魔王とは、天の秩序に逆らう災厄の名である。
種を惑わし、加護を穢し、地に争いを広げる者。
その兆しは往々にして人間から現れ、言葉を弄し、弱き者の心へ忍び込む。
ゆえに、見誤ってはならない。災厄は、常に理の顔をして近づいてくる。
初代魔王は――
ミルセは、そこで文献から目を離した。
療養所の聖堂に併設された中庭は、静かだった。
白い石畳に浅い噴水、その周囲には綺麗に手入れされた低木が並んでいる。
療養のためと言われて、ここへ移されてから随分と日が経つ。
精神的な傷も少しずつ癒えつつあり、夜中に飛び起きることも少なくなった。
だが、自由に外出することは許されず、面会も厳しく制限されていた。
訪ねてくるのは、決まって事情聴取の者たちだった。
何度同じ話をしても、彼らは納得しない。欲しいのは事実ではなく、最初から決められた答えなのだろう。
ミルセは小さく息を吐き、再び文献へ目を落とした。
魔王、災厄、理を偽る者。
書かれている内容は古く、曖昧な表現も多い。だが、今ではその言葉が現実の問題として扱われている。
オークの亡霊が魔王候補と認定され、セラフィーネ様が直接討伐に向かわれたものの、そのまま消息を絶ってしまった。
そして今、彼女を救出するために聖翼遠征隊が動き出している。
救出とは言っているが、それが建前にすぎないことくらい、ミルセにも分かっていた。
おそらく、人間との戦争になる。
そう考えると、気が重かった。
今でも、あの日の光景は鮮明に覚えている。
仲間たちの最期を思い出すたびに、胸が苦しくなる。
恐ろしい相手だったし、できることなら二度と会いたくない。
敵である自分を見逃してくれたことも事実だ。
仲間たちを倒したのと同じ手で、今度は自分を助けようとしていた。
そのことが、ずっと分からなかった。
少なくとも、やってもいない悪事を押しつけてまで貶めていい相手だとは思えなかった。
その時、中庭に足音が響いた。
ミルセが顔を上げると、石畳を踏みながら誰かが近づいてくる。
そういえば、今日は訪問者が来る予定だった。
また事情聴取だろう。
「……何度聞かれても、話すことは同じですよ」
少しうんざりしながら、ミルセは訪問者へ目を向けた。
そこに立っていたのは、白い外套をまとった見覚えのない男だった。
身なりは整っているが、どこか軍人らしい雰囲気がある。今まで訪ねてきた者たちとは少し違うように見えた。
男は軽く一礼すると、穏やかな口調で答えた。
「ええ。その話を聞きたくて参りました」
「……?」
予想していなかった返答に、ミルセは眉を寄せる。
「初めまして。ロイエルと申します」
そして、間を置いて言った。
「……オークの亡霊とは、同僚でした」
その言葉に、ミルセは思わず顔を上げた。
◇
「――以上が、あの日起こった出来事です」
ミルセは話を終えると、膝の上で両手を重ねた。
何度同じ話をしただろうか。途中から数えるのもやめてしまった。
これまで訪ねてきた者たちは、何とかして彼女の証言を別の意味に変えようとしていた。
今回も同じことになるだろうと、半ば諦めていた。
だが、目の前の男は違った。
ロイエルは向かいの椅子に座り、最後まで口を挟まずに話を聞いていた。時折頷きながら耳を傾け、話が終わった今も何かを考えているようだった。
「――ありがとうございました」
しばらくして、ロイエルがそう言った。
ミルセは少し戸惑った。
いつもなら、ここからが長いのだ。
本当に卑劣なことはなかったのか。不意打ちはなかったのか。あなたを盾にしたのではないか。
そんな質問を繰り返され、オークの亡霊がやってもいないことを認めさせようとしてくる。
何度も否定したし、あの場で戦った者たちへの侮辱だと抗議したこともあった。
ところが、ロイエルはそれ以上何も聞こうとしない。
無表情に近い顔で、ただ納得したように頷いている。
少しの沈黙のあと、ミルセは思わず尋ねた。
「……オークの亡霊とは、知り合いだったのですか?」
「そうです。常に一緒だったわけではありませんが、何度か仕事をしたことがあります」
「どんな人物なのですか……?」
自分でも意外な質問だったが、口にしてから、本当はずっと知りたかったのだと気づいた。
あの人間は、なぜ自分を見逃したのだろう。
ロイエルは少し考え、ミルセの手元にある文献へ目を向けた。
「……一言でいえば、良い奴です」
「良い奴……ですか?」
思わず聞き返してしまった。
「ええ。少なくとも、その本に書かれているような人間ではないですね」
あまりにもあっさりとした答えだったので、ミルセは思わず文献へ視線を落とした。
魔王、災厄、秩序への反逆者。
「……魔王ではないと、そうおっしゃるのですか?」
ロイエルはすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。
中庭には噴水の水音が静かに響いている。
「天使様を侮辱するつもりは一切ありません」
慎重な前置きだった。
「ですが、神託をそのまま実行しようとする我々は、盲信しているだけなのかもしれません」
ミルセは黙って続きを待った。
「オークの亡霊……彼は、話し合いによって十分に折り合いをつけられる相手だったと、私は思っています」
その言葉を聞いて、ミルセは少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも、この男は最初からオークの亡霊を悪人だと決めつけてはいないらしい。
「それに、彼がもし本当に魔王だったなら」
ロイエルはそこで言葉を切り、少しだけ笑った。
「あなたも私も、今ごろこの世にはいませんよ」
自嘲気味の言い方がおかしくて、ミルセもつられて小さく笑った。
「……そうですね」
考えてみれば、その通りだった。
ほんの少しだけ、場の空気が和らぐ。
「あなたは、今まで来た方とは違いますね」
「……現場にいましたからね。今日来たのも、事実を確認したいだけです」
ミルセは小さく頷いた。
これまでの事情聴取とは違い、目の前の男とは普通に話ができそうだった。
「……あの、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「聖翼遠征隊が動いたと聞いています。その本当の目的は……オークの亡霊なのでしょうか?」
ロイエルはすぐには答えなかった。
少し考え込むように視線を落とし、やがて静かに口を開いた。
「……おそらく、そうでしょう」
「やはり、そうなのですね……」
ミルセの表情が曇る。
救出という名目であっても、実際にはオークの亡霊への報復が目的なのだろう。
ロイエルはそんな彼女の様子を見ながら、少し声を落とした。
「……作戦そのものを否定するつもりはありません。ただ、相手の力量を正しく把握できているのか、少々疑問がありまして」
「どういうことでしょうか……?」
「彼は我々の予測をことごとく覆しています。確定はしていませんが、あのセラフィーネ様でさえ勝てなかった可能性が高い」
ミルセは思わず息を呑んだ。
「……私は恐れているのです」
ロイエルは続けた。
「今回の進軍も、結果的に悪い結末を迎えることになるのではないかと」
「まさか……遠征隊が敗れると?」
「……その可能性も、考えておくべきかと」
ミルセは思わず言葉を失った。
だが、ロイエルの言葉を簡単に否定することもできなかった。
あの日、自分たちも同じように考えていたのだから。
「……では、どうするべきだったと?」
その質問を受けた途端、ロイエルの表情が変わった。
「……待てば良かったのです」
それまで冷静だった声に、初めて感情が混じった。
「彼は人間です。我々よりも早く老い、いずれ死ぬ」
ミルセは黙って聞いていた。
「四十年、五十年――我々にとっては、それほど長い時間ではないでしょう?」
ロイエルは一度言葉を切り、悔しそうに目を伏せた。
「それを待てなかった。我々は、自分たちで災いを大きくしてしまったのかもしれません」
ミルセは返す言葉が見つからなかった。
確かに、人間とエルフでは寿命が違う。数十年待つだけで争いを避けられたのなら、それが一番良かったのかもしれない。
だが、そう考えると、どうしてもあの日のことを思い出してしまう。
仲間たちは命令に従い、任務を果たそうとしただけだった。
もし、戦わずに済む方法があったのなら。
あの四人は、今も生きていたのだろうか。
そこから先を考えられなかった。
ふと、中庭の入口に目が向いた。
二人の人影が見える。まっすぐこちらへ歩いてきていた。
ロイエルもその二人に気づいたらしく、ちらりと目を向けた。
すると、先ほどまでの真剣な表情が消え、落ち着いた顔に戻った。
「……少し話しすぎましたね」
ロイエルは苦笑すると、椅子から立ち上がった。
「失礼。迎えが来たようです。今日はありがとうございました。お話を聞けて良かったです」
「いえ……こちらこそ」
そのまま足早に去っていく背を、ミルセは黙って見送った。
中庭に再び静けさが戻る。
ミルセは膝の上に置いた文献へ視線を落とした。
しばらくそれを見つめ――ふと、あの日のことを思い出した。
オークの亡霊。
敵である自分を見逃してくれた、あの人間の男。
――コッチ。
そう言って、彼は自分を回廊前哨基地まで送り届けようとしてくれた。
別れ際、その場を離れようとしないミルセを見ると、困ったように頭を掻きながら背を向けた。
ところが、何かを思い出したように足を止め、足早にこちらへ戻ってきた。
――オシエテ。
何を言ったのか分からず、ミルセは聞き返した。
――何が?
返ってきた言葉は、想像もつかなかった。
――エルフの女性、好キナモノ、オシエテ。
ミルセは、静かに文献を抱き寄せた。
魔王。
その言葉が、あの人間の男の記憶とどうしても重ならなかった。