香港。とある料理店の個室。
よほどの金満家でないと年に一度の祝い事でも無い限り訪れること無く。そして、訪れたとしてもその不釣り合いさから店員から丁寧な笑みで馬鹿にされる高級料理店に、男と女は今月三回目の訪問をしていた。
その料理店は、表向きこそ真っ当な店ということになっているが。香港で一定以上の事情通であれば、そこが香港
そこの個室を予約も無く貸切にした男女が、一般人のはずがない。
男は壮年。齢を重ねながらも、身に生命力が満ち満ちていることを感じさせる溌溂なる顔つき。顔には、知性を示すメガネをかけている。着ているのは
女は、まだ少女と言って良い年頃。均整の取れた美しい肢体を包むのは青みががった上品な
二人の前に供されているのは、小鳩を燻製した料理であった。
骨付きのそれを、男は上品に箸で、女の側は上品に見えるように苦戦して口に運んでいた。
女は思う。とても美味しいと。だが、表情は硬かった。心のままに顔をほころばせてしまえば、自分はとても品の無い顔つきになってしまうだろうと。
「有名店から引き抜いたシェフに作らせた
「そのようなことは。大変に美味しいです」
本心から言った。だが、女の表情は硬いままである。
乳鴿——小鳩の柔らかい肉が、
女が。かつての女であれば、絶対に口にできなかったろう料理。あまりにも美味すぎて、逆に、身体が固くなってしまう。
女の硬い表情を見て、男は微笑んだ。
「おまえは
「そのような」
女は言われて、笑顔を作ってみせた。なるべく、上品に見えるように。必死に覚えた史記の内容から、この場にふさわしい女としての受け答えをひねり出す。
笑わぬ美女。褒姒。悪女としても有名であり、一般的に褒姒になぞらえられることは何らかの含意があった。西周の幽王は彼女の笑みを見たいがばかりに、無駄に兵を奔らせ、結果として国は滅んだ。傾国の美女である。
「慌てた《眷属》の顔など、見たくもありませんわ」
「ふむ。わたしはお前のためならば、愚かなる《魔王》と言われて構わんが。——とまれ、せめて歴史に名は残したいな」
「
女は思う。何か、適切な史書はあるだろうか。思いつかなかった。自分が所詮は卑しい出なのだと思い知らされる瞬間。
「歴史に残りましょう。すでの十分な功績を打ち立てた方です」
「嬉しいことを言ってくれる」
女の答えに、男は微笑んでくれた。女はほっと息をなでおろす。愚かな女だと思われ——捨てられたくない。
男。
女の側は、男の数多い愛人の一人である。同時に、もっとも気に入られている愛人の一人でもあった。寝台に呼ばれる回数は、週に三度を超える。
黒い髪と青い瞳の少女。そればかりを男は求めた。
女は思う。自分の若さが失われたらば。捨てられてしまうだろうか。それは嫌だった。男の心にどうにか残りたい。今の生活を捨てたくない。元の暮らしに戻りたくない。あの、母とともに過ごした日々には。
そんな打算とともに。どうしようもなく女は
立場からくる男の重圧が自分の中に解放される瞬間が、女は好きだった。
その想いを、自分はどれほど、男に伝えられているだろうかと女は思う。
「おまえが最後に、朗らかに笑ってくれたのはいつのことだったろうね」
男は何かを思い出す仕草をする。女もまた追想する。母に。はした金欲しさに母によって
その中での、輝かしい記憶といえば。
「そうだ。
「恥ずかしいです、その思い出は」
女の追想と、男の言葉が一致する。
香港の町中にある屋台で売られる鶏蛋仔は、起源こそ香港に無いものの「香港版ワッフル」とでも言うべきもので。広く愛され、多く食されている。——そんなものすら、女はかつて口にしたことが無かった。惨めな、母との生活の間は。
「あのときの、晴れるようなお前の笑顔! また見たいものだ」
「いつでも。鶏蛋仔を差し出してくれた
女は叶う限りの語彙をもって、男への想いをそこに込めた。ああ、どうしてこんな、平凡なことしか言えないのだ、わたしは。そう、忸怩たる思いも重ねながら。
「
だが、男は心底嬉しいとばかりに、呵々大笑してくれた。嬉しそうに嬉しそうに笑って、店内の照明が男のメガネに何度も反射した。
いつも身につけている、チェーン付きのロケットを撫でながら、男は笑った。
それを見て、女は笑った。
とても、女も嬉しくて。
晴れやかに、笑った。
——————
見つけたのは女だった。
偉大な男は首を吊って死んでいた。
ブラリブラリと揺れる男の身体。
筋肉が弛緩したことで、糞尿が垂れ流された、男の身体。
呆然としながらも、偉大な男をそのままにしてはおけぬと。女は
そこで、女は。ああ。魔が差してしまった。死んだ男の。偉大な男の。
いつも気になっていた、ロケットの中に何が収められているのか気になっていたそれを。開いてしまった。
そこで、女の人生は決定づけられた。
ロケットの中には、一人の少女が微笑んでいた。
黒い髪。青い瞳。女とよく似た面差しで、女とは確実に違う顔。
女の母。
女の母の、若い頃の写真。
その瞬間に、女の心は。嫉妬と、怒りと、憎悪と、嫉妬と、嫉妬、嫉妬!
それだけに染まった。
ロケットを女は自分のポケットへと入れた。
次いで、机の上にあるものを見た。
それは手紙だった。そのときには分かった。それが死の原因だと。
DNA鑑定の結果とともに。手紙が一通。
「あなたの子。
それが母の筆跡であると。女には分かった。
それが、理由定かでない。男を死に追いやるための。
女を使った、策謀だと分かった。
母への怒りが、女を満たした。
同時、母への嫉妬が、女を狂わせた。
だってそうだろう。偉大な
大好きな
お父さん、
わたしは母の、代わりでしかなかったのか!?
女は、追い詰めると決めた。
男の引き出しにある、ひとつの圧力注射器を躊躇いも無く首筋に押し当て、使った。
エーテル・エフェクト・エンハウンサー。
肉体を強化し、エーテル知覚と呼ばれる超常の能力を人間に与える薬剤。
女は望んだ。母を追い詰めるための能力を。
あの売女の臭いをどこまでも辿り、必ず殺すと
糞便の臭い満ちる部屋の中で思い、望んだ。
エーテル知覚はそれに応えた。
女は、臭いを辿る知覚を得た。
魔王としての当然の嗜みとして、男が携えていた剣を女は握った。
片刃の曲刀。先端は両刃となっていて、裏刃も使える剣を握った。
そして、追った。
男の部屋に火をかけて。男の醜聞を消し去り、男の最期の姿を自分だけのものにして、追った。
母は、別の
それを殺すために、女は多くの《眷属》と、幾人かの《魔王》を殺さねばならなかった。女の居場所は香港からなくなりつつあった。問題なかった。母さえ殺せれば。
そしてついに、女は母を殺した。
その時だけは、女は父の剣を使わなかった。
母に父の剣を挿し込むのは嫌だった。
左手で強く、頸を絞めて殺した。家禽を屠すように。
醜く歪む母の顔! こんな女、誰も愛すまい。
事切れた醜い母の死に顔を見て。
女に湧き上がるのは、喜びだった。
思い出したのは、
男がくれた、
もしも男が、生きていたなら。
母が死んだ、いまとなっては。
自分しかいないのだから。
ついに、
もういない、
——————
乱用した《E3》がもたらす至福の中で、レヴィは過去を思い起こしていた。
母を殺した瞬間の高揚。父と身体を交わらせていたときの至福。
《E3》が与えてくれる過去の幻だけが、女の喜びで。そのために、《E3》を買うためだけに、レヴィは《魔王》の狗をやっていた。
「きいてる? グニャッとしてるのもかわいいね♥」
心地よい幻の中に、小うるさい声が紛れ込んでくる。
レヴィはその雑音を、刺した。
IF番外編・傭われの走狗の追走
完