迷宮には、破ってはならぬ掟がある。
一つ、死んだ仲間を運ぶな。
迷宮は魂を喰う。連れ帰ろうとすれば、お前まで呑まれる。
二つ、群れるな。
十を越えりゃ、迷宮が怒る。あれは"数"を嫌う。
そして――三つ、エルフに出会うな。
見たら逃げろ。祈れ。戦う前に死ぬ。
古くからの冒険者は、これを"迷宮の三禁"と呼んだ。
忘れた者は、皆、迷宮に喰われた。
◇
――オークの亡霊。
それは、グランデルの迷宮に突如として現れた。
最初の予兆は、小さな異変だった。
儀礼のために狩りへ向かった下級戦士が、一人、帰らなかった。
迷宮で消息を絶つこと自体は珍しくない。
魔物の群れ、あるいは儀礼の獲物に敗れることもある。
しかし――立て続けに三つの部隊が姿を消した。
迷宮は天使様の加護のもとにある。
加護がある限り、エルフの部隊が容易く全滅することなど、まずありえない。
――何かが起こっている。
そんな噂が広がり始めた頃、一人の戦士が生きて戻ってきた。
「オークの生き残りがいた」
錯乱した妄言として処理されるはずだった。
だが、かつて一匹残らず滅ぼしたはずの、あの強大な種族。
だが、もし本当に生き残りがいるのなら――放置はできない。
議会はすぐに決断を下した。
中級戦士を中心とした調査団を派遣し、正体を突き止めよと。
そして、報告は途絶えた。
帰還した者はわずか一名。
全身に傷を負い、光の加護も癒しきれぬまま、こう証言した。
「オークの武器を使う――人間の姿を見た」
その言葉に、場は静まり返った。
誰もが、その意味をすぐには受け入れられなかった。
◇
白石に囲まれた会議室には、五人のエルフが集められていた。
天井には翼を模した彫刻が並び、壁際の魔灯が淡い光を放っている。
机を囲む五人は、いずれも上級戦士。その名を知らぬ者はいないほどの実力者たちだった。
「――それで、我々が招集されたってわけね」
金髪を後ろで束ねた若い女エルフが口を開く。名はフェルナ。
まだ百にも満たぬ若輩ながら、風の魔法を得意とする俊敏な戦士である。
「そうだ」
答えたのは、深緑の外套を羽織った壮年の男――エルドラン。
聖翼遠征隊の隊長を務める人物だった。
低い声が室内に響いた。
「中級戦士団が壊滅した。上層は異常事態と判断した」
「それにしても、過剰な反応ではないか」
鋭い目つきの青年カイゼルが、腕を組んで唸る。
「ここまでの顔ぶれを揃えるなど、まるで戦だ。人間相手にそこまで警戒する理由があるのか?」
「上層の判断だ」
エルドランは淡々と返した。
「裏を取ったが、天使様から神託が下りたらしい。――これは儀礼の狩りではなく、討伐任務だ」
その一言に、場の空気が一変する。
誰もが息を詰めた。神託――その言葉が意味するものはひとつ。
天使様からの直接の指令、つまり最優先任務。
「神託、ね」
フェルナが呟く。
「人間相手に? そんな話、聞いたこともないわ」
「おもしろいじゃないか」
そう言って笑ったのは、銀髪の弓手リアンナだった。
椅子の背にもたれたまま、背中の矢筒に軽く触れる。
「魔族も獣人も、近頃は骨のある相手がいなかった。久々に腕が鳴る」
その口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「相手が"亡霊"でも、手加減はしないさ」
その軽口に、場の緊張が少しだけほぐれる。
だが、エルドランだけは表情を変えなかった。
リアンナの視線が、端に座る静かな女性へと向く。
「浮かばれない顔をしているが……あなたも参加されるのね? ミルセ様」
呼ばれた女性は、淡い金髪を揺らしながらゆっくり顔を上げた。
穏やかな性格で信仰にも篤い、支援術を得意とする上級戦士だった。
「……任務とはいえ、同じ信仰を持つ人間かもしれません。気は進まないですね」
その言葉に、フェルナとリアンナが顔を見合わせ、苦笑した。
「新世代ね」
どちらともなく小声が漏れる。
「やめろ」
エルドランが短く制した。
「ミルセ様、同胞に犠牲者が出ております。信仰の名を掲げながら、加護を汚す者がいるのなら、それは正さねばなりません」
そして、少しだけ声を和らげる。
「貴方の支援術があれば、我らの損害を減らせますゆえ。……どうかお願い致します」
ミルセはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
それを確認すると、エルドランは席を立った。
「出発は月が沈む頃だ。それまでに祈りを済ませておけ」
今度は誰も口を挟まなかった。
◇
夜明け前。
王都ルメシアの外縁、回廊区画の石畳には冷気が漂い、白い霧が薄く流れている。
鐘が三度鳴る。祈りの時間を告げる合図だった。
エルドランは外套の襟を正し、無言で前を見つめた。
列の後方では、リアンナが弓帯を締め直し、カイゼルが鎧の留め具を鳴らしている。
フェルナは肩に魔具袋を下げ、ミルセは胸の前で祈りの印を結んだ。
「行くぞ」
五人は王都の外壁を抜け、迷宮へと続く通路を進む。
壁には一定の間隔で魔灯が並び、青白い光が足元を照らしている。
しばらく進んだところで、狩りへ向かう下級戦士たちとすれ違った。
彼らは五人の姿を見るなり足を止めた。
そして〈上級戦士部隊〉の徽章に気づくと、慌てて膝をついて頭を下げる。
「……お通りください、守護の方々」
誰かがそう呟いた。
その声には、敬意と、ほんのわずかな畏怖が混じっていた。
エルドランは足を止めずに通り過ぎる。
「顔を上げろ。任務に戻れ」
彼らが通り過ぎたあと、下級戦士たちは互いに目を合わせ、囁いた。
――上級戦士が動いた。
――神託は本当らしい。
そのまま長い通路を進んでいくと、やがて巨大な扉が見えてきた。
金属のような光沢を放つ白石の扉。
中央にはいくつもの魔印が刻まれ、淡い光の膜が向こう側を覆っている。
「――開け」
エルドランの声に応じて、封印が反応する。
一つ、また一つと光が走り、やがて低い音とともに封印が解けていく。
光の幕が消え、黒い空洞が現れる。
世界各地の迷宮へ繋がる――〈回廊〉。
五人はゆっくりと、その中へ入っていった。
しばらく進むと、青白かった魔灯の色が少しずつ変わっていく。
空気も乾き、どこからか鉄臭さが漂ってきた。
さらに進んだ先に、石造りの小砦が見えてきた。
それが、グランデル方面へと繋がる前哨基地――迷宮との境に設けられた監視拠点である。
数名の兵士が慌ただしく迎えに出てきた。
「お待ちしておりました、エルドラン隊長!」
「状況報告を」
「はっ、ここ三日、異常な魔力の揺らぎが確認されています。深層からの瘴気が増しており、魔物の行動域が拡大中とのことです」
エルドランは頷き、視線を前に向けた。
迷宮への階段。その先の暗闇が脈打って見えた。
「……行くぞ」
短く告げると、彼は封印門の奥へと歩を進めた。
誰も言葉を発しなかった。
やがて、その姿は一人、また一人と闇の中へ消えていった。
◇
――同時刻。"亡霊"が静かに下層に向けて進んでいた。