しばらく海を眺めていたところで、大した問題ではないと思っていた。
少年は隣に座ったまま、珍しく静かだった。
普段なら十分も黙っていれば自分から何か話し始めるし、まして今日は初めての自分のバイクで走った日なのだから、まだ言いたいことはいくらでもあるはずだ。それなのに先ほどから海ばかり見ていて、ときどき砂を指先で弄っている。
「少年」
「なんだよ」
「腹でも痛いのか」
「なんでだよ」
「妙に静かだからな」
「オレだって静かなときくらいある」
「そうか」
「あるって」
少し間が空いた。
やはり何かあるらしい。
こちらから無理に聞き出すほどのことでもないので、海へ視線を戻す。
波が寄せては引いていく。
遠くでは海鳥が飛んでいる。
「……なあ、姉ちゃん」
「なんだ」
「最近さ、友達が付き合い始めたんだよ」
「そうなのか」
「同級生同士で。片方がずっと好きだったらしくてさ」
「ふむ」
「で、ちゃんと告白して付き合った」
「めでたい話だな」
「まあな」
少年が少し笑った。
「それ見てて、ちょっと思ったんだよ」
「何を」
「言わねえと分かんねえことってあるんだなって」
「それはそうだろう」
「……姉ちゃんはそういうの、さらっと言うよな」
「言葉にしなければ他人の頭の中は分からん」
「そうなんだけどよ」
少年はまた黙った。
どうも先ほどから歯切れが悪い。
「それだけか」
「いや」
「では続けろ」
「簡単に言うなよ……」
「話し始めたのは少年だろう」
「分かってるって」
大きく息を吐く。
レースのスタート前でも、こんな顔はあまり見なかった気がする。
「オレさ」
「うん」
「小さい頃から姉ちゃんのこと、ずっとカッケえと思ってた」
「知っている」
「いや、そこは知ってるだろうけど!」
「何度も言われたからな」
「そうじゃなくて……」
少年が頭を掻く。
「最初に会ったときもそうだった」
「迷子だったときか」
「迷子じゃねえ!」
「まだ言うか」
「姉ちゃんこそまだ言うのかよ!」
「事実だからな」
「ちょっと道が分かんなくなってただけだ!」
「それを迷子と言う」
「話進まねえだろ!」
「それもそうだな」
少年がこちらを睨む。
少しだけいつもの調子に戻った。
「……で、姉ちゃんがバイク乗っててさ。家まで送ってもらって、すげえカッケえと思った」
「ああ」
「でっけえバイク乗って、自分で直して、知らねえガキが困ってたら普通に拾って家まで送って」
「放っておけなかっただけだ」
「そういうとこも」
「そうか」
「それでずっと姉ちゃんみたいになりたかった」
これは初耳ではない。
少年は昔から、いつか自分もバイクへ乗ると言っていた。
大きいバイクがいい。
自分で整備できるようになりたい。
一人で遠くまで走りたい。
そのたび私は適当に聞いていたが、本人の中ではかなり真剣だったらしい。
「レース始めてからもさ」
「うん」
「勝ったら、姉ちゃんに見てほしかった」
「見ていたぞ」
「知ってる。あとで聞いたら大体見てるから」
「見られるときはな」
「だから、勝ったら聞きたかったんだよ。カッケえって思ったか」
「なるほど」
「他の奴に言われるのと、ちょっと違ったんだ」
「どう違う」
「そこはオレも最近まで分かんなかった」
少年が膝を立て、その上に腕を置く。
「昔は、姉ちゃんみたいになりたいからだと思ってた。でも途中から違ったんだと思う」
「違った?」
「ああ」
こちらを見る。
「姉ちゃんみたいになりたいんじゃなくて、姉ちゃんに格好いいって思われたかった」
「…………」
少し意味が変わってきた。
「今日だってそうだ」
「今日?」
「自分でバイク乗れるのはずっと楽しみだった。でも姉ちゃんが後ろから見てるって思うと、それも嬉しかった」
「ミラーを見すぎていたな」
「それ今言うなよ!」
「事実だ」
「……ちゃんといたら安心したんだよ」
「私は消えん」
「分かってるけどさ」
少年は少し笑う。
「自分のバイクで走れるようになっても、姉ちゃんと走りたいって思った」
「それはさっき聞いたな」
「バイクだけじゃなくて」
「うん」
「これからレースしなくなっても、普通に会いたいし。なんかあったら話したいし。姉ちゃんが他の奴とばっか遊んでたら嫌だし」
「随分勝手だな」
「分かってる」
「自覚はあるのか」
「あるよ」
そして今度こそ、少年はまっすぐこちらを見た。
「だから、ちゃんと言う」
「うん」
「オレ、姉ちゃんが好きだ」
「…………」
「憧れてるって意味じゃなくて」
一度、息を吸う。
「女として好きだ。付き合ってほしい」
波の音が妙に大きく聞こえた。
なるほど。
そういう話だったか。
「……困ったな」
「やっぱダメか?」
少年の耳が少し下がる。
「いや」
「じゃあいいのか?」
「それも違う」
「どっちだよ」
「だから困っている」
私は海を見る。
嫌なら話は簡単だった。
少年は昔拾った子供で、そういう対象には見られない。
そう言って終わればいい。
だが、実際にはそうでもない。
好かれて不快ではない。
むしろ嬉しい。
自分でも思っていた以上に。
「少年」
「だから今それで呼ぶなよ……」
「大事な話だからこそ呼んでいる」
「…………」
「私はお前に好かれて、嫌ではない」
「……おう」
「嬉しくもある」
少年の耳が上がった。
「じゃあ――」
「最後まで聞け」
「……おう」
「ただし、付き合うつもりはない」
「なんでだよ」
「理由はいくつかある」
「聞く」
すぐに返された。
「まず少年は未成年だ」
「……やっぱそこかよ」
「そこは大きい」
「オレもう十六だぞ」
「十六だから未成年なのだろう」
「もう子供じゃねえ」
「それは知っている」
今日一日見ただけでも分かる。
自分で考えられる。
危険なこととそうでないことも判断できる。
トゥインクル・シリーズという世界で何年も走り、大勢から期待され、その中で自分の進路まで決めて引退した。
昔の子供と同じだと思っているわけではない。
それでも。
「大人ではない」
「…………」
「少なくとも、私から見ればな」
「姉ちゃんが年上すぎんだろ」
「否定はしない」
「自覚あんのかよ」
「ある」
少年が少しだけ笑った。
すぐに真面目な顔へ戻る。
「年齢差が嫌なのか?」
「それだけではない。少年がもっと大人になって、それでも私がいいと言うなら、年齢そのものは大した問題ではない」
「じゃあ」
「今は駄目だ」
「……頑固だな」
「よく言われる」
「オレに?」
「特に少年にな」
「そりゃ言うよ」
砂浜へ手をつき、少年が空を仰ぐ。
「他は?」
「うん?」
「理由いくつかあるんだろ」
「ああ」
「全部聞く」
逃げるつもりはないらしい。
「自分が何者か分かっているか」
「ウオッカ」
「そういう話ではない」
「じゃあ競走ウマ娘?」
「引退したがな」
「元競走ウマ娘」
「少年」
「なんだよ」
「お前は随分有名だぞ」
「知ってる」
「本当に分かっているか」
「さすがに分かってるって」
「GⅠをいくつも勝って、歴史に残ると言われている。引退したからといって明日から普通の学生に戻れるわけでもない。街へ出れば顔を知られているし、これから先も仕事はいくらでも来るだろう」
「まあ」
「私は場末の整備工だ」
少年の眉が動いた。
「荷物を運んで、バイクを直して、一日働いて飯を食う。それで満足しているし、この仕事を恥じたこともない」
「ならいいじゃん」
「私自身はな」
「じゃあ何が問題なんだよ」
「釣り合ってはいないだろう」
「…………は?」
明らかに不機嫌になった。
「何だ、その顔は」
「姉ちゃん、バカなの?」
「いきなりだな」
「だってそうだろ! なんでそこで勝ったレースの数とか仕事とか関係あんだよ!」
「世間では関係する」
「世間と付き合うわけじゃねえ!」
予想していた反応ではある。
「少年はそう思っても、周囲までそうとは限らん」
「だから?」
「仮に付き合えば騒がれるかもしれない。私のところに記者が来るかもしれないし、少年のファンから何か言われるかもしれない。少年自身も、今までなら考えなくてよかったことを考える必要が出る」
「それくらい考える」
「今はそう言える」
「またそれかよ」
「またそれだ」
「オレがガキだから分かってねえって?」
「そこまで馬鹿にしてはいない。ただ、お前はこれから今までよりずっと自由になる」
「…………」
「レース中心の生活が終わった。行ったことのない場所へ行ける。今まで関わらなかった人間とも会える。仕事だって何をするか決めていないだろう」
「うん」
「その中で、もっと好きな相手ができるかもしれない」
「できねえよ」
「今はそう思っているだろう」
「今だけじゃねえ」
「それを確認する時間くらいあっていい」
「…………」
少年が口を尖らせる。
納得はしていない。
当然だろう。
ただ、ここで納得させる必要もない。
「別に、少年の気持ちを軽く見ているわけではない」
「だったら付き合えよ」
「それとこれとは別だ」
「大人って面倒くせえな」
「そうだな」
「否定しろよ」
「実際面倒だからな」
少年が深くため息をついた。
「……でもさ」
「うん」
「姉ちゃん、オレが好きって言ったの、嫌じゃなかったんだろ」
「ああ」
「嬉しかったって言った」
「言ったな」
「じゃあ可能性はあんの?」
難しい質問だった。
「今まで考えたことがなかった」
「マジかよ」
「少年は少年だからな」
「だからそれが嫌なんだよ!」
「仕方ないだろう。最初に会ったとき、お前は小さな子供だった」
「今は違う」
「分かっている」
「じゃあ今日から考えろ」
「命令か?」
「……お願い」
急に素直になった。
「少なくとも」
「おう」
「今、お前に告白されて嬉しかったのは本当だ」
「…………」
「だから、絶対にないとは言わん」
少年が固まった。
「どうした」
「いや……」
「うん」
「それ言われると、なんか急に恥ずかしくなってきた」
「自分から告白したのにか」
「うるせえ!」
私は少し笑った。
「では、少年」
「なんだよ」
「今日はこれで終わりだ」
「終わり?」
「告白の話はな」
「待てよ」
「待たん」
「まだ決着ついてねえだろ!」
「ついた。今は付き合わない」
「……今は?」
「そこへ食いつくか」
「当たり前だろ」
少年が考え込む。
しばらく黙ったあと、何か思いついたらしく顔を上げた。
「じゃあ卒業したら」
「うん?」
「卒業したら、もう一回告白する」
「…………」
「それならいいだろ」
「何が」
「今すぐ付き合えとは言わねえ」
「ほう」
「姉ちゃんがオレを未成年だから駄目だって言うなら、待つ」
「卒業しただけでは急に何もかも変わるわけではないぞ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって!」
今日は何度も同じことを言われている。
「でも、卒業するまで待つ。その間にオレも色々考える」
「うん」
「姉ちゃんが言ってるみたいに、もっといろんな奴にも会う」
「ああ」
「それでも姉ちゃんが好きだったら」
少年がこちらを見る。
「もう一回言う」
「…………」
「そのときはちゃんと返事聞かせろ」
「今も返事はしただろう」
「今は未成年だから駄目って返事だろ」
「それも返事だ」
「そういう屁理屈じゃなくて!」
「では、何が聞きたい」
「オレと付き合いたいか、付き合いたくないか」
「…………」
「そのときは、少年だからって逃げんなよ」
思わず少し笑った。
「逃げているつもりはない」
「じゃあ約束」
「同じ気持ちだったら、だぞ」
「同じだって」
「未来のお前に聞け」
「オレだよ!」
「未来の少年もな」
「面倒くせえ!」
「大人だからな」
「便利に使うなよ、それ!」
少年が笑う。
私も笑った。
「分かった」
「何が?」
「卒業したあと、それでも同じ気持ちなら、もう一度聞こう」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「姉ちゃんもちゃんと考える?」
「考える」
「約束な」
「ああ」
少年が小指を差し出した。
「……何だ」
「約束」
「子供か」
「こういうのはちゃんと形にすんだよ!」
「少年だな」
「今はそれでいい!」
「いいのか」
「今回だけ!」
仕方なく小指を絡める。
「卒業したら、もう一回言う」
「ああ」
「そのとき逃げんなよ」
「逃げない」
「場末の整備工だからとかもなし」
「それは状況次第だ」
「なし!」
「横暴だな」
「姉ちゃんが変なこと言うからだろ」
「では、少年がそのとき本当に私を選ぶなら、私もそれを理由にはしない」
「よし」
「満足か」
「まあまあ」
「随分偉そうだな」
「告白断られたんだから、これくらいいいだろ」
「それもそうか」
指を離す。
少年は思っていたよりずっと晴れやかな顔をしていた。
「もっと落ち込むかと思った」
「そりゃちょっとはショックだよ」
「そうなのか」
「当たり前だろ!」
「そうか」
「でも嫌だって言われたわけじゃねえし」
「それは言っていないな」
「待ったらもう一回聞けるし」
「気持ちが変わらなければな」
「変わんねえって」
「未来は分からん」
「姉ちゃんも変わんなよ」
「それは約束できんな」
「えっ」
「その間に私にも好きな相手ができる可能性はある」
「…………」
少年の耳がぺたりと伏せた。
「姉ちゃん」
「なんだ」
「それ禁止」
「無茶を言うな」
「卒業まで待つんだから、そのくらい」
「少年の都合だろう」
「……じゃあできれば」
「急に弱くなったな」
「仕方ねえだろ!」
笑ってしまった。
「善処する」
「それ一番信用できねえ言い方だろ!」
「では約束しない」
「善処でいい!」
「どっちだ」
「姉ちゃんが意地悪なんだよ!」
少年が砂を払って立ち上がる。
「帰る?」
「そうだな。初日に暗くなるまで走らせるのは嫌だ」
「分かった」
私も立つ。
駐車場へ向かって二人で歩く。
少し前までと同じ距離だ。
少年は少年で、私は姉ちゃん。
何も変わっていないようにも思える。
「姉ちゃん」
「なんだ」
「今日、言ってよかった」
「そうか」
「ずっと考えてたから」
「いつから」
「それは秘密」
「そうか」
「卒業したら教えてやる」
「覚えていたらな」
「絶対覚えてる」
二台のバイクが見えてくる。
少年の四百と、私の大型。
朝と同じように並んでいる。
「少年」
「なんだよ」
「今日は格好よかったぞ」
「…………」
「運転も、告白も」
「おまっ……」
「何だ」
「今それ言うか普通!?」
「今思ったからな」
「そういうとこだよ!」
「何が」
「なんでもねえ!」
少し速足になっている。
「少年」
「なんだよ!」
「走ると砂で滑るぞ」
「走ってねえ!」
「そうか」
「早く来い、姉ちゃん!」
「ああ」
最後まで、少年と姉ちゃん。
それでいい。
少なくとも、今は。
少年が先に駐車場を出る。
私は少し距離を空けて、その後ろへ続いた。
しばらく走ったところで、少年が一度だけミラーを見る。
目が合った。
朝なら前を見ろと言ったところだが、今度は何も言わなかった。
少年は少しだけ笑って、すぐ前を向く。
卒業したあとも、同じように私を振り返るのか。
そのとき私は、この少年を何と呼んでいるのか。
今考える必要はない。
その答えは、もう少し先でいい。
今はただ、少年の後ろを走って帰ろうと思った。