棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十六話 途切れないもの

 グランデル。

 天使教神殿の修道院区画は、朝の光に包まれていた。

 

 白い石造りの廊下はまだ静かで、時折、修道女たちの足音が遠くから聞こえてくる。

 

 リュミエルは自室の机に腰を下ろし、蝋で封じられた書状を手に取った。

 

 本国――エルフ王国からの正式な通達。

 

 封を切り、内容に目を通す。

 書かれていた内容は、簡潔だった。

 

 ――グランデルにおける監視任務を継続せよ。

 ――以下の対象の動向に、最大限の注意を払うこと。

 ――特に、人間冒険者タクミの行方を追跡せよ。

 

(……やはり)

 

 予想はしていた。

 タクミが姿を消して、すでに半月ほどになる。

 

 今回の一件について聞いたのは、すべてが終わった後だった。

 

 エルフ王国の象徴とも言える存在――セラフィーネ様と、人間の冒険者タクミが交戦したこと。

 そして、その後――両者ともに、消息を絶ったこと。

 

 生死は不明。

 勝敗も、結末も、まだ誰も知らない。

 

 本来なら、まず気に掛けるべきなのはセラフィーネ様のはずだった。

 

 天使の声を聞くことを許された者。

 王国の威光。

 

 しかし最初に思い浮かんだのは、タクミだった。

 

(……優先順位が、違う)

 

 分かっている。

 自分の立場を考えれば、こんなことを思うべきではない。

 

 通達を閉じ、机の引き出しへしまったとき、扉を叩く音がした。

 

「セリエル様。お客様です」

 

「……私に?」

 

「はい。セリエル様を訪ねて、とのことで」

 

 リュミエルは、一瞬だけ手を止めた。

 

 

 ◇

 

 

 礼拝堂の入口に、エマが立っていた。

 

 藍色のベストに、ギルドの鉄の紋章。

 ギルドへ行けばいつも受付にいるが、ここで見るのは初めてだった。

 

「セリエルさん」

 

 声をかけられ、リュミエルは歩み寄る。

 

「エマ。どうなさいました」

 

「すみません、急に。……私、こういうところ、初めてで」

 

 エマは落ち着かない様子で、手を組んだり解いたりしていた。

 扉のくぐり方も、どこに立てばいいのかも分からないらしい。

 視線が、高い天井や祭壇のあたりをさまよっている。

 

「構いませんよ。どうぞ、こちらへ」

 

 リュミエルが示すと、エマは少し戸惑いながら歩み寄ってきた。

 

 長椅子に並んで腰を下ろす。

 しばらく、エマは何も言わなかった。

 

「……タクミさんが」

 

 やがて、ぽつりと口を開く。

 

「ここによく来てた、って思って」

 

 リュミエルは、静かに頷いた。

 

「それで、その……祈ってもらえないかなって。無事を」

 

 エマの指が、膝の上で絡まっている。

 

「おかしいですよね。私、信じてもいないのに」

 

「おかしくはありません」

 

 リュミエルは答えた。

 

「祈りは、誰のものでもありませんから」

 

 エマは少しだけ笑って、それから俯いた。

 

「……もう、ずっと戻って来ないんです」

 

「……はい」

 

「前にも、何日も帰らないことはあって。でも今回は、迷宮が閉まってて。誰も入れなくて」

 

 言葉が、途切れ途切れになる。

 

「ロイさんも、一緒で」

 

 リュミエルの指が、わずかに動いた。

 

「あの人、よく笑う人で。タクミさんのこと、すごく慕ってて」

 

 エマが顔を上げた。

 

「こんなこと、聞いていいか分からないんですけど」

 

 エマは少し迷ってから、続けた。

 

「セリエルさんも、ロイさんと……よく一緒にいるの、見かけてました」

 

 リュミエルは、答えなかった。

 ロイがどうなったのか、彼女も知らない。

 

 本国からの通達には、一行も書かれていなかった。生きているのか、帰還したのか、それとも――。

 同胞の消息すら、自分には届かない。

 

「……お辛いですよね」

 

 エマが、そっと言った。

 

「二人とも、帰ってこないなんて」

 

 ――違う。

 

 そう言うべきだった。

 タクミのことは、自分が追わなければならない相手だ。祈る資格などない。

 

 なのに。

 

(……嘘では、ない)

 

 少なくとも、すべてが嘘というわけではなかった。

 リュミエルは、何も言わずに小さく頷いた。

 

 

 ◇

 

 

 祭壇の前で、二人は並んで膝をついた。

 

 リュミエルが祈りの言葉を唱える。

 

 聞き慣れた文言。

 これまで、何百回も口にしてきた言葉。

 

 隣で、エマが見よう見まねで手を組んでいる。

 作法は合っていない。それでも、目はきつく閉じられていた。

 

 祈りが終わっても、エマはしばらく動かなかった。

 

 やがて顔を上げると、気まずそうに笑う。

 

「……すみません。変なお願いして」

 

「いいえ」

 

「……あの」

 

 エマが、おずおずと切り出す。

 

「タクミさん、ここでは……どんな感じだったんですか」

 

「どんな、とは」

 

「宿だと、だいたい黙ってご飯食べてるだけなので」

 

 エマが少し笑った。

 

「ここに来てたって聞いても、全然想像がつかなくて」

 

 リュミエルは、少し考えてから答えた。

 

「……字を、習いに来ていました」

 

「字?」

 

「読めない箇所があると、持ってくるのです。聖書を」

 

 エマが目を丸くした。

 

「タクミさんが、聖書」

 

「ええ」

 

「……へえ」

 

 想像しようとしているのか、エマはしばらく天井のあたりを見ていた。

 

「信心深い方なんですね」

 

「……どうでしょう」

 

 リュミエルは、わずかに目を細めた。

 それからエマは、どこか嬉しそうに笑った。

 

「知らなかった、私たち、ずっと一緒にいたのに」

 

 リュミエルは、何も言わなかった。

 

 この人が知っているタクミと、自分が知っているタクミは、少し違う。

 二人分を並べても、まだ足りない気がした。

 

「……そろそろ、戻らないと」

 

 エマが立ち上がりかけ、ふと動きを止めた。

 

 片手が、無意識のように腹へ伸びる。

 そのまま、少しだけそこに置かれた。

 

 リュミエルはそれを見つめたまま、何も言わなかった。

 

「……この子が生まれるまでに」

 

 エマが、小さな声で言う。

 

「帰ってきてくれるといいんですけど」

 

 その顔には、笑みが浮かんでいた。

 

 礼拝堂は静かだった。

 高窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。

 

「……ええ、そうですね」

 

 リュミエルは、そう答えた。

 

 

 ◇

 

 

 エマを見送った後、リュミエルは自室へ戻った。

 

 机に向かい、報告用の紙を広げる。

 

 本国への定時報告。

 書くべきことは、いくつもあった。

 

 街が動揺していること。

 冒険者の流出。迷宮の閉鎖。

 ギルドが情報を伏せている様子。

 

 そして――タクミについて。

 

 筆を取ったが、手が止まった。

 

 ――どうして、ここまで進むことになったのだろう。

もし、何か違う道があったのなら。

 

 彼の素顔の一部を、知っているつもりだ。

本来、敵対するような人間性は感じられない。

 

 そもそもの始まりは、ただの偶然だった。

 彼がいつものように迷宮へ潜り、そこへ自分たちの狩りが重なった。

 それだけだったはずなのに。

 

 しかし、ずっと同じことが引っ掛かっている。

 

(……彼は、なぜ迷宮にこだわるのか)

 

 一度だけ、尋ねたことがある。

 

 困ったような顔をして、それから急に真顔になり、「オレ、メイキュウ、スキ」と言葉を濁した。

 それ以上聞かれたくないのだと、その時は思った。

 

 タクミは金や名誉に興味がない。

 むしろ、そういうものから距離を取ろうとしているように見える。

 

 復讐でもない。

 少なくとも、エルフを憎んでいるようには見えなかった。

 むしろ、自分たちのことを知ろうとすらしていた。

 

 誰かに命じられているわけでも、神に仕えているわけでもない。

 

 ただ、何かを失った人間なのだとは思う。

 時折、そんな目をすることがある。

 

 けれど、失ったものを取り戻そうとしているようにも見えなかった。

 

(じゃあ、何を求めてるの……?)

 

 迷宮の奥に、何があるというのか。

 そこに叶えたい願いが、何かあるのだろうか。

 

 リュミエルに分かるのは、そこまでだった。

 その先を考えようとすると、どうしても答えが出ない。

 

 リュミエルは、筆を置いた。

 紙の上には、一行だけが残っている。

 

 ――対象、現在も消息不明。

 

 それ以上は、書けなかった。

 

 窓の外では、街が普段通りに動いていた。

 市場へ向かう人々の足音。遠くで鳴る鍛冶の槌。

 

 タクミがいなくなっても、街の朝は変わらない。

 

 ――それでも。

 彼がまだ生きていることだけは、なぜか疑えなかった。

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