土佐、海を往く   作:海の藻

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第8話 土佐、姉と呼べず

昼下がり。

 

午前の訓練を終えた私は、遅めの昼食を取るために食堂へ来ていた。普段の食事時刻を過ぎていることもあり、人は少ない。

 

料理を受け取り、いつもの席へ向かおうとする。戦艦たちが集まる一角には、今は誰もいなかった。長門と武蔵は演習。大和も、午後の出撃準備があると聞いている。

 

一人で食べることには慣れている。以前なら何も考えず、その席へ座っていただろう。

 

だが最近は、誰もいないテーブルを少し広く感じるようになっていた。

 

空いている椅子を眺めていると、少し離れた場所から声が飛んできた。

 

「土佐、こっちよ」

 

振り返る。

 

窓際のテーブルに、陸奥が座っていた。同じ席には加賀と赤城もいる。三人が揃ってこちらを見ていた。

 

珍しい組み合わせだ。

 

少し迷ってから、料理を持ってそちらへ向かう。

 

「私も一緒でいいのか?」

 

「もちろんよ」

 

陸奥が隣の椅子を引いた。

 

「そのために呼んだんだから」

 

「そうか」

 

促されるまま陸奥の隣へ座る。正面には加賀、その隣に赤城がいた。

 

加賀と目が合う。

 

「何?」

 

「いや」

 

加賀はいつもと変わらない表情をしている。だが、こちらが同じ席へ座ることを嫌がっている様子はなかった。

 

赤城は穏やかな笑みを浮かべている。

 

「こうして四人で同じ席につくのは、初めてですね」

 

「そういえば、そうだな」

 

「加賀さんと土佐さんが一緒にお食事をすること自体、珍しいのではありませんか?」

 

「そうかもしれない」

 

これまでにも食堂で顔を合わせたことはある。弓道場では、同じ時間を過ごした。それでも、最初から同じ席へ座り、食事を共にするのは初めてだった。

 

「私は、別に構わないわ」

 

加賀が静かに言う。

 

「土佐が嫌でなければ」

 

「嫌ではない」

 

答えると、加賀の目が僅かに細くなった。ほんの一瞬の変化だった。

 

その隣で、赤城の笑みが少しだけ深くなる。

 

陸奥は私の前へ湯呑みを置いた。

 

「はい、お茶」

 

「ありがとう、陸奥」

 

湯呑みを受け取る。温かな香りが立ち上った。

 

「土佐、最近よく訓練しているわね」

 

「そうか?」

 

「そうよ。長門との演習も増えたでしょう?」

 

「ああ。まだ勝てないが」

 

「それでも、最初の頃とは随分違うのでしょう?」

 

赤城が尋ねる。

 

「そうだな。身体の使い方が分かってきた。最初は速すぎて、自分の動きについていけなかったからな」

 

「今はもう大丈夫なのですか?」

 

「完全にとは言えない。だが、以前よりは自分の意思で止まれる」

 

「止まること?」

 

「ああ。走るときも、砲を撃つときも、刀を振るときも、動くことより止めることの方が難しい」

 

天龍の言葉を思い出す。

 

速く振ることではない。止めることを覚えろ。

 

今の身体には、以前とは比べものにならない力がある。その力を出すこと自体は難しくない。必要な場所で止め、必要以上に使わないことの方が、ずっと難しかった。

 

「刀の方も、順調なのですか?」

 

赤城の視線が私の左腰へ向く。食事中のため、刀は自室へ置いてきている。

 

「少しずつだ。天龍と龍田、それに長門にも見てもらっている」

 

「木は倒していない?」

 

陸奥が楽しそうに尋ねる。

 

「倒していない」

 

「本当に?」

 

「それ以来、一度も」

 

「それは偉いわね。偉い、偉い」

 

そう言いながら、陸奥が私の頭へ手を伸ばした。

 

「子供ではないぞ」

 

「知っているわよ」

 

「なら、頭を撫でる必要はないだろう」

 

「でも、頑張っている妹分を褒めるくらい、いいでしょう?」

 

妹分。

 

その言葉が、僅かに胸へ残る。

 

以前なら、すぐに陸奥の手から逃れていただろう。今はそこまで嫌ではない。むしろ、何度か撫でられているうちに、この手の感触へ慣れてしまった。

 

少しだけ目を伏せる。

 

「まあ」

 

陸奥の表情が柔らかくなる。

 

「本当に素直になったわね」

 

「そうだろうか」

 

「前なら、絶対に『自分でできる』って言っていたもの」

 

「頭を撫でることは、自分でするものではないだろう」

 

「そういうところは変わらないわね」

 

陸奥が笑う。その手は、まだ私の髪に触れていた。

 

正面で、小さな音がした。

 

加賀の箸が、皿の縁へ触れた音だった。

 

顔を上げる。加賀は何事もなかったように食事を続けている。赤城が、その横顔を見ていた。

 

「加賀」

 

「何かしら」

 

「今、箸が止まりましたね」

 

「止まっていないわ」

 

「止まりました」

 

「気のせいよ」

 

「そうですか」

 

赤城は穏やかに笑った。追及するつもりはないように見えるが、加賀を見る目にはどこか楽しそうなものがある。

 

陸奥も二人のやり取りに気づいたらしい。私の頭から手を離し、口元へ指を添える。

 

「あら?」

 

「陸奥」

 

「何でもないわ」

 

「何でもない顔には見えないけれど」

 

「ちょっと面白いと思っただけよ」

 

「何が?」

 

尋ねると、三人の視線が一度だけ私へ集まった。

 

陸奥と赤城は笑っている。加賀は僅かに眉を寄せていた。

 

「何でもないわよ。土佐は気にしなくていいの」

 

何の話をしているのか分からない。

 

加賀を見る。目が合うと、彼女は僅かに視線を逸らし、湯呑みを手に取った。

 

◆◆◆

 

「そういえば」

 

陸奥が湯呑みを置く。

 

「加賀は、土佐と一緒に訓練することはあるの?」

 

「弓道場でなら」

 

加賀は短く答えた。

 

「この前、赤城にも教えてもらった」

 

「土佐さんは、もともと弓道の経験がありますから」

 

赤城が言う。

 

「人間だった頃とは身体の使い方が違うので、少しお手伝いしただけです」

 

「加賀は?」

 

「私は見ていただけよ」

 

「何も言わずに、ずっとね」

 

赤城の一言に、加賀の眉が僅かに動く。

 

「必要がなかっただけです」

 

「そうでしょうか?」

 

「赤城」

 

「はい」

 

「余計なことを言わないで」

 

「ふふ。申し訳ありません」

 

まったく申し訳なさそうには見えない。

 

陸奥も楽しそうに加賀を見ている。

 

「加賀。土佐のこと、随分気にしているでしょう?」

 

「別に」

 

「食堂で見かけると、いつも目で追っているじゃない」

 

「追っていないわ」

 

「今も、さっきから土佐ばかり見ているでしょう?」

 

加賀は答えず、陸奥を見る。二人の視線がぶつかった。

 

「陸奥」

 

間へ口を挟む。

 

「加賀が私を見ていると、何か問題があるのか?」

 

「問題はないわよ」

 

「なら、どうして笑っている?」

 

「加賀が分かりやすいから」

 

「何が?」

 

「そこが分かっていない土佐さんも、随分分かりやすいですね」

 

赤城が小さく笑った。

 

ますます意味が分からない。

 

「何の話だ?」

 

「土佐は知らなくていいの」

 

加賀が答えた。

 

「そうなのか?」

 

「ええ」

 

「加賀さん。素直になればよろしいのに」

 

「私は十分に素直です」

 

即答だった。だが、加賀は私を見ようとしない。

 

陸奥が頬杖をつく。

 

「私は、土佐を妹みたいに思っているわ」

 

突然、そう言った。

 

「そうなのか?」

 

初めて聞いたわけではない。先ほども妹分と呼ばれた。それでも、改めて言われるとどう答えればいいのか分からない。

 

「ええ。最初から放っておけないと思っていたけれど、最近はますますね。少しずつ甘えてくれるようになったから、余計に可愛いの」

 

「人前で言わないでくれ」

 

「恥ずかしい?」

 

「少し」

 

正直に答える。

 

陸奥は一瞬だけ目を丸くし、すぐに嬉しそうに笑った。

 

「そういうところも可愛いわ」

 

「陸奥」

 

「はいはい。これ以上は言わないわ」

 

言葉とは反対に、まだ話したそうな顔をしている。

 

赤城が加賀へ視線を向けた。

 

「加賀さんは、土佐さんのことをどう思っていらっしゃるのですか?」

 

加賀の箸が止まった。

 

今度は、私にも分かった。

 

しばらく返事はない。陸奥も笑うのをやめ、静かに待っている。

 

「……姉妹艦よ」

 

やがて、加賀が小さな声で答えた。

 

胸の奥が僅かに動く。

 

加賀型戦艦一番艦、加賀。

 

加賀型戦艦二番艦、土佐。

 

その関係を知識としては理解している。だが、加賀自身の口から「姉妹艦」と言われたのは初めてだった。

 

「それだけ?」

 

陸奥が尋ねる。

 

「それ以外に何があるの?」

 

「あるでしょう?」

 

「では、土佐さんが陸奥の妹分になっても、気にならないのですか?」

 

赤城の問いに、加賀が僅かに顔を上げた。

 

「本人が誰と親しくしようと、私が口を出すことではありません」

 

「そうですね。ですが、気にならないかどうかは別のお話です」

 

加賀は黙った。

 

陸奥が少し意地悪そうに笑う。

 

「加賀も、土佐を妹みたいに思っているって言えばいいのに」

 

「私は――」

 

加賀が言葉を止め、私を見る。

 

正面から目が合う。その目にはいつもの静けさと、何かを迷うような色があった。

 

「妹みたい、ではないわ」

 

陸奥の眉が僅かに上がる。赤城は微笑んだまま、加賀を見ていた。

 

「土佐は、私の妹でしょう」

 

今度は、はっきりと聞こえた。

 

言葉が胸の奥へ落ちる。

 

妹。

 

陸奥から妹分だと言われたときとは少し違う。加賀の言葉には迷いがなかった。

 

戦艦として完成していない。同じ海を走った記憶もない。それでも、加賀にとって私は妹であるらしい。

 

どう答えればいいのか分からず、加賀を見つめる。彼女も視線を逸らさなかった。

 

食堂の音が、少し遠く感じられた。

 

「そうか」

 

ようやく、それだけ答える。

 

加賀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「ええ。そうよ」

 

陸奥と赤城が顔を見合わせた。

 

「ほら。きちんと言えましたね」

 

「赤城。黙って」

 

赤城と陸奥が堪えきれずに笑う。

 

「加賀も、だいぶ素直になったわね」

 

「聞こえているわよ」

 

それでも、加賀から先ほどまでの居心地悪そうな様子は消えていた。

 

◆◆◆

 

食事を終え、湯呑みの茶を飲む。

 

陸奥と赤城は、先ほどとは別の話を始めていた。加賀は静かに箸を置き、食後の茶へ口をつけている。

 

私は正面にいる彼女を見た。

 

妹。

 

加賀は、私をそう呼んだ。

 

ならば、私も加賀を姉と呼んでいいのだろうか。

 

その考えが浮かび、口を開きかける。だが、言葉は出なかった。

 

姉。姉さん。

 

どちらで呼べばいいのか。それ以前に、本当にそう呼んでもいいのか。

 

知識の上では、加賀が姉だと分かっている。けれど姉と呼ぶことは、その関係を自分のものとして受け入れることのように思えた。

 

私は人間だった。つい先日まで、艦娘ですらなかった。戦艦土佐の記憶も、まだ断片的にしか分からない。

 

そんな私が、加賀を姉と呼んでいいのだろうか。

 

「加賀」

 

「何?」

 

加賀が湯呑みを置き、こちらを見る。赤城と陸奥も会話を止めた。

 

「一つ、聞いてもいいか?」

 

「ええ」

 

加賀は静かに待っている。

 

姉さんと呼んでいいか。

 

そう聞くだけだ。きっと加賀は答えてくれる。

 

それでも、あと一歩が出なかった。

 

「いや。まだいい」

 

加賀の目が僅かに細くなる。

 

追及されると思った。だが、加賀は何も尋ねなかった。

 

「そう」

 

それだけ答え、もう一度湯呑みを手に取る。

 

赤城は何かに気づいたような顔をしている。陸奥も私と加賀を交互に見ていた。それでも、二人とも何も言わなかった。

 

「では、私は訓練へ行ってくる」

 

席を立つ。

 

「また訓練?」

 

陸奥が呆れたように言う。

 

「ああ。今日は刀の訓練だ」

 

「午前中も訓練していたでしょう?」

 

「砲撃と刀は別だ」

 

「身体は同じよ」

 

言い返せない。

 

「無理はしないでね」

 

「分かっている。天龍たちも一緒だ」

 

「それなら、少し安心ね」

 

赤城がこちらへ微笑む。

 

「行ってらっしゃい、土佐さん」

 

「ああ」

 

加賀を見る。彼女も私を見ていた。

 

「行ってくる」

 

「ええ。気をつけて」

 

「ああ。ありがとう」

 

三人へ背を向け、食堂を出る。

 

廊下を歩きながら、先ほど言えなかった言葉を心の中で繰り返した。

 

姉。姉さん。

 

声に出せば、それだけの短い言葉だ。それなのに、今の私にはまだ重かった。

 

◆◆◆

 

食堂に残った三人は、土佐の背中を見送っていた。

 

姿が扉の向こうへ消える。

 

しばらくして、陸奥が加賀へ視線を向けた。

 

「ねえ、加賀。聞かないの?」

 

「何を?」

 

「さっき、土佐が言いかけたこと」

 

加賀は静かに茶を飲む。

 

「いいのよ」

 

「気にならない?」

 

「気にはなるわ」

 

思いがけず素直な返事が返り、陸奥が僅かに目を見開いた。赤城は、にっこりと笑っている。

 

「けれど、本人が言わないと決めたことを、無理に聞くつもりはないわ。言いたくなったら、そのうち自分から言うでしょう」

 

「それでは、気長に待つのですね」

 

赤城が尋ねる。

 

「ええ」

 

「姉さん、と呼んでもらえる日を?」

 

加賀の手が止まった。

 

陸奥が思わず赤城を見る。

 

「赤城。あなた、本当に意地が悪いわね」

 

「そうでしょうか?」

 

「そうよ」

 

加賀は否定しなかった。

 

土佐が何を言いかけたのか、加賀にも分かっていた。自分を姉と呼んでいいのか。おそらく、そう尋ねようとしていた。

 

言葉にしなかったのは、拒まれると思ったからなのか。それとも、まだその関係を受け入れる準備ができていないからなのか。

 

どちらでもいい。

 

無理に呼ばせたいわけではない。土佐自身がそう呼びたいと思い、自分の言葉として口にするまで待てばいい。

 

「でも、加賀」

 

陸奥が口を開く。

 

「もし土佐が『姉さん』と呼んでくれたら、ちゃんと返事をしてあげなさいよ?」

 

「当然でしょう」

 

「本当に? 土佐が勇気を出して呼んだのに、いつもの顔で『何?』とだけ答えそうだから」

 

「そのようなことは――」

 

否定しかけて、加賀は言葉を止めた。自分でも、やりかねないと思ったらしい。

 

赤城が口元へ手を添えている。

 

「大丈夫ですよ、加賀さん。そのときは、きっと今より分かりやすいお顔になりますから」

 

「赤城」

 

「はい」

 

「黙って」

 

陸奥も笑う。

 

「それで、どうするの? 土佐に姉さんと呼ばれたら」

 

加賀は一度、視線を落とした。湯呑みの中で、茶の表面が僅かに揺れている。

 

少しだけ間を置き、小さく呟いた。

 

「そのときは、きちんと……姉として応えるわ」

 

陸奥と赤城が顔を見合わせる。

 

「ほら」

 

「ええ」

 

「素直じゃないけど、だいぶ素直になったわね」

 

「聞こえているわよ」

 

三人の間に、穏やかな笑い声が広がった。

 

◆◆◆

 

少し離れた廊下を、一人で歩く。

 

左腰には、黒鞘の刀がある。

 

天龍たちの待つ訓練区画へ向かいながらも、考えているのは刀のことではなかった。

 

加賀は、私を妹だと言った。

 

迷いなく。当然のことのように。

 

嬉しかった。胸の奥が温かくなった。

 

それなのに、私は加賀を姉と呼べなかった。

 

怖かったのだと思う。

 

呼んだ瞬間、何かが変わってしまう気がした。加賀との関係も、自分が土佐であるということも、今までよりずっと確かなものになる。

 

それを望んでいる自分がいる。同時に、まだ一歩を踏み出せない自分もいた。

 

「……姉さん」

 

誰もいない廊下で、小さく呟いてみる。

 

声は、思っていたより自然に出た。

 

けれど、本人を前にすれば、きっとまだ言えない。

 

今は、それでいい。無理に口にする必要はない。

 

刀を扱うことと同じだ。焦って振れば、力に身体が追いつかない。止めるべき場所を見失う。

 

一つずつ、自分のものにしていけばいい。

 

刀も。戦艦としての身体も。加賀との関係も。

 

いつか、迷わず加賀を姉と呼べる日が来るまで。

 

私は黒鞘へ手を添え、静かに廊下を歩き続けた。

 

 




本日21時頃に、第9話・第10話を更新予定です。
以降の更新も、21時頃を予定しています。
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