原作:青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない
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そう願う梓川咲太の前に、心臓病を治せる可能性を秘めた新たな治療法のニュースが飛び込んでくる。
しかし、その治療に必要な費用は高校生の咲太には到底手の届かない金額だった。
双葉、国見、古賀、そして麻衣。
大切な少女を救いたいという咲太の願いは、仲間たちの優しさを巻き込み、やがて大きな支援の輪へと広がっていく。
そして、翔子に救われた過去を思い出した麻衣は、咲太とともに翔子の未来を取り戻すことを決意する。
一人では届かない願いも、みんなの想いが集まれば届くのか。
『青春ブタ野郎は夢見る少女の夢を見ない』その後を描く、もう一つの物語。
もし、翔子さんを救うことができるとしたら、どんな未来になるんだろう?
原作で描かれた未来とは別の、「もう一つの可能性」を自分なりに考えてみたのが、この作品です。
咲太一人ではどうにもならないことでも、彼の周りには、これまで彼らを支えてきたたくさんの人たちがいます。
だったら――
「一人ではなく、みんなで翔子さんを救う」
そんな青春ブタ野郎らしい未来があってもいいんじゃないか。
そう思って、この物語を書きました。
原作とは異なるifストーリーです。
「こんな未来もあったかもしれない」と、楽しんでいただければ幸いです。
2月14日。
街中が甘いチョコレートの香りと浮ついた空気に包まれるバレンタインデー。
しかし、僕——梓川咲太のバレンタインは、お世辞にも華やかとは言えなかった。
大好きな彼女である桜島麻衣は、ロケの仕事で遠く九州へ飛ばされている。
恋人のいない寂しい昼下がり、
僕はいつものように物理準備室のパイプ椅子に腰掛け、コンビニのパンを口に運んでいた。
「麻衣さんは九州だし、僕のバレンタインは味気ないなあ」
白衣のポケットに手を突っ込み、アルコールランプの手入れをしていた双葉理央が、
呆れたようにため息をつく。
「そんな梓川に、とっておきのプレゼントがあるよ」
「なんだ双葉。僕にチョコをくれるのか?」
僕はニヤリと口角を上げた。
「言っておくけど、国見から僕に乗り換えたとしても、僕には麻衣さんがいるからその気持ちには応えられないぞ」
「はあ……」
双葉は心底鬱陶しそうな目を僕に向け、肩をすくめた。
「バレンタインだからって頭の中がお花畑になるなんて、さすが青春ブタ野郎だね。」
「どうして私が梓川にチョコをあげなきゃいけないの?」
「じゃあ、プレゼントって何さ」
双葉は作業の手を止め、真面目な顔で僕を見つめ返した。
「アメリカの研究機関がね、心臓病に対応できるiPS細胞を使用した治験に成功したっていうニュースよ」
「それって……」
「梓川が気にしていた、あの心臓病の女の子のこと……牧之原さんの病気が、現実の手術で治る可能性があるってこと」
パンを噛む手が止まる。胸の奥が熱くなり、思わず笑みがこぼれた。
「……最高のプレゼントだよ。ありがとう、双葉」
「お礼を言うのはまだ早いよ。……手術費用や渡航費を含めると、かなり高額になるみたいだから」
「いくらくらい?」
「ニュースでは、数千万円から一億円近くかかるって言っていたわ」
「そうか……」
舞い上がっていた気持ちが、冷や水を浴びせられたように静まり返る。
一億円。僕たち高校生にとっては、果てしなく遠い数字だった。
放課後。物理準備室の重いドアが開くと、部活帰りと思われる国見が爽やかな汗を拭いながら入ってきた。
「咲太、どうした? 何か困ってるって双葉から聞いたぞ」
アルコールランプの炎を見つめていた双葉が、白衣のポケットに手を突っ込んだまま淡々と言い放つ。
「ついにロリコンに目覚めたから、小学生の女の子の面倒が見たいんだって」
「おい双葉!」
「咲太、いくらなんでも桜島先輩がいるのにそれはダメだぞ」
真顔で諭してくる国見に、僕は頭を抱えた。
「双葉も国見も、僕のことをなんだと思ってるんだ」
すると、国見はニッと口角を上げて、僕の肩を軽く叩いた。
「困った時に『助けて』って言えるやつ」
「……なに?」
双葉もビーカーを洗いながら、小さく息を吐き出す。
「そうね。たまに一人で抱え込んで、頼ってくれない時もあるけどね」
「……どういうことだよ」
「国見には私から話しておいたわ。梓川が、心臓病の少女を助けようとして苦しんでるって」
国見がまっすぐな瞳で僕を見つめ返す。
「咲太、俺たちに『助けて』って言えないのは咲太らしくないぞ。一人で背負うなよ」
「梓川、私や国見も協力するよ。クラウドファンディングとか、できることはなんでもやるから」
思いもよらない二人の言葉に、胸の奥が熱くなる。
記憶はなくとも、僕の隣にはいつも変わらず、頼もしい仲間たちがいてくれた。
「……国見、双葉。ありがとう」
その日の夜。カチャリと鍵の開く音がして、自宅の玄関のドアが開いた。
キャリーケースを引く音とともに、九州からの長旅を感じさせない凛とした声が響く。
「ただいま、咲太」
「おかえりなさい、麻衣さん」
リビングから出迎えると、麻衣さんはコートを脱ぎながら、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見つめてきた。
「私がいないバレンタインデーは寂しかった?」
「それはもう、泣きそうなくらい寂しかったですけど……でも、双葉から嬉しいプレゼントをもらえたんですよ」
僕がそう言った瞬間——。
ドスッ。
「……ッ!?」
麻衣さんのブーツの踵が、容赦なく僕の右足の甲を踏みつけていた。
「そう。双葉さんにチョコをもらえて、そんなに嬉しかったんだ」
「痛い痛い! 違います麻衣さん! チョコじゃないです!」
「……これは、浮気者への私からのご褒美よ」
「話を聞いてください! 牧之原さんを救えるかもしれない情報を、双葉が教えてくれたんです」
僕が必死に叫ぶと、麻衣さんは踏みつけていた足をそっと退け、何事もなかったかのようにすまし顔で腕を組んだ。
「……それならそうと、早く言いなさいよ」
「踏んでて言う暇なかったじゃないですか……」
足の甲をさすりながら恨めしそうな視線を送ると、麻衣さんは少し表情を和らげ、小首を傾げた。
「それで、牧之原さんってお正月に出会った、咲太の『夢の中に出てきた初恋の人』によく似た女の子よね?」
「そうなんだ、麻衣さん。実は牧之原さんは重い心臓病を患っていて……」
「その病気を治せるかもしれない新しい治療法のニュースを双葉が教えてくれたんだ」
「治せるかもしれない手段?」
「うん。アメリカでiPS細胞を使った手術の治験に成功したらしくて。」
「ただ……手術費用や渡航費、現地での滞在費とかを合わせると、合計で数千万円から一億円近くかかるみたいなんだ」
一億円。その現実味のない数字を口にすると、部屋の中に重い沈黙が流れた。
麻衣さんはまっすぐな瞳で僕を見つめ、静かに問いかけてくる。
「……それで、咲太はどうするつもりなの?」
「牧之原さんは、僕を助けてくれたんだ。だから今度は、僕が牧之原さんを絶対に救ってみせる」
僕の迷いのない言葉を聞いて、麻衣さんは少し困ったように眉を下げ、息を吐いた。
「気持ちはわかるけれど……高校生の私たちに、そんな大金を用意できるの?」
「国見や双葉も協力してくれるって言ってくれてるんだ。それで二人の知恵を借りて話し合った結果、
クラウドファンディングを利用してみたらどうかって話になったんだよ」
しかし、リビングのローテーブルでノートパソコンを開いた僕は、画面を見つめたまま重い溜息をつくことになった。
「咲太、どうしたの? 難しい顔をして」
冷たい麦茶の入ったグラスを置きながら、麻衣さんが隣に腰掛ける。
「麻衣さん……クラウドファンディングを成功させるには、その金額が必要な背景とか、
納得してもらえるだけの『共感』を集めるのが大事みたいなんです」
「ふうん?」
「でも、僕みたいな無名の高校生が『翔子ちゃんを救いたい』って訴えたところで、
世間を納得させるだけの説得力も発信力もありません」
自分の無力さを突きつけられたように肩を落とす僕を、麻衣さんはジト目で見つめた。
「なによ。じゃあ、私がプロジェクトの発起人になればいいじゃない」
「え……麻衣さんがですか?」
「私には、ドナーを待つ少女の役を演じた映画で咲太を大泣きさせた実績があるわ」
「確かに泣きましたけど……でも、僕の個人的な願いに麻衣さんを利用するなんて……」
麻衣さんは僕の言葉を遮るように、少し意地悪く、けれどまっすぐな瞳で僕を覗き込んだ。
「咲太の決意って、その程度だったの? 『絶対に僕が救ってみせる』って言っていたのは嘘かしら」
「それは……」
言い返せずに口ごもる僕を見て、麻衣さんの表情が柔らかく緩む。
「……分かりました。ありがとうございます、麻衣さん。僕、頑張りますから」
頭を下げようとした僕の額を、麻衣さんが人差し指でぽんと突いた。
「それは違うわよ、咲太」
「……へ?」
「『僕』じゃなくて『私たち』。『一緒に』頑張るのよ」
麻衣さんの誇らしげで優しい笑顔に、僕は観念したように肩をすくめた。
「……やっぱり、麻衣さんには一生敵いそうにありません」
週末の藤沢駅前。
行き交う人々の中で、国見と双葉は手作りの募金箱を抱えて声を張っていた。
そこへ、買い物途中と思われる女子高生のグループが足を止める。中心にいたのは、大きなリボンが特徴的な後輩——古賀朋絵だった。
「国見先輩、何やってるんですか?」
「古賀か。咲太のために募金を募っているんだよ」
「先輩のために?」
首をかしげる朋絵の横で、街頭に立つ双葉が淡々と言い添える。
「古賀さんって、あの『ラプラスの悪魔』さんね」
「咲太と尻を蹴り合う仲良しだよ」
国見が爽やかに笑うと、朋絵の顔が瞬時に真っ赤になった。
「なっ……それ忘れてって言ったよね!?」
真っ赤になってバタバタと手を振る朋絵だったが、すぐに表情を真面目なものに変え、募金箱に目を向けた。
「……でも、先輩そんなにお金に困ってるの?」
「はは、違うよ。咲太の知り合いの女の子が重い病気を患っててね。その手術費用が高いから、こうして募金活動をしてるんだ」
「そうなんだ……」
朋絵はバッグから財布を取り出すと、中の小銭をすべて掴み、募金箱の投入口へ落とした。チャリン、と重みのある音が響く。
「……先輩には助けられたから。全然足りないかもしれないけど……」
どこか照れくさそうに呟く朋絵に、国見は目元を緩めた。
「いいんだよ、いくらでも。ありがとう、古賀」
「ありがとう、古賀さん」
双葉も静かに頭を下げる。
すると、後ろで見守っていた朋絵の友達たちも顔を見合わせ、
「じゃあ私たちも」と次々に財布を取り出し、募金箱へお金を入れ始めた。
温かい広がりを目にして、国見が頼もしそうに朋絵を見つめる。
「なあ古賀。できれば学校に行った時、クラスの友達にもこの募金のことを広めてくれないか?」
朋絵は力強く胸を張った。
「わかった、絶対やるからね!」
クラウドファンディングを開始して数日。
画面上の数字は順調に伸びていたが、まだ目標金額には届いていない。
そんな折、僕と麻衣さんは湘南海岸沿いにある牧之原さんの自宅を訪ねていた。
「麻衣さん、本当に良かったんですか? ドラマの撮影で忙しいのに……」
玄関前の短い階段を上りながら尋ねると、隣を歩く麻衣さんは呆れたように溜息をついた。
「クラウドファンディングの発起人が私なのよ。咲太だけに任せておけるわけないじゃない。」
「……それに、私もちゃんとお話ししておきたかったの」
「ありがとうございます、麻衣さん」
僕が頭を下げると、麻衣さんは「よろしく頼むわね」といたずらっぽく口元を緩めた。
インターホンを押すと、ほどなくしてカチャリとドアが開く。
「いらっしゃいませ、咲太さん。麻衣さんも、お忙しい中ありがとうございます」
出迎えてくれたのは、小さな身体に白いワンピースを纏った翔子さんだった。
その透明感のある笑顔と、
愛おしそうに僕を呼ぶ「咲太さん」という響き。
「お母さ〜ん、咲太さんと麻衣さんが来てくれたよ」
翔子さんが奥に向かって声をかけると、エプロン姿の女性が慌ただしく廊下に現れた。
「初めまして、翔子の母です。こんなところで立ち話も何ですから、とりあえず上がってくださいね」
「お邪魔します」
「お邪魔します」
促されるまま、僕と麻衣さんはリビングのソファへと通された。
翔子さんのお母さんが手際よくお茶を淹れ、対面の椅子に腰を下ろす。
「翔子のことについて何かお話しがあるとのことですが……桜島麻衣さんと、彼氏さんかしら? どうしてここに……?」
戸惑いを隠せないお母さんに向けて、僕は背筋を伸ばし、いつもの自己紹介を口にした。
「初めまして。梓川サービスエリアの梓川に、花咲く太郎で咲太、梓川咲太と申します。」
「……今日は、麻衣さんがクラウドファンディングを立ち上げた理由を直接ご説明したくて伺いました」
「理由……? テレビで麻衣さんがクラウドファンディングを呼びかけていらっしゃるのは拝見しましたけれど……」
「麻衣さんがクラウドファンディングを立ち上げてくれたのは、翔子さんのためなんです」
「えっ……? 何で翔子のために、麻衣さんが……?」
首をかしげるお母さんに、僕はまっすぐに視線を返した。
「それは、僕が翔子さんに助けられたからです」
「翔子が、あなたを助けた……?」
お母さんが絶句する横で、翔子さんが静かに僕を見つめていた。
その瞳の奥には、僕には見えていない——
けれど、翔子さんの中には確かに存在する「すべての世界の記憶」と、変わらない深い慈愛が宿っている。
「お母さん。咲太さんはね、はやてを飼うきっかけを作ってくれた人だよ」
翔子さんは僕を見つめたまま、言葉を重ねた。
「それにね、頑張ったねと、ありがとうと、大好きって言葉を好きにさせてくれた人」
「優しい人になりたいっていう希望をくれた人なの」
「翔子さん……」
二人だけにしか真の意味が通じ合わない、奇跡のような言葉の答え合わせ。
「それは僕にある人が教えてくれたことの受け売りだから。僕が妹のことで落ち込んでいた時に、翔子さんの言葉に救われたんです」
「咲太さん…」と胸の中で呟くように、すべてを覚えている翔子さんは愛おしさを込めて優しく微笑んだ。
「翔子が……あなたを……?」
混乱するお母さんに向かい、僕は言葉を続けた。
「はい。だから今度は、僕が翔子さんを助けたくて。僕一人では何もできませんが、
クラウドファンディングを立ち上げようとしていたら、麻衣さんが協力したいと言ってくれて……」
僕の言葉を引き継ぐように、麻衣さんが凛とした、けれど温かい声で口を開いた。
「お母様、突然の訪問でご困惑させてしまって申し訳ありません。私がクラウドファンディングの発起人になったのは、
話題作りでも慈善事業でもありません。咲太がこれほどまでに救いたいと願う翔子ちゃんを、
私も一緒に救いたいと心から思ったからです」
麻衣さんはバッグから資料を取り出し、ローテーブルの上に静かに置いた。
「目標金額の一億円にはまだ届いていませんが、私たちは絶対に諦めません。」
「必ず資金を集めて、翔子ちゃんをアメリカへお送りします。」
「…どうか、翔子ちゃんの手術と渡航を、私ちちに任せていただけないでしょうか」
リビングに静寂が訪れる。
お母さんはローテーブルの資料と、僕たち二人、そして翔子さんの顔を交互に見つめ、目元を震わせた。
「そんな……見ず知らずの私たちのために、どうしてそこまで……」
「見ず知らずじゃありません」
僕が即答すると、麻衣さんも強く頷いた。
「翔子さんは、僕にとって……かけがえのない、大切な人です」
「……お母さん」
静かな声で呼びかけたのは、翔子さんだった。
「私、咲太さんや麻衣さんたちの優しさを受け取りたい。生きられる希望があるなら……私、もっと生きたいな」
病弱な身体を押して、けれど揺るぎない意思を込めて口にする翔子さん。その言葉に、お母さんの目からボロボロと涙が溢れ出した。
「……ありがとうございます。咲太さん、麻衣さん……どうか、翔子を……よろしくお願いします……!」
お母さんは声を詰まらせながら、二人に何度も何度も頭を下げるのだった。
牧之原さんの自宅を訪問してから数日後。
僕の部屋のリビングで、麻衣さんはローテーブルの上に置いたノートパソコンの画面を見つめていた。
「咲太、見て。クラウドファンディングの達成率、もう八割を超えたわ。このペースなら一億円の目標達成も時間の問題ね」
画面に表示された数字を指差し、麻衣さんがホッとしたように息を吐く。
「もうちょっとですね、麻衣さん」
僕が淹れたココアのマグカップを差し出すと、麻衣さんは嬉しそうに受け取って小さく一口含んだ。
「ええ。全国からたくさんの応援コメントも届いているわ。……翔子ちゃん、喜んでくれるといいわね」
ふと、僕は前日に自宅の郵便ポストへ投函されていた一通の封筒のことを思い出した。
差出人の名前を見て、胸の奥がキュッと締め付けられたあの封筒だ。
「そう言えば麻衣さん、昨日、牧之原さんから手紙が届いてたんです」
「翔子ちゃんから?」
「はい。まだ開けてなかったんですけど……」
ポケットから取り出した白い封筒を、麻衣さんの前に置く。
麻衣さんは「開けてみましょう」と促し、僕たちは並んで座りながら、封筒の端を丁寧に破った。
中から出てきたのは、折りたたまれた一冊のノートのページだった。
そこに書かれていたのは、幼い筆跡で几帳面に記された『未来のスケジュール』。
「咲太…それって」
「牧之原さんが書いてくれた『未来のスケジュール』です」
「翔子ちゃんの……」
麻衣はグラスを置くと、咲太の隣に腰掛け、覗き込むようにその紙を見つめた。
『アメリカにいって、びょうきをなおす』
『咲太さんや麻衣さんに、えがおでおれいをいう』
たったふた行の、まっすぐな願い。
その文字を追った瞬間、麻衣の手がぴたりと止まった。
「……あれ?」
麻衣の口から、疑問とも吐息ともつかない声が漏れる。
咲太が隣を見ると、麻衣は便箋をじっと見つめたまま、微動だにしていなかった。
「麻衣さん?」
「なん……だろう。なにか、すごく……懐かしい感じがするの……」
そう呟いた麻衣の目から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
本人は理由がわからないようで、困惑したように細い指先で頬をなぞる。
けれど、一度あふれ出した涙は止まらず、次から次へと便箋の上に小さなシミを作っていく。
「麻衣さん、どうしたの?」
「わかんない……わかんないけど……胸が、すごく痛くて……すごく、温かくて……」
麻衣は胸元を強く握りしめ、溢れる涙を拭おうともせず、便箋に書かれた『咲太さんや麻衣さん』という文字を見つめ続けた。
忘れていたはずの記憶の欠片が、溢れた涙に溶け出すように、一気に脳裏を駆け巡る。
あの日の
病室で静かに横たわる小さな少女。
そして、誰もが泣いていたあの絶望の未来——。
「……あっ」
麻衣の瞳に、はっきりとした光が宿る。
言葉を失う咲太の腕に、麻衣はすがりつくように抱きついてきた。震える手が、咲太の服を固く握りしめる。
「咲太……私、私ね……翔子ちゃんのこと、思い出したの……!」
「……っ」
「私を助けてくれたこと……咲太を救ってくれたこと……あの子がどれだけの想いで、
私たちに未来をくれたのか……全部、思い出せた……!」
麻衣は咲太の胸に顔をうずめ、しゃくりあげるように涙を流した。
そして、ゆっくりと顔を上げると、真っ赤になった目でまっすぐに咲太を見つめた。
「咲太、私と一緒にいてくれてありがとう……あのとき、私をひとりにして行かないでくれて、本当にありがとう……」
咲太は息を呑み、力強く麻衣の肩を抱き返した。
涙で濡れた麻衣の頬をそっと拭う。
「麻衣さん……全部、思い出したんだね」
「うん。……ねえ、咲太。翔子ちゃんが私たちを救ってくれたみたいに、今度は私たちが一緒に、
翔子ちゃんを助けましょう? 私、なんだってするから」
その目には、いつもの強さと、咲太への深い愛情、そして翔子への確かな感謝が宿っていた。
咲太は深く頷き、力強く微笑んだ。
「当たり前だよ。麻衣さん……牧之原さんは、絶対助かるよ」
テーブルの上では、幼い文字で書かれた「未来のスケジュール」が、午後のやわらかな日差しを受けて静かに輝いていた。
麻衣さんが記憶を取り戻した翌日。
クラウドファンディングは、まさに驚異的なスピードで目標金額である「一億円」に到達した。
画面上の達成率メーターが100%を超えた瞬間、僕の部屋でノートパソコンを囲んでいた僕と麻衣さん、双葉と国見は固く手を握り合った。
これで、牧之原さんをアメリカへ送れる。誰もがそう信じて疑わなかった。
しかし——現実は、甘くはなかった。
「……アメリカの受け入れ先病院から、最新の精算見積もりが届いたわ」
数日後、僕の自宅のリビング。ローテーブルに書類を広げた麻衣さんの表情は、重く沈んでいた。
「追加の費用……ですか?」
「ええ。最初の『一億円』は、あくまで一般的な手術費用と基本滞在費の『概算見積もり』だったの。
でも、現在の翔子ちゃんの容態を考慮すると、現地へ渡航するための専用医療チャーター機の費用、
さらに術後の集中治療室(ICU)での長期管理費とリハビリ費用として、
どうしてもあと数千万円単位で不足することが分かったわ」
一度は届いたと思った希望の手が、するりと指の隙間からこぼれ落ちていく感覚。
「一億円集めても、まだ足りないなんて……」
僕が思わず膝を握りしめ、悔しさに歯を食いしばる。
一度クラファンを支援してくれた人たちに「やっぱり足りませんでした」ともう一度頼むのは、社会的にも難しい。
八方塞がりの空気がリビングを支配しかけた、その時だった。
「咲太」
僕を呼ぶ麻衣さんの声には、暗さも迷いも一切なかった。
顔を上げると、麻衣さんは静かに、けれど強い眼差しで僕を見つめ返していた。
「諦める必要なんて、どこにもないわ」
「麻衣さん……?」
麻衣さんはローテーブルの書類を綺麗に揃えると、まっすぐな背筋で僕と向かい合った。
その瞳には、咲太を助けたいという愛おしさだけでなく、自分を救ってくれた翔子ちゃんへの溢れるほどの感謝が宿っている。
「咲太が諦めないなら、私も絶対に諦めない。翔子ちゃんは、咲太だけじゃなく……私の命の恩人でもあるんだもの。
今度は私が、持てる全ての力を使って翔子ちゃんに恩返しをする番よ」
「麻衣さん……」
「クラファンという形が難しいなら、新しい場所を作ればいいの。私たちが直接、たくさんの人に想いを届けて、
みんなの熱量をひとつに集められる場所を」
麻衣さんは力強く宣言した。
「チャリティコンサートをやりましょう」
「コンサート……ですか?」
「ええ。私とスウィートバレット、それに映画で協力してくれた人たちにも声をかけるわ。
私たちがステージに立って、直接全国の人たちに呼びかけるの。
翔子ちゃんをアメリカへ送るための、本当のラストスパートとして」
麻衣さんの言葉には、圧倒的な説得力と覚悟が満ちていた。
僕の胸の奥で、折れかけていた希望の火が再び大きく燃え上がる。
「麻衣さん……ありがとうございます。……やりましょう、チャリティコンサート!」
僕の返事を聞いた麻衣さんは、愛おしそうに小さく微笑み、すぐに力強く立ち上がった。
「そうと決まれば、休んでいる暇はないわね。……大人たちの巻き込み方は、私に任せなさい」
麻衣さんはそう言うと、迷いのない手つきでスマートフォンを取り出した。
「まずは、のどかね」
画面を数回タップし、スピーカーモードにして耳にあてる。数回の呼び出し音の後、元気な声が響いた。
『何? お姉ちゃん』
「のどか、やって欲しいことがあるの」
『やって欲しいこと?』
「私と一緒に歌って欲しいの」
『……は? 何? カラオケ行くの?』
唐突な提案に、画面の向こうで本気で首をかしげているのどかの姿が目に浮かぶようだ。
思わず僕が口元を緩めると、麻衣さんは少し呆れたようにフッと微笑んだ。
「違うわよ。私とスウィートバレットで、チャリティコンサートをしたいの」
『えっ? チャリティコンサート……? クラウドファンディング、上手くいったんじゃないの?』
「正式にアメリカの病院から見積もりを取ったら、専用のチャーター機代やICUの費用で、
どうしても数千万円単位で足りないことが分かったのよ。
だから、チャリティコンサートをして、もう一度みんなに呼びかけたいの」
電話の奥で、のどかが息をのむ気配がした。
事情を瞬時に理解したのだろう。一瞬の逡巡もなく、のどかの声に強い決意が宿る。
『……わかったよ、お姉ちゃん。私からスウィートバレットのみんなにも言ってみる。断る奴なんて絶対にいないから』
「ありがとね、のどか」
『ううん。お姉ちゃんのためだから! 私、今すぐ事務所とメンバーに連絡するね!』
「ええ、頼むわね」
通話が切れると、麻衣さんは誇らしげにスマートフォンを画面伏せにしてテーブルに置いた。
「よし、これでスウィートバレット側は大丈夫ね。次は……私の事務所の社長と、あの映画の監督に電話をかけるわ」
のどかの即答と頼もしい後押しを得て、麻衣さんの目にはいよいよ「大人たちを巻き込む本気の炎」が灯っていた。
麻衣との電話を終えたのどかは、息を切らしてスウィートバレットの楽屋へと飛び込んでいた。
「みんな! お姉ちゃんが私たちと歌いたいって!」
開口一番、目を輝かせて叫んだのどかに、ソファでくつろいでいたズッキー(広川卯月)がぽかんと首をかしげる。
「カラオケ行くの?」
「っ……!」
(そ、それは私も言ったけど……!)
完全に同じリアクションを返され、のどかは一瞬で顔を真っ赤にして固まった。
「あ〜もう、違くって!」
真っ赤な顔をぶんぶんと振りながら、のどかは身を乗り出して叫ぶ。
「チャリティコンサートを一緒にやろうって!」
「チャリティコンサート?」
首を傾げるズッキーに、のどかは真剣な表情で言葉を続けた。
「そう。クラウドファンディングだけじゃ、翔子ちゃんを救うためのお金が足りなくなっちゃったんだって。
だから、お姉ちゃんと私たちでコンサートをやって、みんなの力を借りたいの」
事情を飲み込んだズッキーは、一切の迷いなく破顔した。
「じゃあやろう!」
「えっ……ズッキー?」
あまりの即答に目を丸くするのどか。他のメンバーたちを見回すと、全員が当然のように力強く頷いていた。
「他のみんなは……?」
「「もちろんやるよ!」」
「麻衣さんと一緒にステージ立てるなんて最高じゃん!」
「困ってる女の子がいるなら、アイドルとして歌うしかないでしょ!」
口々に笑顔で賛同してくれる仲間たちの姿に、のどかは胸を熱くして涙ぐみそうになるのをグッとこらえた。
「みんな……ありがとう! じゃあ、今すぐみんなで事務所に行くよ!」
「「おおーっ!」」
こうして、スウィートバレットの少女たちは、大人たちを動かすための最初の大きな波となって走り出した。
スウィートバレットのメンバー全員が事務所へ押しかけ、社長へ直談判に成功したという連絡が入った直後。
麻衣さんもまた、自身の所属事務所の社長室のドアを叩いていた。
「お願いがあります、社長」
麻衣さんは、ローテーブルに翔子ちゃんの医療資料とクラウドファンディングの現状をまとめた書類を広げた。
「タレントの個人的な情に流されて受ける仕事じゃないわ、麻衣。急なスケジュール調整や会場の手配、
どれだけのリスキーな橋を渡るか分かっているの?」
眉をひそめる女性社長に対し、麻衣さんは一切視線を逸らさずにまっすぐに見つめ返した。
「分かっています。でも……これは私が私の意志で、絶対にやらなければいけない仕事なんです。
咲太が守ろうとした少女は、私にとっても命の恩人です。
彼女の未来を諦めたくないんです。私のこれからの出演料も、
契約もどうなっても構いません。どうか、力を貸してください」
国民的女優と呼ばれるようになって久しい麻衣が、一人の少女のためにここまで頭を下げる姿。
その瞳に宿る並々ならぬ覚悟に、社長は深く溜息を吐き、受話器を取り上げた。
「……まったく。あなたをそこまでの顔にさせるなんてね。……スウィートバレットの事務所と、
音楽プロデューサーに連絡を入れるわ。やるからには、半端なステージにはさせないわよ」
さらに、動き出したのは事務所だけではなかった。
かつて麻衣さんが主演を務め、心臓病でドナーを待つ少女を演じた映画の監督とスタッフたちが、この話を聞きつけて集結してくれたのだ。
「あの映画のラストシーンは、スクリーンの中だけじゃ終わらせない。現実に、あの少女を救う本当のラストシーンを俺たちの手で作ろう」
大人たちの本気の奔走。各所の奇跡的な調整と熱量が組み合わさり、
奇跡的に押さえられた会場——それこそが、音楽の聖地『日本武道館』だった。
数日後の夜。
全国ネットで放送されているゴールデンタイムの生放送情報番組。
スタジオのセットの中央に、黒のシンプルなドレスに身を包んだ麻衣さんが立っていた。
カメラの赤いランプが点灯し、全国の何百万という視聴者の視線が麻衣さんに注がれる。
「皆様、こんばんは。桜島麻衣です」
凛とした透明感のある声が、テレビのスピーカーを通して全国のお茶の間へと届く。
「先日より呼びかけさせていただいております、心臓病を抱える少女を救うためのクラウドファンディングにつきまして、
全国の皆様から温かいご支援をいただき、目標金額である一億円を達成することができました。心より感謝申し上げます」
麻衣さんはカメラに向かって静かに深くお辞儀をした。そして、顔を上げると、さらに強く、真摯な眼差しをレンズの向こうへと向けた。
「ですが……受け入れ先のアメリカの病院との最終的な調整により、専用の医療チャーター機の費用や現地での集中治療を含め、
現実にはまだ高い壁が立ちはだかっています。……一億円を集めても、まだ彼女を渡航させることができません」
スタジオ内が一瞬静まり返る。麻衣さんは言葉を区切ることなく、続けた。
「一度ご支援いただいた皆様に、これ以上のお願いをするのは勝手なことだと承知しています。
だからこそ……私たちは、自分たちの力で最後の押し上げをしたいと考えました」
画面の向こうにいるすべての人々へ語りかけるように、麻衣さんは胸に手を当てた。
「来週末、日本武道館にて、私とスウィートバレットによる緊急チャリティコンサートを開催することを決定いたしました。
……私にできることは、歌い、訴え続けることです。
心臓病で苦しむ少女に未来を届けるため、どうか皆様、もう一度だけ私たちに力を貸してください!」
放送が終わった瞬間、ネットニュースは一斉にこの発表を速報で報じた。
そして、SNS上では麻衣さんの熱意に呼応するように、あの不思議な言葉が爆発的な潮流となって拡散され始めていくのだった——。
『武道館でチャリティやるなら、アレ持っていかないとね』
麻衣さんのテレビ生放送から一週間。
SNS上で自然発生的に広がった『武道館でチャリティやるなら、アレ持っていかないとね』という言葉は、
ハッシュタグとなって日本中を駆け巡っていた。
そして迎えた、コンサート当日。九段下の駅を降りた瞬間から、そこには異様な、けれどどこか温かい熱気が満ち満ちていた。
「すごい人だな……」
武道館へと続く坂道を上りながら、国見が感嘆の声を漏らす。隣を歩く双葉も、メガネの奥の瞳を細めて人波を見つめていた。
「ニュースの街頭インタビューで見たけれど、全国からファンだけじゃなく、
あの映画のファンや、クラファンを応援していた人たちが集まっているみたいね」
関係者口から楽屋裏へ入った僕は、ステージ袖の暗がりに立っていた。
客席からは、開場を待つ熱気が地鳴りのように伝わってくる。
「咲太」
声をかけてきたのは、出番を前に衣装に身を包んだ麻衣さんだった。
隣には、少し緊張しながらも誇らしげな表情を浮かべるのどかと、スウィートバレットのメンバーたちが並んでいる。
「麻衣さん、緊張してますか?」
「まさか。……ただ、胸がいっぱいなの」
麻衣さんはステージの向こうを見つめながら、優しく微笑んだ。
「開場と同時にね、入り口でとんでもないことが起きてるらしいわよ」
「とんでもないこと……ですか?」
「見に行ってきたら? 咲太」
麻衣さんに背中を押され、僕はスタッフの目を盗んで2階席の通路からエントランスの様子を覗き込んだ。
——そこにあったのは、僕の想像を遥かに超えた光景だった。
「これ、受け取ってください!」
「私も自分で作ってきました!」
入場ゲートに設置された大型の募金箱の周りに、長蛇の列を作った人々が次々と何かを手渡している。
それは、お菓子や靴の空き箱に色紙を貼り付けたもの、アクリル絵の具で絵を描いた小さな段ボール、
透明なペットボトルを切り抜いたもの——
全国から集まった観客たちが、それぞれの家で、それぞれの想いを込めて作ってきた「手作りの募金箱」だった。
重たく膨らんだ手作りの箱が、ひとつ、またひとつとスタッフの手によって集められ、受付の横に山のように積み上げられていく。
『アレ持っていかないとね』の正体。
それは、誰かに強制されたルールではなく、「自分たちの手で少女に届ける」という一人ひとりの優しさが形になったものだった。
「……すげえな」
あまりの光景に、胸の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
咲太、と後ろから静かに寄り添ってきた麻衣さんが、僕の手に自分の手を重ねた。
「みんな、同じ気持ちでここに来てくれたのよ。翔子ちゃんに、生きる未来を届けるために」
「はい……!」
やがて、会場の照明が落ち、万雷の拍手と歓声が武道館の天井を揺らした。
スポットライトがステージを照らし、麻衣さんとスウィートバレットのメンバーが中央へと歩み出る。
「皆様、本日はようこそお越しくださいました」
麻衣さんの凛とした声が静まり返った場内に響き渡り、客席の隅々まで染み渡っていく。
「今日、ここにあるのは音楽だけではありません。皆様が持ってきてくださった、あたたかい想いのすべてです。
一人の少女の未来へ、私たちの声を、想いを届けます!」
麻衣さんが深くお辞儀をすると、場内は割れんばかりの拍手に包まれた。
そして、隣に立つズッキー(広川卯月)が一歩前に踏み出し、弾けるような笑顔でマイクを握る。
「今日はみんな、来てくれてありがとう!」
「私たちは——」
「「スウィートバレットです!」」
ズッキーの掛け声に合わせ、メンバー全員が息の合った決めポーズを繰り出す。
……そしてその真ん中で、黒のドレスに身を包んだ麻衣さんが、
誰よりもキレのある完璧な動作で『スウィートバレットの決めポーズ』に加わっていた。
ズッキーが目を丸くして、隣の麻衣さんを振り返る。
「麻衣さんもスウィートバレットになったんですか?」
「そんなわけないでしょ! 麻衣さんの挨拶が台無しだよ!」
間髪いれずにのどかのツッコミが飛び、場内は大爆笑に包まれる。
「あはは、そうだよね!」
ズッキーはケラケラと笑うと、パッと表情を明るいアイドルスマイルに戻し、観客席へと大きく手を広げた。
「じゃあ、気を取り直して麻衣さんと一緒に歌います! 聞いてください——」
マイクを強く握りしめ、ズッキーが曲タイトルを叫ぶ。
「『BABY!』」
直後、
爆発するようなイントロと共に、チャリティライブが始まった。
客席一面に揺れるペンライトの光は、まるで咲太と麻衣さん、そして無数の人々が繋いだ「優しさの星空」のようだった。
手作りの募金箱に込められた温もりと、武道館を揺らす歌声。
数千万円の壁は、いま、日本中の優しさによって確かに壊されようとしていた。
無数のペンライトが揺れ、超満員の日本武道館を熱狂の渦に巻き込んだ「麻衣 with スウィートバレット」のチャリティコンサート。
目標金額の達成が確実となり、楽屋に戻ったメンバーたちは心地よい達成感に包まれていた。
「それにしても麻衣さん、ダンスもフォーメーションも完璧でしたね! もしかして密かに私たちのファンですか!?」
目を輝かせて詰め寄るズッキーに、のどかが間髪入れずに声を張り上げる。
「そんなわけないじゃんバカ! 変なこと言わないで!」
即座にツッコむのどかだったが、その瞳にはどこか誇らしげな色が混ざっている。
(……あの時、私のために血の出るような思いで完璧に覚えてくれたからに決まってるでしょ)
身体が入れ替わっていた時期の出来事を思い出し、呆れ顔を作るのどかを横目に、
麻衣は壁際に立つ咲太とちらりと目配せを交わして悪戯っぽく微笑んだ。
すると、のどかが少し照れくさそうに、けれど真剣な眼差しで麻衣に向き直る。
「……私の夢、おねえちゃんにばっかり先に叶えられてるのが悔しい。
だから……いつか私たちだけで、この夢に辿り着いてみせるからね!」
かつて「麻衣の背中」をがむしゃらに追いかけていた少女が、
一人のアイドル「豊浜のどか」として前を向いて放った誇り高き言葉。
麻衣は、心の底から愛おしそうな優しい笑顔を浮かべると、妹の頭をそっと撫でた。
「頑張りなさい、のどか」
お姉ちゃんからの温かい言葉に力強く頷いたのどかは、くるりとスウィートバレットのメンバーたちへ向き直る。
「よ〜し! いつか私たちだけで、武道館ライブやるよ!」
勢いよく拳を突き上げるのどかに、ズッキーが速攻で乗っかった。
「うん! 目指せ武道館!」
元気いっぱいに手を挙げるズッキーに対し、壁際で見守っていた咲太が脱力したように肩をすくめる。
「ズッキー……今、自分がどこにいるのか分かって言ってるのか?」
「あっ……ここ武道館だった!」
ズッキーの天然全開な返答に楽屋中からどっと笑いが起こる中、咲太は神妙な顔つきに戻り、メンバー全員を見回した。
「みんなお疲れ様、そしてありがとう」
「咲太のためにやったわけじゃないからね」
ツンと口を尖らせるのどかに、咲太は涼しい顔で返す。
「みんなの中に豊浜は入ってないから安心しろ」
「仲間はずれにすんな〜!」
「はは、豊浜には個人的に言うよ、ありがとう」
「……最初から言えって〜の」
小さく口の中で呟いてそっぽを向くのどかの頭を軽く叩いてから、咲太は隣に立つ麻衣へと向き直った。
「麻衣さん、お疲れ様でした。全部麻衣さんのおかげです。ありがとうございました」
改まった咲太の言葉に、麻衣は首を横に振る。
「何言ってるの? こうなったのは咲太が真剣に翔子ちゃんを助けようとしたからよ。だから、一緒に出来たの」
まっすぐに見つめ返してくる麻衣の瞳に、咲太は照れ隠しもせず、素直な気持ちを口にした。
「麻衣さん、好きです!」
「知ってる」
すまし顔で即答する麻衣の唇が、満足そうに小さく弧を描いていた。
武道館のチャリティコンサートで集まった善意と、全国から持ち寄られた「手作りの募金箱」に入っていた寄付金。
それらは、数千万円という追加費用の壁を軽々と飛び越え、翔子ちゃんをアメリカへ送るための十分すぎる力となった。
数日後、翔子ちゃんは専用の医療チャーター機で渡航。
現地での大手術と厳しい集中治療を乗り越え——無事に成功したという報せが届いた。
「咲太、一緒にアメリカ行くわよ」
自室でニュースを眺めていた僕に、麻衣さんが突然そう告げた。
「えっ、麻衣さんと遂に新婚旅行かあ」
「結婚してないのに新婚旅行な訳ないでしょ」
即座に返ってきた冷ややかなツッコミに、僕は肩をすくめる。
「翔子ちゃんに会いに行くのよ」
「バイトのシフト増やさないとなあ」
「それは帰ってきてからやりなさい。今週末から長い休みが取れたの」
「今週末? お金足りるかなあ……」
僕が本気で自分の銀行口座の残高を心配し始めると、麻衣さんは呆れたように吐息を漏らし、少しだけ頬を緩めた。
「私が貸してあげるから……咲太は私と一緒に行きたくないの?」
上目遣いで覗き込んでくる麻衣さんの反則的な可愛さに、思考回路が一瞬で吹き飛ぶ。
「行きたいです!」
数日後、太平洋を渡った僕と麻衣さんは、澄み切った青空の下にあるアメリカの総合病院の敷地に立っていた。
重厚なエントランスを見上げながら、僕はふと重大な問題に気づいて麻衣さんを振り返る。
「麻衣さん、翔子ちゃんの病室ってどこって英語でなんて言えばいいかわかります?」
「そんなの私も知らないわよ」
すまし顔で即答する麻衣さんに「頼もしいですね」と返そうとした、その時だった。
手入れされた病院の中庭に視線を向けた僕の動きが、ぴたりと止まる。
陽光が降り注ぐ青々とした芝生の上。
風にそよぐ白いワンピースを身に纏い、弾むような足取りで元気そうに遊んでいる一人の少女の姿があった。
かつて病室のベッドで儚げに横たわっていた面影はどこにもない。
そこには、太陽の光をいっぱいに浴びて、力強く命を輝かせる少女がいた。
胸の奥から溢れ出す熱いものを抑えきれず、僕は思わず声を張り上げていた。
「牧之原さん!」
声に反応して、白いワンピースの少女がくるりと振り返る。
その頬は健康的な桜色に染まり、瞳には眩しいほどの光が満ちていた。
僕と麻衣さんの姿を捉えた瞬間、彼女は花がほころぶような満面の笑みを咲かせた。
「はい! 咲太さん!」
…end