昼下がり。
午前の訓練を終えた私は、遅めの昼食を取るために食堂へ来ていた。普段の食事時刻を過ぎていることもあり、人は少ない。
料理を受け取り、いつもの席へ向かおうとする。戦艦たちが集まる一角には、今は誰もいなかった。長門と武蔵は演習。大和も、午後の出撃準備があると聞いている。
一人で食べることには慣れている。以前なら何も考えず、その席へ座っていただろう。
だが最近は、誰もいないテーブルを少し広く感じるようになっていた。
空いている椅子を眺めていると、少し離れた場所から声が飛んできた。
「土佐、こっちよ」
振り返る。
窓際のテーブルに、陸奥が座っていた。同じ席には加賀と赤城もいる。三人が揃ってこちらを見ていた。
珍しい組み合わせだ。
少し迷ってから、料理を持ってそちらへ向かう。
「私も一緒でいいのか?」
「もちろんよ」
陸奥が隣の椅子を引いた。
「そのために呼んだんだから」
「そうか」
促されるまま陸奥の隣へ座る。正面には加賀、その隣に赤城がいた。
加賀と目が合う。
「何?」
「いや」
加賀はいつもと変わらない表情をしている。だが、こちらが同じ席へ座ることを嫌がっている様子はなかった。
赤城は穏やかな笑みを浮かべている。
「こうして四人で同じ席につくのは、初めてですね」
「そういえば、そうだな」
「加賀さんと土佐さんが一緒にお食事をすること自体、珍しいのではありませんか?」
「そうかもしれない」
これまでにも食堂で顔を合わせたことはある。弓道場では、同じ時間を過ごした。それでも、最初から同じ席へ座り、食事を共にするのは初めてだった。
「私は、別に構わないわ」
加賀が静かに言う。
「土佐が嫌でなければ」
「嫌ではない」
答えると、加賀の目が僅かに細くなった。ほんの一瞬の変化だった。
その隣で、赤城の笑みが少しだけ深くなる。
陸奥は私の前へ湯呑みを置いた。
「はい、お茶」
「ありがとう、陸奥」
湯呑みを受け取る。温かな香りが立ち上った。
「土佐、最近よく訓練しているわね」
「そうか?」
「そうよ。長門との演習も増えたでしょう?」
「ああ。まだ勝てないが」
「それでも、最初の頃とは随分違うのでしょう?」
赤城が尋ねる。
「そうだな。身体の使い方が分かってきた。最初は速すぎて、自分の動きについていけなかったからな」
「今はもう大丈夫なのですか?」
「完全にとは言えない。だが、以前よりは自分の意思で止まれる」
「止まること?」
「ああ。走るときも、砲を撃つときも、刀を振るときも、動くことより止めることの方が難しい」
天龍の言葉を思い出す。
速く振ることではない。止めることを覚えろ。
今の身体には、以前とは比べものにならない力がある。その力を出すこと自体は難しくない。必要な場所で止め、必要以上に使わないことの方が、ずっと難しかった。
「刀の方も、順調なのですか?」
赤城の視線が私の左腰へ向く。食事中のため、刀は自室へ置いてきている。
「少しずつだ。天龍と龍田、それに長門にも見てもらっている」
「木は倒していない?」
陸奥が楽しそうに尋ねる。
「倒していない」
「本当に?」
「それ以来、一度も」
「それは偉いわね。偉い、偉い」
そう言いながら、陸奥が私の頭へ手を伸ばした。
「子供ではないぞ」
「知っているわよ」
「なら、頭を撫でる必要はないだろう」
「でも、頑張っている妹分を褒めるくらい、いいでしょう?」
妹分。
その言葉が、僅かに胸へ残る。
以前なら、すぐに陸奥の手から逃れていただろう。今はそこまで嫌ではない。むしろ、何度か撫でられているうちに、この手の感触へ慣れてしまった。
少しだけ目を伏せる。
「まあ」
陸奥の表情が柔らかくなる。
「本当に素直になったわね」
「そうだろうか」
「前なら、絶対に『自分でできる』って言っていたもの」
「頭を撫でることは、自分でするものではないだろう」
「そういうところは変わらないわね」
陸奥が笑う。その手は、まだ私の髪に触れていた。
正面で、小さな音がした。
加賀の箸が、皿の縁へ触れた音だった。
顔を上げる。加賀は何事もなかったように食事を続けている。赤城が、その横顔を見ていた。
「加賀」
「何かしら」
「今、箸が止まりましたね」
「止まっていないわ」
「止まりました」
「気のせいよ」
「そうですか」
赤城は穏やかに笑った。追及するつもりはないように見えるが、加賀を見る目にはどこか楽しそうなものがある。
陸奥も二人のやり取りに気づいたらしい。私の頭から手を離し、口元へ指を添える。
「あら?」
「陸奥」
「何でもないわ」
「何でもない顔には見えないけれど」
「ちょっと面白いと思っただけよ」
「何が?」
尋ねると、三人の視線が一度だけ私へ集まった。
陸奥と赤城は笑っている。加賀は僅かに眉を寄せていた。
「何でもないわよ。土佐は気にしなくていいの」
何の話をしているのか分からない。
加賀を見る。目が合うと、彼女は僅かに視線を逸らし、湯呑みを手に取った。
◆◆◆
「そういえば」
陸奥が湯呑みを置く。
「加賀は、土佐と一緒に訓練することはあるの?」
「弓道場でなら」
加賀は短く答えた。
「この前、赤城にも教えてもらった」
「土佐さんは、もともと弓道の経験がありますから」
赤城が言う。
「人間だった頃とは身体の使い方が違うので、少しお手伝いしただけです」
「加賀は?」
「私は見ていただけよ」
「何も言わずに、ずっとね」
赤城の一言に、加賀の眉が僅かに動く。
「必要がなかっただけです」
「そうでしょうか?」
「赤城」
「はい」
「余計なことを言わないで」
「ふふ。申し訳ありません」
まったく申し訳なさそうには見えない。
陸奥も楽しそうに加賀を見ている。
「加賀。土佐のこと、随分気にしているでしょう?」
「別に」
「食堂で見かけると、いつも目で追っているじゃない」
「追っていないわ」
「今も、さっきから土佐ばかり見ているでしょう?」
加賀は答えず、陸奥を見る。二人の視線がぶつかった。
「陸奥」
間へ口を挟む。
「加賀が私を見ていると、何か問題があるのか?」
「問題はないわよ」
「なら、どうして笑っている?」
「加賀が分かりやすいから」
「何が?」
「そこが分かっていない土佐さんも、随分分かりやすいですね」
赤城が小さく笑った。
ますます意味が分からない。
「何の話だ?」
「土佐は知らなくていいの」
加賀が答えた。
「そうなのか?」
「ええ」
「加賀さん。素直になればよろしいのに」
「私は十分に素直です」
即答だった。だが、加賀は私を見ようとしない。
陸奥が頬杖をつく。
「私は、土佐を妹みたいに思っているわ」
突然、そう言った。
「そうなのか?」
初めて聞いたわけではない。先ほども妹分と呼ばれた。それでも、改めて言われるとどう答えればいいのか分からない。
「ええ。最初から放っておけないと思っていたけれど、最近はますますね。少しずつ甘えてくれるようになったから、余計に可愛いの」
「人前で言わないでくれ」
「恥ずかしい?」
「少し」
正直に答える。
陸奥は一瞬だけ目を丸くし、すぐに嬉しそうに笑った。
「そういうところも可愛いわ」
「陸奥」
「はいはい。これ以上は言わないわ」
言葉とは反対に、まだ話したそうな顔をしている。
赤城が加賀へ視線を向けた。
「加賀さんは、土佐さんのことをどう思っていらっしゃるのですか?」
加賀の箸が止まった。
今度は、私にも分かった。
しばらく返事はない。陸奥も笑うのをやめ、静かに待っている。
「……姉妹艦よ」
やがて、加賀が小さな声で答えた。
胸の奥が僅かに動く。
加賀型戦艦一番艦、加賀。
加賀型戦艦二番艦、土佐。
その関係を知識としては理解している。だが、加賀自身の口から「姉妹艦」と言われたのは初めてだった。
「それだけ?」
陸奥が尋ねる。
「それ以外に何があるの?」
「あるでしょう?」
「では、土佐さんが陸奥の妹分になっても、気にならないのですか?」
赤城の問いに、加賀が僅かに顔を上げた。
「本人が誰と親しくしようと、私が口を出すことではありません」
「そうですね。ですが、気にならないかどうかは別のお話です」
加賀は黙った。
陸奥が少し意地悪そうに笑う。
「加賀も、土佐を妹みたいに思っているって言えばいいのに」
「私は――」
加賀が言葉を止め、私を見る。
正面から目が合う。その目にはいつもの静けさと、何かを迷うような色があった。
「妹みたい、ではないわ」
陸奥の眉が僅かに上がる。赤城は微笑んだまま、加賀を見ていた。
「土佐は、私の妹でしょう」
今度は、はっきりと聞こえた。
言葉が胸の奥へ落ちる。
妹。
陸奥から妹分だと言われたときとは少し違う。加賀の言葉には迷いがなかった。
戦艦として完成していない。同じ海を走った記憶もない。それでも、加賀にとって私は妹であるらしい。
どう答えればいいのか分からず、加賀を見つめる。彼女も視線を逸らさなかった。
食堂の音が、少し遠く感じられた。
「そうか」
ようやく、それだけ答える。
加賀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ええ。そうよ」
陸奥と赤城が顔を見合わせた。
「ほら。きちんと言えましたね」
「赤城。黙って」
赤城と陸奥が堪えきれずに笑う。
「加賀も、だいぶ素直になったわね」
「聞こえているわよ」
それでも、加賀から先ほどまでの居心地悪そうな様子は消えていた。
◆◆◆
食事を終え、湯呑みの茶を飲む。
陸奥と赤城は、先ほどとは別の話を始めていた。加賀は静かに箸を置き、食後の茶へ口をつけている。
私は正面にいる彼女を見た。
妹。
加賀は、私をそう呼んだ。
ならば、私も加賀を姉と呼んでいいのだろうか。
その考えが浮かび、口を開きかける。だが、言葉は出なかった。
姉。姉さん。
どちらで呼べばいいのか。それ以前に、本当にそう呼んでもいいのか。
知識の上では、加賀が姉だと分かっている。けれど姉と呼ぶことは、その関係を自分のものとして受け入れることのように思えた。
私は人間だった。つい先日まで、艦娘ですらなかった。戦艦土佐の記憶も、まだ断片的にしか分からない。
そんな私が、加賀を姉と呼んでいいのだろうか。
「加賀」
「何?」
加賀が湯呑みを置き、こちらを見る。赤城と陸奥も会話を止めた。
「一つ、聞いてもいいか?」
「ええ」
加賀は静かに待っている。
姉さんと呼んでいいか。
そう聞くだけだ。きっと加賀は答えてくれる。
それでも、あと一歩が出なかった。
「いや。まだいい」
加賀の目が僅かに細くなる。
追及されると思った。だが、加賀は何も尋ねなかった。
「そう」
それだけ答え、もう一度湯呑みを手に取る。
赤城は何かに気づいたような顔をしている。陸奥も私と加賀を交互に見ていた。それでも、二人とも何も言わなかった。
「では、私は訓練へ行ってくる」
席を立つ。
「また訓練?」
陸奥が呆れたように言う。
「ああ。今日は刀の訓練だ」
「午前中も訓練していたでしょう?」
「砲撃と刀は別だ」
「身体は同じよ」
言い返せない。
「無理はしないでね」
「分かっている。天龍たちも一緒だ」
「それなら、少し安心ね」
赤城がこちらへ微笑む。
「行ってらっしゃい、土佐さん」
「ああ」
加賀を見る。彼女も私を見ていた。
「行ってくる」
「ええ。気をつけて」
「ああ。ありがとう」
三人へ背を向け、食堂を出る。
廊下を歩きながら、先ほど言えなかった言葉を心の中で繰り返した。
姉。姉さん。
声に出せば、それだけの短い言葉だ。それなのに、今の私にはまだ重かった。
◆◆◆
食堂に残った三人は、土佐の背中を見送っていた。
姿が扉の向こうへ消える。
しばらくして、陸奥が加賀へ視線を向けた。
「ねえ、加賀。聞かないの?」
「何を?」
「さっき、土佐が言いかけたこと」
加賀は静かに茶を飲む。
「いいのよ」
「気にならない?」
「気にはなるわ」
思いがけず素直な返事が返り、陸奥が僅かに目を見開いた。赤城は、にっこりと笑っている。
「けれど、本人が言わないと決めたことを、無理に聞くつもりはないわ。言いたくなったら、そのうち自分から言うでしょう」
「それでは、気長に待つのですね」
赤城が尋ねる。
「ええ」
「姉さん、と呼んでもらえる日を?」
加賀の手が止まった。
陸奥が思わず赤城を見る。
「赤城。あなた、本当に意地が悪いわね」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
加賀は否定しなかった。
土佐が何を言いかけたのか、加賀にも分かっていた。自分を姉と呼んでいいのか。おそらく、そう尋ねようとしていた。
言葉にしなかったのは、拒まれると思ったからなのか。それとも、まだその関係を受け入れる準備ができていないからなのか。
どちらでもいい。
無理に呼ばせたいわけではない。土佐自身がそう呼びたいと思い、自分の言葉として口にするまで待てばいい。
「でも、加賀」
陸奥が口を開く。
「もし土佐が『姉さん』と呼んでくれたら、ちゃんと返事をしてあげなさいよ?」
「当然でしょう」
「本当に? 土佐が勇気を出して呼んだのに、いつもの顔で『何?』とだけ答えそうだから」
「そのようなことは――」
否定しかけて、加賀は言葉を止めた。自分でも、やりかねないと思ったらしい。
赤城が口元へ手を添えている。
「大丈夫ですよ、加賀さん。そのときは、きっと今より分かりやすいお顔になりますから」
「赤城」
「はい」
「黙って」
陸奥も笑う。
「それで、どうするの? 土佐に姉さんと呼ばれたら」
加賀は一度、視線を落とした。湯呑みの中で、茶の表面が僅かに揺れている。
少しだけ間を置き、小さく呟いた。
「そのときは、きちんと……姉として応えるわ」
陸奥と赤城が顔を見合わせる。
「ほら」
「ええ」
「素直じゃないけど、だいぶ素直になったわね」
「聞こえているわよ」
三人の間に、穏やかな笑い声が広がった。
◆◆◆
少し離れた廊下を、一人で歩く。
左腰には、黒鞘の刀がある。
天龍たちの待つ訓練区画へ向かいながらも、考えているのは刀のことではなかった。
加賀は、私を妹だと言った。
迷いなく。当然のことのように。
嬉しかった。胸の奥が温かくなった。
それなのに、私は加賀を姉と呼べなかった。
怖かったのだと思う。
呼んだ瞬間、何かが変わってしまう気がした。加賀との関係も、自分が土佐であるということも、今までよりずっと確かなものになる。
それを望んでいる自分がいる。同時に、まだ一歩を踏み出せない自分もいた。
「……姉さん」
誰もいない廊下で、小さく呟いてみる。
声は、思っていたより自然に出た。
けれど、本人を前にすれば、きっとまだ言えない。
今は、それでいい。無理に口にする必要はない。
刀を扱うことと同じだ。焦って振れば、力に身体が追いつかない。止めるべき場所を見失う。
一つずつ、自分のものにしていけばいい。
刀も。戦艦としての身体も。加賀との関係も。
いつか、迷わず加賀を姉と呼べる日が来るまで。
私は黒鞘へ手を添え、静かに廊下を歩き続けた。
本日21時頃に、第9話・第10話を更新予定です。
以降の更新も、21時頃を予定しています。