棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第五十一話 相棒

 かつて、闘神と呼ばれたオークがいた。

 

 女神の声を聞く者。

 

 神器たる"杖"を振るえば、残るのは破壊の痕だけだった。地は割れ、森は薙ぎ倒され、敵は反撃する暇すらなく地に伏した。

 

 他種族にとって、彼は災厄そのものだった。

 

 ――だが、当の本人だけはずっと疑問を抱いていた。

 

 神の声ひとつで、なぜここまで容易く命を奪えるのか。

 なぜ戦いを望まない者まで、同じ戦場に立たされるのか。

 

 ある戦のあと、彼は敵だったエルフの若い兵を一人、肩に担いで歩いた。

 すでに息はなかったが、それでも仲間のもとへ返してやりたかった。

 

 同胞は笑い、敵は怯えて矢を向けた。

 

 彼は亡骸を地面へ下ろすと、何も言わずに背を向けた。

 

 そんな疑問を抱えるようになった頃、彼は血と炎にまみれた戦場で、一人のエルフと出会った。

 

 互いに武器を向け合っていたが、そのエルフだけはどこか違っていた。目の前の戦いではなく、もっと先を見ているような目をしていた。

 

 ――終わらせたい。

 

 その言葉を、彼は信じた。

 殺し合う以外にも、この戦いを終わらせる方法があるのかもしれない。

 

 だが、愚かだった。

 

 招かれた先で待っていたのは、和解ではなく拘束だった。

 

 天使は彼を通じて女神の因果へ触れ、その手でオークという種そのものへ呪いを流し込んだ。

 

 声を奪われ、加護を削がれ、誇りさえも獣という醜名へ塗り替えられた。

 

 同胞は次々と倒れ、残った者たちも追われ、やがてオークは歴史の表から姿を消していく。

 

 彼が一度は信じたエルフだけは、最後に彼を逃がした。

 ただ「――すまない」とだけ告げた。

 

 彼はどうにか神器を取り戻し、逃げるように迷宮の深層へ潜った。

 

 ――誰かに手を引っ張られるように。

 

 だが、そこまでだった。

 もう一歩も進めないと悟ったとき、彼はせめて自分の意思だけでも残そうと、神器へ祈った。

 

 そのときだった。

 

 ――闘神の……辞世の句は?

 

 声がした。

 

 女神でも、天使でもない。

 もっと遠く、もっと高いところから、何もかもを見下ろしているような声だった。

 

 嘲られているのかと思った。だが、もう取り繕う気力も残っていない。

 

 だから最後くらいは、正直に願った。

 

 ――この世に、情けを。

 ――……誰か、代わりに……。

 

 返事はなかった。

 

 どれほどの時が流れたのかも分からない。意識とも眠りともつかない暗闇へ沈み続けていた、ある日。

 

 足音が聞こえた。

 

 生きた者の足音だった。

 

 ぎこちなく、警戒ばかりが先に立つような歩き方で、少しずつこちらへ近づいてくる。

 

 やがて、人間の男の声が聞こえた。

 

『……ごめん。これを貸してくれ』

 

 

 ◇

 

 

 肉体の主導権を握った相棒は、一瞬で状況を嗅ぎ取った。

 

 呪いだ。

 

 精神を濁らせ、肉体を鈍らせる類のもの。深く食い込めば、そのまま心ごと沈められる。

 

 次の瞬間、タクミの喉が大きく開いた。

 

「――ォォオオオオオオオオッ!!」

 

 咆哮――衝撃が全身から放たれ、空気を揺らし、周囲を叩き割るように闇の中へ広がっていく。

 まとわりついていた呪いが一気に吹き飛び、身体を縛り付けていた重さまで弾け飛んだ。

 

 気づけば、前哨基地の景色は跡形もない。

 残っていたのは、どこまでも続く黒い空間だけだった。

 

 その奥で、空間そのものがひるんだように揺らいだ。

 

 内側にいるタクミにも、それは伝わってくる。

 

 相棒は怒っていた。

 幻に惑わされ、絡め取られ、こんな場所で足を止められたことが気に入らないらしい。

 

 闇が波打つと、すぐに次が現れた。

 奥から現れたのは小柄な人影だった。見慣れた髪に、見慣れた顔。

 

「……タクミさん」

 

 エマだった。

 

 泣きそうな顔でこちらを見ながら、一歩近づいてくる。

 その隣に、カイルが立っていた。

 

「やめて……お願い……」

 

 だが、相棒は止まらない。

 一歩踏み込む。それだけで距離が消え、棍棒が横殴りに振り抜かれた。

 

 二つの影がまとめて宙を舞い、悲鳴を上げる間もなく砕ける。

 黒い残滓が相棒の腕にまとわりつこうとして、そのまま弾かれて散った。

 

(……っ!)

 

 偽物なのは分かっている。

 

 それでも、エマとカイルの姿をした何かが、棍棒で吹き飛ばされるのを見ると、吐き気がするような嫌悪感が残った。

 相棒はそんなことなど気にも留めず、棍棒を一振りして残滓を払い落とした。

 

 そして、また闇が蠢く。

 

 今度は一人ではなかった。

 

 男も女もいる。若い者もいれば、少し年を取った顔もある。

 懐かしいのに、もう細かいところまでは思い出せない顔。

 家族や友人、元の世界にいた人たちだった。

 

「タクミ」

 

「やっと帰ってきたのに」

 

「どうして、そんな顔してるの」

 

「やめろよ」

 

「痛い」

 

「俺たち、味方だろ」

 

 責める者もいれば、悲しそうな顔をする者もいる。

 

 だが相棒は構わず群れの中へ突っ込み、立ちはだかる幻を片っ端から叩き潰していった。

 

「――オオオオオオオオオオオッ!!」

 

 獣のような声を上げ、棍棒を振るう。

 

 一体を叩き潰し、その勢いのまま次を殴り飛ばす。

 

 さらに空いた左手を前へ突き出すと、そこへ魔力が集まり、荒々しく渦を巻き始めた。

 腕の先では灰色の風が渦を巻き、その中で赤い光が瞬いていた。とぐろを巻く風が獣の唸りのような音を立てながら、今にも暴れ出しそうに震えている。

 

 次の瞬間、相棒はそれを横薙ぎに解き放った。

 

 荒れ狂う暴風が周囲を薙ぎ払い、幻の群れをまとめて呑み込んだ。

 人の形をしていたものが捻じれ、千切れ、黒い残滓ごと吹き飛んでいった。

 

「やめて!」

 

「痛い!」

 

「味方だよ!」

 

「俺だ、わからないのか!」

 

 そんな悲鳴が、暴風の中へ消えていった。

 叫びも、弁解も、懐かしい声も、相棒は全部まとめて叩き潰していく。

 

 それを見ているうちに、タクミにも分かってきた。

 自分が今いる場所では、ほんの一瞬の迷いが、そのまま死に繋がる。

 

 最後の一体が砕けると、急に辺りが静かになった。

 そして闇の奥に、一人だけ残っている人影があった。

 

 セリエル。

 

 これまでの幻とは違い、何も言わない。

 白金の髪だけが、闇の中で淡く光っていた。静かな目で、ただこちらを見ている。

 

 相棒の歩みが、初めてわずかに遅くなった。

 

 ためらったわけではなく、獲物との距離を測るように、わずかに動きを緩めただけだった。

 

 セリエルの幻が、やがてゆっくりと唇を開く。

 

「……タクミ」

 

 ただ名前を呼んだだけだった。

 それなのに、今までのどの言葉よりも重かった。

 

 タクミの心臓がどくんと脈打つ。

 

 ――止まってくれ。

 

 だが相棒は、その声ごと叩き潰した。

 踏み込みと同時に棍棒が振り下ろされ、彼女の姿が砕ける。

 

 白金の残滓が散り、やがて何も残らなくなった。

 

(……ああ)

 

 胸を締めつけられるような痛みが走った。

 

 セリエルの残滓が消えると、それ以上幻は現れなかった。

 周囲の闇そのものが怯えたように固まり、もう幻を出せなくなっていたのかもしれない。

 

 ――小賢しい。

 

 相棒の吐き捨てるような感情が伝わってくる。

 敵の本体は、目の前にいる幻影ではない。

 

 この空間そのものだ。

 

 幻と呪いを使い、獲物を絡め取る領域そのものが、闇の住人の正体だった。

 

 なら、そこから引きずり出せばいい。

 相棒は棍棒を振り上げ、そのまま足元の闇へ叩きつけた。

 

「――共鳴衝〈レゾナンス〉」

 

 次の瞬間、音より先に衝撃が走った。

 足元から広がった波紋が何重にも重なり、黒い空間そのものを激しく揺らしていく。

 

 大地の鼓動が黒い領域を内側から揺さぶり、空間そのものに亀裂が走った。

 壁も、天井も、足元さえも曖昧だった黒い空間が、大きく波打ち、あちこちで歪み始める。

 

 その揺らぎの中で、ひとつだけ異質なものが浮かび上がった。

 

 白い面だった。

 

 手のひらに収まるほど小さく、目も鼻も口もない。

 飾りもなければ、模様すらない。ただ真っ白なのっぺらぼうの面が、ぽつんと転がっている。

 

 その縁から、細い黒い糸のようなものが何本も伸びていた。

 

 かさ、かさ、と足元の闇を引っ掻く。

 

 逃げようとしているらしい。

 

 これだけの領域を作り出し、家族やセリエルの姿まで使ってタクミを追い詰めたもの。

 

 その正体が、これだった。

 

 白い面は黒い糸を必死に動かし、這うように逃げていく。

 相棒がその前へ回り込み、逃げ道を塞ぐと白い面はぴたりと止まった。

 

 相棒は何も言わず、しばらくそれを見下ろしたあと、ためらいなく踏み潰した。

 白い面はぱきりと砕け、黒い糸もろとも粉々になった。

 

 あれほどタクミを苦しめたものが、最後に残したのは、粉々になった白い欠片だけだった。

 

 やがて、その欠片が淡い光を帯び始める。

 

 砕けた面から白い粒が浮かび上がり、タクミの足元で小さな渦を作る。

 やがてそれは螺旋を描くように舞い上がり、そのまま身体の中へ吸い込まれていった。

 

 それと同時に空間が裂け、まとわりついていたぬるい感覚が消えていく。

 少しずつ、足元にいつもの硬い感触が戻ってくる。

 

 黒霧が少しずつ引いていく。奥行きのなかった暗闇が消え、その向こうに一本の通路が現れた。

 

 整えられた石床に、空を模した動かない天井。

 

 そして、その先に――次の門があった。

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