夜明け前。
まだ空は暗い。吐いた息が白くなって、すぐに消えていった。
タクミが宿の扉を開けると、廊下には古い香の匂いが残っていた。
ここが神殿だった頃から染みついているものだ。
「今日も行くの?」
後ろから声をかけられ、振り返る。
桶を持ったカイルが、眠そうな顔で立っていた。
「スグ カエル」
短く返すと、彼は笑ってすぐ真顔に戻った。
「……気をつけて」
タクミは頷き、棍棒を肩に担いだ。
何年も使い続けてきた、慣れ親しんだ重さだった。
宿を出ると、冷たい朝の空気が頬に触れる。
いつもならどこかで鳥が鳴いている。
その声が聞こえないだけで、いつもの朝とは少し違って感じられた。
◇
街道を抜け、城壁を出る。
タクミはいつもの道を、迷宮へ向かって歩いていた。
聞こえてくるのは足音と、遠くで鳴っている水車の音くらいだった。
しかし、前哨基地が見えるにつれてタクミの表情が強張る。
揚げられた赤色の旗。
――それは異常が起こり、迷宮が封鎖されたことを知らせる合図だ。
風が止まり、タクミは駆けだした。
◇
前哨基地へ近づくにつれて、血の匂いが強くなっていった。
柵の内側にはいくつもの担架が並び、兵士や冒険者たちが泥と血にまみれている。
治療を受けている者もいれば、毛布をかけられたまま動かない者もいた。
タクミは辺りを見回し、見覚えのある兵士に近づく。
肩を包帯で巻いた男が、片手で血を押さえながら座っている。
「……ダイジョウブ? ナニガ アッタノ?」
「ああ……俺は大丈夫だ」
兵士は疲れた顔を上げた。
「中だ。トロルが群れで出た。中層にいるはずの奴らが、上層まで上がってきてやがる」
そこで一度、言葉を切る。
「それだけじゃねえ。奴ら……目が真っ白だった。何かに狂ったみたいに襲ってきたんだ」
白い目。その言葉にタクミは目を細めた。
思い浮かんだのは、普段自分が潜っている深層だった。
あそこでは、白い目をした魔物など珍しくない。
だが、それが上層にいるとなれば話は別だ。
少し考えてから、迷宮の入口を見る。
「ハイッテ イイ?」
「今は封鎖中だ。誰も入れられねえ……」
兵士はそこまで言って、タクミを見る。
「……まあ、お前なら大丈夫か」
立ち上がると、入口を固めている兵士たちへ声を張った。
「おい! こいつを通せ!」
何人かが振り返った。
「待て、今ここは――」
声が途中で止まった。
入ろうとしている男の顔を見て、何も言わなくなる。
――怪物タクミ。
グランデル唯一の特級冒険者にして、一人で深層に潜る異端児。
その名を知る者たちは、ただ道を開けた。
タクミは道を開けてくれた兵士たちに軽く頭を下げ、そのまま迷宮へ入っていった。
やがて、その背中は暗闇の中へ消えていった。
◇
迷宮に入ると、すぐに空気が変わった。
湿った空気が肌にまとわりつく。
壁を流れる水の音が響き、ところどころに残された松明が、薄暗い通路を照らしていた。
タクミは周囲を見ながら進んでいく。
すぐに、戦いの跡が見つかった。
裂かれた鎧。転がった盾。焼け焦げた松明。
床には人間の足跡に混じって、大きな足跡がいくつも残っている。
「…………」
タクミはしゃがみ込み、壁についた擦れ跡を指でなぞった。
鉄と灰のような匂いが残っている。
中層では珍しくないが、ここは上層だ。
先を急いでいると、通路の奥から低い唸り声が響いた。
いくつもの足音が重なり、少しずつ近づいてくる。影が動き、灰緑の巨躯が闇の奥から現れた。
トロル。しかも、一匹ではない。
通路の闇の先から数匹がぞろぞろ現れる。灰緑の皮膚は黒く汚れ、白濁した眼球が不気味に光っていた。
タクミは棍棒の柄を握り直し、静かに息を吐く。
トロルたちがこちらに気づく。一斉に咆哮を上げ、岩壁が震える。
――タクミは踏み出した。
一歩。
衝撃とともに、最前列にいたトロルが粉砕されながら吹き飛ばされる。
棍棒が横薙ぎに走り、肉と骨の音が交じる。
通路を一直線に駆け抜け、棍棒を振り下ろすたび敵を肉塊へと変えていった。
ただ、前へ。
血が石に散り、壁に飛沫が走る。
それでもタクミの歩調は変わらない。棍棒が弧を描くたび、前を塞ぐトロルが吹き飛んでいく。
やがて視界が開けた。広間だ。
そこには数十のトロルがいた。咆哮が一斉に上がり、広間全体が震えた。
だが、タクミが見ていたのは群れではない。
その中心にいる、一際大きなトロルだった。
(……ボストロルか?)
しかし自分が知っている見た目とは違う。
皮膚は黒ずみ、全身に白い筋のようなものが走っている。背中からは何本もの骨の棘が突き出し、両目は完全に白く濁っていた。
口から低い唸り声が漏れる。
普通ではないと、見れば分かった。
タクミは一直線に進む。
群れが動き出す。怒号とともに押し寄せる黒い波。
棍棒を構え、呼吸を合わせる。
棍棒を振るうたびに道が開き、血と肉が弾け、群れの勢いを止める。
ボストロルが両腕を広げた。
白い目が光り、骨の棘が震える。
周囲にいたトロルたちが、さらに激しくタクミへ殺到する。
タクミは歩みを止めない。
距離が詰まり、遮る物――肉壁がなくなった瞬間、ボストロルまで一直線に道が開いた。
その瞬間。
――タクミの姿が消えた。
轟音。
ボストロルの巨体が横倒しに崩れる。頭部は砕け、白い液が床に散った。
次の瞬間、群れがざわめいた。
統率を失ったトロルたちは、悲鳴を上げて四散した。
一匹が逃げ出すと、それにつられて他のトロルも背を向けた。
次々と通路の奥へ逃げていく。
タクミは追わなかった。
しばらくすると、広間は静かになった。
残ったのは、倒されたトロルたちだけだ。
タクミは棍棒についた血を払い、肩に担いだ。
そして、倒れた魔物たちの白い目を見下ろす。
白く濁った目。
やはり、深層で見るものとよく似ている。
(なんで、ここに……)
考えても答えは出ない。
そのまま、いつも通り深層に向かおうとして立ち止まる。
(……ギルドに報告するか)
あれだけの怪我人が出ている。
白い目をした魔物についても、伝えておいた方がいい。
タクミは踵を返し、来た道を戻り始めた。
その背中が遠ざかり、やがて広間から姿が見えなくなった。
誰もいなくなった広間に、再び静けさが戻る。
そのときだった。
天井に走った細い裂け目。
その奥で、何かが微かに光った。
――ほんの一瞬、誰かが覗いていたかのように。
光はすぐに消え、広間には何も残らなかった。