棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十話 前へ

 ――地面が、揺れた。

 

 迷宮前の前哨基地で、見張りの兵士が咄嗟に柵へ手をついた。

 

 足元から突き上げるような震動。

 張られていた天幕が波打ち、積まれていた木箱が崩れ落ちる。

 

「なんだ今の!」

 

「迷宮か!? 魔奔じゃねえだろうな!」

 

 入口の洞窟から、砂埃が煙のように噴き出している。

 その中から、人影が飛び出してきた。

 

 一人、二人――次々と、冒険者たちが転がるように出てくる。

 

 休んでいた冒険者たちが一斉に立ち上がり、武器を手に取る。

 

「旗を上げろ! 赤だ!」

 

 詰所の兵士が走り出す。

 

 誰かがグランデルへ向かって駆けていく。

 門の外へ出た伝令が、街道を一直線に走り抜けていった。

 

 中で何が起きたのか、知る者は地上に一人もいなかった。

 

 

◇

 

 

 タクミは膝をついたまま、荒い息を整えていた。

 

 どれほどそうしていたのか、分からない。

 

 ただ、肩の上下が少しずつ収まり、床についた手の震えも止まってきた。

 

 顔を上げる。

 壁際のセラフィーネは、まだ動かない。

 

(……死んだか?)

 

 分からなかった。

 

 あれだけの一撃を叩き込んだ。普通なら助からない。

 だが、相手はエルフだ。それもただのエルフではない。

 

 タクミは棍棒を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。

 

 足が重い。

 一歩進むたびに、身体のどこかが痛む。

 

 セラフィーネの前まで来ると、膝を折ってかがみ込む。

 

 銀白色の髪が、血と砂に汚れていた。

 呼吸しているかどうか、見ただけでは分からない。

 

 タクミは手を伸ばしかけ――止めた。

 

 もし、まだ息があるなら、聞きたいことがあった。

 

 十年。

 そのためだけに、ここまで来た。

 

「……」

 

 口を開く。

 

 その瞬間だった。

 

 ――セラフィーネの身体から、うっすらと淡い光が立ち上った。

 

(なんだ!?)

 

 次の瞬間、セラフィーネの身体が、突然強く発光した。

 視界が、真っ白に塗り潰される。

 

「……っ!」

 

 タクミは反射的に左腕で目を庇う。

 

 まともに目を開けていられない。

 視界が一瞬で真っ白になった。

 

 腕の隙間から目を開ける。

 セラフィーネの身体が、崩れていく。

 

 身体そのものが細かな光の粒へと変わり、少しずつ形を失っていく。

 やがて光は霧のように広がった。

 

 いつの間にか、それはタクミの周囲を満たしていた。

 

 霧が、ゆっくりと動き始めた。

 白い粒が一つの流れになり、どこかへ昇っていこうとしている。

 

 だが――途中で、止まった。

 

 上へ向かおうとしていた光が、急に乱れ始めた。

 行き場を失ったように、白い粒が広間を漂う。

 

 そして、周囲を漂っていた光が、一斉に動いた。

 

 ――タクミへ向かって。

 

 避ける暇もなかった。

 白い霧が渦を巻き、身体の周囲へ集まってくる。

 

 タクミは棍棒を握りしめた。

 だが、何かに襲われている感覚はない。

 

 ただ、何かが体の内側へ引き込まれるような感覚。

 

 左胸――心臓のあたりが熱い。

 

 足元が、急に重くなった。

 

 棍棒が、床に触れている。

 

 次の瞬間、光の霧は急速に収束した。

 やがて最後の一粒まで消えた。

 

 タクミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

 セラフィーネがいた場所を見る。

 血も、身体も。

 そこに誰かがいた痕跡すら、ほとんど残っていなかった。

 

(……終わった、のか? 攻撃されたのか?)

 

 そう思った、その直後。

 

 タクミは、セラフィーネの骸の行方よりも別の違和感に意識が取られた。

 

 足元。

 さらに、その下。

 

 迷宮の、もっと深い場所。

 

『……なんだ、これ』

 

 圧。

 

 すぐには、言葉にならなかった。

 強い、という感覚とも違う。

 そこにあるだけで、周囲を押しつぶすような感覚。

 

 セラフィーネから感じていたものと、どこか似ている。

 だが、大きさがまるで違う。

 

 比べものにならない。

 

(迷宮に、こんなモノが)

 

 気づいた瞬間、背筋が冷えた。

 今まで自分が探索していた領域にはない、――いや、ずっと気づかずにいたのだ。

 

 その存在は、まだ動いていない。

 だが、いる。

 

 確実に、潜んでいる。

 

 ふと、身体に意識を戻す。

 

 先ほどまで感じていた重さが、消えていた。

 痛みも、痺れも、引いている。

 

 理由は分からない。――いや、今は考える余裕はない。

 

(すぐに、撤退だ)

 

 タクミは棍棒を担ぎ、すぐにその場を離れる。

 一度、態勢を整える必要がある。

 

 しばらく通路を進んだところで、足を止める。

 回廊の方向から、複数の気配を感じ取った。

 

 エルフだ。

 

(……もう、動いてるか)

 

 足音は慎重で、ゆっくりとこちらに向かってきている。

 

 足を速め、"狭間の道"を通り超える。

 

 念のため、気配を探る。こちらの方には追っては来ない。

 

(……目的は、俺じゃないのか)

 

 ひとまずは、追手がこないことに安堵して先を急ぐ。

 

 魔物との戦闘は避ける。気配があれば、遠回りする。

 

 痕跡は、できるだけ残さない。

 

 

◇

 

 

 やがて、通路の先が明るくなった。

 外の空気が流れ込んでくる。

 

 出口まで、あと少し。

 

 あと少しで、戻れる――はずだった。

 

 なのに。

 足が、止まった。

 

(………)

 

 出口は、すぐそこだ。

 それなのに、前へ進めない。

 

(……いや)

 

 一歩も、踏み出せない。

 

 タクミは、立ち尽くしたまま、静かに考える。

 

 エルフの策略に乗せられ、強大なエルフを倒した。

 彼らにとって、これは想定外であったはずだ。

 

 次はどう動く?

 俺を殺しに来た目的は、報復のはずだ。

 

 エルフは、この街を監視している。

 自分が生きて戻ったと分かれば、次に何をしてくるか分からない。

 

 自分が街に戻れば――

 

(……巻き込むな)

 

 カイル。エマ。

 ギルドの連中――いや街の住人。

 

 誰も、関係ない。

 

『ああーー……』

 

 タクミは出口を見た。

 

 頭を掻きながら、少しだけその場に立っていた。

 

 それから――踵を返す。

 

 迷いはなかった。

 

 再び、迷宮へ向かって歩き出す。

 出口から差し込んでいた光が、少しずつ遠ざかっていく。

 

 タクミは振り返らなかった。

 

(……戻れないな)

 

 そう判断しただけだ。

 

 棍棒は、何も語らなかった。

 

 

◇

 

 

 ――記録異常。

 

 対象:神翼殉光 発動個体

 

 魂反応:消失

 

 因果接続:未回収

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