迷宮第十六階層。
冒険者組合の地図は、第十五階層で途切れている。
その先――通称〈死域〉。
ここまで来て、生きて帰れる冒険者はほとんどいない。
崩れかけた天井から、細かな砂がぱらぱらと落ちてくる。
壁には無数の傷が走り、石が大きく抉られた場所もあった。
ここがただの通路ではなく、幾度も激戦の場となったことを物語っている。
灯りをともすはずの魔石もほとんど砕け、通路の先は暗闇に沈んでいる。
――捧げなさい。
声が聞こえたわけではない。
だが、迷宮そのものがそう囁いたような圧が、身体を震わせた。
そんな暗い通路を、一人の男が歩いていた。
男の名は、タクミ。
どこから来たのか。
なぜ迷宮に潜り続けているのか。
それを知る者は、ほとんどいない。
この世界に迷い込んだとき、タクミは言葉すら話せず、何も分からなかった。
だからなのか、言葉を覚えた今でも、自分のことを誰かに話そうとはしない。
人と距離を置き、たった一人で迷宮へ潜る。
だがその強さゆえ、人はただ一言、畏れを込めてこう呼ぶ。
怪物。
タクミの背にあるのは、節の多い漆黒の棍棒。
身の丈ほどもある異様な武器を、彼は無造作に肩へ担いでいた。
歩みに迷いはない。
肩も揺れず、ただ前へ進む。
そのとき、通路の奥から微かな揺れが伝わってきた。
何かが、こちらへ近づいている。
ズシン。
肉の塊が石畳を踏みしめるような、鈍く重い音。
呼吸ともつかない低い唸りが、闇の向こうから這い寄ってくる。
現れたのは、灰銀の外殻に覆われた魔物――〈ゴルドグラント〉。
かつて三十人の衛兵部隊を全滅させたとされる階層の主。
大きく口を開き、咆哮を上げる。
そして次の瞬間、巨体からは想像できない勢いで地面を蹴った。
通路を揺らしながら、一直線にタクミへ突っ込んでくる。
タクミは足を止めた。
担いでいた棍棒を握り直し、一歩、前へ踏み込む。
――次の瞬間。
雷鳴のような轟音が、迷宮を貫いた。
振り抜かれた棍棒が、突進してきたゴルドグラントの頭部を正面から叩き潰す。
堅い外殻は砕け、甲殻片が飛び散り、巨体は数メートル先まで吹き飛ぶ。
床に叩きつけられた魔物は、そのまま動かなくなった。
濁った体液が石畳を伝い、じわりと靴先まで広がる。
石畳にはひびが走り、粉塵が舞い上がった。
だがタクミは、その亡骸を一瞥もしない。
手にした棍棒を見下ろす。
この世界に迷い込み、何も分からなかった自分が、ここまで生き延びることができた。
そのただ一つの理由は、これだった。
棍棒を肩に担ぎ直し、また歩き出す。
沈黙の中を、静かに進んでいく。
……この先に、帰る手がかりがあると信じて。