棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第四十四話 出立

 エルフ王国王都ルメシア――白尖塔。

 

 七日という言葉は、ただの形式だった。

 

 白尖塔の高窓からは月光が差し込み、塔内の石壁を青白く照らしていた。

 すでに決定は下されており、もはや誰も異議を唱えることはなかった。

 やがて、塔の大扉がゆっくりと開いた。

 中から現れた白衣をまとった者たちが、塔を出て石段を下りていく。

 

 その先にある広場には、すでに多くの兵士が整列していた。

 翼の紋章を掲げた重装歩兵に、長槍を揃えた隊列。その後方には、白杖を携えた魔導士たちが並んでいる。

 数えきれないほどの兵士が集まっているというのに、広場からは話し声ひとつ聞こえてこなかった。

 

 隊列の先頭では、聖翼遠征隊の師団長が片膝をついて待っていた。

 

「展開、完了しております」

 

 その報告に、白衣の人物が小さく頷く。

 師団長は立ち上がると、片腕を下ろして合図を送った。

 それを見た兵士たちが一斉に動き出し、規則正しい足音が広場に響き始めた。

 

 彼らが向かう先は――人間領グランデル。

 

 その夜、遠く離れたグランデルも、同じ月に照らされていた。

 

 

 ◇

 

 

 カイルは厨房でパンを切り、具を挟んで布に包んでいた。

 

 いつもなら慣れた手つきで済ませる作業だが、今日はどこか落ち着かない。

 

 そこへ、階段を下りてくる足音が聞こえた。

 

 振り返ると、エマが立っていた。

 

「……大丈夫って」

 

 エマが小さな声で言った。

 

 カイルは一度手を止め、短く息を吐く。

 

「そっか。……それならいいんだけどな」

 

 エマは頷いたものの、まだ不安そうな顔をしていた。

 

「でも、なんだか……無理してる気がする」

 

「そりゃ、してるだろうな」

 

 カイルは包みかけのパンに目を落とした。

 

「あいつ、昔からそういうところあるからな。何でも一人で抱え込んじまう」

 

「……うん」

 

 エマは階段の方へ目を向けた。

 

「また、帰ってくるよね?」

 

 カイルはすぐには答えなかった。

 それからエマに歩み寄ると、そっと肩を抱き寄せた。

 

「……帰ってくるさ。あいつの部屋は、まだここにあるんだから」

 

 そして、もう片方の手をエマの腹に当てる。

 

 二人とも何も言わなかったが、しばらくそのまま寄り添っていた。

 

 

 ◇

 

 

 タクミは部屋で出発の支度をしていた。

 

 脱いだ上着を畳んで棚へ戻そうとしたとき、内ポケットに何か硬いものが入っていることに気づいた。

 取り出してみると、小さな徽章が出てきた。

 

 ――特級章。

 

 灯りを受けて鈍く光るそれを見つめているうちに、ふと、あの夜のことを思い出した。

 迷宮近くの森で、バルドと話したときのことだ。

 

 ***

 

「ソレに、メイキュウのホウガ……アンゼン、カモ」

 

 タクミがそう付け加えると、バルドは力なく息を吐いた。

 

「……そうか」

 

 しばらく二人とも黙っていたが、やがてタクミが左襟に手を伸ばした。

 外したのは、ギルドから与えられた特級章だった。

 

「シゴト ヤメル」

 

 そう言って差し出すと、バルドは眉をしかめた。

 

「……なんのつもりだ?」

 

 タクミは答えず、特級章を差し出したままでいた。

 バルドはその手元をじっと見つめた。

 

 タクミの言いたいことは分かっていた。

 ギルドに所属したままでは、いずれグランデルにも迷惑がかかるかもしれない。

 だから、関係を断とうとしているのだろう。

 

「……お前な」

 

 バルドは呆れたように息を吐いた。

 

「そんなもん返されたところで、今さら関係ないだろうが」

 

 タクミは困ったように眉を寄せた。

 

「それに、お前がいなくなったら困るんだよ。こっちはな」

 

 バルドはそう言うと、少し考えてから続けた。

 

「……そうだな。ちょうどいい。タクミ、新しい任務だ」

 

 タクミは思わず顔を上げた。

 

「そのまま迷宮で、異常の原因を探れ」

 

 タクミは戸惑いながら、手元の特級章に目を落とした。

 

「デモ、オレ……」

 

「分かってる。エルフのことも、お前がこれから何をしようとしてるのかもな」

 

 バルドは腕を組み、迷宮のある方角を見た。

 

「……もっと悪いことが起こる気がする」

 

 木々の間を風が吹き抜けていく。

 

「ただの勘だ。だがな、俺の嫌な予感ほど当たるもんでな」

 

 そう言って、バルドはタクミに向き直った。

 

「――今の迷宮を止められるのは、お前だけだ」

 

 タクミは黙ったまま、差し出していた手をゆっくりと引き戻した。

 

「そいつは持ってろ。まだお前の仕事は終わっちゃいねえ」

 

 バルドはいつもの調子でそう言うと、最後に少しだけ表情を引き締めた。

 

「――頼んだぞ、タクミ」

 

 ***

 

 タクミは手の中の特級章を見下ろした。

 あのときのバルドの声は、今でもよく覚えている。

 

(……頼んだ、か)

 

 改めて特級章を握りしめると、タクミは残りの荷物に目を向けた。

 

「アトは……」

 

 支度を終わらせよう。

 

 

 ◇

 

 

 階段を下りてくる足音に、カイルとエマが同時に顔を上げた。

 

 そこには、見慣れない姿のタクミが立っていた。

 身にまとっているのは、薄い紺色の外套。特級に昇進した祝いとして、二人が贈ったものだ。

 上質な生地は灯りを受けて淡く光り、左の胸元に留められた特級章が、その紺色によく映えていた。

 普段の無骨な格好とはずいぶん違う。それでも不思議と馴染んでいて、いつも以上に堂々として見える。

 

 タクミは二人の反応を確かめるように、少しだけ口元を緩めた。

 

「……ニアウ?」

 

 カイルは目を丸くしたあと、声を上げて笑った。

 

「似合ってるな! 商人やれるぞ」

 

 その隣で、エマは思わず息を呑んでいた。

 

「……かっこいい」

 

 ぽつりと漏らした言葉に、タクミが嬉しそうに頷く。

 

「アリガトウ。ピッタリ」

 

 そう答えて階段を下りてくるタクミを、エマはじっと見つめていた。

 

 いつもと変わらないようで、何かが違う。

 その目を見たとき、エマは何を言えばいいのか分からなくなった。

 

 タクミは二人の前まで来ると、左手に持っていた巾着袋をカイルへ差し出した。

 

「なんだ、これ?」

 

 不思議そうに受け取ったカイルだったが、予想以上の重さに思わず手元へ目を落とした。

 袋の口からは金貨が覗いていた。

 

「……おい」

 

 その声には、明らかに不満が混じっていた。

 カイルがこういう金の受け取り方を嫌うことは、タクミもよく知っている。

 

「アー、チガウ」

 

 タクミは慌てて首を振った。

 

「家賃。サキニ、ハラウ」

 

 そこで少し言葉を探すように視線を逸らす。

 

「スコシ、留守スルカラ」

 

 カイルはタクミの顔を見つめ、それから手元の巾着袋へ目を落とした。

 

 やがて、苦笑する。

 

「それならいい。……一生住んでいいぞ」

 

「プロポーズ、サレタ」

 

 タクミがエマを見ると、彼女も思わず吹き出した。

 カイルもつられて笑い、久しぶりに三人の笑い声が食堂に響く。

 

 だが、その途中でタクミの表情が変わった。

 何かに気づいたように、ふと視線を遠くへ向ける。

 

 ――ゴゥン。

 

 低い地鳴りとともに、床がかすかに揺れた。

 三人の笑いが止まる。

 

 タクミは少しだけ間を置いてから、二人に向き直った。

 

「……モウ、イクネ」

 

「ちょっと待って」

 

 エマが慌てて近づき、タクミの外套の襟を直し始めた。

 ずれていた布を整えていると、今度はカイルがブラシを持ってきて、肩や背中についた埃を払っていく。

 

「アー、アリガトウ」

 

 タクミは少し困ったように笑いながらも、おとなしくされるがままになっていた。

 

 ひと通り整えると、カイルはタクミの姿を確かめた。

 何か言いかけたようだったが、結局、軽く背中を叩くだけにした。

 

「よし」

 

 エマも最後に襟元を整えると、ゆっくり手を離した。

 

「……無茶しないでね」

 

「ウン」

 

 タクミは短く頷いた。

 

 それから三人で宿の裏庭へ出た。

 

 夜の空気は冷たく、庭全体が月明かりに照らされている。

 庭を横切る途中、タクミはふと女神像に目を向けた。

 

 月光を受けた女神の横顔が、薄白く浮かび上がっている。

 

(……偶然だ)

 

 この宿を選んだのも、ただの偶然だったはずだ。

 そう考えたところで、手にした棍棒が少しだけ重くなった気がした。

 

 タクミは足を止めず、そのまま庭の出口へ向かう。

 

 そこで一度振り返ると、カイルとエマが並んで立っていた。

 

 宿から漏れる灯りが、二人の背後で揺れている。

 

「イッテクル」

 

 いつもと変わらない言葉だった。

 

「気をつけてね」

 

 エマが手を振り、カイルも黙って頷いた。

 

 タクミは二人に軽く手を上げると、地面を蹴った。

 その瞬間、庭に強い風が吹き抜ける。

 次に二人が目を開けたときには、タクミの姿はもうなかった。

 

「……やっぱ、すげえな」

 

 カイルが感心したように呟く。エマもつられるように小さく頷いた。

 二人がしばらく庭を眺めていると、突然、カイルが声を上げた。

 

「あっ!」

 

 驚いて振り向いたエマに、カイルは厨房の方を見ながら呟いた。

 

「……サンドイッチ、渡すの忘れた」

 

 

 ◇

 

 

 グランデルを離れた街道を、タクミは空気を裂きながら駆けていた。

 

 地を這うように走り、踏み込んだと思ったときには、もう次の一歩が始まっている。

 駆け抜けた後に、強い風が巻き起こった。

 

 しばらく走ったところで、タクミは足を止めた。

 

 振り返れば、城壁に囲まれたグランデルが遠くに見える。

 街にはまだいくつもの灯りが残っていた。

 

(……これが最後になるかもな)

 

 もう二度と、この景色を見ることはないかもしれない。

 

 特別に目に焼き付けておこうと思ったわけではないが、しばらく視線を外せなかった。

 

 ――いや、それだけではない。

 

 タクミは目を細めた。

 街を出てから、ずっと自分を追ってくる気配がある。

 

 本気で走れば簡単に振り切れたはずだが、あえてそうしなかった。

 誰が追ってきているのか、なんとなく分かっていたからだ。

 

 タクミは誰もいないはずの街道へ向かって、声をかけた。

 

「……セリエル?」

 

 返事はなかった。

 

 だが、少しして目の前の景色が揺らぎ始めた。

 何もなかった空間に細かな魔力の光が散り、そこから少しずつ人の姿が現れていく。

 

 黒い衣服に身を包み、頭巾を深くかぶった人物だった。

 腰には短剣を下げている。

 その人物はゆっくりと頭巾を外した。

 

 月明かりの下に現れたのは、白金色の髪と、長く尖った耳。

 

「……やはり、気付いていたのですね」

 

 セリエルはいつも通りの落ち着いた声で言った。

 

 ただ、肩は小さく上下しており、呼吸も少し乱れている。

 

 相当な速さで追いかけてきたのだろう。

 

 タクミは、そんな彼女の姿をじっと見つめた。

 普段の修道女とはまるで違う格好だった。

 

 それでも、こちらを見つめる目には覚えがある。

 

 セリエルもまた、タクミから目を離せずにいた。

 

 生きているとは思っていた。

 それでも、こうして無事な姿を見るまでは、どうしても不安が消えなかったのだ。

 何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。

 

 二人はしばらく、何も言わずに向かい合っていた。

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