気づけば、目の前は門をくぐる前と同じ景色に戻っていた。
滑らかな石床に、頭上には青白い空を模した天井が広がっている。
あれほど辺りを覆っていた黒い霧は跡形もなく消え、通路の先には次の門が見えていた。
ふと、体の感覚が変わった。
それまで相棒に動かされていた手足が、ようやく自分の意思で動かせるようになる。
「――ッ」
途端に膝が折れかけ、タクミは慌てて棍棒を石床に突き立てた。どうにか倒れずに済んだものの、今度は胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてくる。
「ぉ、えっ――」
たまらず、その場で吐いた。
喉が焼けるように痛み、目の奥が熱くなる。
四つん這いになったまま何度もえずき、胃の中が空になっても、しばらく吐き気は収まらなかった。
どうやら相棒は、かなり無茶な身体の使い方をしていたらしい。全身が痛いうえに、まともに力が入らなかった。
加えて、今のタクミにはそれ以上にきついものがあった。
カイルとエマ、セリエル。
泣きそうな顔や、自分に呼びかける声が頭から離れない。何より、あの身体を叩き壊した感触が、まだ手のひらに残っていた。
偽物だったと分かっている。それでも自分の手で殺してしまったような罪悪感が、どうしても消えなかった。
タクミは荒い呼吸を繰り返しながら、どうにか顔を上げた。
そのとき、ふと違和感を覚えた。
いつも、棍棒を握る手のひらから伝わってくる熱が――弱い。
『……大丈夫か?』
呼びかけてみたが、返事はなかった。
タクミは棍棒を握り直し、もう一度意識を向ける。いつもなら感じられるはずの力強い気配が、今はひどく弱々しい。
まるで消えかけた火のように、かろうじて残っているだけだった。
(返事をしてくれ!)
今度は心の中で強く呼びかけたが、やはり反応はない。
嫌な予感がした。
手のひらから伝わる熱は、まだわずかに残っている。相棒が消えてしまったわけではないのだろう。
だが、その気配はひどく弱く、どれだけ呼びかけても届かないほど遠い。
やはり、さっきの戦いで相当な無理をしたのだろう。
そう考えたとき、棍棒の中で何かが動いた気がした。消えかけた火が一瞬だけ強くなるような、ひどく弱い反応だった。
タクミは棍棒に縋るように顔を寄せる。
(……おい! 待ってくれ!)
しかし、それきり反応がなくなってしまう。
もう一度呼びかけようとした、そのときだった。
手のひらに、かすかな熱が伝わってきた。
何かを伝えようとしているのか、弱々しい気配がわずかに震える。そして、途切れ途切れの声が頭の中に響いた。
『……行け……信じて』
『……え?』
思わず聞き返したが、それ以上の言葉はなかった。
棍棒から伝わっていた熱も、ゆっくりと弱まっていく。
『おい……!』
タクミは慌てて呼びかけた。
だが、どれだけ声をかけても返事はない。かすかに残っていた相棒の気配も、今はもうほとんど感じられなくなっていた。
そこでようやく、タクミは気づいた。
――ここから先は、本当に一人だ。
そう考えた途端、動悸が跳ね上がった。
呼吸が浅くなり、棍棒を握る指先が小刻みに震える。落ち着けと何度も自分に言い聞かせるが、体はまるで言うことをきかなかった。
胸が苦しい。息を吸っているはずなのに、うまく空気が入ってこない。視界の端まで暗くなり始め、タクミは思わず身体を縮めた。
――あの時と同じだ。
まただ。また、こんなところで。
『……大丈夫』
自分に言い聞かせるように呟いたが、震えは止まらなかった。
棍棒を抱えるように引き寄せても、いつもの熱は返ってこない。さっきまでそこにいたはずの支えが、もう応えてくれない。
考えを切り替えようとする。
だが、うまくいかない。
そのとき、視界の端に紺色の布が映った。
タクミはほとんど反射的に外套を脱ぎ、頭から被った。そのまま膝を抱え込むように身体を丸め、地面の上にうずくまった。
外の景色が見えなくなっただけで、少しだけ安心できた。
鼻先に残る石蔦亭の匂い。
タクミは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
一度、二度、三度。
何度繰り返したか分からなくなった頃、ようやく息苦しさが和らぎ、指先の震えも少しずつ収まっていった。
(……助かった)
ようやく落ち着いてきたところで、今度は別の感情が込み上げてきた。
(……なんて無様なんだ)
敵の幻に、あっさり引っかかり、何もできなくなってしまった。
その上、弱りきっていた相棒に無理をさせてしまった。
タクミは小さく息を吐き、外套の中で額を膝に押しつける。
情けない。
惨めだ。
こんな有様で、この先をどうするつもりだったのか。
――相棒の力なしで、進めるのか。
そう考えると、また不安が込み上げてくる。
そんな状態でも、頭の片隅では次にどうするべきかを考えていた。
ここまで来た以上、もう進むしかない。
今さら引き返したところで、何が変わるというのだろう。
街へ戻ったところでエルフに追われるのは変わらないし、大魔奔だって終わっていない。
このままでは、また魔物が地上へ溢れ出すかもしれない。
タクミの脳裏に、最後に見たグランデルの光景が浮かんだ。
もし今、自分が戻ってしまったらどうなるだろう。
あの光景が、今度こそ本当に壊されるかもしれない。
それに。
(……帰る途中だ)
こんな所で、道草を食っている場合じゃない。
幻の故郷ではない、本物の故郷がこの先にあるはずだ。
――介抱されるのも卒業だ。
行けるかどうかじゃない。やるしかない。
タクミはしばらく膝を抱えていたが、やがてゆっくりと外套を脱ぎ、元どおりに着直した。
まだ頭が痛むし、身体もひどく重い。それでも立ち上がろうとした瞬間、視界の端で何かが白くちらついた。
思わず瞬きをするが、もう何も見えない。
タクミは軽く頭を振り、ゆっくりと立ち上がった。一瞬よろめいたものの、すぐに自分の足で体勢を立て直す。
そして棍棒を担ぎ直すと、目の前にある門へ視線を向けた。