棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十一話 戻らない者

 ――その日を境に、

 特級冒険者タクミの名は、迷宮から戻らなかった者の一覧に加えられた。

 

 ギルドの掲示板の前で、エマは新しい依頼書を手にしていた。

 紙を押さえる指先に、力が入らない。

 

 一枚貼りつける。

 続けて次の一枚を――と思ったところで、手が止まった。

 

 掲示板は、いつもより空いている。

 

 それは当然だった。

 

 昨日、バルドの命令で迷宮への立ち入りが禁止された。

 

 特級冒険者一名と、一級冒険者三名。

 

 その四人が揃って戻らない。

 

 加えて、ここ最近は上層でも見たことのない魔物が確認されている。

 これ以上、冒険者を送り込むのは危険すぎる。

 

 バルドはそう判断した。

 

 迷宮に関わる依頼はすべて取り下げられ、入口にはギルド職員と冒険者が立っている。

 

 いつもなら朝から迷宮へ向かう冒険者たちで騒がしいギルドも、今日は静かだった。

 

 エマは手にしていた依頼書を見つめる。

 

 ――戻っていない。

 

 三日前。

 タクミはロイ達と共に、迷宮へ向かった。

 

 誰かと組んで行動するのは珍しかったが、それは特別なことだとは思わなかった。

 迷宮へ行って、帰ってくる。それがタクミの日常。

 

 ――それを、誰も疑わなかった。

 

 酒場の方から、誰かの声がした。

 

「……あの人が戻らないんだぞ」

 

 誰かが答える。

 

「そんなところに、誰が行くんだよ」

 

 エマは、聞こえないふりをした。

 

「……遅い、だけだよね」

 

 自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。

 

 そのとき、ギルドの奥から重い足音が聞こえてきた。

 

 エマが振り向く。

 周りにいた職員たちも、同じようにそちらを見た。

 

 バルドだった。

 

 いつも通りの顔で、いつも通りに歩いている。

 

 けれど、長く一緒に働いている者なら分かる。

 

 落ち着きがない。

 

 何度も入口へ目を向けては、すぐに逸らす。

 何かを待っているのは、見ていれば分かった。

 

 理由も、考えるまでもない。

 

 タクミたちが、まだ戻っていないからだ。

 

 しばらくして、職員の一人がバルドへ近づいた。

 

 何かを小声で伝える。

 

「…………」

 

 バルドは何も答えなかった。

 

 一度だけ目を伏せると、そのまま踵を返す。

 

 執務室の扉が閉まった。

 

 その音が、今日はやけに大きく聞こえた。

 

 エマは掲示板の前に立ったまま、しばらくその扉を見ていた。

 

◇

 

 その夜。

 

 宿〈石蔦亭〉の厨房には、いつものように夕食の匂いが広がっていた。

 厨房では大きな鍋が火にかけられ、煮える音がしている。

 

 エマは皿を並べながら、何度も視線を玄関へ向けていた。

 

 扉が開く。

 閉まる。

 

 そのたびに、手が止まってしまう。

 

 ――違う。

 

 自分でも分かっているのに、視線が勝手に動いてしまう。

 そんな様子を、カイルは黙って見ていた。

 

「……大丈夫だって」

 

 手を止めずに、カイルが言う。

 

「戻ってくる」

 

 鍋をかき混ぜる動きが、少しだけ早くなる。

 鍋底を擦る音が、短く鳴った。

 

「どうせ、普通の顔してさ。『タダイマ』って」

 

 カイルは少し笑った。

 

「前にもあっただろ? 急に帰らなかったこと」

 

 エマは、何も言えなかった。

 

「まったく……帰ってくるまで、晩飯は残しといてやるか」

 

 分かっている。

 タクミなら、何事もなかったように帰ってくる。

 そういうことは、これまでにもあった。

 

 カイルがエマの肩を抱き寄せる。

 

 エマも抵抗せず、その胸に身体を預けた。

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

 ただ――

 カイルもまた、玄関を見ていた。

 

 

◇

 

 

 タクミが姿を消して、十日が経った。

 迷宮は、あの日から閉ざされたままだった。

 

 事態は、急に悪い方向へ動き出す。

 

 最初は、小さな異変だった。

 

 夜中、どこからともなく低い音が聞こえる。

 棚の食器が、カタカタと揺れる。

 

 それが一度ではなくなった。

 日を追うごとに、揺れも大きくなっていく。

 

「……地震?」

 

「違う。こんな揺れ方じゃない」

 

 誰かが低い声で答えた。

 

 地面が揺れているのではなく、唸っているようだった。

 

 通りに人が出てくる。

 何が起きているのかと、あちこちで声が上がった。

 

 住人たちは声を上げる中、古株の冒険者たちは騒がなかった。

 

 無言で地面を見つめる者。

 剣の柄に手を置く者。

 迷宮の方角を見る者。

 

 ――覚えがある。

 

 この現象を、彼らは知っている。

 

 迷宮の中で何かが動き始めたときに起きる現象。

 

 魔物が迷宮から溢れる、その前段階。

 

「……大魔奔だ」

 

 その言葉で、通りが静まり返った。

 

 二年前のアルマレスを、誰もが知っている。

 

 大魔奔が起これば、魔物の群れが街まで押し寄せる。

 壁は壊され、人が死ぬ。

 

 下手をすれば、街そのものがなくなる。

 

「……また、来るのか」

 

 誰かの声が震えた。

 

 揺れの意味がわかった瞬間、街のあちこちから悲鳴が上がった。

 

 同じ日。

 

 エルフの国から、中央都市リューベンへ連絡が入った。

 

 文面は、驚くほど穏やかだった。

 礼節に満ち、言葉遣いも丁寧で、そこに敵意は見当たらない。

 

 ただ――内容だけが、異様だった。

 

 特級冒険者タクミの身柄を、確認のため預かりたい。

 

 彼はエルフ領における重大な懸念事項であり、

 双方の平和のためにも、速やかな引き渡しが望ましい。

 

 なお、この要請が拒否された場合、

 事態の責任の所在は、人間側にある。

 

 エルフ側は「敵対行為」と記録する。

 

 そこまで、書かれていた。

 

 戦争という言葉は、一度も使われていない。

 しかし選択肢は、用意されていない。

 

 タクミを差し出すか。

 エルフと敵対するか。

 

 それ以外は、認めないということだ。

 

 これは、交渉ではない――通告だ。

 

 ――だが、その男は街には戻らなかった。

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