リアンナが崩れ落ちた。
だが、エルドランに駆け寄る余裕はなかった。
剣を抜き、目の前の男を見据える。
(――こいつが……"オークの亡霊"!)
"オークの亡霊"は外見だけ見れば、ただの人間の戦士。
粗末な外套に、無骨な革の胸当て。
特別な防具もなく、派手さも威圧もない。
だが。
その肩に担がれた"ソレ"だけが違った。
黒く煤けた大きな棍棒。
それを目にしただけで、エルドランの胸に本能的な嫌悪が込み上げた。
かつて自分たちが滅ぼしたオーク族、奴らが振るった"あの棍棒"。
エルフたち全員が、すぐに理解した。
目の前にいる男こそ、自分たちが追ってきた相手だ。
そして。
――これは、ただの人間ではない。
"亡霊"は静かに眼だけを動かした。
刹那、全員の位置と距離、視線と呼吸を読み取る。
リアンナが倒されたことで、完全に虚を突かれた。
しかし、エルフの精鋭たちは即座に動いた。
「うおおッ!」
真っ先に飛び出したのはフェルナだった。
地面を蹴り、抜刀と同時に一気に間合いを詰める。
カイゼルが詠唱と同時に前に躍り出る。
薄く青い光――〈聖障壁〉が展開される。
狭間の道が、怒号と魔力光で揺れた。
フェルナの刃が、亡霊の肩口へ迫る。
――その瞬間。
亡霊の姿が、残像だけを残して消えた。
(――っ!?)
フェルナの驚愕が残像に向いている間に。
ドオンッ!!
轟音が、空間全体を震わせた。
(――カイゼル!?)
振り向いたフェルナの目に映ったのは、
障壁ごと破砕され、壁に叩きつけられるカイゼルの姿。
粉々に粉砕された障壁が、光の粒子となり舞う。
その向こうに――亡霊がいた。
亡霊は、棍棒を振り切った姿勢で静止していた。
しかし、その身体はすでにフェルナへ向いていた。まるで、何かを投げ終えた後のように。
(……何?)
フェルナの視界が、不意に遅くなった。
何かがこちらへ飛んでくる。
身体を動かそうとしているのに、目に映る景色だけがゆっくりと流れていく。
そして、何もなかったはずの空間に、少しずつ輪郭が浮かび始めた。
最初は空気の揺らぎ。そして鋭い光沢の矢尻。
――リアンナの放った"隠蔽矢"。
真ん中から、へし折れている。破壊されている。
だが、"隠蔽魔法"だけがまだ生きていた。
ゆえに気づくのが遅れた。
「……っ!」
避けようと足に力を込めた瞬間。
――矢は、フェルナの額を貫いた。
その勢いのまま、フェルナの身体が後ろへ弾き飛ばされる。
フェルナは驚いたまま、声もなく倒れた。
瞬く間にリアンナ、フェルナ、カイゼルが倒れた。
こちらを向く亡霊に、エルドランは静かに呼吸を整えた。
――強すぎる。
想像していた以上だった。
しかしその中でこそ、冷静に判断できるのがエルフの戦士長だった。
逃げても追いつかれる。
自分が囮になったところで、ミルセを逃がせるとは思えない。
降伏は使命に反する。
なら――残っている道は一つだけだ。
(――倒すしかない、か)
エルドランは意を決し、切り札を解放した。
――〈雷身〉。
青白い稲光がエルドランの全身を包む。髪が逆立ち、焦げたような臭いが辺りに広がった。
エルドランは地面を蹴った。雷を纏う彼の肉体は、常人の目では捉えられない速度に達する。
(棍棒の初動を見切り、打ち終わりを狙う……!)
亡霊が棍棒を握り直した。
――上か。
――横か。
――突きか。
エルドランの全神経が亡霊の肩の角度、足の軸、視線の揺れに向けられる。
そして――。
亡霊は棍棒を、ゆっくりと振り上げた。
(上!)
エルドランは〈疾風〉を発動し、視界が一瞬にして横へ流れ――
地を滑るように横へ回避した。
棍棒が降り下ろされる。死の一撃が肉薄するが、その地点にエルドランはいない。
(――取った!)
エルドランは視線を亡霊へ戻し、そのまま踏み込む。
剣を振り抜こうとして――気づいた。
そこには既に――
棍棒を"二撃目"として振り下ろそうとする亡霊の姿があった。
最初から、そのつもりだった。
初撃を避けさせる。
そして、避けた先へ二撃目を叩き込む。
亡霊は、自分なら間に合うと確信していた。
(狙われていたか…。だが)
棍棒が落ちる――雷より速く。
エルドランは雷光を散らしながら受け身を取る間もなく――地面に叩き潰された。
その瞬間。纏っていた〈雷身〉が反応し、バァンッ!!と爆ぜる。
白い閃光が亡霊を包み、焦げた布と煙が舞い上がる。
血の中に倒れたまま、エルドランはわずかに口元を緩める。
(どうだ……この一撃――)
しかし。
亡霊は、ゆっくりと首を回し、まるで何ともなかったかのように棍棒を肩に担ぎ直した。
燃えかけた外套の破れを払うと、静かな目で、最後の一人へと向き直る。
ミルセ。
「……っ」
震える足で後退しながらも、握った杖だけは離さなかった。
それでも、喉の奥から漏れる震えは止められない。
「……あ……」
亡霊は一歩、歩いた。
――逃げ場はもうなかった。