深層の果て。
空を模した天井の下、まっすぐ続く通路の先に、黒い穴のような門が口を開けていた。
タクミは棍棒の先を地面へ預け、長く息を吐いた。
肩がわずかに上下する。
ここへ来るまでに現れた魔物は、粗方片付けた。
途中で何度か強力な個体も混じっていたが、今の自分にとっては足を止めるほどでもなかった。
(ここまで……来た。この先に答えがある)
タクミはちらりと横へ視線を向けたが、そこには以前あったはずの〈階渡り〉の揺らぎがない。
(……なくなってるな)
ここまで来てなお、また戻れると思っていた自分を切り捨てるための確認だった。
どのみち進むしかない。もう、後戻りはできない。
タクミは片手を伸ばし、暗闇の中へ指先を差し入れた。
まとわりつくような、ぬるい感触。
見えない膜でも張られているように、手の甲から腕へ何かが絡みついてくる。
タクミは眉を寄せながら、そのまま一歩踏み込んだ。
その瞬間、何かが身体を貫いた。
「……っ!」
何かが体の奥まで入り込み、内側を探るように触れていった。
ぞわりとした感覚に、思わず後ろへ飛び退きそうになる。
けれど、その違和感は一瞬で消えた。
次の瞬間には、閃光が弾けて視界が真っ白になった。
***
……対象の到達を確認。
……試練個体の変更。
◇
懐かしい匂いがした。
風が吹き抜け、道路を走る車の音や人の話し声が耳に届く。
タクミはゆっくりと顔を上げた。
目に入ったのは、夕方の景色だった。
見慣れた道路と塀、角に置かれたよく買いに行く自販機、ところどころひび割れたアスファルトが続いている。
――実家の近くだった。
『……は?』
開いた口が戻らず、心臓の鼓動が一気に速くなる。
意味が分からず、理解も追いつかない。それでも五感の方が先に確信してしまった。
匂いも、空気も、肌で感じる温度も同じだ。
何より、懐かしい。
十年という年月を、丸ごとなかったことにするように。
道路脇の坂道に目が止まった。
子供の頃、そこを自転車で勢いよく下って転び、膝を派手に擦りむいたことがある。
そんな、どうでもいい記憶を思い出した。
自然と視線が前へ向くと、家があった。
見間違えようがない。
門柱の汚れも、二階の窓も、玄関脇に並ぶ植木鉢の位置まで記憶のままだ。
タクミは、いつの間にか一歩踏み出していた。夢の中を歩いているように、身体が勝手に前へ進んでいく。
ごく小さな違和感はあった。
塀の影が少し長すぎるうえ、風が吹いているのに庭木の葉が揺れるのは一瞬遅い。
見慣れているはずなのに、どこか変だった。
――分かるはずだった。
それなのに、思考はそこへ触れようとしなかった。触れれば、壊れてしまうからだ。
ようやく目の前にぶら下がったものを、否定したくなかった。
玄関が開く。
「――おかえり」
母だった。その少し後ろには父もいて、何でもない顔で、当たり前のようにこちらを見ている。
その顔を見ただけで、溜め込んでいたものが一気に揺さぶられた。
目の奥が熱くなる。
(……帰って、きた。帰ってきた……!)
そう思った瞬間、手の中の棍棒がびくりと震えた。
――警告。
だがタクミはそれを無視した。すぐ認めたくない。
偽物だと決めつけた瞬間、すべて消えてしまう。また、あの暗い通路へ戻る。
それが嫌だった。
タクミの指先から力が抜け、担いだ棍棒の先がわずかに下がる。
その時、右腕から細い黒い筋が一本浮き始めた。
皮膚の下からにじみ出るように。
直後、棍棒の刻印が赤く脈打った。
じわりと熱が掌から腕へ這い上がり、細かな赤い粒子がまとわりつこうとする。
だが赤い粒子は、タクミへ触れる寸前に弾ける。火の粉が水へ落ちたように、勢いを失って散っていった。
また棍棒が震えた。
何か、声が聞こえた気がした。
けれど、その声は遠くぼやけていて、何を言っているのか分からない。
タクミは、ただ目の前の家を見ていた。
棍棒がもう一度震える。
今度は強く刻印が点滅し、先ほどより濃い赤い粒子がにじみ出た。無理やり押し込むように胸元へ伸びるが、それでも届かない。
まるで見えない膜でもあるように弾かれ、そのまま霧のように消えていく。
玄関先の母が、いつもの声でもう一度名前を呼ぶ。
タクミの喉が詰まり、指先がさらに緩んだ。
『――馬鹿が』
その一言だけが、壁を叩き割るように届いた。
次の瞬間、棍棒が一気に熱を持った。
「――っ!?」
タクミが止めるより早く火球が放たれ、玄関先に立つ家族へ一直線に飛んだ。
轟音とともに、業火が二人を呑み込んだ。
『――やめろッ!!』
タクミは本気で絶叫していた。
何をした。何で壊した。どうして――。
だが、炎の向こうに母の姿が見えた。
炎の中にいるはずなのに、母は苦しむ様子もなく、ただこちらを見ていた。
タクミは声も出せず、その場に立ち尽くした。
目の前の景色にひびが走り、街も、家も、夕方の光も、ガラスみたいに次々と砕けていく。
最後に残ったのは、黒い霧と暗闇だけだった。
『……敵の攻撃だ』
タクミは荒い息を吐きながら、落としかけた棍棒を握り直した。
(……クソ)
偽物だった。それくらいは分かっている。
それでも、自分が家族に手をかけたような罪悪感は消えなかった。
ズズッ、と何かが這うような音がした。
黒い筋が一本、また一本と、皮膚の下を這いながら身体の奥へ広がっていく。
――それが広がっていることに、タクミは気づかなかった。
「――押せ! ここを抜かせるな!」
怒声が響き、タクミは顔を上げた。
黒い霧が一気に流れ、目の前の景色が変わっていた。
木柵が炎を上げ、地面には何人もの兵士が倒れている。
見覚えのある場所だった。
グランデル迷宮前の前哨基地。
『……なんで』
白銀の鎧を身につけたエルフたちが、人間側の防衛線へ殺到している。長槍が盾を弾き、魔法が飛び交っていた。
次の瞬間、高台へ白い光が突き刺さる。
爆音とともに土砂や木片が飛び散り、兵士たちがまとめて地面へ叩きつけられた。
(……地上?)
防衛線が崩れていく。
兵士が倒れ、冒険者が倒れ、炎の向こうで誰かが助けを呼んでいる。
そして、その真ん中に。
(……バルド)
視界の先で、大柄な男が膝をついている。
脇腹を押さえ、地面へ片膝をついたその目の前には、エルフの戦士がいた。
剣が、ゆっくりと振り上げられた。
――幻だ。
頭のどこかではそう思っていた。さっきの実家と同じで、ここは門の中だ。前哨基地は遥か上にある。
それでも、自分が深層へ潜っている間に地上で何が起きているのかは分からない。
もし、本物だったら。
(――間に合え)
地面を蹴って一息で距離を詰め、振り下ろされた剣へ横から棍棒を叩き込む。
剣ごとエルフの身体が軽々と宙を舞い、防柵を越えて吹き飛んでいく。
「バルド!」
返事はない。脇腹を押さえたまま、こちらを見上げていた。
すぐに、別のエルフが斬りかかってきた。
タクミは踏み込み、棍棒を振り抜いた。
一体、また一体。エルフたちは次々に吹き飛び、倒れていく。
地面へ倒れた瞬間、エルフの身体が黒い霧へ変わっていく。
霧はその場で細い帯になり、タクミの身体へまとわりついてから消えていく。
(なんだ……?)
違和感はあったが、考えている暇はない。
また一体。
さらに一体。
棍棒を振るたび、黒い霧が生まれ、少しずつ身体が重くなっていった。
――おかしい。
身体に何かがまとわりついているように重く、頭もズキズキしていた。
その痛みに混じって、ふと考えが浮かぶ。
(――どうせ、全員は救えない)
だが今はそれを無視して、タクミは荒い息を吐きながら振り返った。
バルドはまだ倒れているが、敵はもう傍にいない。
その時だった。
エルフの兵たちが並んでいた、その奥に一人だけ、鎧を着ていない人影があった。
黒い衣服に、肩へ落ちた頭巾。
白金色の髪と、そこから覗く尖った耳。
セリエルだった。
ただ、エルフの兵たちの中に立って、こちらを見ている。
――私は、あなたの敵側です。
あの時の声が頭の中へ蘇り、頭が真っ白になった。
(――誰も、本当のことなんて言わない)
敵だ。分かっている。
ここにいるのも偽物で、さっきと同じはずだ。
だが。
(……わかってたよ。こうなる事には)
タクミは、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
疑ってしまった。その心の大きな揺れが引き金だった。
その瞬間、体の内側で何かが一斉に蠢いた。
腕の内側に一本だけあった黒い筋が、一気に枝分かれして全身に広がっていく。
肩へ、胸へ、首筋へ。
「――がっ!」
反応するように棍棒の刻印が赤く光り、粒子が滲み出した。
だが赤い光が黒い筋へ触れると、じゅっと小さな音がして一瞬だけ縮む。
タクミが膝から崩れ、棍棒を握ったまま地面に手をつく。
内側へ、自分ではない何かが少しずつ入り込んでくる。
(……ダメだ)
指一本も動かせない。
意識ははっきりしているのに、身体の中に、自分以外の誰かが座り込んでいる。
耳の傍から、声とも言えない囁きがした。
――空いている。
――ちょうどいい。
タクミは、ようやく理解した。
こいつは、自分を殺そうとしているんじゃない。
もっと別の――。
『……呪いだ』
頭の奥から、唸るような声が響く。
『……もういい』
熱が、棍棒を持つ右手からせり上がってくる。
遠くなっていた身体の感覚が、別の何かに引っ張り戻されていく。
『見てろ』
力を入れようとしても動かなかった指が、ゆっくりと棍棒を握り直していく。
『お前は優しすぎた。ここは俺がやる』
次の瞬間、入り込もうとしていた何かを押し返すように、タクミの中で何かが反転した。