座り込んだまま、タクミは両手で顔を覆った。
――なんで、こんな事に。
喉の奥が熱くなり、息が震える。涙がこぼれそうになって、慌てて奥歯を噛みしめた。
――泣くな。
エマに聞かれる。ドアの向こうにいる気配。
きっと心配して戻ってきたのだろう。
タクミは声を押し殺し、震える両手に顔を押しつけた。
(帰りたい)
死が身近ではなく、明日のことを考えればいいだけの生活。
こっちでは――もう無理だ。
エルフに目をつけられた、それだけで終わりだ。
今までのように静かに暮らすことはできない。
ここを出て、新しい場所でやり直せる保証なんてどこにもない。
(俺は……何やって……)
十年。
ただ、生き延びて。
結局、俺はこの世界で余所者でしかない。
特級冒険者?
相棒のおかげで、強いフリが出来ているだけだ。
出来るようになったのは、カタコトの言葉と、棍棒を振り回す技術だけ。
――何を、してきた?
考えれば考えるほど胸が苦しくなり、タクミは顔を覆う手に力を込めた。
そのまま、どれくらい経っただろう。
両手で顔を覆ったまま、しばらく動けずにいた。
その時、胸に温かいものを感じた。
締めつけられるような苦しさが、少しずつ和らいでいく。
(……なんだ?)
呼吸が楽になり、乱れていた鼓動も落ち着いていく。
おかしい。さっきまであんなに苦しかったのに、こんな急に治まるはずがない。
タクミがゆっくりと顔を上げると、目の前に赤い光の粒が漂っていた。
火の粉のような小さな光が、部屋の中をふわふわと舞っている。
その一つが身体に触れた途端、胸に残っていた嫌な感覚が、すっと薄くなった。
(癒し……か?)
いや、違う。
傷を治しているわけではない。もっと内側の、自分でもうまく説明できない部分に、何かが直接働きかけている。
光の流れを目で追うと、部屋の入口に立てかけてあった棍棒に行き着いた。
相棒は小さく震えていた。
その表面から、赤い粒子が少しずつ零れ出している。
(……そうか)
そこでようやく、タクミは気づいた。
この十年、あれだけ魔物と戦っても、恐怖に押し潰されずに済んだ理由。
何度も死にかけながら、それでも心が折れなかった理由。
俺が強かったんじゃない。
『……もうやめてくれ』
思わず声が漏れた。
(こんな事に、力を使わないでくれ)
ただ落ち込んでいるだけの自分のために。
相棒だって、もう以前のように力を使える状態ではないはずだ。
棍棒から返事はなかった。
ただ、漂っていた赤い光が一つ、また一つと消えていき、やがて部屋には何も見えなくなった。
タクミはしばらく、その場に座り込んでいた。
呼吸は落ち着き、手の震えも止まっている。
……楽になったのではない。
ただ、戦うのに不要なものが削られただけだ。
(おんぶにだっこ……これでいいはずがない)
タクミは大きく息を吐き、ようやく顔を上げた。
今は泣いてる場合じゃない。どうするにしても、まずは自分のやるべきことを考えなければ。
街を離れ、もう一度迷宮の深層へ向かう。
そして、あの門の先へ。
そこに答えがあるなら掴めばいい。何もなかったら、その時にまた考えればいいだけだ。
そう決めたところで、ドアを叩く音がした。
「タクミさん? 大丈夫?」
エマの声だった。
ドアが少しだけ開き、隙間からエマがそっと顔を覗かせる。
タクミは慌てて立ち上がると、近くにあったクローゼットの扉を開け、その陰に上半身を隠した。
泣いた跡を見られたくない。
「ウン。ダイジョウブ」
「……本当に?」
「ダイジナモノ、トラレテナイ。スグ、イク」
そう答えながら、タクミは服を脱ぎ始めた。
それを見たエマは一瞬固まり、慌てて顔を引っ込める。
「わ、わかった。下で待ってるから!」
ぱたん、とドアが閉まった。
タクミは小さく息を吐くと、クローゼットから装備を取り出した。
装備はすべて、同じものをいくつも揃えていた。どうせ壊れるのだから、特注品に金をかけるより、使い潰して交換する。
それがタクミのやり方だった。
慣れた手つきで装備を身につけ、最後に部屋を見回す。
そこで、棚に置かれた一冊の本が目に留まった。
白い翼の意匠が刻まれた表紙。
天使教の聖書だった。
タクミは棚から本を取り、何気なくページをめくった。
そこには、聖杖を掲げた翼のある人影が描かれている。
(唯一神、か……)
この世界では、天使が神として崇められている。
だが、今のタクミには、それとは別の何かがあるように思えてならなかった。
相棒から感じる気も、石蔦亭に残る微かな気配もそうだ。
それらは、これまでエルフや天使に関わるものから感じてきた力とは、どこか違っていた。
(……そういえば、あの時も)
ふと、アルマレスを訪れた時のことを思い出した。
あそこでは天使教が固く禁じられ、街で天使の像を見かけることはなかった。
代わりに祀られていたのは――大地の女神。
石蔦亭の裏庭にある、あの石像と同じ姿をした女神。
タクミは聖書を閉じ、しばらく表紙を眺めた。
まだ確信があるわけではない。それでも、今まで別々だと思っていた出来事が、少しずつ繋がり始めている気がした。
そして、もう一つ。
この世界に来た時、確かに聞こえた声。
――天使から、私を救って。
あれは、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
(……行くしかないな)
タクミは聖書をベッドへ放ると、再び装備を確かめた。
もう、その本に目を向けることはなかった。