棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十七話 境界

 何度目かの粉砕音が通路に響き、最後の一体が壁に叩きつけられた。

 

 ずるずると崩れ落ちた魔物は、そのまま動かなくなる。

 

 しばらく壁の破片が床に落ちる音が続いていたが、それもやがて収まり、通路には静けさが戻ってきた。

 

 タクミは周囲を軽く見回してから、棍棒を床に預け、その場に腰を下ろした。

辺りには無数の魔物の死骸が転がっている。

 手足を失ったものや、硬い外殻を砕かれたもの。床には黒ずんだ血が広がり、踏み場を探すのも面倒なほどだった。

 

 当然、臭いもひどい。

 以前なら顔をしかめていただろうが、今では特に何も感じなくなっていた。

 

(……少し、休むか)

 

 壁に背中を預け、ゆっくりと目を閉じる。

 

 身体に多少の疲れは残っているものの、まだまだ動けそうだった。

 そのまま意識が沈みかけたとき、不意に女の声が聞こえた。

 

『――ああ、わかりました。……任せてもいいかもしれません』

 

「……?」

 

 タクミは薄く目を開けた。

 落ち着いた、どこか聞き覚えのある声だった。

 

 だが、辺りを見回したところで、当然ながら誰もいない。あるのは先ほど倒した魔物の死骸だけだ。

 

(……また、アレか)

 

 深層にいると、こうした幻聴を聞くことがある。

 眠っているときだけではない。今回のように意識がぼんやりした瞬間、突然誰かの声が聞こえることがある。

 名前を呼ばれたり、意味の分からない言葉を聞かされたりと、その内容も様々だった。

 

 最初こそ気になったものの、今ではすっかり慣れてしまっている。

 

 深く考えるのをやめ、腰のポーチに手を伸ばした。

 休憩のついでに干し肉でも齧ろうと思ったのだが、いくら探しても指先には何も触れない。

 

(……ああ、そうだった)

 

 そういえば、とうに食べ切っていた。

 

 最後に食事をしたのがいつだったか、思い出そうとしてもはっきりしない。

 本来なら、これだけ戦って動き回れば腹も減るはずだ。だが、今のタクミには空腹も喉の渇きもなかった。

 それどころか、先ほどの戦闘を終えてから身体の調子がいい。

 

(別に、問題ない……か)

 

 タクミは小さく息を吐くと、棍棒を手に立ち上がった。

 軽く振ってみるが、腕にも脚にも問題はない。疲れるどころか、戦う前より身体が軽くなったようにさえ感じる。

 

 もっとも、理由は前々から分かっていた。

 

 睡眠も食事も、今の自分には必ずしも必要ではない。

 戦い、敵を倒せば、それだけで身体は満たされていく。しかも相手が強ければ強いほど、その効果は大きかった。

 

 いつからそうなったのかは分からないが、少なくとも今に始まったことではない。

 

(考えても、しょうがない)

 

 魔法が存在し、神までいる世界だ。

 元の世界の常識が通用しないことなど、これまで嫌というほど経験してきた。

 

 いちいち理由を調べていたら、きりがない。

 

 それに――。

 

(帰れたら、全部関係ないだろ)

 

 元の世界に戻れれば、こんな不可解な現象ともおさらばするはずだ。

 そう自分に言い聞かせ、タクミは棍棒を肩に担いだ。

 

 ふと、元の世界へ帰るときのことを考えた。

 そのとき、この棍棒はどうなるのだろう。

 

 タクミは肩に担いだ相棒を横目で見た。

 

 できることなら、一緒に連れて帰りたい。

 もちろん、相棒がそれを望むならの話だが。

 

 十年も一緒にいたのだ。

 今さら別れるというのも、なんだか寂しい。

 

 もっとも、そんな心配をするのは、帰る方法を見つけてからでも遅くはない。

 

 タクミは棍棒を担ぎ直し、通路の奥へ歩き出した。

 先ほど聞こえた女の声についても、すでに気に留めてはいなかった。

 

 ――ああ、わかりました。任せてもいいかもしれません。

 

 その言葉が誰のものだったのか、深く考えることもなく。

 

 

 ◇

 

 

 しばらく歩いているうちに、タクミはある変化に気づいた。

 

(……強くなってきたな)

 

 迷宮の奥深くから伝わってくる、途方もなく巨大な何かの圧力。

 以前は漠然としか感じ取れなかったものだが、今では流れる方向まで分かるようになっていた。

 

 しかも、進むにつれてその流れが強くなっている。

 

(……集まってきてるのか)

 

 周囲を見回してみると、通路の様子も少しずつ変わっていた。

 

 これまで何度も現れていた分岐が減り、複雑に入り組んでいた道が、徐々に一つへまとまり始めている。

 

 もちろん、脇道が完全になくなったわけではない。

 だが、そちらへ目を向けても、先ほどまで感じていた流れがまるでないのだ。

 試しに足を止め、近くの分岐へ意識を向けてみる。

 

(……こっちは違うな)

 

 進もうと思えば進めるのだろうが、わざわざ行く理由もなかった。

 

 タクミは再び歩き出した。

 

 いくつかの分岐を通り過ぎる頃には、気の流れもほとんど一方向にまとまっていた。

 まるで迷宮のあちこちから集まったものが、一つの場所へ流れ込んでいるようだった。

 

(一本道、か)

 

 そんなことを考えながら通路を抜けた、そのときだった。

 

『……は?』

 

 タクミは思わず足を止めた。

 

 目の前に広がっていた光景が、これまでの迷宮とはあまりにも違っていたからだ。

 

 ――天井が、ない。

 

 頭上には青白い空が広がり、その下を薄い雲が覆っている。

 一瞬、どこかで地上に出たのかと思った。

 

 だが、そんなはずはない。

 

(……なんだ、ここ?)

 

 タクミは棍棒を握り直し、周囲を見回した。

 

 確かに空はある。だが、風がまったく吹いていないうえに、地上特有の草木や土の匂いもしない。

 それどころか、頭上に浮かぶ雲は少しも動いていなかった。

 しばらく様子を見てみたが、空の明るさも雲の形も、まるで変わる気配がない。

 

(……外じゃない、よな)

 

 念のため背後を振り返る。

 

 そこには、今まで歩いてきた岩の通路が続いていた。

 

 どう考えても地下にいるはずなのに、目の前には空が広がっている。

 長いこと迷宮に潜ってきたタクミでも、こんな場所を見るのは初めてだった。

 

(どうなってんだ)

 

 警戒しながら足を踏み出す。

 足元は相変わらず石造りだったが、数歩進んだところで、その感触にも違和感を覚えた。

 

 しゃがみ込んで指先を滑らせてみる。

 妙に滑らかだった。

 迷宮の床にありがちな細かな凹凸がなく、削った跡さえ見当たらない。

 

 まるで最初から、この形で出来上がっていたかのようだ。

 

(誰かが造ったのか?)

 

 そう考えて顔を上げたとき、今度は左右の壁が目に入った。

 先ほどまで剥き出しだった岩肌が、いつの間にか滑らかな壁面へ変わっている。

 

 しかも、少し先には太い柱まで立っていた。

 

 一本、二本……。

 

 柱は等間隔に並び、その上部が緩やかな弧を描いて繋がっている。

 どうやらアーチ状の廊下になっているらしい。

 

(……今度は建物かよ)

 

 思わずそんな感想が浮かんだ。

 

 だが、よく見ると普通の建築物とも違っている。

 石材を積み上げたような継ぎ目はなく、柱と床、壁までもが一体になっているのだ。

 

 試しに柱へ手を触れてみたが、ひんやりとした感触すらない。

 

(……気味が悪いな)

 

 タクミは柱から手を離し、もう一度背後を振り返った。

 

 そこには確かに岩の通路が続いている。

 しかし、前を向けば整然とした廊下がどこまでも伸びていた。

 

 いったい、どこから変わったのか。

 境目らしいものを探してみても、それらしい場所は見当たらない。

 

 何より不気味なのは、この変化があまりにも自然に起きていることだった。

 まるで、最初からそういう場所だったかのように。

 

(まあ……進むしかないか)

 

 タクミは棍棒を握り直し、慎重に歩き始めた。

 

 廊下を進むにつれて、周囲から岩肌が消えていく。

 

 やがて左右には同じ形のアーチが、延々と続いている。

 

 ふと足元を見ると、影が長く伸びている。

 頭上に太陽らしいものは見当たらないのに、影だけはきちんと落ちていた。

 しかも、柱の影も自分の影も、すべて進行方向へ伸びている。

 

(どういう仕組みなんだ、これ)

 

 気にはなるが、今ここで答えが出るような話でもない。

 タクミは小さく首を振り、再び前を向いた。

 

 それからしばらく歩いたところで、廊下の先に何かが見えてきた。

 

 最初は巨大な柱かと思った。

 

 だが、近づくにつれて、それが二本の柱と上部の横梁からなる、大きな門であることが分かった。

 

 タクミは足を止めた。

 

 門には扉がなく、その向こうには真っ黒な空間が広がっている。

 目を凝らしても奥の様子がまったく分からず、どこまで続いているのかさえ見当がつかなかった。

 

(……うかつに、近づくもんじゃないな)

 

 タクミは少し距離を取ったまま、門を観察した。

 

 ここまで来る間に感じていた気の流れが、明らかに強くなっている。

 周囲から集まった膨大な気が、濁流のように門の奥へ流れ込んでいるのだ。

 その規模は、これまで迷宮で感じてきたものとは比べものにならなかった。

 

(……全部、ここに集まってるのか)

 

 門の向こうに何があるのかは分からない。

 だが、あそこへ踏み込めば、もう簡単には戻ってこられない。

 

 そんな確信に近い感覚があった。

 

 魔物と戦うときに感じる危険とは、明らかに種類が違う。

 

 タクミは棍棒を握り直した。

 ここまで来て、ようやく目的の場所に近づいたのかもしれない。

 

 それでも、すぐに足を踏み出す気にはなれなかった。

 

 しばらく門を見つめていた、そのときだった。

 

 ――視界の端で、何かが揺れた。

 

 タクミは反射的にそちらへ顔を向けた。

 

 廊下の外側、切り立った崖の上に、空間が歪んでいる場所がある。

 よく見ると、景色の一部分だけが水面のように揺らいでいた。

 

(……階渡り、か)

 

 下層以降で稀に見られる現象だ。

 

 迷宮の異なる階層を繋ぐ抜け道のようなもので、うまく利用すれば帰還の道のりを一気に短縮できる。

 

 ただし、地上まで直接戻れるわけではない。

 どれほど深い場所からでも、繋がるのはせいぜい中層までだった。

 

 タクミは門を警戒しながら、ゆっくりと歪みへ近づいていく。

 

 やがて、その奥に見覚えのある景色が浮かび上がってきた。

 

 石造りの通路に、湿った岩壁。

 何度も通ったことのある、中層の風景だった。

 

(親切な設計だな……)

 

 ここまで来るのに、どれだけの道のりを歩いただろうか。

 それが、たった一歩で中層まで戻れるというのだから、ずいぶん都合のいい話だった。

 

 進む道と、戻る道。

 どちらも分かりやすい場所に用意されていて、好きな方を選べるようになっていた。

 

 ――ここが境界なのだろう。

 

 それより先へ進むか、それとも引き返すか。

 少なくとも、今なら自分で決められる。

 

(……用意されてる、みたいだな)

 

 そう思った瞬間、少しだけ背筋が寒くなった。

 だとしたら、何のために。

 

 タクミはもう一度、黒い門へ視線を向けた。

 

 相変わらず奥の様子は分からない。

 あそこに何が待っているのかも、帰るための答えがあるのかさえ分からなかった。

 

(………)

 

 門へ足を向けかけたが、そこで動きが止まる。

 

 

 ――今なら戻れる。

 

 

 門を越えてしまえば、次に戻れる機会があるとは限らない。

 それは、ここまで来る間に感じていた気の流れからも、何となく分かっていた。

 

(何も言わずに、行くのもな……)

 

 ふと、グランデルの街が頭に浮かんだ。

 

 ずいぶん世話になった。

 それなのに、もしこのまま帰れなくなったら、何も告げずに姿を消すことになる。

 

(……それは、ちょっとな)

 

 タクミは小さく息を吐いた。

 

 幸い、ここまで来る道筋は分かっている。

 気の流れを辿れば、もう一度この場所へ来ることはできるはずだ。

 何も、今すぐ門を越えなければならないわけではない。

 

 そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。

 

(……一回、戻るか)

 

 そう決めた途端、なぜか無性にあの宿へ帰りたくなった。

 

 いつもの食堂で、いつもの席に座る。

 ただそれだけのことが、今は無性に恋しかった。

 

 もっとも、戻るならエルフに気づかれないよう、慎重に動かなければならない。

 

 タクミは最後にもう一度だけ門を見た。

 

 十年かけて、ようやくここまで来た。

 だからこそ、次に来るときは迷わず進みたい。

 

(……ありがたい。ちょっと甘えさせてもらおう)

 

 誰に言うでもなく心の中で呟き、タクミは階渡りへ向き直った。

 歪んだ空間の向こうには、見慣れた中層の通路が広がっている。

 

 タクミは棍棒を肩に担ぎ直すと、その中へ一歩踏み出した。

 

 背後では、扉のない巨大な門が、変わらず静かに佇んでいた。

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