棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十三話 下を指すもの

 ――速い。

 

 そう思った時には、身体は既に動いていた。

 

 視界の端で黒い影が一気に膨れ上がり、床が砕けるのとほとんど同時に、巨大な斧が目の前まで迫ってくる。

 

 死域の斧鬼《ヴァル・タイタン》。

 

 六メートルを超える巨体で、盛り上がった筋肉を黒鉄のような外骨格が覆い、その内側をさらに太い骨が支えている。

 両手に握った戦斧も馬鹿みたいに大きく、刃だけで人間一人分ほどあった。

 

 見た目だけなら、どう考えても遅そうだった。

 だが、実際は真逆だ。

 

 風を切る音すら、後から来る。

 

 タクミは半歩だけ身体を捻った。

 

 避けた――はずだった。

 

 直後、斧が巻き起こした風圧が、全身を横から殴りつける。

 肩口を掠めただけなのに、その衝撃は体に響いた。

 

(……ここだ)

 

 こいつと戦うのは初めてだ。

 

 それなのに――身体は知っていた。

 踏み込んでくる距離。斧が届く間合い。回避しても、風圧と衝撃で体勢が崩れる"死の範囲"。

 

 次の瞬間、斧が横薙ぎに振るわれた。

 

 タクミは避けず、棍棒を構えて真正面から踏み込んだ。

 斧と棍棒がぶつかり合い、床に亀裂が走った。

 

 ヴァル・タイタンが押す。

 

 タクミも押し返す。

 

 しばらく拮抗したあと、タクミは一気に力を込め、そのまま棍棒を振り切った。

 戦斧が外へ弾かれ、ヴァル・タイタンの巨体が後ろへ大きくのけ反った。

 

(力押しなら、勝てる)

 

 そう思った、その時だった。

 

 ――オオオオオオオッ!!

 

 咆哮が通路に響き渡った。

 

 天井から小石が落ち、ヴァル・タイタンの全身から赤い闘気が一気に噴き出す。外骨格の隙間が赤く光り、筋肉がさらに大きく膨れ上がる。

 

(……ああ)

 

 これも、知っている。

 

 追い詰められると、こうなる。

 

 速度は一気に上がるが、その代わり動きは単純になる。あとは斧を振り回しながら突っ込んでくるだけだ。

 

 ――そのはずだった。

 

 ヴァル・タイタンが、床を蹴って一気に突っ込んできた。

 

 タクミは咄嗟に棍棒を構える。

 次の瞬間、凄まじい重さがぶつかってきた。

 

(……っ!)

 

 押し返せない。

 

 身体が浮き、そのまま背中から壁へ叩きつけられる。石が砕け、背中を打ちつけた衝撃で息が詰まった。

 

 ――ああ、そうか。

 

 記憶と違う。

 身体が知っていたのは、ここまでだった。

 

 この先を知らない。

 そこで、ようやくわかった。

 

(そいつは、ここで死んだのか)

 

 ヴァル・タイタンが、赤い闘気をまとったままこちらへ歩いてくる。

 タクミは口元の血を拭い、棍棒を握り直して立ち上がった。

 

(……それなら)

 

 この先は、自分でやるしかない。

 

 戦斧を振り上げたまま、ヴァル・タイタンが身体を低く沈める。

 次の瞬間、床を砕きながら一直線に突っ込んでくる。

 

 ――タクミも同じだった。

 棍棒を担ぎ直し、身体を低く沈めると、真正面から床を蹴った。

 

 振り下ろされる斧に向かって、ただ全力で棍棒を叩きこむ。

 

 ――激突。

 

 今度は、タクミが押し切った。

 

 戦斧の刃に亀裂が走り、そのまま一気に砕け散る。

 無数の鉄片が飛び散り、勢いを殺せなかったヴァル・タイタンの巨体が後ろへ流れ、そのまま背中から壁へぶつかった。

 

 石が砕け、粉塵が噴き上がる。

 

 ――敵は武器を失い、体勢も崩れている。

 

 タクミは、もう動いていた。

 粉塵の中へ踏み込み、一息で懐へ入る。

 

 狙うのは、胴体の真ん中。

 棍棒を引き戻し、全身の力を乗せて、叩き込んだ。

 

 轟音。

 

 巨体が浮き、背後の壁ごと吹き飛ぶ。外骨格が飛び散り、ヴァル・タイタンの身体は瓦礫の向こうへ消えた。

 

 しばらくして、ぱらぱらと小石が落ちてくる。

 

 もう、動く気配はない。

 

 タクミは棍棒を下ろし、短く息を吐いた。

 それから口元に残った血を、手の甲で拭った。

 

 

◇

 

 

 通路をしばらく進んだところで、暗闇の先に淡い光が見えてきた。

 タクミは足を止めた。

 

 淡く光る空間が、視界に広がる。

 

 岩盤の裂け目にできた大きな泉で、水の底にはいくつもの魔鉱石が沈み、そこから漏れる青白い光が水面でゆらゆらと揺れている。

 

 ――魔物の気配が、ない。

 

 不自然なほど、静かだった。

 

 深層へ潜り始めた頃から、タクミはここを勝手に休憩所と呼んでいた。

 

 ……いや。

 

(そういう風に作った)

 

 今なら、なんとなくわかる。

 

 たまたま魔物が寄ってこないわけではなく、この場所だけは最初からそうなるように作られている。

 

 誰が、何のために作ったのか。

 そこまでは、まだわからない。

 

 ――あのエルフ。

 タクミはセラフィーネを倒してから、こうした違和感がわかるようになっていた。

 

 物質に残る痕跡。

 創られたものに染みついた、ほんのわずかな気配。

 

 これまで、迷宮は天使が作ったものだと思っていた。

 少なくとも、支配しているのは天使だと。

 

 しかし、この迷宮全体から感じる気配は、違う。

 

 あのエルフのものとも、肩に担ぐ棍棒のものとも、近いが同じではない。

 

(……わからないな)

 

 情報が足りないのだから、いくら考えたところで答えが出るはずもない。

 

 今は、それでいい。

 それよりも問題なのは、この先だった。

 

 深層《死域》は厄介だ。

 

 下層までは一層、二層と階層がはっきり分かれていたため、自分が今どの辺りにいるのかも大体把握できた。

 だが、十六層を越えた辺りから、それがなくなる。

 

 階段らしい階段もなく、道は上がったり下がったりを繰り返し、気づけば前より深い場所にいる。

 しかも、一度通った道が次に来た時も同じとは限らない。

 

 頼れるのは、自分の平衡感覚くらいだった。

 おまけに視界は悪く、出てくる魔物はどれも馬鹿みたいに強い。そして何より厄介なのが、地上との時間のズレだった。

 

 だから今までは、無理に奥へ進もうとはしなかった。

 

 少し進んでは戻り、敵と道を覚えて、また潜る。

 それを何度も繰り返しながら、少しずつ探索範囲を広げてきた。

 

 だが――今は違う。

 

 タクミは泉の向こう、さらに深くへ続いている暗闇へ目を向けた。

 

 何かがある。

 ずっと下。

 

 まだ遥か先にあるはずなのに、どちらへ向かえばいいのかだけは、なぜかわかる。

 

 これも、セラフィーネを倒してからだった。

 迷宮に残された気配だけではなく、神に関わる何かが、どちらにあるのかまで感じ取れるようになっている。

 

 どうしてそんなことがわかるのか、自分でも説明はできない。

 

 ただ――針がある。

 目には見えないコンパスの針が、ずっと下を指しているような感覚だった。

 

 今までなら、道を一つ間違えればそれまでだった。

 何日進んだところで、最果てに近づいているのか、それとも遠ざかっているのかすらわからない。

 

 でも、今は違う。

 

(……行ける)

 

 タクミは泉の前に腰を下ろすと、冷たい岩に背を預け、棍棒を隣へ置いた。

 

 自然と、視線が下へ向く。

 

 今までだって、何度も深層を彷徨ってきた。

 行く当てもなく、ただ下へ進み続けたこともある。

 元の世界に帰れないことが嫌になって、何もかもどうでもよくなって――気づけば、ずっとここにいた時期もあった。

 でも、今は違う。

 この感覚があれば、少なくとも進む方向はわかる。

 

 これまで辿り着けなかった場所にも、今なら行けるかもしれない。

 その先に何があるのかは、わからない。

 

 それでも――本当に、帰れるかもしれない。

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