中層の中でも、ここだけ空気が冷たかった。
岩盤がねじれ、長い一本道になった場所――〈狭間の道〉。
天井は波打つように歪み、ところどころから岩が飛び出している。
少し大きな音でも立てれば、そのまま崩れてきそうだった。
足元には、小さな骨がいくつも転がっている。
人間のものらしき骨もあるが、それ以上に目につくのは、大きな細長い骨だった。
幅は、小隊が横に並んでも進めるほど。
その先は闇の中へまっすぐ伸びている。かなり長いのか、途中から霞んで先が見えなかった。
中層から下層へ向かうには、ここを通るしかない。
だから――オークの亡霊も、必ずここへ来る。
エルドランが手を上げた。
「全員、ここで止まれ」
低い声だった。
それだけで隊の空気が引き締まる。
肩当てを軽く直し、エルドランは狭間の道の奥を見た。
「ここから先は一本道だ。……もうすぐオークの亡霊はここへ来る」
リアンナは肩をすくめ、大げさにため息をつく。
「作戦通りねぇ。はぁ、つまらないのよね。もっと遊ばせてくれたらいいのに」
「ダメだ」
エルドランはすぐに返した。
「これは狩りではない。討伐だ。――リアンナ、狙撃の準備を」
「はいはい、やりますよ」
フェルナはすぐに〈探知〉を広げ、カイゼルは後方へ目を向ける。
リアンナはぶつぶつ文句を言いながらも、手は止めない。
大弓を床に立て、弓身を撫でる。すると、刻まれた風の紋が淡く光り始めた。
その少し後ろで、ミルセは胸に手を当てていた。
(……やっぱり、嫌い。こういう空気)
ミルセは王都の貴族出身だ。
祈禱術に長けた一族に生まれ、幼い頃から周囲の期待を受けて育った。
本来なら、迷宮での任務に参加する必要などない立場にいる。
だが、今回は断りきれなかった。
(人間なんて……下等種なんかじゃない。
天使様を信仰している人も多いって聞くのに。どうして、こんな……)
他種族を狩る。
エルフの間では、昔から続いてきた古い伝統だ。
だが、ミルセは嫌いだった。
相手が人間だから、エルフではないから――そんな理由で命を奪うことが、どうしても受け入れられない。
彼女の内心が晴れないまま時間が過ぎ――。
◇
「……来たね」
リアンナが弓を半ば引いた姿勢で、耳をそばだてた。
フェルナも眉を寄せた。
「一体……足音が聞こえる。人間よ」
「ねぇ、本当に確認しなくていいの? オークの亡霊じゃない可能性だって――」
「構わん」
エルドランが遮った。
「たとえ間違っていても問題はない。撃て。……亡霊でなくとも、邪魔をするなら排除する」
(そんな……)
ミルセの口が思わず開く。
だが、声が出る寸前で唇を閉じた。
リアンナは軽く肩を回す。
「了解」
片膝をつき、左足を伸ばす。
身体を固定すると、大弓に矢をつがえた。
矢の輪郭が、風に溶けるように薄くなっていく。
同時に、リアンナの周囲で風が渦を巻き、視界に魔力の網が広がった。
迷宮の簡易マップが浮かび、そこに――小さく点滅する光点。
オークの亡霊。
(……あら?)
リアンナが小さく笑った。
(足音を……消してる? へぇ。やるじゃないの)
ほとんど聞こえない。
それどころか、意識して聞かなければ、そこに誰かがいることすら分からないほどだった。
時折、スタ、と小さな足音だけが聞こえる。
そして次の一歩は、また完全に消える。
どうやら、かなり上手く足音を殺しているらしい。
ミルセの祈禱術で探知が強化されていなければ、リアンナでも見落としていたかもしれない。
(どんな顔をして倒れるのか、見たかったわ)
光点が――射程へ入った。
「今」
矢が放たれた。
風魔法が矢を包み、狭間の道を雷光のように駆け抜ける。
曲道を風が強引に引き寄せ、矢は誘導されるように目標へ吸い込まれた。
――直撃。
その直後、足音が止まった。
――だが。
スタ、スタ……。
「……外れた?」
止まったはずの足音が、また聞こえてくる。
何事もなかったように、こちらへ歩いてくる。
フェルナが目を見開いた。
「――いや」
リアンナの笑みが消えた。
「当たってる。絶対に」
すぐに二発目が放たれた。
矢は吸い込まれ、また直撃。
だが、足音は今度も止まらず――否、速くなっている。
「……矢は当たってる! でも……!」
フェルナの声にも焦りが混じる。
リアンナは舌打ちし、三本目をつがえた。
光点はもう、狭間の道の入口まで来ている。
目視できる距離。
「なんなのよ……!」
矢をつがえた、その瞬間だった。
足音が消えた。
(え……?)
バキンッ!
何かが弾けるような音が響いた。
同時に、亡霊を示していた光点が――リアンナの目の前へ跳んだ。
リアンナが目を見開いた、その刹那。
黒影が闇を裂くように現れ、棍棒を――横一文字に振り抜いた。
風が砕けるような音。視界が白く弾ける。
リアンナの身体が斜め後ろへ吹き飛び、壁へ叩きつけられる。
そのまま崩れ落ち――動かなくなった。
転がった矢筒が、カラリと乾いた音を立てた。
リアンナがいた場所には、棍棒を肩に担ぎ直す"亡霊"の姿。
動作はゆるやかで、あまりにも自然。
しかし、その異様さにエルフたちは――誰ひとり声を出せなかった。
目の前で何が起きたのか。
まだ、誰も理解できていなかった。