グランデル。
天使教神殿の修道院区画は、朝の光に包まれていた。
白い石造りの廊下はまだ静かで、時折、修道女たちの足音が遠くから聞こえてくる。
リュミエルは自室の机に腰を下ろし、蝋で封じられた書状を手に取った。
本国――エルフ王国からの正式な通達。
封を切り、内容に目を通す。
書かれていた内容は、簡潔だった。
――グランデルにおける監視任務を継続せよ。
――以下の対象の動向に、最大限の注意を払うこと。
――特に、人間冒険者タクミの行方を追跡せよ。
(……やはり)
予想はしていた。
タクミが姿を消して、すでに半月ほどになる。
今回の一件について聞いたのは、すべてが終わった後だった。
エルフ王国の象徴とも言える存在――セラフィーネ様と、人間の冒険者タクミが交戦したこと。
そして、その後――両者ともに、消息を絶ったこと。
生死は不明。
勝敗も、結末も、まだ誰も知らない。
本来なら、まず気に掛けるべきなのはセラフィーネ様のはずだった。
天使の声を聞くことを許された者。
王国の威光。
しかし最初に思い浮かんだのは、タクミだった。
(……優先順位が、違う)
分かっている。
自分の立場を考えれば、こんなことを思うべきではない。
通達を閉じ、机の引き出しへしまったとき、扉を叩く音がした。
「セリエル様。お客様です」
「……私に?」
「はい。セリエル様を訪ねて、とのことで」
リュミエルは、一瞬だけ手を止めた。
◇
礼拝堂の入口に、エマが立っていた。
藍色のベストに、ギルドの鉄の紋章。
ギルドへ行けばいつも受付にいるが、ここで見るのは初めてだった。
「セリエルさん」
声をかけられ、リュミエルは歩み寄る。
「エマ。どうなさいました」
「すみません、急に。……私、こういうところ、初めてで」
エマは落ち着かない様子で、手を組んだり解いたりしていた。
扉のくぐり方も、どこに立てばいいのかも分からないらしい。
視線が、高い天井や祭壇のあたりをさまよっている。
「構いませんよ。どうぞ、こちらへ」
リュミエルが示すと、エマは少し戸惑いながら歩み寄ってきた。
長椅子に並んで腰を下ろす。
しばらく、エマは何も言わなかった。
「……タクミさんが」
やがて、ぽつりと口を開く。
「ここによく来てた、って思って」
リュミエルは、静かに頷いた。
「それで、その……祈ってもらえないかなって。無事を」
エマの指が、膝の上で絡まっている。
「おかしいですよね。私、信じてもいないのに」
「おかしくはありません」
リュミエルは答えた。
「祈りは、誰のものでもありませんから」
エマは少しだけ笑って、それから俯いた。
「……もう、ずっと戻って来ないんです」
「……はい」
「前にも、何日も帰らないことはあって。でも今回は、迷宮が閉まってて。誰も入れなくて」
言葉が、途切れ途切れになる。
「ロイさんも、一緒で」
リュミエルの指が、わずかに動いた。
「あの人、よく笑う人で。タクミさんのこと、すごく慕ってて」
エマが顔を上げた。
「こんなこと、聞いていいか分からないんですけど」
エマは少し迷ってから、続けた。
「セリエルさんも、ロイさんと……よく一緒にいるの、見かけてました」
リュミエルは、答えなかった。
ロイがどうなったのか、彼女も知らない。
本国からの通達には、一行も書かれていなかった。生きているのか、帰還したのか、それとも――。
同胞の消息すら、自分には届かない。
「……お辛いですよね」
エマが、そっと言った。
「二人とも、帰ってこないなんて」
――違う。
そう言うべきだった。
タクミのことは、自分が追わなければならない相手だ。祈る資格などない。
なのに。
(……嘘では、ない)
少なくとも、すべてが嘘というわけではなかった。
リュミエルは、何も言わずに小さく頷いた。
◇
祭壇の前で、二人は並んで膝をついた。
リュミエルが祈りの言葉を唱える。
聞き慣れた文言。
これまで、何百回も口にしてきた言葉。
隣で、エマが見よう見まねで手を組んでいる。
作法は合っていない。それでも、目はきつく閉じられていた。
祈りが終わっても、エマはしばらく動かなかった。
やがて顔を上げると、気まずそうに笑う。
「……すみません。変なお願いして」
「いいえ」
「……あの」
エマが、おずおずと切り出す。
「タクミさん、ここでは……どんな感じだったんですか」
「どんな、とは」
「宿だと、だいたい黙ってご飯食べてるだけなので」
エマが少し笑った。
「ここに来てたって聞いても、全然想像がつかなくて」
リュミエルは、少し考えてから答えた。
「……字を、習いに来ていました」
「字?」
「読めない箇所があると、持ってくるのです。聖書を」
エマが目を丸くした。
「タクミさんが、聖書」
「ええ」
「……へえ」
想像しようとしているのか、エマはしばらく天井のあたりを見ていた。
「信心深い方なんですね」
「……どうでしょう」
リュミエルは、わずかに目を細めた。
それからエマは、どこか嬉しそうに笑った。
「知らなかった、私たち、ずっと一緒にいたのに」
リュミエルは、何も言わなかった。
この人が知っているタクミと、自分が知っているタクミは、少し違う。
二人分を並べても、まだ足りない気がした。
「……そろそろ、戻らないと」
エマが立ち上がりかけ、ふと動きを止めた。
片手が、無意識のように腹へ伸びる。
そのまま、少しだけそこに置かれた。
リュミエルはそれを見つめたまま、何も言わなかった。
「……この子が生まれるまでに」
エマが、小さな声で言う。
「帰ってきてくれるといいんですけど」
その顔には、笑みが浮かんでいた。
礼拝堂は静かだった。
高窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。
「……ええ、そうですね」
リュミエルは、そう答えた。
◇
エマを見送った後、リュミエルは自室へ戻った。
机に向かい、報告用の紙を広げる。
本国への定時報告。
書くべきことは、いくつもあった。
街が動揺していること。
冒険者の流出。迷宮の閉鎖。
ギルドが情報を伏せている様子。
そして――タクミについて。
筆を取ったが、手が止まった。
――どうして、ここまで進むことになったのだろう。
もし、何か違う道があったのなら。
彼の素顔の一部を、知っているつもりだ。
本来、敵対するような人間性は感じられない。
そもそもの始まりは、ただの偶然だった。
彼がいつものように迷宮へ潜り、そこへ自分たちの狩りが重なった。
それだけだったはずなのに。
しかし、ずっと同じことが引っ掛かっている。
(……彼は、なぜ迷宮にこだわるのか)
一度だけ、尋ねたことがある。
困ったような顔をして、それから急に真顔になり、「オレ、メイキュウ、スキ」と言葉を濁した。
それ以上聞かれたくないのだと、その時は思った。
タクミは金や名誉に興味がない。
むしろ、そういうものから距離を取ろうとしているように見える。
復讐でもない。
少なくとも、エルフを憎んでいるようには見えなかった。
むしろ、自分たちのことを知ろうとすらしていた。
誰かに命じられているわけでも、神に仕えているわけでもない。
ただ、何かを失った人間なのだとは思う。
時折、そんな目をすることがある。
けれど、失ったものを取り戻そうとしているようにも見えなかった。
(じゃあ、何を求めてるの……?)
迷宮の奥に、何があるというのか。
そこに叶えたい願いが、何かあるのだろうか。
リュミエルに分かるのは、そこまでだった。
その先を考えようとすると、どうしても答えが出ない。
リュミエルは、筆を置いた。
紙の上には、一行だけが残っている。
――対象、現在も消息不明。
それ以上は、書けなかった。
窓の外では、街が普段通りに動いていた。
市場へ向かう人々の足音。遠くで鳴る鍛冶の槌。
タクミがいなくなっても、街の朝は変わらない。
――それでも。
彼がまだ生きていることだけは、なぜか疑えなかった。