棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第三十九話 終わりの前

 

 

 タクミが空間を跨いだ、その瞬間だった。

 

 足元の感覚が消え、上下の区別が曖昧になる。

 まるで自分の身体がどこにあるのか分からなくなるような、奇妙な感覚だった。

 

 しかし次の瞬間には、失われた感覚がまとめて叩き戻された。

 

 ――戻った。

 

 視界が元に戻るより早く、五感が一斉に戻ってくる。

 湿った空気に、石壁から伝わる冷気。足の裏には、かすかな振動。

 

 だが、周囲を確かめるよりも先に、背筋にぞくりとした感覚が走った。

 同時に、握っていた棍棒がわずかに震える。

 

 タクミの身体は、考えるより先に動いていた。

 

 素早く半身になって重心を落とすと、周囲に視線を走らせる。

 軽く握りしめた棍棒は、いつでも抜ける。

 

(囲まれている)

 

 確信があった。

 

 ところが、いくら周囲を見回しても、魔物の姿はどこにも見当たらなかった。

 通路は静まり返っており、何かが動く音すら聞こえてこない。目の前に広がっているのは、見慣れた迷宮の景色だけだ。

 

 それでも、タクミは警戒を解かなかった。

 

 見えないだけで、確かに何かがいる。それも、一体や二体といった数ではない。

 壁、天井、そして足元の床。

 あらゆる方向から、異様な気の流れを感じ取れる。

 

(……十、いや……)

 

 違う。そんな数では済まない。

 

(多すぎる……! 何が起きてる!?)

 

 タクミは意識を集中させ、周囲に漂う気の流れを探った。

 

 すると、ようやく奇妙な感覚の正体が分かってきた。

 

 石壁の向こう側に、何かがいる。

 まるで薄皮一枚を隔てた向こう側に、無数の魔物が押し込められているような感覚だった。

 まだこちら側には出てきていないが、その存在だけははっきりと感じ取れる。

 

 そのとき、足元から低い地鳴りが伝わってきた。

 

 どくん、と。

 

 一定の間隔で響く振動は、まるで迷宮そのものが脈を打っているようだった。

 さらに鼻を刺すような臭いが漂い始める。硫黄に似た刺激臭に、何かが腐ったような臭いまで混じっていた。

 

(……これ、あの時と同じヤツか)

 

 タクミはゆっくりと息を吐いた。

 

 これは――前兆だ。

 

 大魔奔。

 

 ただ、まだ魔物たちが動き出す気配はない。壁の向こうにいる連中も、今すぐ出てくるわけではなさそうだ。

 

(……まだ、出来上がってないのか)

 

 気の流れを探っているうちに、何となく分かってきた。

 

 魔物たちは、まだ生成の途中だった。

 以前の自分なら、ここまで詳しく感じ取ることはできなかっただろう。だが、今は違う。

 迷宮の奥から流れ込んでくる気まで、ある程度は辿れるようになっていた。

 

 そして、その流れがどこへ繋がっているのかも。

 

(やっぱり、あそこか)

 

 思い浮かんだのは、深層で見たあの門だった。

 

 あの奥に何があるのか、まだ確かめられていない。

 だが、今まで続いてきた迷宮の異常も、今回の大魔奔も、あそこに原因があると考えるのが自然だった。

 

 いずれにせよ、あまり時間は残されていない。

 このまま魔物の生成が進めば、そう遠くないうちに大魔奔が始まるだろう。

 

(……まずいな。判断を間違えたか?)

 

 タクミは思わず、来た道を振り返った。

 

(どうする? 今からすぐに引き返すか?)

 

 あの門まで戻れば、何か手を打てるかもしれない。だが、そもそも門の奥に何があるのかも分かっていない。

 

 タクミはもう一度、周囲の気の流れを探ってみる。

 

 壁の向こうにいる魔物たちは、まだ生成の途中だ。これだけの数が一斉に動き出すには、もう少し時間がかかるはずだった。

 

(まだ、大丈夫か……?)

 

 確証があるわけではない。それでも、今の状態なら多少の猶予は残されているだろう。

 

 ならば、先に街へ戻ろう。

 長居するつもりはない。用事を済ませたら、すぐに深層へ引き返せばいい。

 

 そう決めると、タクミは棍棒を握り直して歩き始めた。

 

 ここで立ち止まっていても仕方がない。

 

 門を見つけた。帰れるかもしれない。

 そう思った矢先に、これだ。

 

 タクミは気配を抑えながら、通路を駆け抜けていった。

 

『もう十分だろ……キツいって』

 

 誰にともなく、そう漏らした。

 

 

 ◇

 

 

 しばらく進むと、周囲の様子が変わってきた。

 

 通路は次第に広くなり、明かりも増えてきた。

 見慣れた景色が続くようになったところで、タクミは上層まで戻ってきたことを確信した。

 

 そのとき、少し離れた通路から複数の人間の気配を感じ取った。

 

(……巡回か?)

 

 人数はそれほど多くない。おそらく、迷宮の様子を調べに来た偵察隊だろう。

 気配からは緊張している様子も伝わってくる。どうやら、地上の連中も迷宮の異常には気づいているらしい。

 

 この先で見た異常を伝えるべきか?

 

 一瞬、足が向きかけた。

 

 ――いや。

 

 今、姿を見られるのは面倒だ。

 

 タクミは進路を少し変え、人の気配がする通路を避けて進んだ。

 それからいくつかの通路を抜けたところで、外から月光が差し込む広間に辿り着いた。

 

 広間の奥には、天井に大きな裂け目がある。

 

 見上げても出口とは思えないほどの高さだったが、その向こうには夜空が広がっていた。

 

 タクミは少しだけ周囲を見回すと、棍棒を握り直した。

 

 そして、壁に片手を添え――。

 次の瞬間には、その姿が消えていた。

 

 

 ◇

 

 

 タクミが出てきたのは、迷宮の入り口よりもずっと高い場所だった。

 

 山の中腹。切り立った岩肌の途中に開いた、小さな裂け目だ。

 

 外はすでに夜になっていた。

 薄い雲の向こうから月明かりが差し込み、山肌を照らしている。

 久しぶりに感じる夜風は思いのほか冷たく、外套を小さく揺らした。

 

 タクミは軽く辺りを見回したが、すぐに麓の様子がおかしいことに気づいた。

 

(……なんだ、あれ?)

 

 迷宮の入り口付近が、やけに明るい。

 

 普段よりもはるかに多くの松明が焚かれ、その周囲を人影が絶えず行き来している。

 よく見れば、迷宮の入り口を囲むように防柵が設置されていた。

 武装した兵士たちが持ち場を行き来し、その脇では数人が資材を運び込んでいる。

 

 どうやら、前哨基地ではすでに大魔奔への備えが始まっているらしい。

 

 柵の配置や集められた人員を見る限り、本格的な防衛戦を想定しているようだった。

 

 夜風に混じって、麓から騒がしい音が聞こえてくる。

 金属を打ちつける音に、兵士たちの短い怒号。夜中だというのに前哨基地は随分と慌ただしかった。

 

 タクミは岩陰に身を寄せると、気配を抑えながら麓へ視線を向けた。

 

 すると、迷宮の入り口を見下ろす高台に、何人かの男たちが集まっているのが見えた。

 その中心にいる大柄な男に、見覚えがあった。

 

(……バルド?)

 

 間違いない。

 

 どうやら部下から報告を受けているらしく、何かを話しながら周囲に指示を出している。

 

 ただ、その様子は普段のバルドとは少し違っていた。

 いつもなら落ち着いて話を聞く男が、珍しく荒々しい動きで指を突き出し、次々と指示を飛ばしている。

 怒鳴っているわけではなさそうだが、随分と余裕がないように見えた。

 

(もう、始まってるか)

 

 タクミは眉を寄せた。

 

 自分が深層に潜っている間に、地上では事態がここまで進んでいたらしい。

 迷宮で感じた異常を思い返すほど、焦る気持ちが強くなっていった。

 

 もう少し早く戻ってくるべきだったかもしれない。

 だが、今さら考えても仕方がない。

 

 タクミはバルドたちから視線を外し、その場を離れようとした。

 そこで、ふと足が止まる。

 

(一応、話しておくか?)

 

 迷宮で見た異常については、伝えておいた方がいいかもしれない。

 しかし、今ここで姿を見せれば、間違いなく色々と聞かれることになる。

 それに、兵士の中にまだエルフの目があるかもしれない。

 

(……やっぱり、やめとこう)

 

 今は、まだ姿を見せる時じゃない。

 

 防衛の準備が進んでいる以上、今は自分が出ていく必要もないだろう。

 

 バルドがまた、別の部下へ指を突き出している。

 あの男にしては、ずいぶん余裕がない。

 

(すまん、バルド)

 

 タクミはもう一度だけ麓へ目を向けると、静かに背を向けた。

 

(宿に寄って、すぐ戻ろう)

 

 そう心の中で呟くと、タクミは夜の斜面を駆け下り始めた。

 

 事態は思っていたよりも早く進んでいる。

 もう、あまり時間は残されていなかった。

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