迷宮から戻ったタクミは、そのまま〈石蔦亭〉の扉を押し開けた。
中に入ると、温かい空気が頬に触れる。
焼き立てのパンと野菜スープの匂い。
その奥に、ここが神殿だった頃から残る香の匂いが微かに混じっていた。
夜の宿は、まだそれなりに賑わっている。
食堂から話し声が聞こえ、カウンターではカイルが皿を拭いていた。
「おかえり、タク!」
カウンターの奥からカイルが大きく手を振る。
「タダイマ」
いつも通りの短い返事。
だが、エマはすぐに気づいた。
いつもより、少し声に元気がない。
皿を抱えたまま、少し心配そうに目を細めた。
近寄ったエマの視線が、タクミの外套の破れと返り血に向く。
そして、首元に見える腫れで止まった。
まるで葉の脈のように、火傷が広がっている。
だが、そのことを口には出さなかった。
「今日のご飯、軽めのも残ってるよ!」
「……ソレ タノム」
タクミはそれだけ答えると、階段を上がっていった。
◇
階段を上がるたび、石を踏む音が響く。
廊下にはいくつか灯りが点いていた。
壁に残った神殿時代の模様が、その光でぼんやりと浮かんでいる。
外套を脱いだ途端、焦げた草と金属のような匂いが微かに漂った。
(……危なかったな)
改めてさっきの戦闘を思い出し、息を吐いた。
強力な一撃をまともに受けたのは久しぶりだった。
身体にも、まだ少し痺れが残っている。
タクミは汚れた服を脱ぎ、簡単に身体を拭いてから着替えた。
食堂へ戻ると、カイルがちょうど料理を運んできた。
「はい、軽めセット!」
「アリガトウ」
タクミが食べ始めると、エマがそっと近づいてきた。
「タクミさん……その、大丈夫ですか?」
声は控えめで、無理に踏み込まない優しさがあった。
タクミは一度だけ目を上げ、柔らかく言う。
「……ダイジョウブ。シンパイ イラナイ」
その一言に、エマは安堵したように微笑み、静かに離れた。
◇
食事を終えると、タクミは部屋へ戻った。
ベッドに腰を下ろし、そのまま壁に背を預ける。
「…………」
静かだ。
下の食堂から聞こえてくる話し声も、ここまで来るとかなり小さい。
今日はこのまま寝てしまおうか。
そう思い始めたところで――。
――コン、コン。
「タクミさーん、来客だよー!」
(……俺に?)
扉を開くと、ニヤニヤ顔のカイルが立っていた。
「セリエルさんが来てるよ」
「…………セリエル?」
その瞬間、カイルの顔が少しだけ真剣になる。
部屋からはいつもにはない、焦げ臭さと薄っすらと血の匂い。
「……下で待ってるけど、……断っとこうか?」
さっきまでのふざけた調子はなかった。
「……ダイジョウブ。スグ イクヨ」
「……そっか」
カイルはそれ以上聞かなかった。
「じゃ、待ってるって伝えとく」
◇
階段を下りると、セリエルは入口のそばで待っていた。
食堂の賑わいも、ここまではほとんど届かない。
薄暗いロビーに、いくつかの灯りだけが残っている。
タクミの姿が見えると、セリエルがこちらを振り返った。
「こんばんは、タクミ。……今日、この近くで負傷者の治療をしておりました。
せっかくでしたので、あなたの安否確認を、と」
建前はあくまで職務。
しかし、声の奥には微かな揺れがあった。
「……オレ、ダイジョウブ。イツモドオリ」
その言葉に、セリエルの視線が、タクミの全身を確かめるように動いた。
そして、肩の力を抜いた。
「……良かった。いえ、失礼。無事なら、それで……」
タクミは少し考え、口を開く。
「ナニカ、タベル?ココデ」
一瞬だけ、セリエルの表情が止まった。
食堂の方へ視線を向け、それからタクミへ戻す。
本当は、もう少しここにいたかった。
だが――任務がある。
「……ありがとうございます。でも今日は、神殿へ戻らないと。
また……誘ってくださいね」
「……ワカッタ」
セリエルはタクミを見つめながら、静かに踵を返した。
タクミはその背を、しばらく目を細めて眺めていた。
表情は変わらないが、わずかに瞳の奥だけが鋭くなる。
セリエルの姿が街道の角で見えなくなると、振り返り歩き出す。
階段の影に、カイルとエマの二人が頭を並べている。
「……なぁ、アレ絶対両想いだよな」
「うん。タクミさん、気づいてないけどね……」
◇
その夜。
タクミは早めに寝床へ入り、眠りについた。
――光。
身体に、凄まじい衝撃が走った。
何が起きたのか分からない。
視界が回り、次の瞬間には地面が目の前にあった。
身体が動かない。
(……)
それなのに――。
なぜか、少しだけ笑いたくなった。
(……とど……い……た……か……)
誰かの声が、鮮明に響く。
タクミは跳ね起きた。
胸が苦しい。
腕に痺れが残り、背中に鋭い痛み。
しばらく黙って首をさすり――。
『……効いてるよ』
ぽつりと呟いた。