――その日を境に、
特級冒険者タクミの名は、迷宮から戻らなかった者の一覧に加えられた。
ギルドの掲示板の前で、エマは新しい依頼書を手にしていた。
紙を押さえる指先に、力が入らない。
一枚貼りつける。
続けて次の一枚を――と思ったところで、手が止まった。
掲示板は、いつもより空いている。
それは当然だった。
昨日、バルドの命令で迷宮への立ち入りが禁止された。
特級冒険者一名と、一級冒険者三名。
その四人が揃って戻らない。
加えて、ここ最近は上層でも見たことのない魔物が確認されている。
これ以上、冒険者を送り込むのは危険すぎる。
バルドはそう判断した。
迷宮に関わる依頼はすべて取り下げられ、入口にはギルド職員と冒険者が立っている。
いつもなら朝から迷宮へ向かう冒険者たちで騒がしいギルドも、今日は静かだった。
エマは手にしていた依頼書を見つめる。
――戻っていない。
三日前。
タクミはロイ達と共に、迷宮へ向かった。
誰かと組んで行動するのは珍しかったが、それは特別なことだとは思わなかった。
迷宮へ行って、帰ってくる。それがタクミの日常。
――それを、誰も疑わなかった。
酒場の方から、誰かの声がした。
「……あの人が戻らないんだぞ」
誰かが答える。
「そんなところに、誰が行くんだよ」
エマは、聞こえないふりをした。
「……遅い、だけだよね」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
そのとき、ギルドの奥から重い足音が聞こえてきた。
エマが振り向く。
周りにいた職員たちも、同じようにそちらを見た。
バルドだった。
いつも通りの顔で、いつも通りに歩いている。
けれど、長く一緒に働いている者なら分かる。
落ち着きがない。
何度も入口へ目を向けては、すぐに逸らす。
何かを待っているのは、見ていれば分かった。
理由も、考えるまでもない。
タクミたちが、まだ戻っていないからだ。
しばらくして、職員の一人がバルドへ近づいた。
何かを小声で伝える。
「…………」
バルドは何も答えなかった。
一度だけ目を伏せると、そのまま踵を返す。
執務室の扉が閉まった。
その音が、今日はやけに大きく聞こえた。
エマは掲示板の前に立ったまま、しばらくその扉を見ていた。
◇
その夜。
宿〈石蔦亭〉の厨房には、いつものように夕食の匂いが広がっていた。
厨房では大きな鍋が火にかけられ、煮える音がしている。
エマは皿を並べながら、何度も視線を玄関へ向けていた。
扉が開く。
閉まる。
そのたびに、手が止まってしまう。
――違う。
自分でも分かっているのに、視線が勝手に動いてしまう。
そんな様子を、カイルは黙って見ていた。
「……大丈夫だって」
手を止めずに、カイルが言う。
「戻ってくる」
鍋をかき混ぜる動きが、少しだけ早くなる。
鍋底を擦る音が、短く鳴った。
「どうせ、普通の顔してさ。『タダイマ』って」
カイルは少し笑った。
「前にもあっただろ? 急に帰らなかったこと」
エマは、何も言えなかった。
「まったく……帰ってくるまで、晩飯は残しといてやるか」
分かっている。
タクミなら、何事もなかったように帰ってくる。
そういうことは、これまでにもあった。
カイルがエマの肩を抱き寄せる。
エマも抵抗せず、その胸に身体を預けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ――
カイルもまた、玄関を見ていた。
◇
タクミが姿を消して、十日が経った。
迷宮は、あの日から閉ざされたままだった。
事態は、急に悪い方向へ動き出す。
最初は、小さな異変だった。
夜中、どこからともなく低い音が聞こえる。
棚の食器が、カタカタと揺れる。
それが一度ではなくなった。
日を追うごとに、揺れも大きくなっていく。
「……地震?」
「違う。こんな揺れ方じゃない」
誰かが低い声で答えた。
地面が揺れているのではなく、唸っているようだった。
通りに人が出てくる。
何が起きているのかと、あちこちで声が上がった。
住人たちは声を上げる中、古株の冒険者たちは騒がなかった。
無言で地面を見つめる者。
剣の柄に手を置く者。
迷宮の方角を見る者。
――覚えがある。
この現象を、彼らは知っている。
迷宮の中で何かが動き始めたときに起きる現象。
魔物が迷宮から溢れる、その前段階。
「……大魔奔だ」
その言葉で、通りが静まり返った。
二年前のアルマレスを、誰もが知っている。
大魔奔が起これば、魔物の群れが街まで押し寄せる。
壁は壊され、人が死ぬ。
下手をすれば、街そのものがなくなる。
「……また、来るのか」
誰かの声が震えた。
揺れの意味がわかった瞬間、街のあちこちから悲鳴が上がった。
同じ日。
エルフの国から、中央都市リューベンへ連絡が入った。
文面は、驚くほど穏やかだった。
礼節に満ち、言葉遣いも丁寧で、そこに敵意は見当たらない。
ただ――内容だけが、異様だった。
特級冒険者タクミの身柄を、確認のため預かりたい。
彼はエルフ領における重大な懸念事項であり、
双方の平和のためにも、速やかな引き渡しが望ましい。
なお、この要請が拒否された場合、
事態の責任の所在は、人間側にある。
エルフ側は「敵対行為」と記録する。
そこまで、書かれていた。
戦争という言葉は、一度も使われていない。
しかし選択肢は、用意されていない。
タクミを差し出すか。
エルフと敵対するか。
それ以外は、認めないということだ。
これは、交渉ではない――通告だ。
――だが、その男は街には戻らなかった。