階段を上がる足音が、静かな宿の中に響いていた。
エマは半歩ほど後ろを歩きながら、小さな声で話し始める。
「三日前なの。掃除しようと思って、鍵を開けようとしたら……もう開いてた」
タクミは何も言わず、そのまま階段を上がっていく。
「変だなって思って、中を見たの。でも、荒らされた感じはなくて」
そこで一度言葉を切ると、エマは少し不安そうに続けた。
「棚に置いてあった本だけ、なくなってた。ほとんどは、そのまま……」
その言葉を聞いて、タクミの足がほんの少しだけ遅くなる。
やがて部屋の前まで来ると、タクミは扉を前にして一瞬だけ目を閉じた。
(……あるな)
扉の向こうから、微かな魔力の残滓が伝わってくる。
侵入者を害する罠の気配ではない。
(監視か)
すぐ横で、エマが扉に手を伸ばしかけていた。
タクミは振り返らないまま、片手を上げてそれを制した。
「……エマ。シタ、マッテテ」
「え……?」
「ダイジョウブ。スグ、イク」
エマは何か言いたそうに口を開きかけたが、タクミの横顔を見て、黙って頷いた。
階段を下りていく足音が、少しずつ遠ざかっていく。
それが聞こえなくなるまで待ってから、タクミはゆっくりと扉に手をかけた。
蝶番が、きぃ、と小さく音を立てる。
入口に立ったまま、室内を見渡す。ぱっと見では何も変わっていない。
ただ、空気の中に薄い膜が張られたような気配があった。
おそらく探知系の魔法だろう。動くものに反応する程度で、個人まで特定できるようなものではない。
(入って、すぐ出る方が怪しい……か)
少し考えてから、タクミは普段と変わらない様子で部屋へ入った。
入口横に棍棒を立てかけ、背後の扉をゆっくり閉める。それから魔力の流れを追いながら、部屋の奥にある机へ歩いていった。
魔力は、その辺りから強くなっている。
机の前で足を止め、引き出しを開ける。
中にあったのは、一羽の折り鶴だった。
この世界では珍しい薄い上質紙が、丁寧に折り鶴の形へ仕上げられている。
タクミはそれを手に取ると、折り目に沿って静かに開き、一枚の紙へ戻していった。
裏側には、小さな呪印が目立たないように描かれている。
(……これは)
思わず息が止まる。
まるで、自分が作ったものに見えるよう偽装されていた。
折り鶴を教えたのは――。
浮かびかけた名前を、タクミは意識の奥へ押し戻す。
今は、それを考えている場合じゃない。
折り鶴を机に戻し、改めて室内を確認する。
本棚には大きな空きができていた。机の上や寝台の脇に積んであったものも含め、自分が集めていた書物のほとんどがなくなっている。
一方で、小銭袋や武具といった金目の物には、まったく手をつけられていなかった。
(俺が何を調べていたのか、探るためか)
そう考えながら棚を見ると、奥に一冊だけ本が残されていた。
革張りの表紙に、白い翼の意匠。
天使教の聖書だった。
タクミはそれをしばらく見つめたが、手には取らなかった。
(……そうか)
わざと残したのかもしれない。
警告なのか、それとも別の意味があるのか。
考えれば考えるほど嫌な感じがした。タクミは一度ゆっくり息を吐いた。
(大丈夫だ)
母国語で書いたものは、一切残していない。
帰還に関わるものは、この部屋には置いていなかった。書物を持っていかれたところで、自分の正体に直接繋がるようなものはない。
だが、自分が狙われているという事実が確定した。
そう思った途端、胸がじわりと締めつけられるように重くなる。
(……やっぱり、街を出るべきだ)
そう考えた時、不意に窓枠がかたかたと揺れた。
風ではない。
足元から伝わってくる微かな地鳴りが、木枠を震わせている。
遠く、迷宮の方角から。
(大魔奔の前兆)
タクミは頭を切り替えようとした。
今は、こっちを考えている場合じゃない。
迷宮へ戻らなければならない。
戻って、またあの場所へ行く。
深層へ。
また、立ちふさがる魔物の大群を相手にして、その奥へ進んでいく。
その時だった。
自分の指先が震えていることに気づいた。
止めようとしても、なぜか止まらない。
(……また、あそこに行くのか)
急に息がうまく吸えなくなり、鼓動がどんどん速くなっていく。
何度も、何度も。
十年間、戦い続けた。
迷宮の暗闇、血の匂い、幻聴、悪夢。
(勘弁してくれよ……)
力が抜けるように壁へ背を預け、そのままずるずると床へ座り込んだ。
タクミは額を押さえたまま俯いた。足元の石床が、じわりと滲んで見えなくなっていく。
(俺は、何をやってる)
帰りたい。
もう戦いたくない。
それでも、逃げることができない。
ずっと押し込めてきたものが、一気に溢れ出てくる。
――もう、やめたい。
もう迷宮には戻りたくない。
(誰か……代わってくれよ)
自分じゃなくていい。
誰かが、魔奔を止めてくれればいい。
――違う。
そんな事を思うな。
立て。
戻らなければならない。
それでも、身体は動かなかった。
指先だけだった震えが、じわじわと腕や脚にまで広がっていく。
これまでどうにか押さえ込んできたものが、もう限界まで来ていた。