棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十五話 託された場所

 タクミは、進むべき道から少し外れて歩いていた。

 

 深層を進む足取りは、普段よりもゆっくりだ。別に魔物を警戒しているわけでもなく、どこか体調が悪いわけでもない。

 ただ、どうしても確かめておきたいことがあった。

 

 棍棒とよく似た微かな気配が、迷宮の奥から感じられるのだ。

 

 

(こっちだ……!)

 

 

 "神気"を読み取れるようになってから、こうした気配を辿れるようになった。

 意識しなければ、流してしまいそうな小さなものだが、覚えのある感覚だった。

 タクミはその気配を頼りに、いくつかの通路を抜けていく。

 

 やがて、少し開けた場所に出た。

 

 そこには、小さな泉があった。

 

 高い天井から水滴が落ち、澄んだ水面に小さな波紋を広げている。岩壁には淡く光る魔鉱石がいくつか埋まっていて、その光が泉に反射し、広間をぼんやりと照らしていた。

 

 魔物がこない"休憩所"。

 先日の泉と同じだった。ここも、そういう風に作られている。

 ――では、誰が。

 

 答えの出ない問いだった。

 そのまま奥へ進もうとして、ふと足が止まり、辺りを見回した。

 

(……あれ?)

 

 右を見て、左を見る。

 少し歩いてから、もう一度振り返った。

 泉の位置に、岩壁の形。奥へと続く通路まで、どれもどこかで見た覚えがある。

 

(……ああ、間違いない)

 

 思わず、そんな言葉が浮かんだ。

 

 ここだ。

 

 この世界に転移して、最初に目を覚ました場所。

 

 そして――"相棒"の亡骸と出会った場所だった。

 

 タクミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 突然見知らぬ場所で目を覚まし、何が起きたのかも分からなかったあの日。

 右も左も分からない上に、周囲には人間を簡単に殺せるような魔物ばかりがいた。

 

(よく生きてたな、俺……)

 

 

 今思い返しても、あの頃は無茶苦茶だった。

 

 ふと、水滴の落ちる音が耳に入った。

 ぽちゃん、と小さな音が響く。

 その音だけは、記憶の中にあるものと何も変わっていなかった。

 

(……変わってないな)

 

 なんだか少し、ほっとした。

 タクミは泉から目を離し、広間の奥へと視線を向ける。

 確か、あの辺りだったはずだ。

 ゆっくりと歩いていくと、そこには何の変哲もない岩壁があった。血の跡も、骨の欠片も、当時のことを思い出させるようなものは何一つ残っていない。

 

(この辺、だったよな)

 

 タクミは首を傾げ、少し右へ移動してみた。

 

 いや、もう少し左だったか。

 何度か位置を変えてみたが、結局はっきりしなかった。それでも、あの時の光景だけは今でもよく覚えている。

 壁にもたれかかるように座っていた、干からびた亡骸。

 

 とうに息絶えていたはずなのに、あの時は不思議と、何かを伝えようとしているように感じた。

 そして、その手に握られていた一本の棍棒。

 それが、すべての始まりだった。

 

(……まあ、この辺でいいか)

 

 タクミは棍棒を肩から下ろし、壁の前まで歩いていくと、床にそっと置いた。

 それから、両手を合わせる。

 

(……あなたのおかげです)

 

 静かに目を閉じる。

 これまで、何度死にかけたことだろう。

 地上に出てからだって、危ない目には何度も遭った。

 

 それでも、こうして生きている。

 あの時、棍棒を受け取っていなければ、自分はどうなっていただろう。

 考えるまでもない。

 

『……本当に、ありがとうございました』

 

 タクミはしばらく、そのまま手を合わせていた。

 どれくらいそうしていたのか。

 やがて目を開けると、ゆっくりと手を下ろし、床に置いた棍棒を手に取って立ち上がった。

 

 しかし、何の反応もない。

 

(……相変わらず、素っ気ないな)

 

 少しだけ苦笑する。

 昔は、もっと色々と反応してくれたものだ。

 

 危険が迫れば唸り声を上げたし、時には言葉を交わすこともあった。

 何を言いたいのか分からないことも多かったが、それでも確かに意思は通じていた。

 

 だが、ここ数年は違う。

 

 少しずつ反応が減り、最近では滅多に声を聞かなくなっていた。

 

 

(……嫌われたのかと思ってたんだけどな)

 

 

 そう考えたことも、一度や二度ではない。

 何しろ、自分は彼が望んでいたことと、まったく違うことをしているのだから。

 彼が何を託したのか、すべてを理解しているわけではない。それでも、この世界で何かを成し遂げてほしかったのだろうとは思う。

 

 だが、タクミにはそんな気はなかった。

 

 ただ、元の世界に帰りたい。

 それだけだった。

 

 だから、愛想を尽かされたのかもしれないと思っていた。

 

 けれど――。

 

(……違ったんだな)

 

 タクミは手の中の棍棒を見つめた。

 神気を感じ取れるようになった今なら分かる。棍棒の奥に残っている微かな気配は、以前と比べて明らかに弱くなっていた。

 

(……だいぶ、弱ってる)

 

 嫌われたわけじゃない。

 ただ、もう以前のように反応する力が残っていないのだ。

 

 いつからだったのだろう。

 少なくとも、ここ数年はずっとそうだったはずだ。なのに、自分は何も気づいていなかった。

 

 

 ――託す。

 

 

 ふと、あの時のことを思い出した。

 

 亡骸から棍棒を受け取った瞬間、確かに感じた言葉。

 そして、目の前で崩れ落ちていった彼の身体。

 あれから、ずいぶん長い時間が経った。

 

 この棍棒がなければ、今日まで生き延びることは出来なかった。

 

(……悪いな)

 

 タクミは棍棒を握り直した。

 

 彼の願いに、応えられていない。

 それどころか、今も自分のことばかり考えている。

 そう思うと、胸が少し痛んだ。

 

(……申し訳ないけど、俺は選ばれた人間じゃないんだ)

 

 何か特別な使命があるわけでもないし、この世界を救うために来たわけでもない。

 ただの凡人が、ただ迷い込んだだけだ。

 

 それでも、生きるために戦ってきた。

 帰るために、ここまで来た。

 

(……だから、もう少しだけ付き合ってくれ)

 

 タクミは棍棒を肩に担いだ。

 もちろん、返事はない。

 それでも、少しだけ気が楽になった気がした。

 

 最後に、もう一度だけ壁の方を見る。

 そこには何もなく、十年前と同じように、泉の水音だけが聞こえていた。

 

(……じゃあ、行くか)

 

 タクミは踵を返し、広間を後にした。

 

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