棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第五十二話 ひとり

 気づけば、目の前は門をくぐる前と同じ景色に戻っていた。

 

 滑らかな石床に、頭上には青白い空を模した天井が広がっている。

 あれほど辺りを覆っていた黒い霧は跡形もなく消え、通路の先には次の門が見えていた。

 

 ふと、体の感覚が変わった。

 それまで相棒に動かされていた手足が、ようやく自分の意思で動かせるようになる。

 

「――ッ」

 

 途端に膝が折れかけ、タクミは慌てて棍棒を石床に突き立てた。どうにか倒れずに済んだものの、今度は胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてくる。

 

「ぉ、えっ――」

 

 たまらず、その場で吐いた。

 

 喉が焼けるように痛み、目の奥が熱くなる。

 四つん這いになったまま何度もえずき、胃の中が空になっても、しばらく吐き気は収まらなかった。

 

 どうやら相棒は、かなり無茶な身体の使い方をしていたらしい。全身が痛いうえに、まともに力が入らなかった。

 加えて、今のタクミにはそれ以上にきついものがあった。

 

 カイルとエマ、セリエル。

 泣きそうな顔や、自分に呼びかける声が頭から離れない。何より、あの身体を叩き壊した感触が、まだ手のひらに残っていた。

 

 偽物だったと分かっている。それでも自分の手で殺してしまったような罪悪感が、どうしても消えなかった。

 

 タクミは荒い呼吸を繰り返しながら、どうにか顔を上げた。

 

 そのとき、ふと違和感を覚えた。

 

 いつも、棍棒を握る手のひらから伝わってくる熱が――弱い。

 

『……大丈夫か?』

 

 呼びかけてみたが、返事はなかった。

 

 タクミは棍棒を握り直し、もう一度意識を向ける。いつもなら感じられるはずの力強い気配が、今はひどく弱々しい。

 まるで消えかけた火のように、かろうじて残っているだけだった。

 

(返事をしてくれ!)

 

 今度は心の中で強く呼びかけたが、やはり反応はない。

 

 嫌な予感がした。

 

 手のひらから伝わる熱は、まだわずかに残っている。相棒が消えてしまったわけではないのだろう。

 だが、その気配はひどく弱く、どれだけ呼びかけても届かないほど遠い。

 

 やはり、さっきの戦いで相当な無理をしたのだろう。

 そう考えたとき、棍棒の中で何かが動いた気がした。消えかけた火が一瞬だけ強くなるような、ひどく弱い反応だった。

 

 タクミは棍棒に縋るように顔を寄せる。

 

(……おい! 待ってくれ!)

 

 しかし、それきり反応がなくなってしまう。

 もう一度呼びかけようとした、そのときだった。

 

 手のひらに、かすかな熱が伝わってきた。

 

 何かを伝えようとしているのか、弱々しい気配がわずかに震える。そして、途切れ途切れの声が頭の中に響いた。

 

『……行け……信じて』

 

『……え?』

 

 思わず聞き返したが、それ以上の言葉はなかった。

 

 棍棒から伝わっていた熱も、ゆっくりと弱まっていく。

 

『おい……!』

 

 タクミは慌てて呼びかけた。

 だが、どれだけ声をかけても返事はない。かすかに残っていた相棒の気配も、今はもうほとんど感じられなくなっていた。

 

 そこでようやく、タクミは気づいた。

 

 ――ここから先は、本当に一人だ。

 

 そう考えた途端、動悸が跳ね上がった。

 

 呼吸が浅くなり、棍棒を握る指先が小刻みに震える。落ち着けと何度も自分に言い聞かせるが、体はまるで言うことをきかなかった。

 胸が苦しい。息を吸っているはずなのに、うまく空気が入ってこない。視界の端まで暗くなり始め、タクミは思わず身体を縮めた。

 

 ――あの時と同じだ。

 

 まただ。また、こんなところで。

 

『……大丈夫』

 

 自分に言い聞かせるように呟いたが、震えは止まらなかった。

 棍棒を抱えるように引き寄せても、いつもの熱は返ってこない。さっきまでそこにいたはずの支えが、もう応えてくれない。

 

 考えを切り替えようとする。

 だが、うまくいかない。

 

 そのとき、視界の端に紺色の布が映った。

 タクミはほとんど反射的に外套を脱ぎ、頭から被った。そのまま膝を抱え込むように身体を丸め、地面の上にうずくまった。

 

 外の景色が見えなくなっただけで、少しだけ安心できた。

 

 鼻先に残る石蔦亭の匂い。

 タクミは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 

 一度、二度、三度。

 

 何度繰り返したか分からなくなった頃、ようやく息苦しさが和らぎ、指先の震えも少しずつ収まっていった。

 

(……助かった)

 

 ようやく落ち着いてきたところで、今度は別の感情が込み上げてきた。

 

(……なんて無様なんだ)

 

 敵の幻に、あっさり引っかかり、何もできなくなってしまった。

 その上、弱りきっていた相棒に無理をさせてしまった。

 

 タクミは小さく息を吐き、外套の中で額を膝に押しつける。

 

 情けない。

 惨めだ。

 こんな有様で、この先をどうするつもりだったのか。

 

 ――相棒の力なしで、進めるのか。

 

 そう考えると、また不安が込み上げてくる。

 そんな状態でも、頭の片隅では次にどうするべきかを考えていた。

 

 ここまで来た以上、もう進むしかない。

 

 今さら引き返したところで、何が変わるというのだろう。

 街へ戻ったところでエルフに追われるのは変わらないし、大魔奔だって終わっていない。

 このままでは、また魔物が地上へ溢れ出すかもしれない。

 

 タクミの脳裏に、最後に見たグランデルの光景が浮かんだ。

 

 もし今、自分が戻ってしまったらどうなるだろう。

 

 あの光景が、今度こそ本当に壊されるかもしれない。

 

 それに。

 

(……帰る途中だ)

 

 こんな所で、道草を食っている場合じゃない。

 

 幻の故郷ではない、本物の故郷がこの先にあるはずだ。

 

 ――介抱されるのも卒業だ。

 行けるかどうかじゃない。やるしかない。

 

 タクミはしばらく膝を抱えていたが、やがてゆっくりと外套を脱ぎ、元どおりに着直した。

 

 まだ頭が痛むし、身体もひどく重い。それでも立ち上がろうとした瞬間、視界の端で何かが白くちらついた。

 思わず瞬きをするが、もう何も見えない。

 

 タクミは軽く頭を振り、ゆっくりと立ち上がった。一瞬よろめいたものの、すぐに自分の足で体勢を立て直す。

 

 そして棍棒を担ぎ直すと、目の前にある門へ視線を向けた。

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