――何が、起きた……?
セラフィーネは、目の前で起きたことが理解できなかった。
タクミが放った波動が、確かにセラフィーネの身体を貫いた、その瞬間。
それは攻撃ではなかった。
干渉だ。
構築されていたはずの術式が、途中で断ち切られたように霧散する。
(……なぜ……?)
纏っていた障壁が揺らぎ、〈暴風〉の流れが乱れ、維持できない。
魔力の循環が狂い、制御が効かなくなる。
そして――
(……加護が……)
消えていく。
確かにそこにあった感触。
世界の"手"に包まれ、守られていたという絶対的な安心。
それが、一瞬で失われた。
魔力を使う時は、いつも何かが力を貸してくれた。
詠唱を始めれば、応えがあった。
障壁を張れば、その外側にもう一枚、見えない何かがあった。
物心ついた頃から、ずっとそうだった。
当たり前すぎて、意識したこともない。
――それがない。
まるで世界から放り出されたような感覚だった。
背に浮かんでいた光輪が崩れ、形を失う。
平衡感覚が奪われ、セラフィーネは地面に叩きつけられた。
「くっ……!」
その時、セラフィーネは違和感を覚えた。
手のひらから、低い振動が伝わってくる。
――鼓動のように、大地が鳴っている。
四つん這いの体勢で、顔を上げる。
そこには、刻印が赤く脈動する"杖"を水平に向けたタクミがいた。
その周囲には、無数の火球が浮かんでいる。
青白い光を帯びた炎が、ゆっくりと膨らんでは縮んでいた。
まるで呼吸しているかのように。
「……馬鹿な」
思わず、声が漏れた。
「人間がオークの……」
目の前にあるのは、かつて自分が見たことのある魔法。
だが、それを使っているのは人間だった。
セラフィーネは、歯を食いしばった。
(……呼び戻せ)
天の名を、心の奥で呼ぶ。
祈りではない。命令だ。
自分は選ばれし者。天使の声を聴くことを許された存在。
拒まれるはずがない。
――応答はない。
(なぜ?)
もう一度、呼ぶ。
今度は、少し長く。
これまで一度も、返ってこなかったことはない。
声を求めれば、いつでもそこにあった。
――何もない。
(……お願いします)
三度目は、命令ではなくなっていた。
それでも、天は答えなかった。
代わりに感じるのは、地の底から押し上げてくるような重い圧力だった。
(これは……)
大地。
天から与えられるはずの力が、まるで大地に押し返されているようだった。
戸惑っている場合ではなかった。
セラフィーネは反射的に詠唱を再開する。
だが、その前に――火球が、放たれた。
「っ!」
炎の群れが、一斉に襲いかかる。
セラフィーネは咄嗟に杖を掲げ、〈光矢〉を放った。
光の矢が次々と火球を撃ち抜き、爆炎が広間を埋めていく。
――防いだ。
そう思った瞬間、撃ち抜かれた火球の欠片が、次々と爆発した。
「――っ!」
視界が、真っ白に染まる。
(……見えない)
そこで、ようやく気づいた。
(これが、狙い……!)
――障壁を。
だが、その一瞬。
タクミにとっては、十分すぎる隙だった。
爆炎を割って、炎をまとったタクミが飛び出す。
棍棒を振り上げ、すでに目の前まで迫っていた。
セラフィーネは反射的に障壁を展開する。
しかし、間に合わない。
振り下ろされる棍棒。
傷つくことなど意に介さず、炎の中を真っ直ぐ突っ込んでくる。
その姿に、かつて見たオークの幻影が重なった。
障壁が砕け散った。
直後、凄まじい一撃が身体を捉える。
身体が宙を舞う。
自分が吹き飛ばされたのだと理解するより早く、セラフィーネは悟っていた。
――終わった。
薄れゆく意識の中で、彼女は自分が"世界の外"にいることを悟った。
もう、あの加護は戻ってこない。声も、導きも、もうない。
――ならば。
せめて、この脅威だけは、ここで。
そこから先は、もう考えられなかった。
◇
轟音とともに、セラフィーネの身体が壁に叩きつけられた。
砕けた石が飛び散り、身体が力なく地面へ崩れ落ちる。
タクミはすでに動いていた。
地面を蹴り、一気に距離を詰める。
棍棒を振り上げ、そのまま叩き込もうとした。
――だが。
寸前で、腕が止まった。
壁際に崩れたセラフィーネは、動かない。
無防備なその姿を見て、握っていた手から少しだけ力が抜けた。
先ほどまで感じていた、あの障壁の気配がない。
魔力の反応も、ほとんど感じられなかった。
(……もう、必要ないか)
タクミはゆっくりと棍棒を下ろした。
勝敗は、すでに明らかだった。
だが、勝ったという実感より先に、身体が悲鳴を上げた。
「……っ」
荒い息が漏れる。
棍棒を床に突き立て、支えにしながら、膝が崩れ落ちた。
焼けるような痛みと、痺れが残っている。
叩きつけられた感覚が、まだ身体のあちこちに残っていた。
それに、やけに身体が重い。
腕も脚も、思うように動かない。
少しでも力を抜けば、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。
棍棒がなければ、立っていられなかった。
(これは……きついな)
〈共鳴衝〉を使った。
覚悟はしていたつもりだったが、思った以上に身体への負担が大きい。
セラフィーネに、起き上がる気配はない。
タクミは膝をついたまま、しばらくその姿を見ていた。