――地面が、揺れた。
迷宮前の前哨基地で、見張りの兵士が咄嗟に柵へ手をついた。
足元から突き上げるような震動。
張られていた天幕が波打ち、積まれていた木箱が崩れ落ちる。
「なんだ今の!」
「迷宮か!? 魔奔じゃねえだろうな!」
入口の洞窟から、砂埃が煙のように噴き出している。
その中から、人影が飛び出してきた。
一人、二人――次々と、冒険者たちが転がるように出てくる。
休んでいた冒険者たちが一斉に立ち上がり、武器を手に取る。
「旗を上げろ! 赤だ!」
詰所の兵士が走り出す。
誰かがグランデルへ向かって駆けていく。
門の外へ出た伝令が、街道を一直線に走り抜けていった。
中で何が起きたのか、知る者は地上に一人もいなかった。
◇
タクミは膝をついたまま、荒い息を整えていた。
どれほどそうしていたのか、分からない。
ただ、肩の上下が少しずつ収まり、床についた手の震えも止まってきた。
顔を上げる。
壁際のセラフィーネは、まだ動かない。
(……死んだか?)
分からなかった。
あれだけの一撃を叩き込んだ。普通なら助からない。
だが、相手はエルフだ。それもただのエルフではない。
タクミは棍棒を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
足が重い。
一歩進むたびに、身体のどこかが痛む。
セラフィーネの前まで来ると、膝を折ってかがみ込む。
銀白色の髪が、血と砂に汚れていた。
呼吸しているかどうか、見ただけでは分からない。
タクミは手を伸ばしかけ――止めた。
もし、まだ息があるなら、聞きたいことがあった。
十年。
そのためだけに、ここまで来た。
「……」
口を開く。
その瞬間だった。
――セラフィーネの身体から、うっすらと淡い光が立ち上った。
(なんだ!?)
次の瞬間、セラフィーネの身体が、突然強く発光した。
視界が、真っ白に塗り潰される。
「……っ!」
タクミは反射的に左腕で目を庇う。
まともに目を開けていられない。
視界が一瞬で真っ白になった。
腕の隙間から目を開ける。
セラフィーネの身体が、崩れていく。
身体そのものが細かな光の粒へと変わり、少しずつ形を失っていく。
やがて光は霧のように広がった。
いつの間にか、それはタクミの周囲を満たしていた。
霧が、ゆっくりと動き始めた。
白い粒が一つの流れになり、どこかへ昇っていこうとしている。
だが――途中で、止まった。
上へ向かおうとしていた光が、急に乱れ始めた。
行き場を失ったように、白い粒が広間を漂う。
そして、周囲を漂っていた光が、一斉に動いた。
――タクミへ向かって。
避ける暇もなかった。
白い霧が渦を巻き、身体の周囲へ集まってくる。
タクミは棍棒を握りしめた。
だが、何かに襲われている感覚はない。
ただ、何かが体の内側へ引き込まれるような感覚。
左胸――心臓のあたりが熱い。
足元が、急に重くなった。
棍棒が、床に触れている。
次の瞬間、光の霧は急速に収束した。
やがて最後の一粒まで消えた。
タクミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
セラフィーネがいた場所を見る。
血も、身体も。
そこに誰かがいた痕跡すら、ほとんど残っていなかった。
(……終わった、のか? 攻撃されたのか?)
そう思った、その直後。
タクミは、セラフィーネの骸の行方よりも別の違和感に意識が取られた。
足元。
さらに、その下。
迷宮の、もっと深い場所。
『……なんだ、これ』
圧。
すぐには、言葉にならなかった。
強い、という感覚とも違う。
そこにあるだけで、周囲を押しつぶすような感覚。
セラフィーネから感じていたものと、どこか似ている。
だが、大きさがまるで違う。
比べものにならない。
(迷宮に、こんなモノが)
気づいた瞬間、背筋が冷えた。
今まで自分が探索していた領域にはない、――いや、ずっと気づかずにいたのだ。
その存在は、まだ動いていない。
だが、いる。
確実に、潜んでいる。
ふと、身体に意識を戻す。
先ほどまで感じていた重さが、消えていた。
痛みも、痺れも、引いている。
理由は分からない。――いや、今は考える余裕はない。
(すぐに、撤退だ)
タクミは棍棒を担ぎ、すぐにその場を離れる。
一度、態勢を整える必要がある。
しばらく通路を進んだところで、足を止める。
回廊の方向から、複数の気配を感じ取った。
エルフだ。
(……もう、動いてるか)
足音は慎重で、ゆっくりとこちらに向かってきている。
足を速め、"狭間の道"を通り超える。
念のため、気配を探る。こちらの方には追っては来ない。
(……目的は、俺じゃないのか)
ひとまずは、追手がこないことに安堵して先を急ぐ。
魔物との戦闘は避ける。気配があれば、遠回りする。
痕跡は、できるだけ残さない。
◇
やがて、通路の先が明るくなった。
外の空気が流れ込んでくる。
出口まで、あと少し。
あと少しで、戻れる――はずだった。
なのに。
足が、止まった。
(………)
出口は、すぐそこだ。
それなのに、前へ進めない。
(……いや)
一歩も、踏み出せない。
タクミは、立ち尽くしたまま、静かに考える。
エルフの策略に乗せられ、強大なエルフを倒した。
彼らにとって、これは想定外であったはずだ。
次はどう動く?
俺を殺しに来た目的は、報復のはずだ。
エルフは、この街を監視している。
自分が生きて戻ったと分かれば、次に何をしてくるか分からない。
自分が街に戻れば――
(……巻き込むな)
カイル。エマ。
ギルドの連中――いや街の住人。
誰も、関係ない。
『ああーー……』
タクミは出口を見た。
頭を掻きながら、少しだけその場に立っていた。
それから――踵を返す。
迷いはなかった。
再び、迷宮へ向かって歩き出す。
出口から差し込んでいた光が、少しずつ遠ざかっていく。
タクミは振り返らなかった。
(……戻れないな)
そう判断しただけだ。
棍棒は、何も語らなかった。
◇
――記録異常。
対象:神翼殉光 発動個体
魂反応:消失
因果接続:未回収