――速い。
そう思った時には、身体は既に動いていた。
視界の端で黒い影が一気に膨れ上がり、床が砕けるのとほとんど同時に、巨大な斧が目の前まで迫ってくる。
死域の斧鬼《ヴァル・タイタン》。
六メートルを超える巨体で、盛り上がった筋肉を黒鉄のような外骨格が覆い、その内側をさらに太い骨が支えている。
両手に握った戦斧も馬鹿みたいに大きく、刃だけで人間一人分ほどあった。
見た目だけなら、どう考えても遅そうだった。
だが、実際は真逆だ。
風を切る音すら、後から来る。
タクミは半歩だけ身体を捻った。
避けた――はずだった。
直後、斧が巻き起こした風圧が、全身を横から殴りつける。
肩口を掠めただけなのに、その衝撃は体に響いた。
(……ここだ)
こいつと戦うのは初めてだ。
それなのに――身体は知っていた。
踏み込んでくる距離。斧が届く間合い。回避しても、風圧と衝撃で体勢が崩れる"死の範囲"。
次の瞬間、斧が横薙ぎに振るわれた。
タクミは避けず、棍棒を構えて真正面から踏み込んだ。
斧と棍棒がぶつかり合い、床に亀裂が走った。
ヴァル・タイタンが押す。
タクミも押し返す。
しばらく拮抗したあと、タクミは一気に力を込め、そのまま棍棒を振り切った。
戦斧が外へ弾かれ、ヴァル・タイタンの巨体が後ろへ大きくのけ反った。
(力押しなら、勝てる)
そう思った、その時だった。
――オオオオオオオッ!!
咆哮が通路に響き渡った。
天井から小石が落ち、ヴァル・タイタンの全身から赤い闘気が一気に噴き出す。外骨格の隙間が赤く光り、筋肉がさらに大きく膨れ上がる。
(……ああ)
これも、知っている。
追い詰められると、こうなる。
速度は一気に上がるが、その代わり動きは単純になる。あとは斧を振り回しながら突っ込んでくるだけだ。
――そのはずだった。
ヴァル・タイタンが、床を蹴って一気に突っ込んできた。
タクミは咄嗟に棍棒を構える。
次の瞬間、凄まじい重さがぶつかってきた。
(……っ!)
押し返せない。
身体が浮き、そのまま背中から壁へ叩きつけられる。石が砕け、背中を打ちつけた衝撃で息が詰まった。
――ああ、そうか。
記憶と違う。
身体が知っていたのは、ここまでだった。
この先を知らない。
そこで、ようやくわかった。
(そいつは、ここで死んだのか)
ヴァル・タイタンが、赤い闘気をまとったままこちらへ歩いてくる。
タクミは口元の血を拭い、棍棒を握り直して立ち上がった。
(……それなら)
この先は、自分でやるしかない。
戦斧を振り上げたまま、ヴァル・タイタンが身体を低く沈める。
次の瞬間、床を砕きながら一直線に突っ込んでくる。
――タクミも同じだった。
棍棒を担ぎ直し、身体を低く沈めると、真正面から床を蹴った。
振り下ろされる斧に向かって、ただ全力で棍棒を叩きこむ。
――激突。
今度は、タクミが押し切った。
戦斧の刃に亀裂が走り、そのまま一気に砕け散る。
無数の鉄片が飛び散り、勢いを殺せなかったヴァル・タイタンの巨体が後ろへ流れ、そのまま背中から壁へぶつかった。
石が砕け、粉塵が噴き上がる。
――敵は武器を失い、体勢も崩れている。
タクミは、もう動いていた。
粉塵の中へ踏み込み、一息で懐へ入る。
狙うのは、胴体の真ん中。
棍棒を引き戻し、全身の力を乗せて、叩き込んだ。
轟音。
巨体が浮き、背後の壁ごと吹き飛ぶ。外骨格が飛び散り、ヴァル・タイタンの身体は瓦礫の向こうへ消えた。
しばらくして、ぱらぱらと小石が落ちてくる。
もう、動く気配はない。
タクミは棍棒を下ろし、短く息を吐いた。
それから口元に残った血を、手の甲で拭った。
◇
通路をしばらく進んだところで、暗闇の先に淡い光が見えてきた。
タクミは足を止めた。
淡く光る空間が、視界に広がる。
岩盤の裂け目にできた大きな泉で、水の底にはいくつもの魔鉱石が沈み、そこから漏れる青白い光が水面でゆらゆらと揺れている。
――魔物の気配が、ない。
不自然なほど、静かだった。
深層へ潜り始めた頃から、タクミはここを勝手に休憩所と呼んでいた。
……いや。
(そういう風に作った)
今なら、なんとなくわかる。
たまたま魔物が寄ってこないわけではなく、この場所だけは最初からそうなるように作られている。
誰が、何のために作ったのか。
そこまでは、まだわからない。
――あのエルフ。
タクミはセラフィーネを倒してから、こうした違和感がわかるようになっていた。
物質に残る痕跡。
創られたものに染みついた、ほんのわずかな気配。
これまで、迷宮は天使が作ったものだと思っていた。
少なくとも、支配しているのは天使だと。
しかし、この迷宮全体から感じる気配は、違う。
あのエルフのものとも、肩に担ぐ棍棒のものとも、近いが同じではない。
(……わからないな)
情報が足りないのだから、いくら考えたところで答えが出るはずもない。
今は、それでいい。
それよりも問題なのは、この先だった。
深層《死域》は厄介だ。
下層までは一層、二層と階層がはっきり分かれていたため、自分が今どの辺りにいるのかも大体把握できた。
だが、十六層を越えた辺りから、それがなくなる。
階段らしい階段もなく、道は上がったり下がったりを繰り返し、気づけば前より深い場所にいる。
しかも、一度通った道が次に来た時も同じとは限らない。
頼れるのは、自分の平衡感覚くらいだった。
おまけに視界は悪く、出てくる魔物はどれも馬鹿みたいに強い。そして何より厄介なのが、地上との時間のズレだった。
だから今までは、無理に奥へ進もうとはしなかった。
少し進んでは戻り、敵と道を覚えて、また潜る。
それを何度も繰り返しながら、少しずつ探索範囲を広げてきた。
だが――今は違う。
タクミは泉の向こう、さらに深くへ続いている暗闇へ目を向けた。
何かがある。
ずっと下。
まだ遥か先にあるはずなのに、どちらへ向かえばいいのかだけは、なぜかわかる。
これも、セラフィーネを倒してからだった。
迷宮に残された気配だけではなく、神に関わる何かが、どちらにあるのかまで感じ取れるようになっている。
どうしてそんなことがわかるのか、自分でも説明はできない。
ただ――針がある。
目には見えないコンパスの針が、ずっと下を指しているような感覚だった。
今までなら、道を一つ間違えればそれまでだった。
何日進んだところで、最果てに近づいているのか、それとも遠ざかっているのかすらわからない。
でも、今は違う。
(……行ける)
タクミは泉の前に腰を下ろすと、冷たい岩に背を預け、棍棒を隣へ置いた。
自然と、視線が下へ向く。
今までだって、何度も深層を彷徨ってきた。
行く当てもなく、ただ下へ進み続けたこともある。
元の世界に帰れないことが嫌になって、何もかもどうでもよくなって――気づけば、ずっとここにいた時期もあった。
でも、今は違う。
この感覚があれば、少なくとも進む方向はわかる。
これまで辿り着けなかった場所にも、今なら行けるかもしれない。
その先に何があるのかは、わからない。
それでも――本当に、帰れるかもしれない。