タクミが空間を跨いだ、その瞬間だった。
足元の感覚が消え、上下の区別が曖昧になる。
まるで自分の身体がどこにあるのか分からなくなるような、奇妙な感覚だった。
しかし次の瞬間には、失われた感覚がまとめて叩き戻された。
――戻った。
視界が元に戻るより早く、五感が一斉に戻ってくる。
湿った空気に、石壁から伝わる冷気。足の裏には、かすかな振動。
だが、周囲を確かめるよりも先に、背筋にぞくりとした感覚が走った。
同時に、握っていた棍棒がわずかに震える。
タクミの身体は、考えるより先に動いていた。
素早く半身になって重心を落とすと、周囲に視線を走らせる。
軽く握りしめた棍棒は、いつでも抜ける。
(囲まれている)
確信があった。
ところが、いくら周囲を見回しても、魔物の姿はどこにも見当たらなかった。
通路は静まり返っており、何かが動く音すら聞こえてこない。目の前に広がっているのは、見慣れた迷宮の景色だけだ。
それでも、タクミは警戒を解かなかった。
見えないだけで、確かに何かがいる。それも、一体や二体といった数ではない。
壁、天井、そして足元の床。
あらゆる方向から、異様な気の流れを感じ取れる。
(……十、いや……)
違う。そんな数では済まない。
(多すぎる……! 何が起きてる!?)
タクミは意識を集中させ、周囲に漂う気の流れを探った。
すると、ようやく奇妙な感覚の正体が分かってきた。
石壁の向こう側に、何かがいる。
まるで薄皮一枚を隔てた向こう側に、無数の魔物が押し込められているような感覚だった。
まだこちら側には出てきていないが、その存在だけははっきりと感じ取れる。
そのとき、足元から低い地鳴りが伝わってきた。
どくん、と。
一定の間隔で響く振動は、まるで迷宮そのものが脈を打っているようだった。
さらに鼻を刺すような臭いが漂い始める。硫黄に似た刺激臭に、何かが腐ったような臭いまで混じっていた。
(……これ、あの時と同じヤツか)
タクミはゆっくりと息を吐いた。
これは――前兆だ。
大魔奔。
ただ、まだ魔物たちが動き出す気配はない。壁の向こうにいる連中も、今すぐ出てくるわけではなさそうだ。
(……まだ、出来上がってないのか)
気の流れを探っているうちに、何となく分かってきた。
魔物たちは、まだ生成の途中だった。
以前の自分なら、ここまで詳しく感じ取ることはできなかっただろう。だが、今は違う。
迷宮の奥から流れ込んでくる気まで、ある程度は辿れるようになっていた。
そして、その流れがどこへ繋がっているのかも。
(やっぱり、あそこか)
思い浮かんだのは、深層で見たあの門だった。
あの奥に何があるのか、まだ確かめられていない。
だが、今まで続いてきた迷宮の異常も、今回の大魔奔も、あそこに原因があると考えるのが自然だった。
いずれにせよ、あまり時間は残されていない。
このまま魔物の生成が進めば、そう遠くないうちに大魔奔が始まるだろう。
(……まずいな。判断を間違えたか?)
タクミは思わず、来た道を振り返った。
(どうする? 今からすぐに引き返すか?)
あの門まで戻れば、何か手を打てるかもしれない。だが、そもそも門の奥に何があるのかも分かっていない。
タクミはもう一度、周囲の気の流れを探ってみる。
壁の向こうにいる魔物たちは、まだ生成の途中だ。これだけの数が一斉に動き出すには、もう少し時間がかかるはずだった。
(まだ、大丈夫か……?)
確証があるわけではない。それでも、今の状態なら多少の猶予は残されているだろう。
ならば、先に街へ戻ろう。
長居するつもりはない。用事を済ませたら、すぐに深層へ引き返せばいい。
そう決めると、タクミは棍棒を握り直して歩き始めた。
ここで立ち止まっていても仕方がない。
門を見つけた。帰れるかもしれない。
そう思った矢先に、これだ。
タクミは気配を抑えながら、通路を駆け抜けていった。
『もう十分だろ……キツいって』
誰にともなく、そう漏らした。
◇
しばらく進むと、周囲の様子が変わってきた。
通路は次第に広くなり、明かりも増えてきた。
見慣れた景色が続くようになったところで、タクミは上層まで戻ってきたことを確信した。
そのとき、少し離れた通路から複数の人間の気配を感じ取った。
(……巡回か?)
人数はそれほど多くない。おそらく、迷宮の様子を調べに来た偵察隊だろう。
気配からは緊張している様子も伝わってくる。どうやら、地上の連中も迷宮の異常には気づいているらしい。
この先で見た異常を伝えるべきか?
一瞬、足が向きかけた。
――いや。
今、姿を見られるのは面倒だ。
タクミは進路を少し変え、人の気配がする通路を避けて進んだ。
それからいくつかの通路を抜けたところで、外から月光が差し込む広間に辿り着いた。
広間の奥には、天井に大きな裂け目がある。
見上げても出口とは思えないほどの高さだったが、その向こうには夜空が広がっていた。
タクミは少しだけ周囲を見回すと、棍棒を握り直した。
そして、壁に片手を添え――。
次の瞬間には、その姿が消えていた。
◇
タクミが出てきたのは、迷宮の入り口よりもずっと高い場所だった。
山の中腹。切り立った岩肌の途中に開いた、小さな裂け目だ。
外はすでに夜になっていた。
薄い雲の向こうから月明かりが差し込み、山肌を照らしている。
久しぶりに感じる夜風は思いのほか冷たく、外套を小さく揺らした。
タクミは軽く辺りを見回したが、すぐに麓の様子がおかしいことに気づいた。
(……なんだ、あれ?)
迷宮の入り口付近が、やけに明るい。
普段よりもはるかに多くの松明が焚かれ、その周囲を人影が絶えず行き来している。
よく見れば、迷宮の入り口を囲むように防柵が設置されていた。
武装した兵士たちが持ち場を行き来し、その脇では数人が資材を運び込んでいる。
どうやら、前哨基地ではすでに大魔奔への備えが始まっているらしい。
柵の配置や集められた人員を見る限り、本格的な防衛戦を想定しているようだった。
夜風に混じって、麓から騒がしい音が聞こえてくる。
金属を打ちつける音に、兵士たちの短い怒号。夜中だというのに前哨基地は随分と慌ただしかった。
タクミは岩陰に身を寄せると、気配を抑えながら麓へ視線を向けた。
すると、迷宮の入り口を見下ろす高台に、何人かの男たちが集まっているのが見えた。
その中心にいる大柄な男に、見覚えがあった。
(……バルド?)
間違いない。
どうやら部下から報告を受けているらしく、何かを話しながら周囲に指示を出している。
ただ、その様子は普段のバルドとは少し違っていた。
いつもなら落ち着いて話を聞く男が、珍しく荒々しい動きで指を突き出し、次々と指示を飛ばしている。
怒鳴っているわけではなさそうだが、随分と余裕がないように見えた。
(もう、始まってるか)
タクミは眉を寄せた。
自分が深層に潜っている間に、地上では事態がここまで進んでいたらしい。
迷宮で感じた異常を思い返すほど、焦る気持ちが強くなっていった。
もう少し早く戻ってくるべきだったかもしれない。
だが、今さら考えても仕方がない。
タクミはバルドたちから視線を外し、その場を離れようとした。
そこで、ふと足が止まる。
(一応、話しておくか?)
迷宮で見た異常については、伝えておいた方がいいかもしれない。
しかし、今ここで姿を見せれば、間違いなく色々と聞かれることになる。
それに、兵士の中にまだエルフの目があるかもしれない。
(……やっぱり、やめとこう)
今は、まだ姿を見せる時じゃない。
防衛の準備が進んでいる以上、今は自分が出ていく必要もないだろう。
バルドがまた、別の部下へ指を突き出している。
あの男にしては、ずいぶん余裕がない。
(すまん、バルド)
タクミはもう一度だけ麓へ目を向けると、静かに背を向けた。
(宿に寄って、すぐ戻ろう)
そう心の中で呟くと、タクミは夜の斜面を駆け下り始めた。
事態は思っていたよりも早く進んでいる。
もう、あまり時間は残されていなかった。