夕暮れの風が、都市グランデルの通りを吹き抜けていった。
昼間の暖かさはまだ少し残っているが、日が傾くにつれて空気も冷たくなってきた。
石畳には長い影が伸び、通りのあちこちで店じまいが始まっている。
露店の布をたたむ音や、木箱を運ぶ音。
焼きたてのパンに香辛料、肉を焼く匂いが混じり、仕事帰りの人々が行き交っていた。
タクミは買い出し袋を片手に、そんな通りを歩いていた。
明日は偵察任務がある。必要なものを買い揃えながら、タクミは宿へ向かっていた。
「お、タクミ。今日は遅いな」
干し肉屋の前を通りかかると、顔馴染みの主人が声をかけてきた。
「アシタ、シゴト。2コ ホシイ」
「おう、いつものやつだな」
主人は手慣れた様子で干し肉を袋に詰めると、最後に一切れおまけしてくれた。
「ほらよ。仕事がんばれよ」
「……イツモ アリガト」
「気にすんな。また来いよ」
タクミは軽く手を上げ、袋を受け取った。
◇
角を曲がると、子どもたちの声が聞こえてきた。
「タクミだ!」
特別な歓声ではない。ただ、見知った顔を見つけたときの声。
遊んでいた子どもたちが振り返り、そのうちの一人が大きく手を振った。
「オウ」
タクミも片手を上げて返す。
「またねー!」
子どもたちはそれだけ言うと、満足そうに走り去っていった。
余所者であるはずが、長い年月が経ってしまった。
ここでは、タクミはただの住人だった。
(十年もいれば……ね)
そう思いながら、宿へ続く坂を上る。
途中で振り返ると、通りにはぽつぽつと灯りがともり始めていた。店を閉める者もいれば、これから食事に向かう者もいる。
今日も変わらず、グランデルの一日が終わろうとしていた。
◇
〈石蔦亭〉の扉を開けると、暖かな空気が迎えてくれた。
煮込み料理の匂いに、薪のはぜる音。食堂からは客たちの話し声が聞こえてくる。
「おかえり、タク!」
カウンターにいたカイルが顔を上げた。
エマも鍋の前からこちらを振り返り、にっこりと笑う。
「おかえりなさい、タクミさん」
「タダイマ」
いつもの声に迎えられ、タクミも自然と頬が緩んだ。
「ちょうど飯ができたところだぞ。荷物、そこ置いとけよ」
カイルに言われ、タクミは買い出し袋を脇へ置いた。
外套を脱いで椅子に腰を下ろすと、カイルがそれを受け取り、壁際のハンガーに掛ける。
カイルはそれを見て、呆れたように笑った。
「……なあ、タク。いつまでそのボロ着てんだよ」
「……?」
何度も洗っては縫い直してきた外套は、肩口の布もすっかり薄くなっていた。
ところどころ色も抜けていて、あちこちに修繕の跡が残っている。
「特級に昇進した時さ、俺とエマで外套プレゼントしただろ?」
その外套を贈られた日のことは、今でもよく覚えている。
特級に昇進したと聞いたカイルが、エマと一緒に大きな包みを持ってきたのだ。
中に入っていたのは、仕立てのいい新しい外套だった。
汚すのが惜しくて、結局一度も迷宮には着ていっていない。
今でも部屋のクローゼットに、綺麗にしまってある。
タクミは少しだけ視線を逸らし、照れたように笑った。
「アレ、ダイジ」
「だから使えって言ってんだよ」
そのやり取りを聞いていたエマが、くすっと笑う。
「ちゃんと、クローゼットにしまってあるんですよね?」
「アルヨ」
「せっかく贈ったんですから、たまには着てくださいね」
タクミは少し考えてから答えた。
「オシャレ スル時」
「いつだよ! 迷宮しか行かないじゃん!」
カイルのその言葉に、クスクスと笑うエマ。
「……ソウダッタ」と返すタクミ。
――いつもの談笑が続いた。
◇
三人で食卓を囲み、湯気が立ち上り、パンが割られる音がする。
カイルは昼間に来た客の話をし、エマはギルドであった出来事を話してくれた。
タクミも相槌を打ちながら、時折、迷宮で見つけたものの話をする。
そんな他愛ない話がしばらく続いたあと、エマがふとスプーンを置いた。
「……タクミさん、あのね」
顔を上げると、エマは少し照れた様子でカイルを見た。
エマの視線に気づき、カイルが肩を寄せる。
「実はね、赤ちゃんができたの」
タクミの手が止まった。
「……エ? エ?」
思わず二人を交互に見る。
「ほんとだよ」
エマが笑いながら、そっとお腹に手を当てた。
タクミはしばらく固まっていたが、やがて表情をほころばせ、大きく頷いた。
「……オメデト、オメデト」
「いやあ、俺もまだ実感湧かなくてさ」
カイルが照れくさそうに頭をかく。
タクミは改めて二人を見た。
この街へ来たばかりの頃、まだ子どもだった二人が、今ではこうして家族を増やそうとしている。
(……そっか。もう、そんな歳なんだな)
嬉しい反面、なんだか少し不思議な気分だった。
「それでさ、名前どうしようかって話してて」
カイルがにやりと笑う。
「タクミにしようかな?」
「……ヤメテー」
三人で笑う。
食堂では相変わらず客たちの声が聞こえ、暖炉の薪がぱちぱちと音を立てている。
ただ、温かい時間。
生まれてくる子の話や、これからの話。まだ何も決まっていないことばかりだったが、それがかえって楽しかった。
明日はまた、迷宮へ向かう。
けれど、今夜くらいは何も考えずに過ごしていたかった。
タクミはスープを飲みながら、二人の話に耳を傾けていた。