棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

43 / 48
第四十二話 悲鳴

 階段を上がる足音が、静かな宿の中に響いていた。

 

 エマは半歩ほど後ろを歩きながら、小さな声で話し始める。

 

「三日前なの。掃除しようと思って、鍵を開けようとしたら……もう開いてた」

 

 タクミは何も言わず、そのまま階段を上がっていく。

 

「変だなって思って、中を見たの。でも、荒らされた感じはなくて」

 

 そこで一度言葉を切ると、エマは少し不安そうに続けた。

 

「棚に置いてあった本だけ、なくなってた。ほとんどは、そのまま……」

 

 その言葉を聞いて、タクミの足がほんの少しだけ遅くなる。

 やがて部屋の前まで来ると、タクミは扉を前にして一瞬だけ目を閉じた。

 

(……あるな)

 

 扉の向こうから、微かな魔力の残滓が伝わってくる。

 侵入者を害する罠の気配ではない。

 

(監視か)

 

 すぐ横で、エマが扉に手を伸ばしかけていた。

 タクミは振り返らないまま、片手を上げてそれを制した。

 

「……エマ。シタ、マッテテ」

 

「え……?」

 

「ダイジョウブ。スグ、イク」

 

 エマは何か言いたそうに口を開きかけたが、タクミの横顔を見て、黙って頷いた。

 階段を下りていく足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなるまで待ってから、タクミはゆっくりと扉に手をかけた。

 

 蝶番が、きぃ、と小さく音を立てる。

 

 入口に立ったまま、室内を見渡す。ぱっと見では何も変わっていない。

 ただ、空気の中に薄い膜が張られたような気配があった。

 おそらく探知系の魔法だろう。動くものに反応する程度で、個人まで特定できるようなものではない。

 

(入って、すぐ出る方が怪しい……か)

 

 少し考えてから、タクミは普段と変わらない様子で部屋へ入った。

 

 入口横に棍棒を立てかけ、背後の扉をゆっくり閉める。それから魔力の流れを追いながら、部屋の奥にある机へ歩いていった。

 

 魔力は、その辺りから強くなっている。

 机の前で足を止め、引き出しを開ける。

 

 中にあったのは、一羽の折り鶴だった。

 

 この世界では珍しい薄い上質紙が、丁寧に折り鶴の形へ仕上げられている。

 タクミはそれを手に取ると、折り目に沿って静かに開き、一枚の紙へ戻していった。

 裏側には、小さな呪印が目立たないように描かれている。

 

(……これは)

 

 思わず息が止まる。

 まるで、自分が作ったものに見えるよう偽装されていた。

 

 折り鶴を教えたのは――。

 

 浮かびかけた名前を、タクミは意識の奥へ押し戻す。

 今は、それを考えている場合じゃない。

 折り鶴を机に戻し、改めて室内を確認する。

 

 本棚には大きな空きができていた。机の上や寝台の脇に積んであったものも含め、自分が集めていた書物のほとんどがなくなっている。

 

 一方で、小銭袋や武具といった金目の物には、まったく手をつけられていなかった。

 

(俺が何を調べていたのか、探るためか)

 

 そう考えながら棚を見ると、奥に一冊だけ本が残されていた。

 

 革張りの表紙に、白い翼の意匠。

 天使教の聖書だった。

 

 タクミはそれをしばらく見つめたが、手には取らなかった。

 

(……そうか)

 

 わざと残したのかもしれない。

 

 警告なのか、それとも別の意味があるのか。

 考えれば考えるほど嫌な感じがした。タクミは一度ゆっくり息を吐いた。

 

(大丈夫だ)

 

 母国語で書いたものは、一切残していない。

 帰還に関わるものは、この部屋には置いていなかった。書物を持っていかれたところで、自分の正体に直接繋がるようなものはない。

 

 だが、自分が狙われているという事実が確定した。

 そう思った途端、胸がじわりと締めつけられるように重くなる。

 

(……やっぱり、街を出るべきだ)

 

 そう考えた時、不意に窓枠がかたかたと揺れた。

 

 風ではない。

 足元から伝わってくる微かな地鳴りが、木枠を震わせている。

 

 遠く、迷宮の方角から。

 

(大魔奔の前兆)

 

 タクミは頭を切り替えようとした。

 今は、こっちを考えている場合じゃない。

 迷宮へ戻らなければならない。

 

 戻って、またあの場所へ行く。

 

 深層へ。

 

 また、立ちふさがる魔物の大群を相手にして、その奥へ進んでいく。

 

 その時だった。

 自分の指先が震えていることに気づいた。

 止めようとしても、なぜか止まらない。

 

(……また、あそこに行くのか)

 

 急に息がうまく吸えなくなり、鼓動がどんどん速くなっていく。

 

 何度も、何度も。

 十年間、戦い続けた。

 迷宮の暗闇、血の匂い、幻聴、悪夢。

 

(勘弁してくれよ……)

 

 力が抜けるように壁へ背を預け、そのままずるずると床へ座り込んだ。

 タクミは額を押さえたまま俯いた。足元の石床が、じわりと滲んで見えなくなっていく。

 

(俺は、何をやってる)

 

 帰りたい。

 もう戦いたくない。

 それでも、逃げることができない。

 

 ずっと押し込めてきたものが、一気に溢れ出てくる。

 

 

 ――もう、やめたい。

 

 

 もう迷宮には戻りたくない。

 

(誰か……代わってくれよ)

 

 自分じゃなくていい。

 誰かが、魔奔を止めてくれればいい。

 

 ――違う。

 そんな事を思うな。

 

 立て。

 

 戻らなければならない。

 

 それでも、身体は動かなかった。

 

 指先だけだった震えが、じわじわと腕や脚にまで広がっていく。

 これまでどうにか押さえ込んできたものが、もう限界まで来ていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。