闇の奥から地上へ続く道を、タクミは一人で歩いていた。
迷宮第十六階層〈死域〉での探索を終え、長い階段を黙々と登っていく。
石造りの通路はところどころ天井が低く、肩に担いだ棍棒が岩壁をかすめた。
湿った壁には苔が生え、天井から落ちた水滴が、石床に小さな音を立てる。
階層を上がるごとに、空気はわずかに軽くなっていく。
それでも、深層に漂っていた鉄臭さは、まだ喉の奥に残っていた。
五層目に入ったあたりで、足を止めた。
深層よりも天井は高く、岩肌も乾いている。
ところどころに古い採掘跡があり、壁際には焦げた焚き火の跡や、壊れた木箱が放置されていた。
上層と比べれば暗く静かだが、人の気配はまだ戻ってこない。
そんな通路の先に、何かが倒れていた。
「……」
近づくと、それは冒険者の遺体だった。
胸から腹にかけて深々と裂かれ、装備は半ば壊れている。
血はまだ温かく、石床にじわじわと広がっていた。
死んでから、それほど時間は経っていない。
タクミは無言で膝をつき、遺体の肩を抱え起こした。
(若いな……)
すでに生気はないが、幼さを残す顔を見て心中でつぶやく。
――せめて仲間のもとへ返してやらねば。
そのまま遺体を肩に、ゆっくりと担ぎ上げた。
その瞬間だった。
――置いていけ。
声が聞こえたわけではない。
だが、迷宮そのものが意思を持って囁いたかのような圧が、全身を包む。
足首を掴まれたように動きが鈍り、背筋に冷たいものが走った。
その瞬間、遠くから湿った足音と、壁を爪で引っかく甲高い音が重なって響いた。
本能が危険を告げる。
タクミは一瞬だけそちらへ視線を向けると、遺体を担いだまま、一気に駆け出した。
――迫りくる魔物の気配を感じ、棍棒を片手で持ち直す。
途中、暗がりから魔物が何度か飛びかかってきた。
だが、そのたびに棍棒が振るわれ、魔物は石床へ叩き落とされていく。
迷宮の禁忌を冒しながら、出口に向けてタクミは疾走した。
しばらくして通路の壁がなめらかな石から粗い岩肌へと変わり、風がわずかに入り込む。出口に近づいている証だ。
すれ違う小規模なパーティーが、タクミと目が合うと黙って道を譲った。彼の肩の荷を見て、その表情を曇らせた。
やがて前方に白い光が滲み始める。
迷宮の入口は山裾に開いた巨大な洞穴であり、その周囲には木柵で囲われた前線拠点が築かれている。
いくつもの焚き火が赤く燃えていた。見張りの兵たちが、槍を手に周囲を歩いている。
門の脇には詰所と柵があり、槍を手にした二人の門番が立っている。
一人と目が合い、互いに軽く顎を引いて会釈を交わす。
言葉は要らない――顔見知りには、それで十分だった。
タクミは遺体を門番に預けようと足を止める。
すると、
「おい……! あれ!!」
近くにいた若い冒険者たちが声を上げながら駆け寄ってきた。
泣き叫ぶような呼びかけで、誰がこの遺体の仲間なのかは一目で分かった。
タクミは遺体を地面に優しく下ろす。
「そんな……!」
仲間の女性が膝をつき、顔を見た瞬間、押し殺せない悲鳴が藍色の空に響いた。
彼らは必死に名前を呼び続け、震える手で遺体に触れた。タクミはしばらくその様子を見ていたが、何も言わず、その場を離れた。
木柵を抜け、山道を歩き出す。
森を渡る風が、迷宮の瘴気を洗い流すかのように頬を撫でた。
やがて視界の先に、城壁に囲まれた街の灯火が揺らめく。
自由都市グランデル――迷宮を背に生きる人々の街だ。
この場所で、何度この光を遠くから見つめただろうか。
◇
石畳を踏みしめて街へ入ると、馬車の車輪の音、商人たちの呼び声、焼き立てのパンや香辛料の匂いが押し寄せてくる。
屋台では香草を混ぜた串焼き肉が並び、子どもたちが銅貨を握って順番を待っている。
露店の明かりは油と魔石の混合灯で、淡い青白さが通りを照らしていた。
冒険者ギルドは、広場の一角にあった。
大きな扉を開けると、革と油の匂いと、冒険者たちの賑やかな声が聞こえてくる。
中では依頼を吟味する者、報告を終えて酒をあおる者、仲間を失って肩を落とす者。
――それぞれの生と死がこの空間に渦巻いていた。
タクミは受付に歩み寄り、簡潔に報告を済ませる。
ざわめきの奥で、タクミの背を誰かがじっと見つめていた。
タクミは気づかぬまま外へ出た。
宿「石蔦亭」は街の外れにあり、花崗岩造りの外壁に濃い緑の蔦が絡みついている。
扉を押し開けると、天井は高く、床は磨かれた石造り。壁や梁には、古い模様や花の彫刻がうっすらと残っていた。
「おかえり! タク」
「タダイマ」
カウンター越しに青年が挨拶を寄こす。タクミは軽く手を上げて返し、そのまま階段を上った。
自室に戻り、ようやく息をつく。
部屋にあるのは、机と椅子、それに寝台くらいだ。窓の外には街の灯火が広がっている。
棍棒を壁際に立てかけ、肩の荷を降ろすと、壁に掛けられた日めくりに目をやった。黄ばんだ紙束は、長い年月を物語っている。
タクミはしばらくそれを眺めてから、今日の日付をめくる。
(……十年か)
この世界に来てから、十年。
迷宮へ潜り続けても、元の世界へ戻る方法は見つかっていない。
(この先、俺は帰れるのか……)
答える者はいない。
窓の外では、いつもと変わらないグランデルの夜が続いていた。