夕暮れの街に、鐘の音が三度響いた。
空はまだ赤く、通りには仕事を終えた人たちの姿が増え始めている。
そんな中、タクミはいつもより少し早く〈石蔦亭〉へ戻ってきた。
扉を開けると、ちょうどカウンターにいたカイルが顔を上げる。
「おっ、今日はずいぶん早いじゃないか」
皿を拭いていた手を止め、少し驚いたように笑う。
その奥にはエマもいた。
エプロンをつけたばかりなのか、髪を後ろでまとめ直している。
「おかえりなさい。ちょうど、私もギルドから戻ったところです」
「……オカエリ」
タクミが返すと、エマが一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それ、私が言う方ですよ」
「飯、これからにしようと思ってたんだ。三人でどうだ?」
カイルに言われ、タクミは頷く。
「キガエタラ スグ イク」
棍棒をいつもの壁際へ静かに立てかけ、そのまま階段へ向かう。
石の階段に靴音を響かせながら上がっていくタクミを、エマはしばらく見送っていた。
「……よかった」
ぽつりと呟く。
いつもなら、タクミが戻ってくるのはもっと遅い。
まだ外が明るいうちに帰ってくるのは、久しぶりだった。
◇
着替えを済ませたタクミが食堂へ下りると、夕食の準備はほとんど終わっていた。
テーブルには香草の入ったスープと焼きたてのパン。中央には、肉と根菜を煮込んだ鉄鍋が置かれている。
タクミが席につく頃には、エマも向かい側へ座っていた。
「さ、食べましょう」
「ウン」
タクミはスプーンを手に取り、まずはスープを口に運ぶ。
温かい。
迷宮にいる間は保存食で済ませることも多いだけに、こうして温かいものを食べるだけでも随分違った。
肩の力が抜けていく。
パンを手に取ったところで、カイルが口を開く。
「そういや、迷宮は大丈夫なのか?」
タクミが顔を上げる。
「この前、けっこう大変だったみたいじゃないか」
「イマハ ダイジョウブ」
あれからタクミは、普段の探索も兼ねて迷宮内を見て回っていた。
魔物の数や動き。普段とは違う場所に強い魔物が出ていないか。
何日か続けて確認しているが、今のところ大きな異常は見つかっていない。
「最近、巡回シテイル。マモノ、オチツイタ」
「へぇ、そうなのか」
それを聞いたカイルが、少し安心したように息を吐く。
エマも嬉しそうに頷いた。
「タクミさんが巡回し始めてから、みんな安心して行けるようになったんですよ」
ギルドで働いているエマは、冒険者たちの様子を毎日見ている。
魔奔の直後は迷宮へ向かう者もかなり減っていたが、最近は少しずつ以前の賑わいが戻ってきているらしい。
「本当に、ありがとう」
「さすが、タク!」
カイルまで嬉しそうに言ってくる。
タクミは少し困ったようにパンをちぎった。
「……シゴト。シゴト」
その返事がおかしかったのか、エマが口元を手で隠して笑った。
そのとき、中指につけられた指輪が目に入る。
二人は、少し前に結婚した。
(……来たときは、二人ともオレの腰ぐらいしかなかったのにな)
タクミは向かいに並ぶ二人を見る。
(いつの間にか大人になって、結婚か……)
十年。
言葉にすれば、それだけだ。
けれど、目の前の二人を見ていると、自分がこの世界で過ごしてきた時間を改めて感じる。
「そういえばさ」
カイルがパンを頬張りながら、いたずらっぽく笑った。
「セリエルさんに、いつ告白するんだよ!」
「……エ?」
持っていたスプーンが止まる。
「アー、チガウヨ」
「また誤魔化したな! もうすぐ他所にいっちゃうんだぞ!」
何を言い出すんだとタクミが眉を寄せる横で、エマまで話に乗ってくる。
「そうですよ。それに最近、セリエルさん、ロイさんと一緒にいるのをよく見ますよ。取られちゃいますよ?」
「ロイ?」
タクミの表情が、一瞬だけ変わった。
けれどすぐ、表情を戻してパンをちぎった。
(……何で)
二人が一緒にいる理由を考えながら、タクミは黙ってパンを口へ運んだ。
「ロイさん、顔立ちもいいし、仕事ぶりもいいから、乗り換えられちゃいますよ?」
エマは半分からかっているようだった。
「タクは迷宮に篭りすぎなんだよ。もうちょっと会う時間作らないと」
カイルにも言われ、タクミは視線を落とす。
少し考え込む。
すると、それを別の意味に受け取ったらしいエマが、慌てて身を乗り出した。
「だ、大丈夫ですよ、タクミさん。セリエルさん、ロイさんのこと意識してませんから!」
「なんでわかるんだ?」
「んー、女の勘? 距離感でわかるんです」
エマが自信ありげに頷く。
カイルは納得したのかしていないのか、微妙な顔をしていたが、すぐにタクミへ向き直った。
「とにかく、セリエルさんもずっと待ってくれるわけじゃないんだからさ。早く気持ち伝えとけよ」
カイルが肘でタクミをつつく。
そこでようやく、タクミは顔を上げ、少しだけ口元をゆるめた。
「セリエル、トモダチ。ムコウモ オナジ」
「照れるな!」
「……ゴハン、サメル」
「誤魔化そうとするな!」
エマが吹き出した。
つられてカイルも笑い出す。
タクミは二人を横目で見ながら、何も言わずに残っていたパンをちぎった。
いつの間にか外は暗くなっていた。
その夜も石蔦亭の食堂には、しばらく三人の笑い声が響いていた。