かつて、闘神と呼ばれたオークがいた。
女神の声を聞く者。
神器たる"杖"を振るえば、残るのは破壊の痕だけだった。地は割れ、森は薙ぎ倒され、敵は反撃する暇すらなく地に伏した。
他種族にとって、彼は災厄そのものだった。
――だが、当の本人だけはずっと疑問を抱いていた。
神の声ひとつで、なぜここまで容易く命を奪えるのか。
なぜ戦いを望まない者まで、同じ戦場に立たされるのか。
ある戦のあと、彼は敵だったエルフの若い兵を一人、肩に担いで歩いた。
すでに息はなかったが、それでも仲間のもとへ返してやりたかった。
同胞は笑い、敵は怯えて矢を向けた。
彼は亡骸を地面へ下ろすと、何も言わずに背を向けた。
そんな疑問を抱えるようになった頃、彼は血と炎にまみれた戦場で、一人のエルフと出会った。
互いに武器を向け合っていたが、そのエルフだけはどこか違っていた。目の前の戦いではなく、もっと先を見ているような目をしていた。
――終わらせたい。
その言葉を、彼は信じた。
殺し合う以外にも、この戦いを終わらせる方法があるのかもしれない。
だが、愚かだった。
招かれた先で待っていたのは、和解ではなく拘束だった。
天使は彼を通じて女神の因果へ触れ、その手でオークという種そのものへ呪いを流し込んだ。
声を奪われ、加護を削がれ、誇りさえも獣という醜名へ塗り替えられた。
同胞は次々と倒れ、残った者たちも追われ、やがてオークは歴史の表から姿を消していく。
彼が一度は信じたエルフだけは、最後に彼を逃がした。
ただ「――すまない」とだけ告げた。
彼はどうにか神器を取り戻し、逃げるように迷宮の深層へ潜った。
――誰かに手を引っ張られるように。
だが、そこまでだった。
もう一歩も進めないと悟ったとき、彼はせめて自分の意思だけでも残そうと、神器へ祈った。
そのときだった。
――闘神の……辞世の句は?
声がした。
女神でも、天使でもない。
もっと遠く、もっと高いところから、何もかもを見下ろしているような声だった。
嘲られているのかと思った。だが、もう取り繕う気力も残っていない。
だから最後くらいは、正直に願った。
――この世に、情けを。
――……誰か、代わりに……。
返事はなかった。
どれほどの時が流れたのかも分からない。意識とも眠りともつかない暗闇へ沈み続けていた、ある日。
足音が聞こえた。
生きた者の足音だった。
ぎこちなく、警戒ばかりが先に立つような歩き方で、少しずつこちらへ近づいてくる。
やがて、人間の男の声が聞こえた。
『……ごめん。これを貸してくれ』
◇
肉体の主導権を握った相棒は、一瞬で状況を嗅ぎ取った。
呪いだ。
精神を濁らせ、肉体を鈍らせる類のもの。深く食い込めば、そのまま心ごと沈められる。
次の瞬間、タクミの喉が大きく開いた。
「――ォォオオオオオオオオッ!!」
咆哮――衝撃が全身から放たれ、空気を揺らし、周囲を叩き割るように闇の中へ広がっていく。
まとわりついていた呪いが一気に吹き飛び、身体を縛り付けていた重さまで弾け飛んだ。
気づけば、前哨基地の景色は跡形もない。
残っていたのは、どこまでも続く黒い空間だけだった。
その奥で、空間そのものがひるんだように揺らいだ。
内側にいるタクミにも、それは伝わってくる。
相棒は怒っていた。
幻に惑わされ、絡め取られ、こんな場所で足を止められたことが気に入らないらしい。
闇が波打つと、すぐに次が現れた。
奥から現れたのは小柄な人影だった。見慣れた髪に、見慣れた顔。
「……タクミさん」
エマだった。
泣きそうな顔でこちらを見ながら、一歩近づいてくる。
その隣に、カイルが立っていた。
「やめて……お願い……」
だが、相棒は止まらない。
一歩踏み込む。それだけで距離が消え、棍棒が横殴りに振り抜かれた。
二つの影がまとめて宙を舞い、悲鳴を上げる間もなく砕ける。
黒い残滓が相棒の腕にまとわりつこうとして、そのまま弾かれて散った。
(……っ!)
偽物なのは分かっている。
それでも、エマとカイルの姿をした何かが、棍棒で吹き飛ばされるのを見ると、吐き気がするような嫌悪感が残った。
相棒はそんなことなど気にも留めず、棍棒を一振りして残滓を払い落とした。
そして、また闇が蠢く。
今度は一人ではなかった。
男も女もいる。若い者もいれば、少し年を取った顔もある。
懐かしいのに、もう細かいところまでは思い出せない顔。
家族や友人、元の世界にいた人たちだった。
「タクミ」
「やっと帰ってきたのに」
「どうして、そんな顔してるの」
「やめろよ」
「痛い」
「俺たち、味方だろ」
責める者もいれば、悲しそうな顔をする者もいる。
だが相棒は構わず群れの中へ突っ込み、立ちはだかる幻を片っ端から叩き潰していった。
「――オオオオオオオオオオオッ!!」
獣のような声を上げ、棍棒を振るう。
一体を叩き潰し、その勢いのまま次を殴り飛ばす。
さらに空いた左手を前へ突き出すと、そこへ魔力が集まり、荒々しく渦を巻き始めた。
腕の先では灰色の風が渦を巻き、その中で赤い光が瞬いていた。とぐろを巻く風が獣の唸りのような音を立てながら、今にも暴れ出しそうに震えている。
次の瞬間、相棒はそれを横薙ぎに解き放った。
荒れ狂う暴風が周囲を薙ぎ払い、幻の群れをまとめて呑み込んだ。
人の形をしていたものが捻じれ、千切れ、黒い残滓ごと吹き飛んでいった。
「やめて!」
「痛い!」
「味方だよ!」
「俺だ、わからないのか!」
そんな悲鳴が、暴風の中へ消えていった。
叫びも、弁解も、懐かしい声も、相棒は全部まとめて叩き潰していく。
それを見ているうちに、タクミにも分かってきた。
自分が今いる場所では、ほんの一瞬の迷いが、そのまま死に繋がる。
最後の一体が砕けると、急に辺りが静かになった。
そして闇の奥に、一人だけ残っている人影があった。
セリエル。
これまでの幻とは違い、何も言わない。
白金の髪だけが、闇の中で淡く光っていた。静かな目で、ただこちらを見ている。
相棒の歩みが、初めてわずかに遅くなった。
ためらったわけではなく、獲物との距離を測るように、わずかに動きを緩めただけだった。
セリエルの幻が、やがてゆっくりと唇を開く。
「……タクミ」
ただ名前を呼んだだけだった。
それなのに、今までのどの言葉よりも重かった。
タクミの心臓がどくんと脈打つ。
――止まってくれ。
だが相棒は、その声ごと叩き潰した。
踏み込みと同時に棍棒が振り下ろされ、彼女の姿が砕ける。
白金の残滓が散り、やがて何も残らなくなった。
(……ああ)
胸を締めつけられるような痛みが走った。
セリエルの残滓が消えると、それ以上幻は現れなかった。
周囲の闇そのものが怯えたように固まり、もう幻を出せなくなっていたのかもしれない。
――小賢しい。
相棒の吐き捨てるような感情が伝わってくる。
敵の本体は、目の前にいる幻影ではない。
この空間そのものだ。
幻と呪いを使い、獲物を絡め取る領域そのものが、闇の住人の正体だった。
なら、そこから引きずり出せばいい。
相棒は棍棒を振り上げ、そのまま足元の闇へ叩きつけた。
「――共鳴衝〈レゾナンス〉」
次の瞬間、音より先に衝撃が走った。
足元から広がった波紋が何重にも重なり、黒い空間そのものを激しく揺らしていく。
大地の鼓動が黒い領域を内側から揺さぶり、空間そのものに亀裂が走った。
壁も、天井も、足元さえも曖昧だった黒い空間が、大きく波打ち、あちこちで歪み始める。
その揺らぎの中で、ひとつだけ異質なものが浮かび上がった。
白い面だった。
手のひらに収まるほど小さく、目も鼻も口もない。
飾りもなければ、模様すらない。ただ真っ白なのっぺらぼうの面が、ぽつんと転がっている。
その縁から、細い黒い糸のようなものが何本も伸びていた。
かさ、かさ、と足元の闇を引っ掻く。
逃げようとしているらしい。
これだけの領域を作り出し、家族やセリエルの姿まで使ってタクミを追い詰めたもの。
その正体が、これだった。
白い面は黒い糸を必死に動かし、這うように逃げていく。
相棒がその前へ回り込み、逃げ道を塞ぐと白い面はぴたりと止まった。
相棒は何も言わず、しばらくそれを見下ろしたあと、ためらいなく踏み潰した。
白い面はぱきりと砕け、黒い糸もろとも粉々になった。
あれほどタクミを苦しめたものが、最後に残したのは、粉々になった白い欠片だけだった。
やがて、その欠片が淡い光を帯び始める。
砕けた面から白い粒が浮かび上がり、タクミの足元で小さな渦を作る。
やがてそれは螺旋を描くように舞い上がり、そのまま身体の中へ吸い込まれていった。
それと同時に空間が裂け、まとわりついていたぬるい感覚が消えていく。
少しずつ、足元にいつもの硬い感触が戻ってくる。
黒霧が少しずつ引いていく。奥行きのなかった暗闇が消え、その向こうに一本の通路が現れた。
整えられた石床に、空を模した動かない天井。
そして、その先に――次の門があった。