エルフ王国、回廊前哨基地。
真夜中の観測室には、いくつもの水晶盤が並んでいた。
壁一面に刻まれた術式が、ゆっくりと点滅し、中央に置かれた水晶盤が静かに光を放っている。
その水晶盤を、エルフの分析官がじっと見つめていた。
盤面には無数の文字列が流れている。
迷宮ごとの魔力変動や魔物の発生量、脈動の変化など、どれも回廊前哨基地が常に監視している情報だった。
だが、その中の一列だけが異常な速さで明滅していた。
「……グランデル迷宮、上昇を継続。発生量は警戒域を突破、なお増加中です」
分析官の声には、緊張が入っていた。
報告を受け、前哨基地の監視官が、足早に観測室へ入ってきた。後ろには二人の副官も続いている。
「大魔奔か?」
「その可能性が高いかと」
監視官は水晶盤の前に立つと、流れる文字列を確認した。
確かに、数値が示しているのは魔物の大量発生だった。
発生数は異常なほど増え続け、迷宮内部の圧力も上昇している。これだけ見れば、大魔奔が起きていることは間違いない。
ところが別の数値を見た瞬間、監視官の表情が変わった。
「……待て。この減少は何だ?」
分析官も改めて盤面に目を向ける。
発生した魔物の反応が、ほとんど同時に消えていたのだ。
各階層で大量発生した魔物の反応が、次々と消失している。
消失速度が、発生速度に追いつき、場所によっては上回ってすらいた。
「そんなはずは……」
副官の一人が困惑した様子で口を開く。
「大魔奔であれば、増えすぎた魔物は外へ押し出されるはずです。迷宮の内部でこれほど消えるなど……」
そこまで言ったところで、副官はある可能性に思い至った。
「……何者かが倒している?」
だが、別の副官がすぐに首を横に振った。
「あり得ません。この規模の大魔奔を、迷宮内部で抑え込める戦力など……」
「少なくとも、人間側には存在しない」
監視官が口を挟んだ。
誰も口を開かず、水晶盤に流れる文字列を見つめていた。
発生。
消失。
発生。
消失。
その沈黙の中、分析官が盤面の一点を指差した。
「……さらに、おかしな反応があります」
「何だ?」
「大量発生している区域の中を、ひとつだけ異質な反応が移動しているように見えます」
監視官が身を乗り出して確認する。
「方向は?」
「一直線に……深層へ向かっています」
その報告を聞き、監視官の表情がさらに険しくなった。
「……いったい、何が起きている?」
誰も、何と答えればいいのか分からなかった。
観測室には、水晶盤を動かす術式の音だけが小さく響いていた。
◇
――ハッピーエンドだ。
狭い通路を埋め尽くすように、黒い魔物の群れが押し寄せてくる。
牙や爪、角を突き出した魔物たちが、互いの身体を押しのけながら迫ってくる。
魔物たちから漂う獣臭に、血の生臭さが混じっていた。
数で押し潰す。ただそれだけの、乱暴な攻め方だった。
その先頭へ、巨大な火球が叩き込まれる。
爆炎が通路いっぱいに広がり、先頭の魔物をまとめて呑み込んだ。肉が焼ける臭いとともに咆哮が上がり、吹き飛ばされた骸が床へ転がっていく。
だが、群れの勢いは止まらなかった。
後続の魔物たちは炎を恐れる様子もなく、焦げた骸を踏み越えながら次々と押し寄せてくる。
その炎の中から、人影が飛び出した。
黒い波に呑み込まれたかと思った次の瞬間。
――壁にぶつかったように、波が弾けた。
棍棒が振るわれる。
先頭の魔物が一撃で粉砕され、砕けた肉塊が後続の魔物に叩きつけられる。
勢いを殺された群れがわずかに押し戻され、その一瞬だけ通路に隙間が生まれる。
タクミは、その瞬間を見逃さない。
地面を蹴った瞬間には、もう群れの奥へ抜けている。
抜かれた魔物が振り返ろうとした、その時。
置き去りにされた火球が背後で炸裂した。
爆発が通路を揺らし、熱風とともに魔物たちが吹き飛んでいく。
タクミは振り返ることなく、そのまま奥へと走り続けた。
次の曲がり角にも魔物の群れがいた。その奥にも、さらに別の群れが押し寄せている。
どこまで進んでも魔物ばかりだった。
咆哮が響き、巨大な顎が開く。魔物たちは鋭い爪を立てて石床を蹴り、一斉に襲いかかってきた。
だが、一瞬の間にタクミの棍棒が何度も振るわれていた。
頭を砕かれた魔物が吹き飛び、別の魔物は肩口から叩き潰される。
吹き飛ばされた魔物が後続へ砲弾のように突っ込み、何体もの魔物をまとめて薙ぎ倒した。
距離があれば火球を放ち、近づかれれば棍棒で薙ぎ払う。
やっていることは、それだけだった。
通路の奥へ火球を撃ち込み、吹き飛んだ群れの隙間へ踏み込む。倒しきれなかった魔物を棍棒で薙ぎ払い、その勢いのまま次の通路へ駆け抜ける。
何体倒したのか、もう数える気にもならない。
だが、今のタクミには、不思議と余裕があった。
(あの門の先に行く)
ずっと探していた、深層のさらに先。
あそこには、自分がいた世界へ繋がる道があるかもしれない。
(帰れるかもしれない)
そう考えると、自然と気持ちが軽くなった。
このまま、あの門の先まで行けば、この異常の原因も分かるかもしれない。
うまくいけば、この大魔奔も止められる。
そうなればグランデルを守れるし、自分がこの世界からいなくなれば、エマやカイルがエルフに巻き込まれる心配もなくなる。
それから、ふと月明かりの下に立っていたセリエルの姿が思い浮かんだ。
タクミは一瞬だけ考え込んだが、すぐに意識を目の前へ戻した。
(俺も帰れて、全部解決。一石二鳥だ……!)
目の前の魔物を叩き飛ばし、そのまま群れの中へ突っ込んでいく。棍棒で道をこじ開けながら、次の火球を放った。
次の群れを薙ぎ払ったところで、タクミはあることに気づいた。
黒い魔物の群れに、白色が混じっている。
最初は一体だけだったが、すぐに二体、三体と増え始めた。
さらに進むと、今度は群れの半分近くが白い個体に変わっていた。
白色個体。
身体はひと回り大きく、牙も爪も発達している。実際、その力や速度は深層にいる上位種にも引けを取らない。
だが、今のタクミには別のものが見えていた。
(……慌てるなよ)
思わず、そんなことを考えてしまう。
強い。
けれど、どこかおかしかった。
動きは速いのに、身体の使い方がかみ合っていない。身体の内側では魔力が不自然に膨れ上がり、あちこちで流れが乱れている。
以前なら気づかなかっただろう。
だが、神気を感じ取れるようになった今なら分かる。
無理やり詰め込み、形にしただけの、出来損ない。
迷宮が焦って壁を増やしているのが、手に取るように分かった。
群れの中から、白色個体が飛びかかってきた。
通常の魔物とは比較にならない速さだったが、タクミは半歩だけ身体をずらし、すれ違いざまに棍棒を振るった。
鈍い音とともに、白い身体が壁に叩きつけられる。
硬い感触。
だが、魔力の流れが乱れているせいか、見た目ほど頑丈ではない。
壁際に転がった骸は、通常の魔物よりも早く崩れ始めていた。
(……雑だな)
タクミは小さく息を吐くと、再び前方へ火球を放った。
迷宮がどれだけ慌てていようと、こちらのやることは変わらない。
目の前の魔物を倒し、道を開いて、ひたすら奥へ進むだけだ。
帰る方法を見つけて、ついでに大魔奔も止める。
(ハッピーエンドってわけだ)
少なくとも今のタクミは、そう信じていた。