エルフ王国・白尖塔。
白石で築かれた円形の議場には、王国の重臣たちが顔を揃えていた。
軍を預かる将軍、国政を担う高官、そして天使教の高位神官。その顔ぶれは、いずれも王国の中枢を占める者たちばかりだった。
「自由都市連合より回答が届きました」
文書を手にした官吏が、議場の中央で報告を始めた。
「特級冒険者タクミは現在も消息不明。確認中につき、回答は保留するとのことです」
「グランデルの諜報網からは?」
軍部の席から声が上がった。
「同様の報告が上がっております。迷宮下層を最後に足取りが途絶えており、現在も行方は掴めておりません」
「……報告に食い違いはないようだな」
別の重臣が腕を組み、考え込むように顎を撫でた。
「人間側が意図的に隠している可能性は?」
「低いでしょう。人間側も相当に混乱しているようです」
その報告を聞き、重臣たちの間で短い議論が交わされた。
やがて、議場の最上段に座る男が片手を上げると、それまでの話し声が収まった。
エルフ王国宰相。
王に代わって国政を取り仕切る、王国でも屈指の権力者だった。
「対象の処理は、引き続き迷宮内で進めろ」
宰相の言葉に、軍部の将軍が頷いた。
「それと、中央都市〈リューベン〉へ再通告を行う」
「……再通告、ですか?」
「大魔奔鎮圧のため、グランデルへの聖翼遠征隊の派遣許可を求める」
その言葉に、何人かの重臣が顔を見合わせた。
「それは……事実上の進軍ではありませんか?」
「違う。救済だ」
宰相は、当然のことのように答えた。
「我らの信徒が危険に晒されている以上、見過ごすわけにはいかん。信徒の保護を最優先とし、必要な措置を講じる」
その発言を受け、高位神官が静かに頷いた。
「天使の御心に従い、信徒を守ることは我らの務めです。聖翼遠征隊の派遣にも異論はございません」
「では、回答の期限はいかがいたしましょう?」
「七日だ」
その短い返答に、議場がわずかにざわついた。
「七日以内に回答がなければ、我らの判断で動く。信徒を守るための行動を、いつまでも人間側の都合で遅らせるわけにはいかん」
重臣たちは互いに視線を交わしたが、それ以上の反論は出なかった。
「それから、例の不穏分子についても、引き渡しを求めておけ。必要であれば、都市単位での浄化も辞さぬ」
その言葉に、報告を担当していた官吏の手が一瞬だけ止まった。
だが、宰相は気に留める様子もなく、淡々と続けた。
「我らが求めているのは、あくまで平和的な解決だ。人間側が正しい判断を下すのであれば、何も問題はあるまい」
それを最後に議論は収まり、官吏たちは決定事項を書き留め始めた。
やがて、遠くから祈祷鐘の音が聞こえてくる。
――猶予の始まりを告げる音だった。
◇
タクミは街道を避け、夜の森を駆けていた。
正面から街に入り、世話になった人たちに顔を見せたい気持ちはあった。だが、足裏には今も迷宮からの微かな振動が伝わってきている。
(……長居は、できないな)
迷宮で感じた異常が頭をよぎる。
できることなら、しっかりと別れを告げたい。
けれど、今はそんな余裕もなさそうだった。
(……せめて、あそこだけは)
行き先は決まっていた。
宿〈石蔦亭〉。
やがて木々の向こうに街の城壁が見えてくると、タクミは速度を落とした。
城壁には古い補修跡がいくつもあり、ところどころ石の色が違っている。普段なら気にも留めないが、今夜はその上を巡回する兵士の姿もあった。
タクミは壁際で足を止め、目を閉じる。
(上に一人。内側は……大丈夫そうだな)
周囲に人の気配がないことを確認すると、その場で軽く膝を曲げた。
次の瞬間、地面を蹴った身体が跳ね上がる。
城壁の縁に手を掛け、そのまま一息で乗り越えた。
◇
城壁の内側へ降り立ったタクミは、着地の衝撃を殺すように膝を曲げた。
――そのまま、一歩も動かずに止まった。
(……?)
何かがおかしい。
城壁を越える前から妙な感覚はあったのだが、近づいてみると、それが一層はっきりしてきた。
タクミは周囲を見回した。
そこは石蔦亭の裏庭だった。
女性を模した石像に、苔の浮いた古い井戸。
水浴びをするときによく利用していた場所で、足元の石の並びまで見覚えがある。
(……変わって、ない)
何度も目にしてきた光景だった。
ところが、そこに立っていると、建物の方からごく微かな気配が漂ってくることに気づいた。
以前なら、恐らく気にも留めなかっただろう。
だが、神気を感じ取れるようになった今なら分かる。
タクミは担いだ棍棒へ視線を向けた。
(同じ、だ)
棍棒と――この建物から感じる気は、よく似ていた。
ただ似ているだけではなく、どうやら根本的なところで繋がっているらしい。
(……なんでだ?)
眉をひそめながら、改めて石蔦亭を見上げる。
気にはなったが、今は調べている時間がない。
遠くからは、相変わらず微かな地鳴りが伝わってきている。
(先に用事を済ませよう)
タクミは考えるのをやめ、裏庭を横切って宿へ向かった。
そして、女性像の横を通り過ぎた、そのときだった。
棍棒に刻まれた模様が、波打つように赤く明滅した。
――まるで、何かを拒んでいるかのように。
だが、その光はほんの一瞬で消えてしまい、前を向いて歩いていたタクミが気づくことはなかった。
◇
石蔦亭の中は、いつになく静かだった。
暖炉には火が入っているものの、薪はいつもより少なく、広い食堂を照らす明かりも控えめだった。
迷宮の異常が広まってからというもの、宿を訪れる客はほとんどいなくなっていた。
今も部屋を借りているのは一人だけ。
もっとも、その客も長いこと帰ってきていない。
カイルは帳場の裏で棚を拭いていた。
すでに十分綺麗になっているのだが、他にすることもなく、何度も同じ場所を拭いている。
食堂では、エマが洗い終えた布を畳んでいた。
仕事はほとんど片付いており、時折手が止まっていた。
普段なら、この時間は食事を求める冒険者たちで賑わっているはずだった。
それが今では、暖炉の薪が弾ける音ばかりが聞こえてくる。
カイルは手を止め、誰も座っていない食堂を眺めた。
(……これから、どうなるんだろうな)
迷宮の異常は収まる気配がなく、街では大魔奔が起こるのではないかという噂まで広がっている。
エマも同じなのだろう。
口には出さないものの、最近はどこか元気がなかった。
そんなことを考えていた、そのときだった。
ふいに、冷たい空気が室内へ流れ込んできた。
カイルが顔を上げると、中庭へ続く扉がわずかに開いていた。
こんな時間に誰だろうと思いながら目を向けると、一人の男が後ろ手で扉を閉めているところだった。
ボロボロになった外套に、見慣れた棍棒。
その姿を見た瞬間、カイルの手から布が滑り落ちた。
見間違いではないかと、何度も瞬きをする。
エマも物音に気づいて顔を上げたが、扉の前に立つ人物を見た途端、その場で固まってしまった。
「タク――」
カイルが思わず声を張り上げようとした、その瞬間。
タクミが慌てた様子で口元を指で叩いた。
何度も、必死な顔で。
――静かにしてくれ。
そう伝えようとしているのが分かり、カイルは慌てて口を閉じた。
エマも同じように口元を押さえている。
二人とも、タクミが身を隠さなければならない事情は知っていた。
タクミは二人が静かになったのを確認すると、少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「……アー、タダイマ」
いつもと変わらない、少しぎこちない挨拶だった。
カイルは何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
二人はゆっくりと歩み寄る。
「……お前、本当に……」
カイルが肩へ手を置き、言いかけたところで、声が詰まった。
タクミは困ったように笑う。
その隣では、エマが外套の端をそっと握っていた。
しばらく俯いていたが、やがて顔を上げると、小さな声で呟いた。
「……おかえりなさい、タクミさん」
その声を聞いて、タクミはようやく息を吐いた。
ふと、鼻に馴染みのある匂いがした。
暖炉で燃える薪の匂いに、古い石壁に染みついた生活の匂い。
迷宮の血臭や腐臭とは違う、毎日のように嗅いできた匂いだった。
(――ああ……、帰ってきた)
そう思った途端、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。
タクミは二人に囲まれたまま、しばらく動かなかった。