木曜日。
ボクは鏡の前で、三回目の確認をしていた。
襟、よし。袖、よし。胸元のリボン、たぶんよし。背中のリボンについては、腕と首をかなり不自然な方向へ曲げて確認した結果、一応それらしい形にはなっている。
青い生地に黒いレース。ふんわりと広がるスカートの裾には、これでもかとフリルがついている。
何度見ても、女の子の服だった。
いや、ボクも今は女の子なのだが。そういう分類上の話ではなく、着る本人にも相応のかわいらしさを要求してきそうな服なのだ。
ボクは試しに、鏡へ向かって少し笑ってみた。
やめた。
配信で愛想よく笑うのとは、何かが違う。部屋で一人、フリフリの服を着て笑顔の練習をしているという事実が、猛烈に恥ずかしい。
「……何やってるんだろう、ボク」
時刻を確認する。
まだ少し早い。
しかし、ここにいても鏡を見る回数が増えるだけだ。ボクは財布とスマホを鞄へ入れ、覚悟を決めて部屋を出た。
歩くたびに、スカートが揺れる。
制服のスカートなんて毎日履いてきた。勝負服だって、何万人もの観客の前で着て走った。
それなのに、シービー一人に会いに行くためのこの服は、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
寮の廊下で、知り合いとすれ違った。
「あれ、シグレ? かわいい服着てるね」
「……どうも」
「お出かけ?」
「映画」
「楽しんできてね」
普通の会話だ。
別に何も追及されていない。それなのに、ボクは逃げるように足を速めていた。
通りかかった窓に、自分の姿が映る。青いフリルがひらひらしている。
今から戻って着替えることもできる。
できるが、そうしたら、あの服はどうしたのかと聞かれるかもしれない。
いや、聞かれないかもしれない。
何しろ、今日着るとは伝えていないのだから。
……でも、きっと喜ぶのだろうな。
ボクは鞄を持ち直して、そのまま学園の門を出た。
◇
駅前へ着くと、シービーはまだ来ていなかった。
時計を見る。約束の十分前。
前回もボクが先だったし、普段から待ち合わせは大体こうだ。彼女が時間どおりに現れれば、それで十分に優秀である。
問題は、この格好で十分間、一人で立っていなければならないことだった。
壁際へ寄り、スマホを取り出す。
特に確認するものもないのに、画面を眺めた。スカートの裾が気になって一度直し、直しているところを見られるのも恥ずかしくなって、手を引っ込める。
GⅠのパドックより落ち着かない。
あちらは走る前なので、緊張していても説明がつく。今のボクは、映画を見に来ただけの暇な引退ウマ娘だ。
「おハナちゃん」
声がして、顔を上げた。
こちらへ歩いてきたシービーが、ボクを見て少し足を緩める。
その視線が、胸元のリボンから、スカートの裾へ下がった。それから、もう一度ボクの顔へ戻ってくる。
「着てきてくれたんだ」
「……買ってもらったからね」
「うん」
うれしそうだった。
こちらが用意してきた言い訳を、続ける必要がなくなるくらいに。
「すごくかわいい」
「試着のときも見たでしょ」
「今日、着て来てくれたのがうれしいんだ」
ボクはスマホを鞄へしまった。
少し手間取った。
鞄の口がいつもより狭い気がする。そんなわけはないのだが。
「……もう行こう。ここ、人多いし」
「うん。待たせちゃった?」
「ボクが早く来ただけ」
「そっか。ありがと」
シービーがボクの手を取った。
歩き始めても、何度かこちらを見る。
「前見て歩きなよ」
「見てるよ」
「今、こっち見てた」
「おハナちゃんも見てる」
両立できると主張されてしまった。
ボクは正面を向き、少しだけ早足になる。
シービーは何も言わずについてきたが、つないだ手を軽く揺らしている。やけに機嫌がいい。
「後ろのリボン、自分で結べた?」
「結べたよ。ボクだってそのくらいできる」
「うん」
「……少し曲がってるかもしれないけど」
「あとで見てあげるね」
何だか、うまいことお願いしてしまった気がする。
ボクは彼女を見ないまま、小さくうなずいた。
◇
「ポップコーン、何味にする?」
映画館の売店で、ボクはメニューを見上げた。
約束どおり、今日はボクがおごる番である。
「おハナちゃんは?」
「塩」
「じゃあ、アタシはキャラメル」
「意見が割れたね」
「半分ずつのあるよ」
「人間の叡智はすばらしいね」
ハーフ&ハーフの一番大きなサイズを頼むと、なかなか立派な容器が出てきた。
これなら上映中に尽きることはないだろう。ボクは満足して代金を払い、飲み物と一緒にトレーを受け取る。
「こういうの、底の方に味の濃いやつがたまってるんだよね」
「先に混ぜる?」
「それをすると塩とキャラメルの国境が消える」
「一緒に食べてもおいしそうだけど」
「せっかく平和的に二分割したのに、いきなり併合するんじゃないよ」
シービーがくすくす笑った。
こういう話をしている分には、何も困らない。ボクはトレーを持ち直し、入場までの時間を確認した。
今日見る映画は、『春を待たずに』という。
地方の港町を舞台にした、二人のウマ娘の物語だ。
予告編では、仕事を辞めて故郷へ帰ってきた主人公と、地元に残って小さな食堂を営む幼なじみが、海沿いの道を歩いたり、古い車で遠出したりしていた。
景色がきれいで、掛け合いも軽快だった。何より、二人で食べていた魚料理がやたらおいしそうだったので、気になっていたのだ。
「これ、海の見えるお店が出てくるやつだよね」
「うん」
「あの煮魚、絶対おいしいと思う」
「おハナちゃん、そこ覚えてたんだ」
「大事なところだから」
館内のポスターを、改めて眺める。
二人のウマ娘が、冬の海を背景に並んでいた。片方がもう片方の肩へ寄りかかっている。
その上に、文字。
――友達のままでは、帰せない。
ボクは足を止めた。
「……あれ」
「どうしたの?」
「この映画、こういう感じなんだ」
「恋愛ものだよね」
「そうなんだ」
そうなんだ。
ボクは、もっとこう、人生に疲れた大人が故郷でおいしいものを食べ、友達と再出発する話だと思っていた。
もちろん、恋愛要素があってもおかしくはない。ただ、想定よりずっと前面に出ている。
「別の映画にする?」
「いや、見たかったのは本当だし。いいよ」
チケットも買った。ポップコーンも買った。
恋愛映画だからという理由で逃げるほど、ボクは子供ではない。
そう、映画である。
ボク自身に何かが起こるわけではないのだ。
◇
入場して席へ向かう途中、シービーに背中のリボンを直してもらった。
自分ではそれなりに結べたつもりだったが、左右の大きさが違っていたらしい。
「はい、できた」
「ありがと」
「うん。かわいい」
最後の感想は必要なのだろうか。
ボクは曖昧にうなずき、席へ座った。フリルを潰さないよう裾を整え、尻尾を座席の脇へ逃がす。
隣へ座ったシービーが、二人の間へポップコーンを置いた。
「塩、こっちね」
「うん」
飲み物はそれぞれの外側。
内側の肘掛けは、一つ。
なるほど。こういう構造だったか。
ボクは一つ食べた。シービーも一つ食べた。
ほどなく館内の照明が落ち、スクリーンが明るくなる。
映画に集中しよう。
せっかくお金を払ったのだから、隅から隅まで楽しむべきだ。
最初の二十分くらいは、実際そのつもりで楽しめていた。
会社を辞め、久しぶりに故郷へ帰ってきた主人公は、幼なじみの食堂へ転がり込む。
接客を手伝えば注文を間違え、魚をさばけば妙に食べるところが減る。そのたびに店主の幼なじみが呆れ、二人で言い合いになる。
会話の間がよく、館内でも何度か笑いが起きた。
ボクも笑った。
隣でシービーも笑っていた。
問題は、その先だった。
店を閉めた後、二人が並んで夕飯を食べる場面。
主人公の口元についたご飯粒を、幼なじみが指で取る。
それだけなら、まあ、よくある。
『昔から、あんたは手がかかる』
『嫌なら放っておけばいいのに』
『嫌なら、うちに置いてない』
スクリーンの中で、会話が途切れた。
幼なじみの指が、主人公の頬に少しだけ残る。
主人公は何か言いかけ、結局、黙って味噌汁を飲んだ。
……距離が近い。
予告編で見たときは、もっと気楽な雰囲気だったはずなのに。
いや、今も別に大事件は起きていない。ただ、ご飯を食べているだけだ。
それなのに、妙に落ち着かない。
ボクはポップコーンへ手を伸ばした。
同じタイミングで伸びてきたシービーの指と、触れた。
手が止まる。
彼女がこちらを見た。
暗い中で目が合って、少し笑われた。
何でもない。
単なるお菓子の取り合いだ。
ボクは塩味を一つつかみ、口へ放り込んだ。
キャラメルだった。
国境管理が甘い。
物語が進むにつれ、幼なじみの好意は、観客には隠されなくなっていった。
主人公が寝た後、その脱ぎっぱなしの上着を畳む。
昔、一緒に撮った写真を引き出しから出し、眺めてから戻す。
帰ってきたと連絡を受けた日の場面が挟まれ、電話を切った彼女が、一人でうれしそうに顔を覆う。
好きなのだ。
ずっと。
なのに、主人公は気づいていない。
昔から世話焼きだから。友達だから。自分に遠慮がないから。
そんな理由で、一つ一つを何でもないこととして受け取っている。
……おかしい。
何だか、心当たりのある言い訳が多い。
ボクは少しだけ姿勢を変えた。
シービーの腕と、袖が触れ合った。
反射的に横を見たが、彼女は普通に映画を見ている。スクリーンの光が、横顔を照らしていた。
シービーも、こんなふうに思っていたのだろうか。
ボクが何も知らずにご飯を食べたり、ゲームをしたりしている隣で。
考え始めると、今までの記憶が妙な色に変わっていく。
用事もないのに来た連絡。
気づくと隣にいた休日。
ボクがほかの予定を断って遊びに行くと言ったときの、あの機嫌のよさ。
やめよう。
映画を見に来たのだ。
自分の過去を検証しに来たわけではない。
スクリーンの中では、二人が閉店後の店先に座っていた。
明日は都会へ戻る、と主人公が告げる。
幼なじみは、そう、と短く答えた。
しばらく会話が途切れ、店の軒先につるされた飾りが、風でかすかに鳴る。
そこで、画面が二人の背中へ回った。
幼なじみの尻尾が、そっと動く。
隣に垂れていた主人公の尻尾へ触れ、ためらうように一度離れ、それから、ゆっくりと絡んだ。
主人公が振り向く。
幼なじみは顔を上げない。
『……帰ってほしくない』
絡んだ尻尾が、少しだけ強く相手を抱いた。
ボクは、口へ運びかけたポップコーンを止めた。
尻尾ハグ。
知識としては知っている。親しい相手同士がするものだし、映画やドラマで見ることもある。
ただ、こんなに丁寧に、触れる前の迷いや、触れた後の表情まで映されると、話が違う。
手をつなぐより、ずっと無防備に見えた。
普段は後ろへ流している尻尾を、自分から相手へ寄せる。その動きだけで、帰ってほしくないとか、好きだとか、言葉にできていないものまで伝わってくる。
猛烈に、恥ずかしかった。
いや、ボクが恥ずかしがる場面ではない。
俳優さんは仕事でやっているのだ。観客は黙って物語を受け取ればいい。
わかっているのに、腰の後ろが妙に気になる。
そういえば。
さっきから、何か暖かいような。
ボクは、そっと自分の尻尾へ目を向けた。
座席の間、少し後ろ。
ボクの黒い尻尾が、隣のシービーの尻尾へ、しっかり絡みついていた。
……はい?
見間違いではない。
毛先の青が、彼女の尻尾を巻くように重なっている。
シービーの尻尾は、その中に収まっていた。どう見ても、こちらから寄っていった形だった。
いつから。
いつの間に。
何をやっているんだ、ボクの尻尾は。
慌ててほどこうとして、思ったよりしっかり絡んでいることに気づく。
雑に引いたら、彼女の尻尾まで引っ張ってしまう。ボクは息を詰め、必死にゆっくりと外した。
こんなところで尻尾の操作技術を試されたくなかった。
ようやく離れた自分の尻尾を、反対側へ引き寄せる。
シービーがこちらを見た。
ボクはスクリーンを向いた。
見ていない。
何も起きていない。
ボクは今、映画を鑑賞している。
隣から、ごく小さく息の漏れる音がした。
笑ったな。
今、絶対に笑ったな。
スクリーンの中では、主人公が幼なじみへ体ごと向き直っていた。
尻尾をほどくことなく、彼女の手へ手を重ねる。
『そういう意味で、受け取っていいの?』
よくない。
いや、映画の二人はいい。
ボクの方は、そういう意味ではない。
主人公が近づき、幼なじみの頬へ手を添えた。
ゆっくりと顔が寄る。
キスだった。
ボクは息を止めた。
大きなスクリーンで、二人の表情も、ためらいも、触れるまでのわずかな間も、全部見せられる。
その後ろでは、尻尾がまだ離れていない。
ボクは膝の上で、両手を握り合わせた。
自分の尻尾がどこにあるかも、もう一度確認した。
今、横を見たら、絶対にだめだ。
ボクはスクリーンへ目を固定した。
映画を見に来たのだから、映画を見ている。
何一つ間違っていないはずなのに、心臓だけが、レースのゲートが開く直前以上に高鳴っていた。
◇
エンドロールが終わり、館内が明るくなった。
ボクはゆっくり息を吐いた。
いい映画だった。
それは間違いない。
会話もよかったし、景色もきれいだった。二人が最後に一緒に店を開ける場面も、素直によかったと思う。
ただ、想像よりずっと、恋愛映画だった。
そして途中から、ボク自身にも無視できない問題が発生していた。
「よかったね」
シービーが言った。
ボクはうなずく。
「……うん」
「ポップコーン、結構残っちゃった」
「映画に集中してたから」
「うん」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
それが逆に落ち着かない。
ボクは立ち上がり、裾を整え、尻尾を確認した。ちゃんと自分の後ろにある。
ロビーへ出ても、シービーは普通だった。
ボクの隣を歩き、残ったポップコーンを一つ食べ、おいしかった煮魚の場面の話をする。
こちらだけが、さっきから自分の背後へ意識を向け続けている。
黙っていれば、このまま終わるかもしれない。
しかし、終わったところで、ボクの中の疑問は解消されない。
「……シービー」
「ん?」
「さっきの」
「映画?」
「尻尾」
シービーが、ボクを見た。
その口元が、少しだけ緩む。
「ああ」
「ああ、じゃなくて。その、あれは」
「おハナちゃんからだったよ」
「わかってる。そこは確認できてる」
できているから、困っているのだ。
ボクは声を落とし、周囲に聞こえないよう少し近づいた。
「いつから?」
「映画が始まって、少ししてからかな」
「そんなに前から!?」
「しー。おハナちゃん、声」
慌てて口を閉じた。
通りかかった人が、ちらりとこちらを見た気がする。
「……だったら、教えてよ」
「嫌じゃなかったから」
「ボクが困るんだけど」
「いつもしてくれるし」
ボクは、動きを止めた。
「……いつも?」
シービーがうなずいた。
ひどく自然に。
今日の天気を聞かれたくらいの顔で。
「ゲームしてるときとか、動画見てるときとか。隣に座ってると、結構」
「結構」
「うん。おハナちゃん、画面に夢中になってると気づかないんだよね」
知らない。
そんな情報、ボクは知らない。
「この前、うちでゲームしたときも。アタシがお茶取りに立とうとしたら、尻尾がきゅって」
「きゅって言わないで」
「だから、もう少し座ってようかなって」
「言ってよ! お茶取りに行くから離してって!」
シービーが肩を揺らして笑った。
ボクは額を押さえた。
何ということだ。
ボクはずっと、シービーの距離感が近いのだと思っていた。
肩を寄せられる。腕を組まれる。髪を触られる。
まったくこの人は、と呆れていた、その後ろで。
ボクの尻尾はが勝手に相手を確保していたらしい。
「……それ、いつ頃から」
「いつからだろう。現役の頃には、もうしてたよ」
「現役の頃」
思っていたより、歴史があった。
「ボク、この間の配信で、君が一方的にくっついてくるみたいな話したんだけど」
「うん。聞いてた」
「訂正案件じゃん……」
視聴者のコメントが、頭の中へよみがえる。
まだ付き合ってなかったの?
あの距離感で友達は無理がある。
あの人たち、どこまで見ていたのだろう。
配信のカメラには、机より上しか映していないはずだ。大丈夫。たぶん大丈夫。
何が大丈夫なのか、よくわからないが。
「アタシはうれしかったよ」
「……無意識だから」
「うん」
「映画みたいな、ああいう意味でやってたわけじゃなくて」
「うん。わかってる」
シービーは、あっさりとうなずいた。
それから、少し柔らかい声で続ける。
「でも、おハナちゃんが隣でくつろいでくれてるのは、うれしいから」
ボクは口を閉じた。
そう言われると、何も言い返せない。
彼女の家でゲームをしているときも、並んで動画を見ているときも、確かにボクはくつろいでいた。
警戒なんてしていなかったし、隣にいることを嫌だと思ったこともなかった。
それが、ああいう形で出ていたのだとしたら。
……いや、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「次は教えて」
「うん」
「笑わずに」
「それは、頑張る」
「そこも即答してほしかったなあ」
シービーが手を差し出した。
ボクは少し迷って、その手を取った。
「こっちはいいんだ?」
「尻尾の自主判断に任せるより、ボクが把握してる方がいい」
彼女はとうとう、声を出して笑った。