タクミは、進むべき道から少し外れて歩いていた。
深層を進む足取りは、普段よりもゆっくりだ。別に魔物を警戒しているわけでもなく、どこか体調が悪いわけでもない。
ただ、どうしても確かめておきたいことがあった。
棍棒とよく似た微かな気配が、迷宮の奥から感じられるのだ。
(こっちだ……!)
"神気"を読み取れるようになってから、こうした気配を辿れるようになった。
意識しなければ、流してしまいそうな小さなものだが、覚えのある感覚だった。
タクミはその気配を頼りに、いくつかの通路を抜けていく。
やがて、少し開けた場所に出た。
そこには、小さな泉があった。
高い天井から水滴が落ち、澄んだ水面に小さな波紋を広げている。岩壁には淡く光る魔鉱石がいくつか埋まっていて、その光が泉に反射し、広間をぼんやりと照らしていた。
魔物がこない"休憩所"。
先日の泉と同じだった。ここも、そういう風に作られている。
――では、誰が。
答えの出ない問いだった。
そのまま奥へ進もうとして、ふと足が止まり、辺りを見回した。
(……あれ?)
右を見て、左を見る。
少し歩いてから、もう一度振り返った。
泉の位置に、岩壁の形。奥へと続く通路まで、どれもどこかで見た覚えがある。
(……ああ、間違いない)
思わず、そんな言葉が浮かんだ。
ここだ。
この世界に転移して、最初に目を覚ました場所。
そして――"相棒"の亡骸と出会った場所だった。
タクミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
突然見知らぬ場所で目を覚まし、何が起きたのかも分からなかったあの日。
右も左も分からない上に、周囲には人間を簡単に殺せるような魔物ばかりがいた。
(よく生きてたな、俺……)
今思い返しても、あの頃は無茶苦茶だった。
ふと、水滴の落ちる音が耳に入った。
ぽちゃん、と小さな音が響く。
その音だけは、記憶の中にあるものと何も変わっていなかった。
(……変わってないな)
なんだか少し、ほっとした。
タクミは泉から目を離し、広間の奥へと視線を向ける。
確か、あの辺りだったはずだ。
ゆっくりと歩いていくと、そこには何の変哲もない岩壁があった。血の跡も、骨の欠片も、当時のことを思い出させるようなものは何一つ残っていない。
(この辺、だったよな)
タクミは首を傾げ、少し右へ移動してみた。
いや、もう少し左だったか。
何度か位置を変えてみたが、結局はっきりしなかった。それでも、あの時の光景だけは今でもよく覚えている。
壁にもたれかかるように座っていた、干からびた亡骸。
とうに息絶えていたはずなのに、あの時は不思議と、何かを伝えようとしているように感じた。
そして、その手に握られていた一本の棍棒。
それが、すべての始まりだった。
(……まあ、この辺でいいか)
タクミは棍棒を肩から下ろし、壁の前まで歩いていくと、床にそっと置いた。
それから、両手を合わせる。
(……あなたのおかげです)
静かに目を閉じる。
これまで、何度死にかけたことだろう。
地上に出てからだって、危ない目には何度も遭った。
それでも、こうして生きている。
あの時、棍棒を受け取っていなければ、自分はどうなっていただろう。
考えるまでもない。
『……本当に、ありがとうございました』
タクミはしばらく、そのまま手を合わせていた。
どれくらいそうしていたのか。
やがて目を開けると、ゆっくりと手を下ろし、床に置いた棍棒を手に取って立ち上がった。
しかし、何の反応もない。
(……相変わらず、素っ気ないな)
少しだけ苦笑する。
昔は、もっと色々と反応してくれたものだ。
危険が迫れば唸り声を上げたし、時には言葉を交わすこともあった。
何を言いたいのか分からないことも多かったが、それでも確かに意思は通じていた。
だが、ここ数年は違う。
少しずつ反応が減り、最近では滅多に声を聞かなくなっていた。
(……嫌われたのかと思ってたんだけどな)
そう考えたことも、一度や二度ではない。
何しろ、自分は彼が望んでいたことと、まったく違うことをしているのだから。
彼が何を託したのか、すべてを理解しているわけではない。それでも、この世界で何かを成し遂げてほしかったのだろうとは思う。
だが、タクミにはそんな気はなかった。
ただ、元の世界に帰りたい。
それだけだった。
だから、愛想を尽かされたのかもしれないと思っていた。
けれど――。
(……違ったんだな)
タクミは手の中の棍棒を見つめた。
神気を感じ取れるようになった今なら分かる。棍棒の奥に残っている微かな気配は、以前と比べて明らかに弱くなっていた。
(……だいぶ、弱ってる)
嫌われたわけじゃない。
ただ、もう以前のように反応する力が残っていないのだ。
いつからだったのだろう。
少なくとも、ここ数年はずっとそうだったはずだ。なのに、自分は何も気づいていなかった。
――託す。
ふと、あの時のことを思い出した。
亡骸から棍棒を受け取った瞬間、確かに感じた言葉。
そして、目の前で崩れ落ちていった彼の身体。
あれから、ずいぶん長い時間が経った。
この棍棒がなければ、今日まで生き延びることは出来なかった。
(……悪いな)
タクミは棍棒を握り直した。
彼の願いに、応えられていない。
それどころか、今も自分のことばかり考えている。
そう思うと、胸が少し痛んだ。
(……申し訳ないけど、俺は選ばれた人間じゃないんだ)
何か特別な使命があるわけでもないし、この世界を救うために来たわけでもない。
ただの凡人が、ただ迷い込んだだけだ。
それでも、生きるために戦ってきた。
帰るために、ここまで来た。
(……だから、もう少しだけ付き合ってくれ)
タクミは棍棒を肩に担いだ。
もちろん、返事はない。
それでも、少しだけ気が楽になった気がした。
最後に、もう一度だけ壁の方を見る。
そこには何もなく、十年前と同じように、泉の水音だけが聞こえていた。
(……じゃあ、行くか)
タクミは踵を返し、広間を後にした。