夜風が二人の間を吹き抜ける。
リュミエルが顔を上げると、タクミと目が合った。
その目に敵意がないことが分かり、緊張が少しだけ和らいだ。
(……よかった)
思わず安心してしまったが、当のタクミはというと、彼女の姿を物珍しそうに眺めていた。
頭巾からこぼれた白金色の髪と、そこから覗く尖った耳。月光を受けた髪は、きらきらと輝いている。
タクミは、初めて見る彼女の姿に思わず見入っていた。
やがて二人は、どちらからともなく歩き出した。
一歩、また一歩と距離を縮めていく。
あと二、三歩も進めば、手が届く。
けれど、そこで二人とも足を止めた。
――いつもの距離。
結局、それ以上は近づかなかった。
「……ヒサシブリ。ゲンキ?」
先に口を開いたのはタクミだった。
あまりにも普段通りの挨拶に、リュミエルは思わず言葉を失う。
(……どうして)
怒っているわけでも、警戒しているわけでもない。まるで、いつもの神殿の裏庭で会ったときと変わらない調子だった。
リュミエルには、聞きたいことも話したいこともあった。
自分の正体とエルフ王国の動き。そして、タクミがこれから何をしようとしているのか。
頭の中では何度も整理していたはずなのに、いざ顔を合わせると、何から話せばいいのか分からなくなってしまった。
そして、ようやく口から出てきたのは――。
「……ええ。私は大丈夫です。その外套……とても似合ってますよ」
そんな、何気ない一言だった。
(違う。こんなことを言いたいわけでは――)
タクミはそんなことなど気にも留めず、嬉しそうに小さく頷いた。
「……アリガトウ。カイルとエマがくれた」
いつもと変わらない返事に、胸が少し苦しくなる。
さらに、タクミは彼女を見つめたまま続けた。
「……セリエルも、髪キレイ」
月明かりに照らされた白金色の髪が、風に揺れている。タクミはそれを、何の遠慮もなくまっすぐ見つめていた。
リュミエルは照れくさくなり、そっと視線を逸らした。
胸の鼓動が早くなっているのが、自分でも分かった。
褒められたことが嬉しかったのは確かだ。
けれど、それ以上に不安なことがあった。
「……怒らないのですか?」
それが何を意味するのか、わざわざ説明する必要はなかった。
自分がエルフだったこと。ずっと監視していたこと。そして、今までいくつもの嘘を重ねてきたこと。
タクミの表情が、ほんの少し変わった。
しかし、そこに怒りはなかった。何かを考えるように少し黙ったあと、静かに答える。
「……ミンナ、理由アルカラ。オレモ」
それ以上は、何も言わなかった。
責めることも、問い詰めることもしない。
リュミエルは、その短い言葉だけで理解した。
タクミは、自分がエルフだと知っても、今までと同じように接してくれている。
けれど、それは同時に、自分の事情には踏み込まないということでもあった。
二人の間には、わずかな距離しかなかった。
それなのに、どうしてもその先へ進めない。
再び夜風が吹き抜けたとき、リュミエルは初めて彼と出会った日のことを思い出していた。
あの出会いは、ただの偶然だった。
最初から誰かに仕組まれていたわけでもなければ、お互いの素性を知っていたわけでもない。
ただ、出会っただけ。
それが、いつの間にか互いの立場や事情が絡み合い、こんな状況になってしまった。
それでも――あの出会いだけは、嘘ではなかった。
だからこそ、今の状況がつらかった。
これまで当然のように従ってきた王国の命令にも、今は迷いが生じていた。
(……本当に、これでいいの?)
リュミエルは少し迷ってから、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「……どうして、戦い続けるのですか?」
タクミは戸惑った。
どうして、と聞かれても、すぐには答えが出てこない。
言われて初めて考える――本当は帰りたい。
元の世界に帰って、何も気にせず普通に暮らしたい。その気持ちは、今だって変わっていない。
それならなぜ、自分はまた迷宮へ向かおうとしているのだろう。
タクミは、ふと視線を動かした。
目の前に立つリュミエル。
その向こうには、城壁に囲まれたグランデルの街が見える。
――ああ、そうか。
今になって、ようやく気がついた。
「守リタイ……」
ぽつりと漏れた言葉に、リュミエルの目が大きくなる。
タクミが何を見ているのかは、すぐに分かった。
背後に広がる光景。そして、その手前に立っている自分も。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがてリュミエルは、静かに口を開いた。
「私は、あなたの敵側です」
タクミは黙って聞いていた。
「あなたのそばに立つことは出来ません」
リュミエルは少し迷ったあと、言葉を続けた。
「……ですが、エマとカイルには手出しをさせません」
今度はタクミが目を見開いた。
しばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく頷く。
「アリガトウ」
そう言って、深々と頭を下げた。
その約束が、リュミエルにとって簡単なものではないことは、タクミにも分かっていた。
自分の立場を危うくしてまで、カイルとエマを守ろうとしてくれている。
軽い気持ちで受け取れるはずがなかった。
一方のリュミエルは、突然の行動に少し戸惑っていた。
エルフの間では、そこまで深く頭を下げる習慣はない。
けれど、彼が心から感謝していることは伝わってきた。
思わず手を伸ばしかけたが、途中で止める。
やがてタクミが頭を上げると、また二人の目が合った。
今度は、どちらからともなく視線を逸らしてしまう。
(……近い)
手を伸ばせば、すぐに届く。
今まで何度も、こうして向かい合ってきた。
それでも、互いに踏み込もうとはしなかった。
けれど、今は違う。
隠していたものを知り、それでもなお互いを受け入れてしまった。
ずっと抑えてきた気持ちが、今になって溢れそうになる。
タクミは何かを言いかけた。
リュミエルも口を開こうとして、結局言葉が出てこない。
そして、どちらからともなく、ほんの少しだけ足を踏み出した。
――その瞬間だった。
『始まった』
不意に、相棒の声が聞こえた。
(――来た)
直後、地面の奥から重い響きが伝わってきた。
最初は地鳴りのようだったが、すぐに足元が揺れ始める。
揺れは何度も繰り返され、そのたびに少しずつ大きくなっていった。
二人はすぐに理解した。
迷宮が――動き出した。
「セリエル……!」
タクミが声をかけると、リュミエルはすぐに首を振った。
「行って! こっちは大丈夫です……!」
タクミは一瞬だけ、彼女を見つめた。
今までありがとう。
一緒にいて楽しかった。
黙っていて、ごめん。
最後になるかもしれないのに、何を伝えればいいのか分からなかった。
けれど、どの言葉も上手く出てこない。
結局、口から出たのは――。
「……マタネ……!」
いつもの別れ際と変わらない言葉。
リュミエルも何か返そうと口を開いたが、声が出てこなかった。
タクミはすぐに振り返り、地面を蹴った。
次の瞬間には、その姿が見えなくなっていた。
遅れて強い風が吹き抜け、リュミエルの髪と黒衣を大きく揺らす。
彼女はしばらく、その場から動けなかった。
タクミが走り去った方向を見つめながら、小さく呟いた。
「……またね」
次に会えたら、今度はリュミエルとして。
◇
「構えろ! 来るぞォ!」
迷宮の入口前で、兵士の怒号が響いた。
丸太を組んだバリケードの後ろでは、兵士や冒険者たちが一斉に武器を構えている。
最前列には盾と槍を持った兵士たちが並び、その隙間を埋めるように冒険者たちが立っていた。
弓を構える者もいれば、いつでも魔法を放てるように杖を握りしめている者もいる。
誰もが黙って、迷宮の入口を見つめていた。
無数の足音が重なり合い、地面を揺らしながら近づいてくる。
時折混じる咆哮も、先ほどより明らかに大きくなっていた。
――近づいてくる。
「……来るぞ」
誰かが呟いた。
入口の暗闇が揺らぎ、魔物の姿が見え始める。
――溢れ出す、そのときだった。
火の光が、その場にいる者の顔を明るく照らした。
兵士たちが顔を上げると、巨大な火球が頭上を飛び越えていくところだった。
炎の尾を引きながら飛んでいった火球は、そのまま迷宮の入口へ叩き込まれた。
直後、凄まじい爆発が起こった。
熱を帯びた爆風が防衛線まで押し寄せ、丸太のバリケードが大きく揺れる。
砂利や木片が辺りに飛び散り、思わず盾の後ろへ身を隠す者もいた。
入口付近にいた魔物たちは、まともに爆発を受けて吹き飛ばされていた。
その中の一体が、地面に転がった後に身体を起こそうとする。
しかし、そこに影が落ちた。
上空から飛び込んできた男が、落下の勢いを乗せて棍棒を振り下ろした。
ドォンッ!!
凄まじい衝撃とともに、周囲の地面まで大きく陥没する。
響いた音が、結果を確認する意味をなくす。
突然の出来事に、防衛線の兵士たちは呆然としていた。
爆発の炎が残る中、男がゆっくりと身体を起こす。
その背中を見た瞬間、守衛の一人は思い出した。
――ああ、そうだ。
この迷宮で何か問題が起こるたびに、何度この背中を見送ってきただろう。
タクミは振り返った。
防衛線のさらに後方、高台の上に見覚えのある大男が立っている。
バルドだ。
二人の視線が合う。
タクミは何も言わず、左手で襟元の特級章を軽く叩いてみせた。
それを見たバルドは、静かに頷いた。
――言葉を交わす必要はなかった。
タクミはそのまま背を向け、迷宮へ向かって進もうとした。
そのときだった。
「タクミィーー!」
誰かが叫ぶ声。それをきっかけに、周囲の兵士や冒険者たちも次々と叫び始める。
「頼むぞ!」
「戻って来いよーー!」
「タクミ! 無茶すんなよ!」
あちこちから飛んでくる声に、タクミは思わず足を止めた。
少しだけ振り返ると、苦笑しながら手にしていた棍棒を軽く掲げた。
それだけで、再び大きな歓声が上がった。
タクミは今度こそ振り返らず、迷宮へ走っていく。
やがて、その姿は入口の暗闇に消えていった。
後に、こう語られる。
あの夜、タクミはどこまで知っていたのか、と。
その場にいた兵士や冒険者たちの証言は、いくつも残されている。
しかし、肝心の本人が何を考えていたのかは、誰にも分からなかった。