まだ鎮守府が眠りの中にある早朝。
東の空は白み始めていたが、廊下を行き交う者の姿はほとんどなく、開け放たれた窓から潮騒だけが静かに入り込んでいた。
私は弓道場へ向かっていた。
昨日、加賀と交わした言葉が、頭の片隅に残っている。
――土佐は、私の妹でしょう。
加賀は、当然の事実を口にするような声でそう言った。それなのに、私は返事らしい返事をできなかった。
考えても答えは出ない。だから身体を動かそうと思った。弓を引いている間なら、余計なことを考えずに済む。
弓道場の戸へ手を掛けたところで、中から乾いた音が聞こえた。
矢が的を射抜く音。
私は静かに戸を開けた。
射場には、すでに加賀がいた。
白い道着に濃紺の袴。背筋を伸ばし、弓を手に立つ姿は、朝の薄明かりの中でも不思議なほど鮮明に見えた。
私は声を掛けず、その場に立った。
加賀が矢をつがえる。足踏み、胴造り、弓構え。一つ一つの動きが静かに繋がり、途切れる瞬間がない。
やがて、弦音が朝の空気を裂いた。
放たれた矢は、真っ直ぐに的の中心へ吸い込まれる。
「……綺麗だな」
思わず口から漏れた。
加賀がゆっくりと弓を下ろし、こちらを見る。
「いたの」
「今来たところだ」
「そう」
「見ていてもいいか?」
「構わないけれど、あなたも引きに来たのでしょう」
「まあな」
「なら、見ているだけでは稽古にならないわ」
「それもそうだ」
私は道場へ入り、一礼してから弓を手に取った。
加賀の隣に立つ。
二人で並んで弓を構えると、聞こえるのは互いの呼吸と衣擦れの音、そして遠くから届く波の音だけになった。
矢をつがえ、的を見る。
人間だった頃から、何度となく繰り返してきた動作だ。だが、今の身体は以前とまったく同じではない。
腕も、肩も、背中も強くなった。弓を引くための力を、今の私は容易に出すことができる。
だからこそ、僅かなずれが生じる。
以前と同じ感覚で引こうとすると、必要以上に力が入る。弓は軽く感じられるのに、射形のどこかが硬くなる。
矢を放つ。
的中はしたが、中心から僅かに外れた。
「少し、力が入りすぎているわ」
「そうか?」
「ええ。以前より身体が強くなった分、引こうとしすぎている」
加賀は的ではなく、私の肩と腕を見ていた。
「自分では抜いているつもりだったんだが」
「力を抜こうとはしているわ。ただ、以前の身体で弓を引いていたときの感覚が残っているのでしょうね」
「……なるほど」
「もう一度、構えてみなさい」
「ああ」
加賀はしばらく私の姿勢を見ていたが、やがて弓を置き、こちらへ歩み寄ってきた。
「少し、触るわ」
「ん」
すぐ隣に立った加賀の手が、私の肩へ添えられる。
「肩を下げて。そのまま」
指先が肩の位置を軽く直す。
「ここを、もう少し開いて」
「……こうか?」
「少し違うわ」
今度は肘へ手が触れた。押すのではなく、正しい位置へ導くような僅かな力だった。
加賀が私の背後へ回る。
近い。
すぐ横に加賀の顔があり、微かな吐息まで感じられそうな距離だった。
「肩ではなく、背中を使って」
加賀の手が肩甲骨の辺りへ軽く触れる。
「そのまま」
「ん」
「ここを、もう少し」
「……ああ」
その距離で、昨日の言葉が再び頭をよぎった。
無意識に加賀へ視線を向ける。目が合った。
「何?」
「……いや」
「なら、的を見なさい」
「分かってる」
「見ていないから言っているのよ」
「……悪かった」
視線を的へ戻す。加賀の手が離れた。
息を整え、弓を引く。今度は力で開こうとせず、背中を使って弓が自然に開いていく感覚へ身を任せた。
弦を離す。
澄んだ音が響き、矢は的の中心へ突き立った。
「……入ったな」
「ええ。今の感覚を覚えておきなさい」
「ああ。ありがとう、加賀」
私がそう言うと、加賀は一瞬だけ黙った。
「これくらい、構わないわ」
加賀が自分の射位へ戻り、弓を構える。指先が離れ、矢は寸分の狂いもなく的の中心を射抜いた。
「……やっぱり綺麗だな」
「何が?」
「射形だ。無駄がない」
「……そう」
加賀の次の矢を取る手が、ほんの僅かに止まった。
「もう一本、見せてくれ」
「構わないわ」
二人だけの静かな時間が続く。
昨日よりも、加賀との距離は近くなった気がする。
それでも、まだ私は、この人を姉とは呼べなかった。
◆◆◆
稽古を終える頃には、鎮守府も目を覚まし始めていた。
「これから飯に行くが、加賀も行くか?」
加賀は僅かに目を瞬かせた。
「ええ。ご一緒するわ」
二人で並んで食堂へ向かう。特別な会話はなかったが、沈黙を気まずいとは思わなかった。
曲がり角へ差し掛かったところで、加賀が足を止めた。
「土佐」
「何だ?」
「少し止まって」
「?」
加賀は私の正面へ回ると、胸元へ手を伸ばした。
指先が詰襟の縁へ触れる。僅かに折れていた襟を整え、肩から胸元へ垂れる飾緒の位置を直していく。
私は動かず、その手元を見下ろした。
「稽古で少し乱れたのね」
「そうか」
「ええ。これでいいわ」
最後に襟元を軽く押さえ、加賀が手を離す。
「……ああ」
少し間を置いて、言葉を続けた。
「ありがとう」
「これくらい、構わないわ」
加賀は何事もなかったように歩き出した。
私は一瞬だけその背中を眺め、それから整えられた襟元へ触れた。
「土佐?」
少し先で加賀が振り返っていた。
「何をしているの。朝食に行くのでしょう」
「ああ。今行く」
私は襟元から手を離し、その隣へ追いついた。
◆◆◆
食堂へ入ると、赤城が先に席へ着いていた。
私と加賀が並んで歩いてくる姿を見つけ、少し意外そうに目を瞬かせる。
「おはようございます。お二人でいらしたのですか?」
「弓道場で一緒になった」
「そうだったのですね」
三人で朝食を取る。
その最中、ふと加賀を見る。
加賀は味噌汁の椀を手にしていた。視線を自分の膳へ戻し、しばらくして、もう一度見る。
加賀が焼き魚へ箸を伸ばしている。今度は目が合いそうになり、私は先に逸らした。
向かい側で、赤城がこちらを見ていた。
少しして、加賀が茶へ手を伸ばす。その横顔を、また目で追ってしまう。
「土佐さん」
「ん?」
「加賀さんのお顔に、何かついています?」
「いや」
「では、どうして先ほどから、そんなに見ているのです?」
「…………」
箸を止める。
加賀もこちらを見ていた。表情は平静だったが、私の答えを待っているらしい。
なぜ見ていたのか。昨日の言葉が気になっているからか。今朝、弓を見てもらったからか。襟元を整えられた感触が、まだ残っているからか。
どれも間違ってはいない気がした。しかし、うまく言葉にできない。
「……分からん」
考えた末、そう答えた。
赤城の笑みが僅かに深くなる。それ以上追及することはなかった。
加賀も何も言わず、再び食事へ戻る。ただ、その耳が僅かに赤く見えた。
向かいでは、赤城だけが私と加賀を見比べ、静かに微笑んでいた。
◆◆◆
昼過ぎ。
私は演習海域で長門と向かい合っていた。
今回は、模擬弾を使用した一対一の艤装戦。長門とは、これまでにも何度か撃ち合っている。
「準備はいいか、土佐」
「ああ」
「では、始めるぞ」
開始の合図と同時に、長門の砲塔が旋回した。
右肩が僅かに開く。視線が私の左側へ向いた。
私は海面を蹴り、右へ踏み出す。直後、左側に水柱が上がった。
「読んだか」
「何度も見てるからな」
反転し、砲塔を長門へ向けて撃つ。
長門は僅かな動きで射線から外れ、すぐに砲塔をこちらへ向けた。
私は回避へ移ろうとする。だが、長門は撃たない。
「……っ」
フェイント。
動きかけた足を止め、逆方向へ重心を切り返す。模擬弾が、直前まで進もうとしていた海面を叩いた。
「それにも対応するか」
「同じ手を何度も食うか」
「なら、これはどうだ」
長門が距離を詰める。砲撃による水飛沫が視界を覆う。
私は直前に見た砲塔の向きと、長門の速度から位置を予測した。
左。
水飛沫の向こうに、長門の艤装が現れる。すでに次弾の照準へ入っていたが、こちらの砲塔も向いていた。
「そこだ」
轟音。
放った模擬弾が、長門の艤装へ命中する。
「……やるな」
長門の身体が僅かに揺れた。
私は思わず口元を緩める。
「一本」
「嬉しそうだな」
「そりゃ嬉しいさ」
長門も楽しそうに笑った。
「少し、本気でやってもよさそうだ」
「最初からそうしろ」
「言うようになったな」
長門の纏う空気が変わった。
先ほどより速い砲撃。一発目で進路を制限し、二発目を回避先へ置いてくる。
私は速度を落とし、着弾の間へ身体を滑り込ませた。姿勢を崩さず、撃ち返す。
長門は回避する。その動きを追い、次弾を放つ。
当たらない。だが、先ほどよりも近い。
あと少し。
もう一歩踏み込めば届く。
そう思い、攻め続けた。
しかし、長門は崩れない。私が踏み込めば距離を取り、離れれば追ってくる。決定的な雙を見せないまま、正面から撃ち合い続ける。
気づけば、呼吸が荒くなっていた。
脚が重い。砲塔の旋回も、最初より僅かに鈍くなっている。
一方、長門の動きは大きく変わっていない。
いや。
最初から、こうなるように動かされていた。
「……体力を使わせたな」
「気づいたか」
「……性格悪いな」
「戦場で、相手がお前に付き合ってくれると思うか?」
「思わない」
「なら、これも訓練だ」
長門の言うことは正しい。正しいからこそ腹が立つ。
「続けるか?」
「まだやれる」
私は砲塔を長門へ向け直した。
長門は止めなかった。
「なら、来い」
再び砲声が響く。
避ける。撃ち返す。外れる。呼吸を整える暇もなく、次の砲撃が来る。
あと一歩。
今度こそ届く。
そう思って砲塔を旋回させる。しかし、照準が僅かに遅れた。
私の砲口が長門を捉えるより先に、その模擬弾が艤装へ命中した。
直後、演習終了の合図が海上へ響く。
「……負けた」
「最後までよく食らいついたな」
「次は、長期戦になる前に決める」
「もう次のことを考えているのか」
「当然だ」
長門は一瞬だけ目を丸くし、それから声を上げて笑った。
◆◆◆
岸へ戻り、艤装を解除する。背中から重量が消えた瞬間、身体から一気に力が抜けた。
近くのベンチまで歩き、腰を下ろす。
「……疲れた」
長門が少し意外そうにこちらを見た。
「珍しいな」
「何が」
「お前が素直に疲れたと言うのがだ」
「……疲れたものは仕方ないだろ」
「そうだな」
長門は演習海域へ視線を向けた。
「戦い方が馴染んできたな」
「負けたぞ」
「勝敗だけの話ではない」
「……そうか」
「ああ。ただし、目の前の一撃に執着しすぎるところは直せ」
「……分かってる」
「本当に分かっているか?」
「今、分かった」
「なら忘れるな」
厳しい言葉だったが、長門の表情は穏やかだった。
そのとき、岸の方から足音が近づいてきた。
「……ちょっと、土佐?」
顔を上げる。陸奥が呆れたような顔で立っていた。
「陸奥……」
「何、その状態」
「長門が強かった」
「見れば分かるわよ」
陸奥の視線が長門へ移った。
「少しやりすぎた」
「少し?」
「本人がやると言ったのでな」
「長門」
「何だ」
「後で話しましょうか」
陸奥は笑っていたが、その目は笑っていない。
長門は一瞬だけ黙り、視線を逸らした。
「……私は先に戻る」
「逃げたな」
「逃げたわね」
「戦術的撤退だ」
そう言い残し、長門は早足で歩いていった。やがて、その足音も聞こえなくなる。
岸辺に残ったのは、私と陸奥だけだった。
「ほら、水」
「……ありがとう」
「一気に飲まないの」
「分かってる」
陸奥は私の隣へ腰を下ろすと、持っていたタオルを広げた。額へ柔らかな感触が触れる。
「自分でできるぞ」
「知ってるわよ」
陸奥は構わず、頬や首筋の汗を拭っていく。
「でも今日は、私にやらせて」
「…………」
「嫌?」
「……いや」
「なら、おとなしくしていなさい」
乱れた前髪をタオルで拭き、そのまま指先で整えられる。
陸奥の手が、そのまま私の頭を撫でた。
「よく頑張りました」
「……子供じゃないぞ」
「知ってる」
「なら……」
「じゃあ、やめる?」
陸奥の手が離れかける。
考えるより先に、その手首を掴んでいた。
陸奥が目を丸くする。
「……いや」
「ふふ」
「笑うな」
「ごめんなさい」
陸奥の手は再び頭へ戻ってきた。
「もう少し?」
「……ああ」
目を閉じる。
演習で張り詰めていたものが、頭を撫でられるたびにほどけていく。
「……姉さん」
自然に、その言葉が出た。
陸奥の手が止まる。
「……何?」
その声は、ほんの少し上擦っていた。
「もう少し、このままで」
「…………」
「駄目か?」
「……駄目なわけないでしょう」
止まっていた手が、再び私の髪を撫で始める。先ほどよりも、さらに優しい。
私は安心したように目を閉じた。
一方で陸奥は、私に悟られないよう小さく息を整えていた。頬が僅かに赤くなっていることにも、私は気づかなかった。
◆◆◆
少し回復した後、私は自室へ戻ることにした。
廊下を歩きながら、ふと思う。
陸奥には言えた。
何も考えなかった。疲れていたからかもしれない。気を許していたからかもしれない。
それでも、「姉さん」と自然に口から出た。
なのに、加賀を前にすると言えない。
加賀が私を妹として見ていることは、もう分かっている。それでも、同じ言葉が出てこない。
「……何故だろうな」
考えても答えは見つからなかった。
そのとき、廊下の向こうから一人の艦娘が駆けてきた。
「土佐さん。提督がお呼びです」
「……今からか」
「はい」
「分かった」
疲れの残る身体で、そのまま執務室へ向かった。
三度ノックする。
「土佐です」
「入れ」
「失礼する」
扉を開ける。
提督の執務机の前には、すでに加賀が立っていた。
「土佐」
「加賀」
顔を合わせた瞬間、朝のことが頭をよぎる。弓を引く姿。肩と肘へ触れた指。襟元を整えられたときの距離。
そして先ほど、陸奥へ自然に「姉さん」と言えたこと。
それでも、加賀に向かってその言葉は出なかった。
「揃ったな」
提督が机の上へ一枚の編成表を置いた。
「明日、この編成で出撃してもらう」
私は加賀と並び、その内容へ目を落とす。
旗艦、正規空母――加賀。
軽空母――鳳翔。
戦艦――土佐。
重巡洋艦――足柄。
軽巡洋艦――神通。
駆逐艦――時雨。
「近海哨戒ですか?」
加賀が尋ねる。
「ああ。敵艦隊の活動が活発になっている海域を確認してもらう。交戦の可能性もあるが、現時点では通常の哨戒任務だ」
「分かりました」
加賀が静かに頗いた。
私も、そこに並ぶ名前を確認する。
鳳翔、足柄、時雨とは、これまでにも言葉を交わしたことがある。
神通の名前も知っていた。
初出撃を共にし、その後も何度か演習で顔を合わせた川内。その妹として、以前から話には聞いている。
――うちの妹と、話が合いそう。
食堂で川内にそう言われたことを思い出す。
まだ神通本人とは、ゆっくり話したことがない。だが、川内がそう言うのなら、どこか自分と似たところがあるのかもしれない。
編成表へ並んだ名前をもう一度眺める。
その中でも、旗艦として先頭に記された加賀の名前だけが、妙に目へ残った。
「土佐」
呼ばれて顔を上げる。加賀がこちらを見ていた。
「明日は私の指揮に従ってもらいます」
「ああ。よろしく頼む」
「ええ」
加賀が静かに頗く。
「任せなさい」
迷いのない声だった。
明日は、この人の指揮下で海へ出る。
私を妹だと言った人。
それなのに、私はまだ姉とは呼べない。
その加賀とともに。
私は再び、戦場へ向かう。