさを教えられた。負けても笑い、上手く動けば自分のことのように喜ぶ。肩を借りるときにも理由を求めない。
陸奥さんには、人に甘えることを少しずつ覚えさせられた。断っても世話を焼き、受け入れれば嬉しそうに笑う。
大和さんは、何も言わなくても疲労へ気づいた。飲み物を渡し、食事を勧め、休む場所を作ってくれる。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になり始めていた。
◆◆◆
ある日の演習後。
私は陸奥さんの隣に座っていた。
夕暮れの海が、岸壁の向こうへ広がっている。演習を終えた艦娘たちの声、艤装を整備する妖精さんたちの足音、遠くから聞こえる波の音。
少し前までなら、演習後は一人で道場へ向かっていた。
だが今は、陸奥さんの隣で何もせず海を眺めている。
「今日はどうだった?」
「前よりは動けた。でも、最後に判断を誤った」
「今から反省会を始めるつもり?」
「少しだけ」
陸奥さんが笑う。
「今日は、もうおしまい。明日になってから考えればいいの。今は休む時間」
「分かった」
背もたれへ身体を預ける。
疲れていた。脚も肩も重い。
けれど、それを隠す必要はない。
「疲れた」
今度は驚かなかった。
自分の言葉として、自然に口から出た。
「お疲れ様」
陸奥さんが穏やかに答える。
隣を見る。陸奥さんはこちらへ何も求めず、ただ私がどうするのかを待っていた。
それなら。
ほんの少しだけ身体を傾ける。
陸奥さんの肩へ頭を預けた。
彼女の身体が僅かに強張る。目が見開かれ、私の横顔へ向けられた。驚いている。
それでも、離れようとはしなかった。
「少しだけ」
陸奥さんの表情を見ないまま呟く。
「ええ。どうぞ」
いつもより僅かに柔らかい声だった。
陸奥さんの手が、そっと頭へ伸びる。触れる直前、一度だけ指先が止まった。
それから、壊れ物を扱うように髪へ触れる。
ゆっくりと撫でられる。
目を閉じる。
不思議と落ち着いた。
以前なら、こんなことはしなかった。自分のことは自分でやる。誰かに頼る必要なんてない。そう思っていた。
でも、ここでは頼ってもいいらしい。
「……陸奥さん」
「なあに?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
返事を聞きながら、目を閉じたまま小さく息を吐く。
戦うときは、戦艦として。訓練するときは、仲間として。
そして疲れたときくらいは、誰かに甘えてもいい。
そんなことを、私は少しずつ覚えていた。
陸奥さんは何も言わず、隣にいる私の重みを受け止めていた。
頼られたことが、嬉しかった。
同時に、胸の奥が理由もなく僅かに速く打っている。
妹のように可愛がっているから。
きっと、それだけだ。
そう思いながら、陸奥さんはいつもより少し長く、私の髪を撫で続けていた。