土曜日、午前九時五十八分。
ボクはゲームの入った鞄を肩にかけ、シービーの家のインターホンを押した。
引退してからというもの、十時前に外出することなどほとんどなかった。自分から時間を早めた手前、眠いから午後に変更してほしいとも言い出せず、今日はきちんと目覚ましをかけて起きたのである。
偉い。
そういうことにしておこう。
早く会いたかったわけではない。
「おハナちゃん、おはよう」
扉が開く。
シービーはボクを見るなり笑って、そのまま両腕を広げた。
「おはよう。何、その手」
「いらっしゃい、の手」
「荷物あるんだけど」
「持つよ」
肩から鞄が引き取られた。
その直後、空いたところへ腕が回ってくる。
「……荷物を除去しただけじゃん」
「うん。会いたかった」
「一昨日会ったでしょ」
「うん」
会話の内容にかかわらず、抱きしめることは決まっているらしい。
ボクは彼女の背中を軽くたたいた。
「とりあえず、玄関閉めよう。暖房が逃げる」
「はーい」
腕がほどかれる。
ボクは靴を脱ぎ、勝手知ったる部屋へ上がった。
今日は普段の服だ。
鍋を作るのだから、当然である。フリルに汁が跳ねたり、袖口のレースに肉団子のたねがついたりしては困る。
ただ、出かける前に一度だけ、クローゼットの青い服を見た。
それだけだ。
着ようか迷ったとか、そういうことではない。
「何か飲む?」
「お茶」
「朝ご飯は?」
「食べた」
「菓子パン食べる?」
「その質問、ボクが朝ごはん食べた後でもおやつ食べられる前提じゃん」
シービーが笑いながら、テーブルへ小さな菓子パンの袋を置いた。
ボクは見た。
クリーム入りだった。
「……一個もらう」
「うん」
胃に余裕があることと、相手の前提が正しかったことは、別の話である。
◇
「シービー、そっちじゃない。右」
「こっち?」
「そっちは左」
「あ、落ちた」
「ボクごと!」
画面の中で、二人のキャラクターが仲良く谷底へ消えていった。
協力して荷物を運ぶゲームなのだが、シービーが妙なところへ行きたがるせいで、何度も同じ場所からやり直している。
「向こうに道がありそうだったんだよね」
「道がないから柵があったんだよ」
「でも、越えられたよ?」
「越えた結果が今の二人まとめて転落事故だよ」
シービーは楽しそうだった。
ボクも、まあ、かなり楽しい。
失敗するたびに文句を言い、彼女が笑い、もう一度やり直す。ようやく成功したときには、思わず二人そろって声が出た。
そこで、腰の後ろに触れるものがあった。
ボクはぴたりと動きを止め、確認する。
自分の尻尾が、シービーの方へ寄っていた。
まだ絡まってはいない。
よし。未遂。
「……おハナちゃん」
「何」
「気にしなくてもいいのに」
「ボクが気にするの」
尻尾を反対側へ移すと、シービーは少し笑って、代わりに肩をくっつけてきた。
結局、どこかは接触している。
ボクはため息をつき、次のステージを選んだ。
気づけば、お昼を過ぎていた。
菓子パンはなくなっていた。二個あったはずだが、どちらもなくなっていた。
不思議なこともあるものだ。
「買い物、行こうか」
「そうだね。鍋の材料、何にもないんでしょ」
「お鍋はあるよ」
「器具は材料に含めないんだよ」
ボクはコントローラーを置き、立ち上がった。
ここで一度出かけなければ、日が暮れるまでゲームを続けかねない。そういうところは、残念ながら二人とも似ている。
近くの商店街は、昼下がりの買い物客でにぎわっていた。
この辺りには、ボクも何度もシービーと来ている。夕飯を買いに来たこともあるし、ゲームの途中でお菓子を切らして出てきたこともある。
通りへ入ってすぐ、野菜を並べていた店のおばさんが顔を上げた。
「あら、シービーちゃん。今日は二人でお買い物?」
「うん。お鍋にしようと思って」
「いいわねえ。シグレちゃんも、いらっしゃい」
「こんにちは」
挨拶をして、店先の白菜を見る。
なかなか立派だ。二人ともよく食べるし、丸ごと一つ買っても持て余すことはないだろう。
「相変わらず仲がいいわねえ、二人とも」
おばさんが、にこにこしている。
いつもの言葉だった。
ここへ一緒に来ると、大体言われる。以前のボクなら、そうですね、腐れ縁なので、とでも返して終わっていた。
ところが、今日は違った。
おばさんの視線が、ボクたちのつないだ手へ下がったのが、見えてしまった。
……あ。
この「仲がいい」は、もしかして。
「おハナちゃん、白菜これでいい?」
「えっ。うん。白菜。いいと思う」
「長ねぎも買おうか」
「そうだね。長いし」
「ふふ。長ねぎだからね」
何を言っているんだ、ボクは。
白菜と長ねぎを前に、著しく知能が落ちている。
手を離そうと少し指を動かすと、シービーがこちらを見た。
「どうしたの?」
「……買い物しにくいから」
「アタシ、持つよ」
「そういうことじゃなくて」
おばさんが、何だかさらに優しい顔になった。
この顔は知っている。
映画館で、ボクのリボンをシービーが直していたときに向けられたものと、よく似ている。
「ゆっくり選んでね」
そう言って、おばさんは別のお客さんの方へ向かった。
気を遣われた。
今、確実に気を遣われた。
ボクはシービーの袖を引いた。
「……今の」
「白菜?」
「仲がいいって話」
「うん。仲いいね」
彼女は平然とうなずいた。
否定のしようがないところから返してくる。
「前から、こういう感じだった?」
「よく言われるよね」
「君は、どういう意味だと思ってたの」
「どういう意味でも、うれしいなって」
強い。
解釈で悩むという工程がない。
ボクはようやく手を離し、白菜を持ち上げた。
両手がふさがると、少し落ち着く。
シービーは長ねぎときのこを選びながら、いつもどおり隣にいた。
次の肉屋でも、似たようなことが起きた。
「お、今日は二人で鍋か」
「はい。お肉、多めで」
「シグレちゃんがいるなら、足りなくならないようにしないとな」
店のおじさんが笑い、ボクも笑い返した。
ここまではよかった。
「シービーちゃん、こないだも言ってたもんな。これ、あの子が好きそうだって」
「ちょっと、おじさん」
「ん? いつも言ってるじゃないか」
ボクはシービーを見た。
彼女が、珍しく少し困ったように笑う。
「……何の話?」
「前に、おいしそうなお惣菜があったから」
「ほかにも、これなら喜ぶかなとか、次に来たら買ってやろうとか」
「おじさん、お肉お願い」
シービーが話を切った。
おじさんは、はいはい、と笑って肉を量り始める。
ボクは値札へ目を向けた。
牛肉、豚肉、鶏肉。
どれもおいしそうだったが、さっきまでのように即座に選べなかった。
ボクがいないところでも、そういうことを言っていたのか。
隣にいるときに構われるのとは、何かが違う。
今日のボクは何を食べるか、今度来たら何を出そうか。
ボクが寮で寝たり、配信したりしている間にも、彼女はそんなことを考えていたらしい。
「おハナちゃん、肉団子もだよね」
「……うん」
「これと、こっち?」
「うん」
「いつもより静かだね」
「肉の選定に集中してる」
「そっか」
シービーが、ボクの顔をのぞき込んだ。
ボクは陳列ケースを見つめたまま、指を差す。
「それもください」
「はいよ。今日はおまけしとくね」
おじさんまで、やけに温かい顔をしていた。
ボクは深く考えるのをやめ、ありがたく頭を下げた。
おまけは受け取る。
それはそれだ。
◇
帰り道、買い物袋を提げながら、ボクはずっと考えていた。
商店街の人たちは、きっとずっと前から、ボクたちをああいう目で見ていたのだ。
配信の視聴者といい、どうやら本人以外には、相応にわかりやすい状況だったらしい。
ボクだけが、友達だから、と納得していた。
尻尾まで絡めておきながら。
……尻尾のことは、今は置いておこう。
話がややこしくなる。
「袋、重くない?」
「このくらい平気」
「持つよ」
「ボクだってウマ娘なんだけど。白菜を運ぶために君の助けはいらないよ」
シービーは笑って、ボクの持っていない方の手を取った。
今度は、買い物しにくいという言い訳も使えない。
ボクはその手を見た。
つないでいる。
映画に行った日も、その前に肉を食べた日も。
思い返せば、現役時代にも何度もあった。
付き合ったら、何が変わるのだろう。
会う回数が増える?
すでに今週、三回会っている。
一緒にご飯を食べる?
今日も食べる。これまでも散々食べた。
家でだらだら遊ぶ?
午前中、それをしていた。
手をつないだり、くっついたり。
その辺りも、すでに概ね実施済みだった。
「……おハナちゃん?」
「何」
「難しい顔してる」
「君のせい」
「アタシ?」
「そう」
シービーは少し目を丸くしてから、ふっと笑った。
「じゃあ、ちゃんと考えてね」
追及してこなかった。
ボクは何となく言い返し損ね、そのまま彼女の隣を歩いた。
◇
「シービー、近い」
「おハナちゃん、何か手伝うことある?」
「ある。そっちできのこをほぐして」
「はーい」
家へ戻り、食材を台所へ並べる。
白菜を切ろうとしたところで後ろからのぞき込まれたので、仕事を与えて離れてもらった。
ボクは包丁を持っている。こういうときまでくっつかれては困る。
「これ、どのくらいにする?」
「食べやすいくらい」
「このくらい?」
「うん」
「こっちは?」
「シービー、きのこ一房ごとに審査を求めないで」
彼女が笑った。
ボクも、つられて少し笑う。
鍋を作るのは難しくない。
切って、入れて、煮る。
問題があるとすれば、ボクが肉を入れるたびにシービーが野菜を足し、その結果、鍋の容量が急速に限界へ近づいていくことだった。
「ちょっと、まだ肉団子がある」
「白菜ももう少し」
「これはもう少しの量じゃない」
「煮たら小さくなるよ」
「鍋からはみ出した分は煮えないんだよ」
結局、二回に分けて食べることになった。
当然といえば当然の結果だった。
鍋を食卓へ移し、向かい合わせに座る。
湯気が立ち、肉と野菜が煮えていく。
シービーがボクの器へ肉を入れたので、ボクも彼女の器へ白菜を入れた。
「ボクの器、肉多くない?」
「好きでしょ」
「好きだけど、君も食べなよ」
「食べてるよ」
「ほら、これも」
肉団子を一つ渡す。
彼女は受け取り、ふうふうと息を吹きかけた。
「熱いから気をつけて」
「うん」
口へ入れて、少し止まる。
それから、慌ててお茶を取った。
「……気をつけてって言ったよね」
「中、熱かった」
「肉団子の主成分は中身なんだよ」
シービーが口元を押さえながら笑った。
ボクは次の肉団子を、半分に割ってから食べた。
おいしい。
自分たちで作ったものは、何となく余計においしい気がする。
肉屋のおじさんがおまけしてくれた肉も、非常によかった。あの人の温かい眼差しについてはともかく、目利きは確かだ。
食べながら、午前中のゲームの話をした。
シービーが勝手に道を外れたせいで失敗したところを責めると、でも最後はうまくいった、と返される。
結果がよければ全部いいことにするのは、彼女の悪いところだ。
そのくせ、ボクが足を滑らせた場面はよく覚えていた。
「おハナちゃん、すごい声出してたよね」
「ゲームで落ちるのと、実際に落ちるのは別なのにね。不思議だね」
「また聞きたいな」
「成功を目指して」
くだらない話だった。
そんな話をしながら、二回目の具材を入れ、最後にはうどんまで食べた。
食べ終わる頃には、お腹も、部屋の空気も、すっかり満たされていた。
◇
洗い物を済ませ、ソファへ戻る。
シービーは当然のように隣へ座り、ボクの肩へ体を寄せてきた。
もう、狭いとは言わなかった。
「おいしかったね」
「うん。肉、買いすぎたと思ったけど」
「全部食べちゃった」
「鍋の容量には限界があったのに、ボクたちの胃にはなかったね」
シービーが笑い、ボクの手元をのぞき込んだ。
スマホには、来週の予定表。
配信が二つ。
それ以外は、また空白だった。
「来週、何しようか」
シービーが言った。
ボクは画面を見たまま、少し黙った。
また、この質問だ。
少し前には、この一言をきっかけに予定を三つも入れられた。
肉を食べて、映画を見て、鍋を作った。
その全部が、楽しかった。
来週も会うのだろう。
再来週も、たぶん会う。
シービーから誘われなくても、ゲームの続きくらいはボクから持ちかけるに違いない。
では、何が問題なのだろう。
前世が男だったこと。
それは、まあ、ボクの中では大きな事情だ。
でも、シービーは女性で、ボクは彼女を嫌いではない。元々、女性を恋愛対象として見ること自体に抵抗があったわけでもない。
むしろ、好きだと言われてからは、妙に意識してばかりだった。
顔が近いと困る。
褒められると照れる。
彼女が喜ぶと思うと、自分では絶対に選ばない服まで着て出かけてしまう。
そこまでやって、絶対に恋愛感情ではありません、と主張し続けるのも、何だか無理がある。
釣り合わない、という話もした。
本人には、まったく相手にされなかった。
世間の反応については、ご覧の有り様である。今さら付き合ったところで、大半の人からは、知ってた、と言われて終わるだろう。
ボクは画面を閉じた。
暗くなったスマホへ、自分の顔が映る。
考えすぎではないだろうか。
付き合うと言ったら、その場で人生のすべてが決まるわけでもない。
うまくいくかどうかなんて、やってみなければわからない。嫌なことがあれば言えばいいし、どうしても合わなければ別れればいい。
そもそも、ボクはこれまで、シービー相手に文句を我慢したことなど、ほとんどない。
「……シービー」
「ん?」
「いいよ」
「何が?」
顔を上げる。
彼女はボクを見ていた。
いつもの、少し気まぐれそうな、きれいな顔だった。
「付き合っても」
シービーが、動かなくなった。
ボクは少しだけ視線をそらす。
「その、いろいろ考えたんだけど。別に、付き合うのに困ることもないかなって」
「……おハナちゃん」
「一緒にいるの、楽しいし。来週も会うつもりだったし。君がくっついてくるのも、まあ、邪魔なとき以外は嫌じゃないし」
言っているうちに、顔が熱くなってきた。
大げさに構えるから言いにくくなるのだ。ボクはなるべく、普段の話し方を保とうとした。
「だから、付き合ってみればいいかなって。もし何か問題があったら、そのとき考えればいいし」
「……いいの?」
「うん」
「本当に?」
「ボクから言い出してるでしょ」
シービーの口元が、ゆっくりと緩んだ。
けれど、すぐにはいつもの軽口が返ってこなかった。
彼女は一度うつむき、ボクの手を取った。
「うれしい」
声が、少し小さかった。
ボクは思わず彼女を見た。
「……君、いつも絶対そうなるみたいな顔してたじゃん」
「そうなったらいいなって、思ってたんだよ」
顔を上げたシービーは、笑っていた。
思っていたよりずっと、うれしそうだった。
ボクは、自分が口にしたことの意味を、少し遅れて理解した。
この人は、ずっとこの返事を待っていたのだ。
ボクがみかんを食べている間も、ゲームで文句を言っている間も、たぶん、もっと前から。
「……そんなに喜ぶこと?」
「うん」
即答だった。
次の瞬間、抱き寄せられた。
「わっ」
肩に腕が回り、彼女の近くへ収まる。
何度もされたことのある動作だった。
それなのに、今は少し違う気がした。
「おハナちゃん」
「……何」
「好き」
ボクは彼女の服を、指先でつかんだ。
「うん。知ってる」
「これから、もっと言うと思う」
「回数に応じてボクの返事が上手になるとは限らないからね」
「うん」
シービーが笑った。
その顔が近い。
ボクも、離れなかった。
腰の後ろで、尻尾が触れた。
気づいて目を向けかけたところで、シービーの指が頬へそっと触れる。
「キスしていい?」
ボクは止まった。
そうか。
付き合うということは、そういうことも、ある。
映画の一場面が頭に浮かんだ。
顔が近づくまでの間。
触れる直前に、相手を見ていた目。
今、シービーが同じように、ボクを見ている。
「……聞くんだ」
「うん」
待っている。
あれだけ勝手に距離を詰めてきた人が、今はボクの返事を待っている。
ボクは、つかんでいた彼女の服を少しだけ引いた。
そのまま唇を合わせる。
唇に、柔らかいものが触れた。
ほんの短い間だった。
それでも、離れてからすぐには、目を開けられなかった。
ようやく顔を上げると、シービーがすぐ近くで笑っている。
「……おハナちゃん、真っ赤」
「君も、ちょっと赤いよ」
「うん。うれしいから」
そういうことを、ためらわずに言う。
ボクは返す言葉を見つけられず、彼女の肩へ額を押しつけた。
問題があったら、そのとき考えればいい。
どうしても合わなければ、別れればいい。
ついさっき、そう思ったばかりだった。
なのに今は、顔を上げたら、もう一度してもらえるだろうか、なんてことを考えていた。
背後で、ボクの尻尾がシービーの尻尾へ絡んだ。
今度は、外さなかった。