何度目かの粉砕音が通路に響き、最後の一体が壁に叩きつけられた。
ずるずると崩れ落ちた魔物は、そのまま動かなくなる。
しばらく壁の破片が床に落ちる音が続いていたが、それもやがて収まり、通路には静けさが戻ってきた。
タクミは周囲を軽く見回してから、棍棒を床に預け、その場に腰を下ろした。
辺りには無数の魔物の死骸が転がっている。
手足を失ったものや、硬い外殻を砕かれたもの。床には黒ずんだ血が広がり、踏み場を探すのも面倒なほどだった。
当然、臭いもひどい。
以前なら顔をしかめていただろうが、今では特に何も感じなくなっていた。
(……少し、休むか)
壁に背中を預け、ゆっくりと目を閉じる。
身体に多少の疲れは残っているものの、まだまだ動けそうだった。
そのまま意識が沈みかけたとき、不意に女の声が聞こえた。
『――ああ、わかりました。……任せてもいいかもしれません』
「……?」
タクミは薄く目を開けた。
落ち着いた、どこか聞き覚えのある声だった。
だが、辺りを見回したところで、当然ながら誰もいない。あるのは先ほど倒した魔物の死骸だけだ。
(……また、アレか)
深層にいると、こうした幻聴を聞くことがある。
眠っているときだけではない。今回のように意識がぼんやりした瞬間、突然誰かの声が聞こえることがある。
名前を呼ばれたり、意味の分からない言葉を聞かされたりと、その内容も様々だった。
最初こそ気になったものの、今ではすっかり慣れてしまっている。
深く考えるのをやめ、腰のポーチに手を伸ばした。
休憩のついでに干し肉でも齧ろうと思ったのだが、いくら探しても指先には何も触れない。
(……ああ、そうだった)
そういえば、とうに食べ切っていた。
最後に食事をしたのがいつだったか、思い出そうとしてもはっきりしない。
本来なら、これだけ戦って動き回れば腹も減るはずだ。だが、今のタクミには空腹も喉の渇きもなかった。
それどころか、先ほどの戦闘を終えてから身体の調子がいい。
(別に、問題ない……か)
タクミは小さく息を吐くと、棍棒を手に立ち上がった。
軽く振ってみるが、腕にも脚にも問題はない。疲れるどころか、戦う前より身体が軽くなったようにさえ感じる。
もっとも、理由は前々から分かっていた。
睡眠も食事も、今の自分には必ずしも必要ではない。
戦い、敵を倒せば、それだけで身体は満たされていく。しかも相手が強ければ強いほど、その効果は大きかった。
いつからそうなったのかは分からないが、少なくとも今に始まったことではない。
(考えても、しょうがない)
魔法が存在し、神までいる世界だ。
元の世界の常識が通用しないことなど、これまで嫌というほど経験してきた。
いちいち理由を調べていたら、きりがない。
それに――。
(帰れたら、全部関係ないだろ)
元の世界に戻れれば、こんな不可解な現象ともおさらばするはずだ。
そう自分に言い聞かせ、タクミは棍棒を肩に担いだ。
ふと、元の世界へ帰るときのことを考えた。
そのとき、この棍棒はどうなるのだろう。
タクミは肩に担いだ相棒を横目で見た。
できることなら、一緒に連れて帰りたい。
もちろん、相棒がそれを望むならの話だが。
十年も一緒にいたのだ。
今さら別れるというのも、なんだか寂しい。
もっとも、そんな心配をするのは、帰る方法を見つけてからでも遅くはない。
タクミは棍棒を担ぎ直し、通路の奥へ歩き出した。
先ほど聞こえた女の声についても、すでに気に留めてはいなかった。
――ああ、わかりました。任せてもいいかもしれません。
その言葉が誰のものだったのか、深く考えることもなく。
◇
しばらく歩いているうちに、タクミはある変化に気づいた。
(……強くなってきたな)
迷宮の奥深くから伝わってくる、途方もなく巨大な何かの圧力。
以前は漠然としか感じ取れなかったものだが、今では流れる方向まで分かるようになっていた。
しかも、進むにつれてその流れが強くなっている。
(……集まってきてるのか)
周囲を見回してみると、通路の様子も少しずつ変わっていた。
これまで何度も現れていた分岐が減り、複雑に入り組んでいた道が、徐々に一つへまとまり始めている。
もちろん、脇道が完全になくなったわけではない。
だが、そちらへ目を向けても、先ほどまで感じていた流れがまるでないのだ。
試しに足を止め、近くの分岐へ意識を向けてみる。
(……こっちは違うな)
進もうと思えば進めるのだろうが、わざわざ行く理由もなかった。
タクミは再び歩き出した。
いくつかの分岐を通り過ぎる頃には、気の流れもほとんど一方向にまとまっていた。
まるで迷宮のあちこちから集まったものが、一つの場所へ流れ込んでいるようだった。
(一本道、か)
そんなことを考えながら通路を抜けた、そのときだった。
『……は?』
タクミは思わず足を止めた。
目の前に広がっていた光景が、これまでの迷宮とはあまりにも違っていたからだ。
――天井が、ない。
頭上には青白い空が広がり、その下を薄い雲が覆っている。
一瞬、どこかで地上に出たのかと思った。
だが、そんなはずはない。
(……なんだ、ここ?)
タクミは棍棒を握り直し、周囲を見回した。
確かに空はある。だが、風がまったく吹いていないうえに、地上特有の草木や土の匂いもしない。
それどころか、頭上に浮かぶ雲は少しも動いていなかった。
しばらく様子を見てみたが、空の明るさも雲の形も、まるで変わる気配がない。
(……外じゃない、よな)
念のため背後を振り返る。
そこには、今まで歩いてきた岩の通路が続いていた。
どう考えても地下にいるはずなのに、目の前には空が広がっている。
長いこと迷宮に潜ってきたタクミでも、こんな場所を見るのは初めてだった。
(どうなってんだ)
警戒しながら足を踏み出す。
足元は相変わらず石造りだったが、数歩進んだところで、その感触にも違和感を覚えた。
しゃがみ込んで指先を滑らせてみる。
妙に滑らかだった。
迷宮の床にありがちな細かな凹凸がなく、削った跡さえ見当たらない。
まるで最初から、この形で出来上がっていたかのようだ。
(誰かが造ったのか?)
そう考えて顔を上げたとき、今度は左右の壁が目に入った。
先ほどまで剥き出しだった岩肌が、いつの間にか滑らかな壁面へ変わっている。
しかも、少し先には太い柱まで立っていた。
一本、二本……。
柱は等間隔に並び、その上部が緩やかな弧を描いて繋がっている。
どうやらアーチ状の廊下になっているらしい。
(……今度は建物かよ)
思わずそんな感想が浮かんだ。
だが、よく見ると普通の建築物とも違っている。
石材を積み上げたような継ぎ目はなく、柱と床、壁までもが一体になっているのだ。
試しに柱へ手を触れてみたが、ひんやりとした感触すらない。
(……気味が悪いな)
タクミは柱から手を離し、もう一度背後を振り返った。
そこには確かに岩の通路が続いている。
しかし、前を向けば整然とした廊下がどこまでも伸びていた。
いったい、どこから変わったのか。
境目らしいものを探してみても、それらしい場所は見当たらない。
何より不気味なのは、この変化があまりにも自然に起きていることだった。
まるで、最初からそういう場所だったかのように。
(まあ……進むしかないか)
タクミは棍棒を握り直し、慎重に歩き始めた。
廊下を進むにつれて、周囲から岩肌が消えていく。
やがて左右には同じ形のアーチが、延々と続いている。
ふと足元を見ると、影が長く伸びている。
頭上に太陽らしいものは見当たらないのに、影だけはきちんと落ちていた。
しかも、柱の影も自分の影も、すべて進行方向へ伸びている。
(どういう仕組みなんだ、これ)
気にはなるが、今ここで答えが出るような話でもない。
タクミは小さく首を振り、再び前を向いた。
それからしばらく歩いたところで、廊下の先に何かが見えてきた。
最初は巨大な柱かと思った。
だが、近づくにつれて、それが二本の柱と上部の横梁からなる、大きな門であることが分かった。
タクミは足を止めた。
門には扉がなく、その向こうには真っ黒な空間が広がっている。
目を凝らしても奥の様子がまったく分からず、どこまで続いているのかさえ見当がつかなかった。
(……うかつに、近づくもんじゃないな)
タクミは少し距離を取ったまま、門を観察した。
ここまで来る間に感じていた気の流れが、明らかに強くなっている。
周囲から集まった膨大な気が、濁流のように門の奥へ流れ込んでいるのだ。
その規模は、これまで迷宮で感じてきたものとは比べものにならなかった。
(……全部、ここに集まってるのか)
門の向こうに何があるのかは分からない。
だが、あそこへ踏み込めば、もう簡単には戻ってこられない。
そんな確信に近い感覚があった。
魔物と戦うときに感じる危険とは、明らかに種類が違う。
タクミは棍棒を握り直した。
ここまで来て、ようやく目的の場所に近づいたのかもしれない。
それでも、すぐに足を踏み出す気にはなれなかった。
しばらく門を見つめていた、そのときだった。
――視界の端で、何かが揺れた。
タクミは反射的にそちらへ顔を向けた。
廊下の外側、切り立った崖の上に、空間が歪んでいる場所がある。
よく見ると、景色の一部分だけが水面のように揺らいでいた。
(……階渡り、か)
下層以降で稀に見られる現象だ。
迷宮の異なる階層を繋ぐ抜け道のようなもので、うまく利用すれば帰還の道のりを一気に短縮できる。
ただし、地上まで直接戻れるわけではない。
どれほど深い場所からでも、繋がるのはせいぜい中層までだった。
タクミは門を警戒しながら、ゆっくりと歪みへ近づいていく。
やがて、その奥に見覚えのある景色が浮かび上がってきた。
石造りの通路に、湿った岩壁。
何度も通ったことのある、中層の風景だった。
(親切な設計だな……)
ここまで来るのに、どれだけの道のりを歩いただろうか。
それが、たった一歩で中層まで戻れるというのだから、ずいぶん都合のいい話だった。
進む道と、戻る道。
どちらも分かりやすい場所に用意されていて、好きな方を選べるようになっていた。
――ここが境界なのだろう。
それより先へ進むか、それとも引き返すか。
少なくとも、今なら自分で決められる。
(……用意されてる、みたいだな)
そう思った瞬間、少しだけ背筋が寒くなった。
だとしたら、何のために。
タクミはもう一度、黒い門へ視線を向けた。
相変わらず奥の様子は分からない。
あそこに何が待っているのかも、帰るための答えがあるのかさえ分からなかった。
(………)
門へ足を向けかけたが、そこで動きが止まる。
――今なら戻れる。
門を越えてしまえば、次に戻れる機会があるとは限らない。
それは、ここまで来る間に感じていた気の流れからも、何となく分かっていた。
(何も言わずに、行くのもな……)
ふと、グランデルの街が頭に浮かんだ。
ずいぶん世話になった。
それなのに、もしこのまま帰れなくなったら、何も告げずに姿を消すことになる。
(……それは、ちょっとな)
タクミは小さく息を吐いた。
幸い、ここまで来る道筋は分かっている。
気の流れを辿れば、もう一度この場所へ来ることはできるはずだ。
何も、今すぐ門を越えなければならないわけではない。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
(……一回、戻るか)
そう決めた途端、なぜか無性にあの宿へ帰りたくなった。
いつもの食堂で、いつもの席に座る。
ただそれだけのことが、今は無性に恋しかった。
もっとも、戻るならエルフに気づかれないよう、慎重に動かなければならない。
タクミは最後にもう一度だけ門を見た。
十年かけて、ようやくここまで来た。
だからこそ、次に来るときは迷わず進みたい。
(……ありがたい。ちょっと甘えさせてもらおう)
誰に言うでもなく心の中で呟き、タクミは階渡りへ向き直った。
歪んだ空間の向こうには、見慣れた中層の通路が広がっている。
タクミは棍棒を肩に担ぎ直すと、その中へ一歩踏み出した。
背後では、扉のない巨大な門が、変わらず静かに佇んでいた。