棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三話 赤旗の朝

 夜明け前。

 

 まだ空は暗い。吐いた息が白くなって、すぐに消えていった。

 

 タクミが宿の扉を開けると、廊下には古い香の匂いが残っていた。

 ここが神殿だった頃から染みついているものだ。

 

 

「今日も行くの?」

 

 後ろから声をかけられ、振り返る。

 桶を持ったカイルが、眠そうな顔で立っていた。

 

 

「スグ カエル」

 

 

 短く返すと、彼は笑ってすぐ真顔に戻った。

 

 

「……気をつけて」

 

 

 タクミは頷き、棍棒を肩に担いだ。

 

 何年も使い続けてきた、慣れ親しんだ重さだった。

 

 宿を出ると、冷たい朝の空気が頬に触れる。

 

 いつもならどこかで鳥が鳴いている。

 その声が聞こえないだけで、いつもの朝とは少し違って感じられた。

 

 

 ◇

 

 

 街道を抜け、城壁を出る。

 

 タクミはいつもの道を、迷宮へ向かって歩いていた。

 

 聞こえてくるのは足音と、遠くで鳴っている水車の音くらいだった。

 

 

 しかし、前哨基地が見えるにつれてタクミの表情が強張る。

 

 

 揚げられた赤色の旗。

 

 

 ――それは異常が起こり、迷宮が封鎖されたことを知らせる合図だ。

 

 

 風が止まり、タクミは駆けだした。

 

 

 ◇

 

 

 前哨基地へ近づくにつれて、血の匂いが強くなっていった。

 

 柵の内側にはいくつもの担架が並び、兵士や冒険者たちが泥と血にまみれている。

 治療を受けている者もいれば、毛布をかけられたまま動かない者もいた。

 

 タクミは辺りを見回し、見覚えのある兵士に近づく。

 

 肩を包帯で巻いた男が、片手で血を押さえながら座っている。

 

 

「……ダイジョウブ? ナニガ アッタノ?」

 

「ああ……俺は大丈夫だ」

 

 

 兵士は疲れた顔を上げた。

 

「中だ。トロルが群れで出た。中層にいるはずの奴らが、上層まで上がってきてやがる」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

「それだけじゃねえ。奴ら……目が真っ白だった。何かに狂ったみたいに襲ってきたんだ」

 

 白い目。その言葉にタクミは目を細めた。

 

 思い浮かんだのは、普段自分が潜っている深層だった。

 

 あそこでは、白い目をした魔物など珍しくない。

 

 だが、それが上層にいるとなれば話は別だ。

 

 少し考えてから、迷宮の入口を見る。

 

「ハイッテ イイ?」

 

「今は封鎖中だ。誰も入れられねえ……」

 

 兵士はそこまで言って、タクミを見る。

 

「……まあ、お前なら大丈夫か」

 

 立ち上がると、入口を固めている兵士たちへ声を張った。

 

 

「おい! こいつを通せ!」

 

 

 何人かが振り返った。

 

「待て、今ここは――」

 

 声が途中で止まった。

 

 入ろうとしている男の顔を見て、何も言わなくなる。

 

 ――怪物タクミ。

 

 グランデル唯一の特級冒険者にして、一人で深層に潜る異端児。

 

 その名を知る者たちは、ただ道を開けた。

 

 タクミは道を開けてくれた兵士たちに軽く頭を下げ、そのまま迷宮へ入っていった。

 

 やがて、その背中は暗闇の中へ消えていった。

 

 

 ◇

 

 

 迷宮に入ると、すぐに空気が変わった。

 

 湿った空気が肌にまとわりつく。

 

 壁を流れる水の音が響き、ところどころに残された松明が、薄暗い通路を照らしていた。

 

 タクミは周囲を見ながら進んでいく。

 

 すぐに、戦いの跡が見つかった。

 

 裂かれた鎧。転がった盾。焼け焦げた松明。

 

 床には人間の足跡に混じって、大きな足跡がいくつも残っている。

 

「…………」

 

 タクミはしゃがみ込み、壁についた擦れ跡を指でなぞった。

 

 鉄と灰のような匂いが残っている。

 中層では珍しくないが、ここは上層だ。

 

 

 先を急いでいると、通路の奥から低い唸り声が響いた。

 

 いくつもの足音が重なり、少しずつ近づいてくる。影が動き、灰緑の巨躯が闇の奥から現れた。

 

 

 トロル。しかも、一匹ではない。

 

 通路の闇の先から数匹がぞろぞろ現れる。灰緑の皮膚は黒く汚れ、白濁した眼球が不気味に光っていた。

 

 

 タクミは棍棒の柄を握り直し、静かに息を吐く。

 

 

 トロルたちがこちらに気づく。一斉に咆哮を上げ、岩壁が震える。

 

 ――タクミは踏み出した。

 

 

 一歩。

 

 

 衝撃とともに、最前列にいたトロルが粉砕されながら吹き飛ばされる。

 

 棍棒が横薙ぎに走り、肉と骨の音が交じる。

 

 通路を一直線に駆け抜け、棍棒を振り下ろすたび敵を肉塊へと変えていった。

 

 

 ただ、前へ。

 

 

 血が石に散り、壁に飛沫が走る。

 

 それでもタクミの歩調は変わらない。棍棒が弧を描くたび、前を塞ぐトロルが吹き飛んでいく。

 

 

 やがて視界が開けた。広間だ。

 

 そこには数十のトロルがいた。咆哮が一斉に上がり、広間全体が震えた。

 

 だが、タクミが見ていたのは群れではない。

 

 その中心にいる、一際大きなトロルだった。

 

(……ボストロルか?)

 

 しかし自分が知っている見た目とは違う。

 

 皮膚は黒ずみ、全身に白い筋のようなものが走っている。背中からは何本もの骨の棘が突き出し、両目は完全に白く濁っていた。

 

 口から低い唸り声が漏れる。

 

 普通ではないと、見れば分かった。

 

 

 タクミは一直線に進む。

 

 群れが動き出す。怒号とともに押し寄せる黒い波。

 

 

 棍棒を構え、呼吸を合わせる。

 

 棍棒を振るうたびに道が開き、血と肉が弾け、群れの勢いを止める。

 

 

 ボストロルが両腕を広げた。

 

 白い目が光り、骨の棘が震える。

 

 周囲にいたトロルたちが、さらに激しくタクミへ殺到する。

 

 

 タクミは歩みを止めない。

 

 距離が詰まり、遮る物――肉壁がなくなった瞬間、ボストロルまで一直線に道が開いた。

 

 その瞬間。

 

 

 ――タクミの姿が消えた。

 

 

 轟音。

 

 ボストロルの巨体が横倒しに崩れる。頭部は砕け、白い液が床に散った。

 

 次の瞬間、群れがざわめいた。

 

 統率を失ったトロルたちは、悲鳴を上げて四散した。

 

 一匹が逃げ出すと、それにつられて他のトロルも背を向けた。

 

 次々と通路の奥へ逃げていく。

 

 タクミは追わなかった。

 

 しばらくすると、広間は静かになった。

 

 残ったのは、倒されたトロルたちだけだ。

 

 タクミは棍棒についた血を払い、肩に担いだ。

 

 そして、倒れた魔物たちの白い目を見下ろす。

 

 白く濁った目。

 

 やはり、深層で見るものとよく似ている。

 

(なんで、ここに……)

 

 考えても答えは出ない。

 そのまま、いつも通り深層に向かおうとして立ち止まる。

 

 

(……ギルドに報告するか)

 

 

 あれだけの怪我人が出ている。

 白い目をした魔物についても、伝えておいた方がいい。

 

 タクミは踵を返し、来た道を戻り始めた。

 

 その背中が遠ざかり、やがて広間から姿が見えなくなった。

 

 誰もいなくなった広間に、再び静けさが戻る。

 

 そのときだった。

 

 天井に走った細い裂け目。

 その奥で、何かが微かに光った。

 

 ――ほんの一瞬、誰かが覗いていたかのように。

 

 光はすぐに消え、広間には何も残らなかった。

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