まだ朝の空気が残る石畳を歩きながら、タクミは〈灰鉄の門〉――冒険者ギルドへ向かった。
分厚い扉を押し開けると、油と鉄の匂いが鼻に入ってくる。
広間は朝から賑わっていた。
奥には酒場もあり、焼きたてのパンの香りが漂っている。
石床には長年踏み歩かれてきた跡が残り、壁際には古びた掲示板がいくつも並んでいた。
討伐依頼や失踪者の情報が書かれた紙が、所狭しと貼られている。
中には血がついたまま、黒く変色したものまであった。
普段なら、朝から多くの冒険者が掲示板を眺め、今日受ける依頼を探している。
だが、今朝は様子が違った。
掲示板の前にはほとんど人がおらず、代わりに広間のあちこちで冒険者たちが集まって話をしている。
鎧が擦れる音や、金具がぶつかる音。
いつも以上に、多くの話し声が飛び交っていた。
「今日は掲示が出てないぞ」
「迷宮が閉鎖されたって」
「上層で妙な声を聞いたって話、本当だったのか?」
そんな話が、あちこちから聞こえてくる。
タクミは周囲を見ながら、受付へ向かった。
忙しそうに行き来する職員も多く、書類の束を抱えた若い書記が、タクミの横を足早に通り過ぎていった。
――いつもと違う。
そう思いながら受付へ近づくと、一人の女性と目が合った。
「……タクミさん」
エマだ。
藍色のベストの胸元には、ギルドの鉄の紋章がついている。
タクミの姿を見て少し安心したようだったが、どこか落ち着かない様子だった。
「オハヨウ」
「おはようございます。ごめんなさい、今は受け付けを止めていて……」
タクミは短く頷いた。
「ナニ、アッタ?」
エマは周囲を確認してから、少し声を落とす。
「昨日、偵察班が戻らなかったの。二班とも。夜明けまで待ったけど、連絡もなくて……」
そこで一度言葉を切った。
「それで今、上で会議をしてるの。ギルド長が朝一番でみんなを集めて」
どうやら、昨日から異変は起きていたらしい。
タクミは受付台へ目を向ける。
いつもなら朝から動き続けている受付も、今日はほとんど仕事をしていない。
「タクミさん、今日は……迷宮、行くんですか?」
「モウ イッタ。バルド ト ハナシタイ」
「え?」
それってどういう……。
エマがそう言いかけたところで、タクミが奥へ顔を向けた。
少し遅れて、重い扉が開く。
低い足音が石床に響き、騒がしかった広間が少しずつ静かになっていった。
灰色の短髪に、がっしりとした体格。
右眼には義眼が収まっている。
「タクミ、来ていたか」
グランデルのギルド長、バルド・グレインだった。
タクミは一歩前に出る。
バルドは顎で奥を示すと、そのまま背を向けた。
タクミも後を追う。
二人が廊下を歩く間、硬い足音だけが静かに響いていた。
やがて執務室へ入り、扉が閉じられる。
机の上には、迷宮の地図が広げられている。
前哨基地や上層の通路には白墨でいくつもの印がつけられ、そのうち二ヶ所には大きな×印が書き込まれていた。
「……戻らなかった」
バルドは立ったまま、地図を指で叩いた。
「昨日から、上層でいくつかのパーティがやられている。異変を調べに行った兵士の偵察班もだ。トロルが群れで居座っているらしい」
顎鬚をさすりながら、続ける。
「夜明け前に討伐隊を出そうと考えていたんだが、別の場所で"強化個体"を見たって報告まで入った。群れの動きもおかしい。おそらく何か繋がってる」
バルドはそこで一度息を吐いた。
「タクミ。お前には討伐隊と合流して――」
そう言いかけたバルドを、タクミが遮る。
「タオシタ」
バルドが固まった。
返された言葉に、バルドの表情がわずかに揺れる。
「タブン タオシタ。クワシク ハナシタイ」
「…………」
しばらくタクミの顔を見ていたバルドだったが、やがて顎に手を当て、長く息を吐いた。
「……いつものことだったか。書記を呼んでくる」
◇
書記の聞き取りは、いつもながらスムーズに進んでいく。
どんな魔物だったか、どのくらいいたか、どのくらいの強さか――。
迷宮で出会った魔物を日常的に報告しているタクミにとって、いつもと変わらないやり取りであった。
しばらくして書記が記録を終え、部屋から出ていく。
再び、バルドと二人きりになった。
「……俺がまだ現役だった頃も、似たような変調があった」
先ほどまでとは違う、低い掠れた声だった。
「上層で妙なことが起き始めてな。だが、大したことはないと思って放っておいた」
バルドは自分の右眼へ触れた。
「その結果、仲間を失った。俺もこの眼を失って、冒険者を辞めた」
タクミは何も言わずに聞いている。
「あの時だって、前触れはあったんだ。だが誰も、本気で考えなかった」
バルドは机の上の報告書へ目を落とした。
「だからこそ、お前の報告は見過ごせん。……だが中央の連中は、数字と報告書しか見ねぇ。現場の声など耳に入らんだろう」
タクミは黙って耳を傾ける。
「割に合わん、か」
低く呟く。
「最近、ここの連中が他都市へ流れ始めている。危険が増しても、得られる報酬は変わらんからな」
しばらくして、バルドがタクミを見る。
「タクミ。中央から調査団が来る。明日には到着するはずだ」
タクミは黙って続きを待った。
「奴らの目的は、迷宮の異常の実態調査だ。今の状況じゃ護衛だけでは荷が重い。……戻ったばかりで悪いが、お前も同行してくれないか」
タクミはすぐに答えた。
「……ワカッタ」
「すまんな。助かる」
それだけ言って、バルドは椅子に座った。
タクミが部屋を出ると、執務室は急に静かになった。
残されたバルドは背もたれに身体を預け、机の上に広げられた迷宮の地図を見る。
「……嫌な感じがするな」
窓の外は、すっかり明るくなっていた。
それでもギルドの中には、落ち着かない空気が続いていた。