――痛いな。
タクミは仰向けに倒れたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
全身が痛む。
身体のあちこちから血が流れ、口の中には鉄の味が広がっていた。
視線の先では、セラフィーネが宙に浮かんでいる。
激しい風が吹き荒れ、彼女の周囲に青白い光が集まっていく。
どうやら、とどめを刺すつもりらしい。
白い光点は少しずつ大きくなり、その周囲では空気が歪み始めていた。
肌に触れる魔力だけでも、相当なものだと分かる。
(あんなの、まともに食らったら終わりだな)
分かっている。
避けなければならないことも、今すぐ立ち上がるべきことも。
そう思いながらも、身体は動かなかった。
――もう動けるはずだ。
先ほどまでの痺れも薄れ、指先にも感覚が戻っている。
それなのに、起き上がろうとしない。
(……なんだ、これ)
敵の魔法のせいなのか。
それとも、自分が動こうとしていないだけなのか。
よく分からなかった。
ただ、もうこのままでもいいんじゃないか。
目の前に死が迫っているというのに、どこか他人事のように感じていた。
そのとき。
――かすかな振動。
握っていた棍棒から、手のひらに伝わってきた。
タクミは横に視線を落とす。
吹き飛ばされても、決して手放さなかった棍棒。
(……そういえば)
ここに来たときも、こんな感じだった。
訳も分からず迷宮の深層に放り込まれ、逃げ場もなく、ただ必死だった。
――死にたくない。
あのときは、それだけだった。
理由も、誇りも、使命もない。
ただ生きたい。その一心で、今日まで生き延びてきた。
不意に、棍棒が小さく震えた。
『……帰るんだろ』
その一言に、タクミは目を見開いた。
浮かんだのは、湯気の立つ食卓だった。
(……そうだったな)
タクミは、ゆっくりと息を吐いた。
頭が急に冴えてきた。
セラフィーネは、まだ魔力を溜め続けている。
白い光点は、先ほどよりも大きくなっていた。
――自分にとって、これ以上ない好機だった。
その考えを読み取ったかのように、"相棒"が再び小さく震えた。
『使え。もう隠す意味はない』
(ああ)
タクミは棍棒を強く握り締めた。
次の瞬間――
獣のように身体を跳ね起こした。
その勢いのまま、棍棒を両手で高く掲げる。
◇
セラフィーネの術式は、完成まであとわずかだった。
空間ごと対象を葬る殲滅魔法――〈白色照波〉。
これを放てば終わる。
そう確信していた。
だが。
(……妙だ)
目の前の人間を見て、ふと違和感を覚えた。
かつて、我々が滅ぼした種族。
その武器を振るう、人間。
セラフィーネは目を細めた。
セラフィーネ自身も、かつてあの戦場に立っていた。
森を焼き、地を割り、数えきれないほどのオークを葬った。
戦士も、魔法使いも、恐ろしく強かった。
中でも厄介だったのは、後方に控える魔法使いたちだ。
戦士たちが前線を押し上げ、その背後から強力な魔法を放ってくる。
巨大な火球が戦場に降り注ぎ、爆炎が兵士たちを呑み込む。
前線は次々と吹き飛ばされていった。
しかも、奴らは簡単には倒れない。
魔法使いでありながら、その膂力は並の戦士を遥かに凌ぐ。距離を詰めた兵士たちも、次々と返り討ちに遭った。
あの戦争で、どれほどの兵を失ったことか。
天使様のご加護がなければ、滅ぼされていたのは自分たちだったかもしれない。
だからこそ、天使様に選ばれた我々が、他種族に劣るはずがない。
しかし、目の前の人間を見ていると、どうにも引っかかる。
(……おかしい)
あの戦場で見た、オークの戦士たち。
その姿が、この人間と重なった。
迷いなく踏み込み、ひたすら殴りつけてくる。
だが、待て。
あの人間が持っているものは、あれは殴るための武器だったか?
記憶を辿る。
剣でも、斧でも、槌でもない。
あれは――
オークメイジが持つ、杖。
そこまで辿り着いて、セラフィーネは自分の失態に気づいた。
――目の前の人間は、すでに立ち上がっていた。
術式は、とうに完成していた。
放てばよかった。それだけで終わっていたはずだ。
なのに、確かめようとした。
目の前の異物が何であるかを、知ろうとした。
その一瞬が、長すぎた。
◇
タクミは掲げた棍棒を、地面に突き立てる勢いで一気に振り下ろした。
「――共鳴衝〈レゾナンス〉」
棍棒の先が、床に触れた。
音は、遅れてきた。
足元から衝撃が突き上げ、瓦礫が一斉に跳ね上がった。
――ドンッ!
衝撃波が広間を呑み込み、砂埃が壁際まで押し流される。
壁の結晶が音を立てて砕け、天井から石片が降り注ぐ。
だが、波はそこで止まらなかった。
セラフィーネの周囲に集まっていた青白い光が、大きく揺らぐ。
衝撃波が、彼女の身体を通り抜けた。
そのまま勢いを失うことなく、通路の奥へ――さらにその先へと突き抜けていく。
――痛みはない。
それなのに、編み上げていたはずの術式が崩れていく。
セラフィーネは目を見開いた。
タクミは棍棒を突き立てたまま、正面を見据えていた。
◇
――異常を検知。
"大地の女神"由来の権能、迷宮内で発動を確認。