グラディオンがゆっくりと首を下げ、タクミを正面から見据えた。
それまでとは違う。タクミの動きを警戒し、いつでも反撃できるように身構えている。
竜にとって、タクミはもう見下ろすだけの相手ではなくなっていた。
(……届いたが)
攻撃が通るなら、倒せない相手ではない。ただ、もう同じ手は通用しないだろう。
そんなことを考えていると、グラディオンがゆっくりと翼を広げた。
まるで見えない何かに持ち上げられているような、不自然な浮かび方だった。
(来る)
タクミはすぐに地を蹴った。
直後、グラディオンが翼を振るい、斬撃のように鋭い白い衝撃波が斜めに走った。
目に見えない刃が、面となって飛んでくる。
その一撃が巨柱の一本を斜めに切り裂いた。少し遅れて柱の上半分が崩れ落ちる。
タクミはすでにその場を駆け抜けていた。背後で柱が砕け、石片が雨のように降り注ぐ。
そこへ、今度は反対側から次の一撃が飛んできた。
グラディオンは空中を滑るように移動しながら、左右の翼を交互に振るっている。
右から、左から、ときには斜め上から、さらには下から抉るように。
先ほどの衝撃輪ほど広い範囲には届かないが、その分だけ速く、攻撃の角度も多かった。
タクミは崩れた柱の根元を踏み台にして斜めに跳び、空中で身体を捻って次の巨柱の陰へ滑り込んだ。
その直後、背後の柱が白く裂け、削られた石が勢いよく弾け飛んだ。
(柱ごと削るか)
これでは隠れても意味がない。盾にしたところで、一撃を防ぐのが精一杯だろう。
タクミは柱の裏を蹴って横へ飛び出した。
視線の先で、グラディオンの喉奥に白い光が集まり始める。
――ブレスだ。
タクミはすぐさま進路を変え、一気に加速した。
次の瞬間、白い光線が神殿を貫いた。
炎のような熱は感じられないが、触れたものを削り取るように光が通り過ぎた場所だけが深く抉れていた。
タクミはその光を背後に置き去りにし、さらに駆け抜けた。
(……近づけない)
翼から飛んでくる斬撃に、白いブレス。さらには空中を自由に飛び回る機動力まである。
グラディオンは、もうこちらの出方を待とうとはしなかった。
先に動いて上を取り、距離を保ちながら攻撃を仕掛けてくる。こちらを懐に入れないようにしているのは明らかだった。
(後手に回りたくないのか)
タクミは巨柱の陰から陰へと駆け抜ける。
その間もグラディオンは翼を振るい、白い斬撃で床や柱を次々と削っていく。
近づこうとすれば進路を塞がれ、回り込もうとすれば先回りするように攻撃が飛んでくる。
こちらの速さをよく分かったうえで、動ける場所を減らしているようだった。
(懐に入られれば、負ける。そう判断したか)
タクミは空を見上げた。
――なら、やはりあそこだ。
頭部。
背中に入れた一撃は確かに効いたが、あれだけでは倒せない。
これほど頑丈な相手を仕留めるなら、やはり頭を砕くのが一番確実だろう。
問題は、どうやってそこまで近づくかだ。
タクミは走りながら左手を前に出した。
掌の先に、三つの小さな火球が浮かび上がる。
タクミが左手を振るうと、三つの火球が斜め上へ飛んでいった。
グラディオンは翼を傾けて進路を変え、二つの火球をかわした。残る一つだけが翼の端をかすめ、爆発する。
だが、浅い。
あの程度の火球では、動きを止めることすらできない。
グラディオンの喉が再び光る。
タクミはすぐに横へ跳んだ。
白いブレスが床を走り、触れた石が次々と消えていく。光が通り過ぎた跡には、深い溝だけが残った。
(……こいつ、どんだけ体力あんだよ)
タクミは歯を食いしばった。
グラディオンは休む間もなく攻撃を続けている。
翼で進路を塞ぎ、ブレスで逃げ道を潰す。柱を削って足場まで崩してくるため、こちらも思うように速度を上げられない。
速さだけでは押し切れない。
ほんの一瞬でいい。
あの滑空を乱し、頭部へ飛び込めるだけの何か。
いっそ相打ち覚悟で突っ込むか。そう考えながら次の火球を放とうとしたとき、ふと左手に違和感を覚えた。
(……何だ?)
何かが引っかかるような感覚だった。
火球ではない。共鳴衝でもなければ、棍棒から引き出す力でもない。
それなのに、まだ使ったことのない手札が、自分の中にあるような気がした。
どんなものなのか、はっきりとは分からない。それでも、どうすれば使えるのかだけは、なぜか分かる。
今、この状況で最も必要なもの。
自分のものではないはずなのに、不思議と馴染みがある。
そのとき、一人のエルフの姿が頭に浮かんだ。
白い長衣に、水色の瞳。
光と風を操っていた、あのエルフ。
そして、その姿を思い出した瞬間、胸の奥から声が聞こえた。
――使いなさい。
女の声だった。
考えている暇はない。グラディオンが大きく旋回し、再びこちらへ向かってくる。
次の攻撃が来る。
◇
ラグナ山脈の麓には、白い陣幕がいくつも並んでいた。
夜明けにはまだ少し早く、山から吹き下ろす風が焚き火の炎を揺らしている。
聖翼遠征隊の兵士たちは交代で休息を取っており、槍を抱えたまま座り込む者や、水袋を口に運ぶ者、祈りを捧げたまま目を閉じている者もいた。
そんな陣地の片隅で、二人のエルフ兵が焚き火を囲んでいた。
「……本当に、よかったのか」
先に口を開いたのは、まだ若い兵士だった。身につけた白銀の鎧は新しく、ほとんど傷がない。
向かいに座る年長の兵士が、焚き火から目を離さずに答える。
「何がだ」
「人間界だ。今、こちらへ兵を割いている余裕があるのか」
年長の兵士は何も答えなかった。
「魔族との戦いだって押されている。北の砦もまだ立て直しの途中だ。獣人だってこっちの動きを知れば黙ってないはずだ」
「……声を落とせ」
年長の兵士が小さく注意した。
若い兵士は慌てて周囲を見回した。近くに上官の姿はないが、それでも少し声を落とす。
「分かってる。でも、なんで今なんだ。グランデルなんて、人間の街の一つだろ」
「……そうだな」
年長の兵士は焚き火に薪を一本くべてから、話を続けた。
「人間たちは分かっていない。我々がどれだけ多くの戦線を支えているのか。魔族を押し返し、獣人との国境を守り、迷宮を監視しているのが誰なのかを」
焚き火の炎が揺れ、二人の白銀の鎧を赤く照らした。
「我々が、世界に秩序を作っている。人間はその内側で暮らしているだけだ」
「……だから、今度は魔物から救いに行くってわけか?」
「そう聞いている」
若い兵士は、それ以上何も言わなかった。
しばらく焚き火の音だけが続き、遠くから見張りの合図が聞こえてきた。
「今回の出征は、人間の天使教徒を救出するためなんだよな?」
「ああ」
「……本当に、それだけなのか?」
年長の兵士が顔を上げた。
「何か聞いたのか?」
「いや、噂だ」
「噂なんて気にするな」
「……それでも、気になるだろう」
若い兵士は少し身を乗り出した。
「グランデルには、魔王候補がいると聞いた。オークの亡霊と呼ばれる人間。そいつを炙り出すためだと。……エルドラン隊長も、そいつにやられたらしい」
年長の兵士は何も答えなかった。
「それに……セラフィーネ様のこともある」
その名前を聞いて、年長の兵士が顔を上げた。
「グランデルの迷宮で消息を絶ったと聞いた。捜索も、今回の目的の一つだと」
「……誰から聞いた?」
「誰にも言うなよ」
若い兵士はさらに声を落とした。
「俺の妹が宮廷で働いてる。下働きだが、いろんな話が耳に入る。正式な発表はまだないが、白尖塔じゃかなり騒ぎになってるらしい」
年長の兵士が眉をひそめた。
「……セラフィーネ様が、討たれたというのか?」
「それが分からない」
若い兵士は首を振った。
「けど、本当に殺されていたなら、次の"天使様の声を聴く者"が認定されるはずだろう」
「……そうだな」
「それが、まだ起きてない。妹はそう言っていた」
年長の兵士は少し考え込んだ。
「……つまり、セラフィーネ様は、まだ生きている可能性が高い」
二人はしばらく黙り込み、焚き火を見つめていた。
「……なら、なおさら急ぐ必要があるな」
先に口を開いたのは、年長の兵士だった。
「魔王候補に迷宮の異常、信徒たちの安否。それにセラフィーネ様の消息まで絡んでいる。どれも放っておくわけにはいかないだろう」
「だが、人間たちは俺たちを受け入れる気がないんだろ?」
「受け入れさせる」
年長の兵士は当然のように答えた。
若い兵士は、焚き火越しにその顔を見つめた。
そこに迷いはなさそうだったが、どこか疲れているようにも見えた。
「……俺たちは、救いに行くんだよな?」
年長の兵士はすぐには答えず、しばらく焚き火を眺めていた。
やがて白い息を吐き、小さく呟いた。
「……そうでなければ、ならない」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
◇
白いブレスが、崩れかけた神殿を横切った。
タクミは倒れかけた柱を蹴って上へ跳び、間一髪でそれをかわす。
グラディオンは止まらない。
空中を滑るように移動しながらブレスを吐き、旋回しては翼から斬撃を飛ばしてくる。
そのたびに柱が崩れ、床が裂け、飛び散った石片が周囲に降り注いだ。
タクミはその中を駆け抜けながら、左手に意識を向けた。
先ほどから感じている違和感は、まだ消えていないが、むしろはっきりしてきていた。
――使える。すでに使いこなせる。
グラディオンの翼が空気を捉える動きや、滑空する巨体の向き。さらにはブレスを吐く直前、頭を動かして狙いを定める瞬間。
そこへ、別の向きをぶつければいい。
別に、これだけで倒すためじゃない。
ただ、一瞬。乱すだけ。
あの頭が、こちらの間合いへ入ればいい。
タクミは走るのをやめ、その場に立ち止まった。
グラディオンの白銀の瞳がこちらを捉える。
竜は空中を滑りながら首をわずかに引き、喉に白い光を溜め始めた。
ブレス。
その射線が、こちらの胸を貫くように定まる。
だが、タクミは逃げなかった。
左手を前へ突き出す。
掌の先で、周囲の空気がぴたりと止まった。
次の瞬間、神殿の中にあった空気の流れが、無理やり一本の向きへねじ曲げられた。
床に散らばった石片が浮かび上がった。倒れかけた柱の周囲では、白灰色の塵が渦を巻く。
グラディオンの翼が、わずかに揺れた。
竜の視線が、タクミの左手へ向けられる。
タクミは左手を突き出したまま、自然と浮かんだ言葉を口にした。
「――〈暴風〉」
風が咆哮を上げた。