誰も、すぐには口を開かなかった。
カイルはまだタクミの肩に手を置いていた。エマも外套の端を握ったまま、離そうとしない。
二人とも、目の前にいる男が本当に帰ってきたことを、まだ信じられずにいるようだった。
「……お前な」
先に口を開いたのはカイルだった。
「生きてるなら、もっと早く顔出せよ。こっちがどんだけ心配したと思ってんだ」
口調は少し荒かったが、無事な姿を見てほっとしているのが伝わってきた。
タクミは申し訳なさそうに視線を落とす。
「ゴメン……。ミツカル、ヨクナイ」
「客は今、お前しかいねぇよ。それより、大丈夫なのか?」
「ダイジョウブ。ゲンキ」
タクミはすぐに答えたが、どう見ても元気そうには見えなかった。
外套はあちこち裂け、乾いた血が黒くこびりついている。頬も以前よりげっそりとこけていた。
それに、何より目つきが違う。
以前よりもずっと鋭くなったその目に、カイルは少し戸惑った。
「……とりあえず座って。お茶、淹れるから」
エマが近くの椅子を引く。
「アア、アリガト。……デモ、スグ戻ル」
「戻るって、どこに」
エマが問い返そうとした、その時だった。
「……うっ」
突然、エマが口元を押さえた。
顔をしかめ、何かを堪えるように俯くと、そのまま奥の調理場へ駆け込んでしまう。
「エマ?」
驚いたタクミが後を追おうとすると、カイルがその腕を掴んだ。
「ああ、大丈夫だ。つわりだよ。最近ひどくてな、ちょっとした匂いでも駄目なんだ」
そう言いながら、カイルも漂ってくる臭いに顔をしかめた。
「……着替えよう。臭い、きついぞ」
そう言われて、タクミは自分の格好を見下ろした。
魔物の返り血が染みつき、革の胸当てにも黒ずんだ汚れがこびりついている。
迷宮にいる間は気にもしなかったが、確かにひどい臭いだった。
「……ゴメン。スグヤル」
◇
カイルが持ってきた大きな籠に、タクミは装備を一つずつ放り込んでいった。
どれもひどい有様だった。革の胸当ては大きく裂け、腕当てには何かに削られたような深い傷が残っている。
なかなか外れない肩当てに苛立ったのか、タクミは金具ごと引きちぎり、そのまま籠へ放り込んだ。
カイルは思わず眉をしかめた。
「……それで、どこで何してたんだよ」
カイルは籠に放り込まれた、傷だらけの防具を眺めながら尋ねた。
「……イロイロ、アッテ」
「色々って……迷宮にいたのか?」
「……ウン。トラブル、アッタ」
「トラブルで済む格好かよ、それ」
カイルは顔を上げて、少し真剣な表情になった。
「……なあ、タク。何があったか教えてくれよ。大変だったんだろ?」
「……アー」
タクミは困ったように目を泳がせた。
「ホント、ゴメン。イロイロ……」
「……俺じゃ頼りにならねぇか?」
カイルは籠の縁を掴む指先に、力を込めながらタクミを見た。
「俺にだって、何か手伝えることがあるかもしれないだろ?」
タクミが顔を上げて、気まずそうにして視線を落とす。
「アブナイ。イエナイ。……ゴメン」
「だから、何が危な――」
そこまで言いかけて、カイルは口を閉じた。
タクミがあまりにも申し訳なさそうな顔をしていたからだ。
昔から、言いたくないことがあると、決まってこんな顔をする。
カイルは小さく息を吐き、しばらく考えてから口を開いた。
「……タク。ひとつ聞いていいか?」
「……ナニ?」
「お前、エルフが探してるって噂は……本当なのか?」
その瞬間、タクミの手が止まった。
「……ソレ、ドコデキイタ?」
さっきまでとは違う、鋭い目がカイルに向けられる。
「街で聞いたんだよ。誰が言い出したかは知らねぇけど、結構広まってるぞ」
(……もう、そこまで広まってるのか)
タクミは思わず顔をしかめた。
自分がエルフに狙われていることを、街の人間まで知っているとは思わなかった。
ふと横を見ると、調理場から戻ってきたエマが立っていた。
不安そうに、こちらを見ている。
エマの手が、無意識のように腹部へ添えられていた。
タクミは思わず、そこへ視線を落とした。
「……本当なんだな?」
カイルの問いに、タクミは少し迷ってから頷いた。
「……ウン。アイツラ、アブナイ」
「……なんでお前がエルフに狙われるんだよ?」
思わず声が大きくなった。
「いや、悪い。責めてるわけじゃないんだ。何がどうなってんのか、さっぱり分かんなくてよ……」
カイルは苛立ちを抑えるように頭を掻いた。
目の前にいる友人が何か大変なことに巻き込まれている。それだけは分かるのに、自分には事情すら教えてもらえない。
どうにも歯がゆかった。
「……ゴメン。オレ、イルト……ヨクナイ」
タクミは二人を見たが、すぐに目を逸らした。これ以上、余計なことを言いたくなかった。
「そういう言い方、やめてください」
不意にエマの声がした。
振り向くと、彼女はこちらをじっと見ていた。
「あなたがいると良くないって、どういうことですか?」
タクミは何も答えられず、ただ視線をそらしていた。
「私だって怖いですよ。迷宮も、エルフも……何が起きるのか分からないんですから」
エマは少し俯いたが、すぐに顔を上げた。
「でも……タクミさんが帰ってきてくれて、よかった」
誰も口を開かず、しばらくの間、暖炉の薪が弾ける音だけが響いていた。
「……ったく」
カイルが大きく息を吐いた。
「俺はお前みたいに強くねぇし、迷宮に潜ることだってできねぇ」
そこで一度言葉を切り、タクミの顔を見た。
「でもな、細かい事情は分かんなくても、お前が悪いことをするような奴じゃねぇってのは知ってる」
カイルは少し照れくさそうにしていた。
「……ガキの頃からだぞ」
タクミの呼吸が止まる。
こんな状況でも自分を信じてくれることが嬉しかった。
返す言葉が見つからず、しばらく俯いていたが、話題を変えるように口を開いた。
「……魔奔、オコル。ニゲタ方ガイイ」
タクミはゆっくりと言った。
迷宮の異常は、ますます悪化している。このままでは街にも大きな被害が出るかもしれない。
だが、カイルは首を横に振った。
「そう簡単に出ていけるかよ。ここは俺たちの家なんだからな」
「みんな街から離れるつもりはありませんよ」
エマも続けた。
「それに……あなたが帰ってくる場所、なくなっちゃうじゃない」
そう言って、エマはいつものように微笑んだ。
その顔を見て、タクミは何か言いかけてやめた。
「……キガエテクル」
タクミはそう告げると、階段へ向かった。
その背中を見送っていたエマが、何かを思い出したように声を上げる。
「あっ、タクミさん! ちょっと待ってください!」
タクミが振り返ると、エマは気まずそうにカイルと顔を見合わせた。
「……あの、実は謝らないといけないことがあって」
エマは少しためらってから、申し訳なさそうに口を開いた。
「タクミさんの部屋に……空き巣が入ったんです」
その瞬間、タクミの表情が変わった。
それまでの困ったような表情が消え、目つきが鋭くなった。
同時に、周囲の空気がすっと冷え込んだような感覚があった。
その異様な雰囲気に、カイルは思わず息を呑む。
そこにいるのは、自分の知っているタクミとはまるで別人だった。