光の先へ踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
薄暗い通路を抜けた途端、視界が開け、その先には広大な空間が広がっていた。
見上げても、どこまでが天井なのか分からない。
はるか頭上に淡い光を帯びた石の輪郭がぼんやりと浮かんでいるだけで、どれほどの高さがあるのか見当もつかなかった。
足元には白灰色の床が広がっている。
これまで歩いてきた迷宮の床とはどこか違っている。
古いのに不思議なほど整っていて、ひび割れや崩れた破片さえ、誰かが意図して配置したかのように周囲の景色に馴染んでいる。
広間には巨大な石柱が何本も並んでいた。数人がかりでも抱えきれないほど太く、その表面には擦り切れた彫刻が残されている。
翼を持つ獣や、天へ手を伸ばす人々、祈るように膝をつく人影。
どれも風化して曖昧になっていたが、ここがかつて神殿だったことは直感でわかった。
柱のいくつかは途中で折れ、斜めに傾いたまま広間の一部を塞いでいる。
それにしても、静かな場所だった。
どこか遠くで砂がこぼれるような微かな音がするだけで、それ以外には何も聞こえてこなかった。
そして、広間の中央。
かつて祭壇だったのだろう、一段高くなった石の上に、それはいた。
最初は彫像にしか見えなかった。
大きな翼で全身を包み込み、首を折り曲げ、脚も尾も内側へ収めている。
生き物が眠っているというより、ここを守るために置かれた巨大な石像のようだった。
全身を覆うのは灰銀色の鱗。一枚一枚が薄い刃のように鋭く、それらが隙間なく重なり合って、美しい曲線を描いている。
――でかい。
しかし、不思議とその大きさよりも、神秘的な美しさのほうに目を奪われた。
(次か……?)
タクミは棍棒を握り直した。
光の向こうから感じていた巨大な気配は、どうやらこいつのものらしい。
これまで出会ってきた魔物とは、何かが違う。強さだけでは説明できない、異様な存在感があった。
そう思っていた直後だった。
閉じられていた翼が、ゆっくりと動き始めた。
石同士が擦れ合うような重い音とともに、巨大な翼が左右へ広がっていく。その下に隠れていた胴体が姿を現し、長い首がゆっくりと持ち上がった。
やがて天を仰ぐように頭を高く掲げる。その一連の動きは、まるで何かの儀式を見ているようだった。
崩れた神殿の中央で翼を広げ、天を仰ぐその姿は魔物とは一線を画す。
まるで古い神話の一場面を、そのまま目の前で見せられているようだった。
畏れなのか、感動なのか、自分でもよく分からない。ただ、その圧倒的な存在感に目を奪われ、しばらく動くことさえ忘れていた。
竜だ、とタクミは思った。
そうとしか呼びようがない。だが、これまで自分が知っていた竜という言葉では、どうにも足りない気がした。
その竜の名は、天墜竜グラディオン。
今では神話の文献にしか名を残していない存在が、この神殿の中央にいた。
やがて、その顔がゆっくりと前を向いた。
閉じられていた瞼が開き、白銀の瞳が侵入者を捉えようとした、その瞬間。
――視界に映ったのは、振り下ろされた棍棒だった。
ゴォンッ!!
神殿全体に、鈍い衝撃音が響き渡った。
気づいたときには、タクミは跳び上がり、竜の頭に棍棒を叩き込んでいた。
凄まじい手応えが両腕に伝わってくる。
(硬っ……!)
棍棒をまともに受けた竜の頭が大きく弾かれ、巨体の上半身が横へ流れた。灰銀の鱗が何枚も飛び散った。
宙に浮いたまま、タクミは自分の行動に驚き、思考が止まっていた。
あれほど目を奪われていたというのに、ほんの一瞬の隙を感じ取った瞬間、身体が勝手に動いていた。
この世界で長く生き延びてきた勘が、考えるより先に身体を動かしたのかもしれない。
だが次の瞬間、横殴りの衝撃がタクミを襲った。
竜は頭を殴られた勢いを利用して、すでに身体を捻っていた。体勢を崩しながら、受けた力をそのまま利用するように、尾を横薙ぎに振り抜いた。
まともに食らったタクミの身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられる。そのまま何度も跳ねながら転がり、最後は巨柱に激突してようやく止まった。
背後で石が砕け、肺に残っていた空気が一気に押し出される。
「がっ……!」
あまりの衝撃に息もできなかったが、それでも頭は冷静に状況を分析していた。
(……獣じゃないな)
今のは、間違いなく反撃だった。
こちらの一撃を受け、その勢いを利用して最短で攻撃を返してきた。
今の攻防だけでも、こいつに知性があり、戦い方を知っていることが分かった。
そんなことを考えていると、竜が大きく口を開いた。
「――――ッ!」
凄まじい咆哮が広間に響き渡った。
その声には怒りも憎しみも感じられなかった。ただ、自分の力を示しているかのような、感情のない咆哮だった。
神殿全体が震え、崩れかけた梁から砂が落ちる。石柱の表面に細かな亀裂が走り、床に散らばっていた小石が跳ね上がった。
そして、竜がゆっくりと首を引き、開かれた口の奥に白い光が集まり始める。
(……ブレスか)
タクミは巨柱にもたれながら、ゆっくりと身体を起こした。
今の一撃で全身がまとめてやられたらしい。身体のあちこちから悲鳴が上がっていて、少し動くだけでも激痛が走った。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
(……ああ、いいね)
頭痛も吐き気も、前の敵にかき回されたあの気持ち悪さを、今の一撃がまとめて上書きしてくれた。
相手を殴って、殴り返される。結局、自分にはこういう戦いが一番合っているのかもしれない。
(こっちのほうが、わかりやすい)
タクミは棍棒を肩に担いだ。
握った手からは、いつもの熱が返ってこない。それでも、不思議と今は気にならなかった。
広間の中央では、竜が白い光を口の奥に溜めたまま、こちらをじっと見下ろしている。
あの尾による反撃といい、無駄のない身体の使い方といい、こいつが相当な戦い慣れをしているのは間違いない。
だったら、なぜ攻撃してこない?
この距離なら、ブレスを吐けば簡単に狙えるはずだ。少なくとも、柱にもたれていた自分は避けるのに苦労するだろう。
それなのに、竜は動かない。
白い光を溜めたまま、ただこちらの様子をうかがっている。
(……なんだ、試してるつもりか?)
確か、ここは訪問者に試練を与えるための場所だ。だとすれば、この竜もそのために待ち構えているのかもしれない。
(……面倒くさい奴だな)