エルフ領と世界の迷宮を繋ぐ、回廊前哨地。
青白い魔法灯に照らされた広間には、前哨地の役職者たちがずらりと並んでいた。
誰も口を開かなかった。
皆、これから来る人物を待っている。
やがて廊下の奥から足音が聞こえてくると、守衛が両開きの扉を開いた。
外から白い光が差し込む。
その中を、背の高い女が一人、歩いてきた。
白と蒼を基調とした長衣。
銀白色の長い髪が、歩くたびにわずかに揺れる。
右手には、先端に淡い青の宝玉を埋め込んだ白銀の杖。
セラフィーネ・ルヴィアナ。
宮廷魔導師長。
そして、天使の声を聞くことを許された者。
長い歴史の中で、エルフが他種族と争ったことは幾度もある。
だが、彼女が戦場へ送られるのは、その争いを終わらせると決めた時だけだった。
そして、セラフィーネが赴いた戦場で、戦いが長引いたことは一度もない。
軍団を率いることもなく、一人でこの前哨地へ直接足を運んだ。
それだけで、今回の件がどれほど重く見られているかを示すには十分だった。
彼女が広間へ足を踏み入れる。
並んでいた者たちが一斉に膝をついた。
誰かが命じたわけでもなく、それが当然であるかのように、全員が頭を垂れる。
その中から、軍団長だけが立ち上がった。
セラフィーネの前まで進み、背筋を伸ばす。
「遠路お越しいただき、ありがとうございます。今回のグランデル迷宮の異常について、まず私からご説明を――」
「記録を」
軍団長は一瞬口をつぐみ、すぐに頭を下げた。
「……はっ。こちらです」
セラフィーネはそれ以上何も言わず、案内された水晶盤の前へ向かう。
水晶盤には、グランデル迷宮で起きた魔力の変化が記録されていた。
その表面に、細い指先が触れる。
次の瞬間――。
青白い光が一気に広がった。
空中に無数の文字列が浮かび上がり、上から下へ流れ始める。
それは文字に似ているが、どの国の言葉でもない。
迷宮に残された魔力の痕跡を、特殊な術式によって読み取れる形にしたものだった。
一つ、二つ。
さらに三つ。
次々と新しい列が現れ、やがてセラフィーネの周囲を埋め尽くしていく。
熟練した分析官でも、同時に追えるのは二、三列が限界だ。
それ以上を展開すれば、情報を処理しきれない。
そもそも、術式を維持するだけでも大量の魔力を消耗する。
だが――。
セラフィーネの前には、数える気にもならないほどの文字が流れていた。
彼女は瞬きもせず、その一つ一つへ視線を走らせていく。
しばらくして、セラフィーネが口を開いた。
「生存者がいますね」
「……はい。一名おります。現在は療養中です」
「そう」
セラフィーネは、それ以上何も聞かなかった。
再び流れる文字へ視線を戻す。
――生き残ったのは、上級戦士ミルセ。
上級戦士団がほぼ全滅した中、彼女だけが傷一つ負わずに帰還している。
しかもミルセは、軍部に強い影響力を持つ有力貴族の家系に連なる娘だった。
敵との内通を疑われれば、反対派にとって一族を追い落とす格好の材料になる。
何より――なぜ亡霊は彼女だけを殺さなかったのか。
その疑問が広がることを、上層部は嫌った。
だから軍は事実を伏せた。
表向きは、ミルセは亡霊に捕らえられ、回廊前哨地まで道案内を強いられた後、隙を見て逃げ帰ったことになっている。
現在は療養という名目で、外部との接触を制限されていた。
数分が過ぎた頃。
「……ここ」
セラフィーネが指を動かした。
一つの文字列が止まり、他の記録から切り離される。
「この魔力痕」
その周囲だけ、光が小さく揺れていた。
「……人間の術式ではありませんね」
軍団長が顔を上げる。
「ですが、亡霊は人間の姿をしているという証言が……」
「姿は関係ありません」
セラフィーネは流れる文字を見たまま答えた。
「これは理法によって組まれたものではない。もっと原始的なものです」
指先で、一つの魔力痕をなぞる。
「術式を組まず、魂と魔力を直接結びつけて外へ放っている」
軍団長が眉を寄せた。
「それは……」
「古いオークの術に見られる特徴です」
セラフィーネは淡々と続ける。
「術式を介さないため、魔力痕がほとんど残らない。これも、注意して探さなければ見落としていたでしょう」
「では、本当に……」
「《オークの亡霊》。そう呼ばれているのも、偶然ではなさそうですね」
セラフィーネは、そのまま別の記録へ目を移した。
「迷宮に生じている異常な律動は、引き続き観測を」
「……はっ」
流れていた文字列が、一つずつ消えていく。
最後の一列が消えると、セラフィーネは軍団長へ視線を向けた。
「天は、この異物の排除を求めています」
告げる声に魔力が乗り、見えない波となって広間へ広がっていく。
その言葉に応えるように、魔法灯が一度、大きく明滅した。
「すでに命は下りました。私が対処します」
「で、では……我々はどうすれば?」
「姿を現すよう、策を講じてください」
セラフィーネは水晶盤から指を離した。
「それだけで結構です」
踵を返し、そのまま扉へ向かう。
守衛が慌てて扉を開けると、セラフィーネは一度も振り返ることなく広間を出ていった。
扉が閉じる。
軍団長は閉じた扉を見つめたまま、何も言わなかった。