門の前に立ったタクミは、周囲の景色に違和感を覚えた。
最初に黒い門をくぐる前にいた場所に、戻ってきたと思っていた。
だが、振り返ってみると、そこには来る時にあったアーチ状の建築物がなくなっていた。
そして、濁流のように流れていた"気"も感じない。
タクミは目を細め、周囲へ意識を広げてみた。
目には遠くまで景色が広がっているように見えるのに、実際に感じ取れる空間はずっと狭い。
まるで、狭い部屋の壁一面に、遠くまで続く景色を貼り付けたようだった。
どうやら、元の場所へ戻されたわけではないらしい。
あの敵を倒したことで、さらに奥へ進めたのだろう。ここは、元の場所によく似せて作られた、別の空間だった。
タクミは小さく息を吐き、そして担いだ棍棒へ目を向けた。
(……相棒は、オレに何をしてほしかったんだろうな)
結局、彼は自分のことをほとんど話さなかった。危ない時にはいつも助けてくれたが、それ以外は黙っていた。
聞かれたくなかったのかもしれないし、帰りたがっている自分に余計なものを背負わせたくなかったのかもしれない。
今となっては、確かめようもなかった。
それでも、ずっと力を貸してくれた。何度も命を救われたし、ここまで深層を進んでこられたのも相棒がいたからだ。
なら、少なくとも利害は一致していたはずだった。
――この先へ進むこと。
ただ、それだけじゃなかったような気もする。
何かを命じられた事は一度もない。ただ、いつも少し後ろから見守られていたような気がするのだ。
タクミは左手を持ち上げ、目の前の黒い門へと伸ばした。
棍棒を握る右手に、返ってくるはずの熱はもう感じられない。
『……今は、休んでてくれ』
小さく呟くと、タクミは門の中へ足を踏み入れた。
◇
門の向こうには、暗い通路が続いていた。
左右の壁は近く、道は奥へ向かってまっすぐ伸びている。真っ暗というわけではないが、どこにも光源は見当たらない。
しかし壁や地面の輪郭がぼんやりと見える、不思議な場所だった。
ずっと先――通路の果てにだけ、細い光が差していた。
出口のようにも見えるが、もうそんなものを簡単に信じる気にはなれなかった。
タクミは警戒しながら、その光へ向かって歩いていく。
(……試練、だったか)
以前、文献で読んだ言葉を思い出した。
迷宮とは、幾多の試練を乗り越え、神に近づく資格を得るための場所。人間もやエルフも、迷宮については似たような考えを持っていたはずだ。
さっきの敵は、明らかに心を狙ってきた。
帰りたかった故郷を見せ、守りたい人たちを目の前に並べて、心を揺さぶろうとしていた。
――なら、次は何だ。
心の次に、何を試す。
通路の先に見える光は、近づいてもほとんど変わらなかった。まるで、こちらが来るのを待っているようにも見える。
黒い門をくぐってから、ずっと感じていた巨大な存在の気配。これまで遠くにあったものが、今はすぐ近くにいるように感じられた。
タクミは棍棒を握り直した。
その時だった。
通路の先から、圧迫感が伝わってきた。
光の向こうにいる巨大な何かが、こちらをじっと見下ろしているような感覚だった。
思わず足を止める。
(……いるな)
間違いない。光の向こうに何かがいる。
それが敵なのか、門番なのか、それともまた別の試練なのかは分からない。
だが、どうやら向こうもこちらを待っているらしい。
タクミは一度息を吐き、再び歩き出した。
◇
グランデル迷宮入口前。
エルフたちは、ゆっくりと迷宮へ引き始めていた。
それは敗走しているわけでもなかった。
前列が少しずつ下がる間も、迷宮内にいる後列が矢や魔法で援護を続けていた。入口に近づくほど隊列は整い、撤退の動きにもほとんど隙がなかった。
「追うぞ!」
アマリアが長槍を振り払い、飛び出そうとした瞬間、その背中にバルドの怒声が飛んだ。
「追うな!」
アマリアは足を止め、肩越しにバルドを睨んだ。敵を逃がすことへの苛立ちが、その表情に浮かんでいる。
「今なら押せる!」
「押せるように見せてんだよ。見ろ、あの引き方を。逃げてる顔じゃねぇ。俺たちを誘ってる」
バルドはエルフを睨んだまま続けた。
「地上ならこっちにも勝ち目はある。だが、迷宮の中じゃ話が違う。今追いかけたら、それこそ連中の思う壺だ」
アマリアは舌打ちしたものの、それ以上は追おうとしなかった。
逃がすつもりなどなかったが、バルドの言うことも分かる。敵はまだ十分に戦える状態で、下手に追えば待ち伏せを受ける可能性が高い。
結局、エルフの一団が迷宮へ消えていくのを見送るしかなかった。
◇
その後も、追撃は行われなかった。
エルフたちが姿を消してからも、前線の兵士たちは警戒を解かなかった。
いつまた矢や魔法が飛んでくるか分からず、迷宮入口から目を離せない。
しかし、いつまで経っても何も起きなかった。
やがて負傷者の運搬が始まり、壊れた防柵の修復も進められていく。
空が少しずつ明るくなる頃には、兵士たちの緊張も多少は和らいでいた。
その時だった。
後方が何やら騒がしくなり、兵士たちが道を空け始めた。
防柵の内側を、一人の男が外套を揺らしながら歩いてくる。
その姿を見た瞬間、バルドは思わず目を見開いた。
早い。
中央都市リューベンとの往復を考えれば、まだ戻ってくるような時間ではない。
――グランデルの首長、エドリック。
街を預かる立場の人間が、つい先ほどまで戦闘が行われていた最前線へ来るなど、正気とは思えなかった。
「首長!」
バルドは慌てて駆け寄った。
「何してる! まだ安全じゃねぇんだぞ! すぐに離れろ!」
しかし、エドリックは特に気にした様子もなく、周囲を見渡した。
「……どこへ行っても変わらんよ。街にいたところで安全とは限らん。それなら、君たちがいるここにいた方が、まだ安心できる」
バルドは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
エドリックはそんな反応にも構わず、話を続ける。
「中央からの帰りに報せが入った。エルフの軍勢が、ラグナを越えようとしている」
「……何だと?」
バルドの表情から血の気が引いた。
ラグナ山脈。
エルフと人間の領域を隔てる巨大な山脈であり、その南側で最も近い都市がグランデルだった。
その軍勢がどこへ向かっているのか、聞き返すまでもなかった。
「……そういうことか」
バルドは迷宮入口へ目を向けた。
今回の奇襲も、単に前哨基地を奪うためだけのものではなかったのだろう。
奪えればそれで良し。失敗しても迷宮入口にこちらの注意を引きつけておけば、ラグナから攻めてくる軍勢が動きやすくなる。
そう考えれば、あっさりと撤退した事に納得がいく。
エドリックは真剣な表情でバルドを見た。
「責任者を集めてくれ。すぐに話がしたい」
バルドが頷くと、エドリックは防柵の奥へと歩いていった。
話を聞いていた兵士たちの表情が、みるみる暗くなっていった。
「……終わったわけじゃ、ねぇんだな」
誰かがぽつりと呟いた。
先ほどの戦いだけでも、あれほど苦戦したのだ。それが今度は軍勢となって押し寄せてくる。
疲れ切った兵士たちの間に、重い空気が広がりその場に力なく座り込む者までいた。
その時、ガンッと硬い音が響いた。
アマリアが長槍の石突を地面に打ちつけたのだ。
「何だ、その顔は」
彼女は周囲の兵士たちを見回すと、少し呆れたように息を吐いた。
「今ので終わりじゃない? そんなの当たり前だろ」
そう言って、一歩前へ出る。
長槍を肩に担ぎ、迷宮の入口へ目を向けた。
「お前たちは、私が来るまでここを持ちこたえた! 次が来るなら、次は私が前に立つ!」
そして、振り返って笑った。
「――槍が折れるまでは、誰も通さない」
その言葉を聞いた兵士たちの表情が、少しずつ変わっていった。
俯いていた者が顔を上げ、武器を握り直す者もいる。疲れ切って座り込んでいた冒険者たちも、彼女の姿を見て小さく笑みを浮かべた。
状況は何も変わっていない。エルフの軍勢は迫っているし、次の戦いがいつ始まるのかも分からない。
それでも、彼女がいれば何とかなるかもしれない。
そう思わせるだけの実力と実績が、烈槍のアマリアにはあった。
バルドも、その様子を見ながら思わず口元を緩めた。
(……まったく、大した女だ)
諦めかけていた兵士たちの目に、再び力が戻っていた。