凄まじい暴風が、神殿全体を一気に包み込んだ。
それまで静かだった空気が、激しく渦を巻き始める。
それは、セラフィーネが操っていた風とはまるで違っていた。
あのエルフの魔法は、美しかった。
糸のように風を束ね、刃のように空間を切り裂ける。無駄がなく、狙った場所だけを正確に切り裂く、よく洗練された風だった。
だが、今タクミの左手から放たれたものは違う。
荒っぽく、不器用で、ただ力任せだった。
空気を掴んでねじり、押し潰し、まとめて叩きつける。
風というより、巨大な見えない手で空間そのものを掻き回しているようだった。
床が削られ、砕けた柱の破片が巻き上がる。白灰色の粉が広間中に飛び散り、その勢いはさらに増していった。
グラディオンの翼が大きく揺れ、その巨体が滑空の軌道を失う。
だが、竜は体勢を崩しながらもタクミから目を離さなかった。
長い首を強引に動かし、喉奥に溜めていたブレスを狙いすまして放った。
しかし、暴風に翼を押され、放つ寸前に首の向きがわずかにずれてしまう。
たったそれだけで、白いブレスはタクミを外れた。
光線が明後日の方向へ走り、巨柱の上半分を削り取った。
遅れて崩れ落ちた柱が、大量の砂埃を巻き上げる。
そして、グラディオンの巨体が神殿の高みから押し落とされた。
荒れ狂う風が翼の下へ入り込み、浮き上がろうとする力も姿勢もまとめて奪い取る。
そのまま白銀の巨体は、神殿の中央へ叩きつけられた。
だが、グラディオンは無防備に落ちたわけではなかった。
落下する間にも、翼にはすでに白い魔力が巡っていた。片翼を畳み、もう片方を身体の前へ回すと、首を引いて胴を丸める。
そのわずかな時間で、受け身と反撃の準備まで終えていたのだ。
(……無理か)
落下した直後の隙を狙っていたタクミは、暴風の外側を走りながら舌打ちした。
グラディオンの巨体は、今も風に押さえ込まれていた。
翼を広げようとしても、荒れ狂う風が羽ばたきを邪魔し、思うように動けない。
その暴風の中で、竜の頭が左右に動いた。
白銀の瞳が砂埃の向こうを探るように動き、長い首がわずかに揺れる。
こちらの位置を探している。
(……ああ、食らったから分かるよ)
タクミには覚えがあった。
この暴風は、ただ空間を荒らすだけの魔法ではない。
魔力や気の流れまで乱している。
風の中を流れる気配。
空間に薄く広がる感知の糸。
相手の重心、筋肉の動き、魔力の溜まり――そういうものを読む感覚を、まとめて掻き混ぜる。
セラフィーネに向けられたとき、自分もまともに動けなくなった。
あの不快感を、身体が覚えている。
今、グラディオンも同じ目に遭っているのだろう。
白銀の瞳は開いているが、こちらを正確に捉えられていない。
竜眼による捕捉が、暴風の中で乱れる。
タクミは走りながら左手を向けた。
――今なら、いける。
掌の先に白い光が生まれ、指の間で細い光が弾けた。
次の瞬間、〈雷撃〉が暴風を突き抜けて走った。
バチィッ、と鋭い音が響き、白い閃光がグラディオンの肩口に直撃する。
衝撃で鱗が弾け飛び、竜の巨体がわずかにのけぞった。
グラディオンの首がこちらを向こうとする。
だが、タクミはすでに別の位置へ走っていた。
そのままグラディオンの周囲を駆け回りながら、上空へ火球を放ち、続けざまに雷撃を撃ち込んだ。
二発、三発と白い閃光が走り、翼や前脚の付け根を次々に打ち抜いた。そのたびに白銀の鱗が弾け飛び、グラディオンの巨体が小さく揺れる。
グラディオンはほとんど動けなかった。
荒れ狂う風が翼を広げることすら許さず、巨体を上から床へ押さえつけている。雷撃を避ける以前に、この風をどうにかしなければならない。
――白銀の瞳が細まった。
グラディオンはタクミを追うのをやめ、首を曲げて翼を半ばまで強引に開く。
すると、喉奥に白い光が集まり始めた。
(来る)
タクミは走りながら、息を止めた。
白い光は胸から翼へ、翼から尾へと広がり、全身を巡っていく。
床に食い込んでいた爪が、さらに深く食い込んだ。
次の瞬間、竜の身体から白い衝撃が全方位へ広がった。
暴風が、吹き飛んだ。
渦巻いていた砂塵が一気に押し流され、宙に浮いていた石片も次々に砕けていく。
白い衝撃輪は、暴風を押し潰すように広がり、神殿の空気を強引に元へ戻した。
視界が開けた。
神殿の中央では、グラディオンが翼を大きく広げていた。白銀の瞳が周囲を見回し、再びタクミの位置を捉えようとする。
盤面が元に戻る。
タクミは、グラディオンの動きをじっと見ていた。
(使ったな)
あの衝撃輪。
なら、少しだけ反動がある。
実際、グラディオンの翼はまだ動ききっていなかった。
喉奥の白い光も戻っておらず、前脚の爪は深く床に食い込んだままだ。
――今だ。
そのとき、暴風の消えた上空に赤い光球が浮かんでいた。
淡く輝く魔鉱石に紛れていたため、グラディオンも気づくのがわずかに遅れた。
白銀の瞳が上を向く。
だが、もう遅い。
真上から落ちてきた火球が、竜の頭部で炸裂した。
炎と光が一気に広がり、爆発の衝撃で長い首が下へ押し込まれる。
ダメージはほとんどない。
――だが、顔が下がった。
その一瞬を、タクミは待っていた。
踏み込みは一瞬。それだけで距離が消える。
白灰色の石を砕きながら、グラディオンの頭部へ向かって飛び込んだ。
狙うのは頭部。
神殿へ入った直後、目を開いた竜に向かって、本能のまま棍棒を振り下ろした、あの軌道。
踏み込みも、角度も、間合いも全て同じ。
――地に足がついていることを除いて。
振り下ろした棍棒が、グラディオンの顔面を捉えた。
鈍い音とともに白銀の鱗が割れ、竜の頭がわずかに横へ振られる。
その瞬間、グラディオンの尾が動いた。
来る。
最初と同じ、あの返し。
顔への打撃を受け流し、その勢いを利用して尾を横薙ぎに振るう、竜のカウンター。
白銀の尾が、空気を裂いて迫る。
だが、タクミの狙いは最初からそこだった。
顔への一撃は確かに当たったが、浅い。
最初から打ち抜くつもりなどなかったのだ。
最初と同じ返しを引き出すための、囮。
タクミはさらに半歩踏み込み、迫ってくる尾へ向き直った。
狙うのは、尾の力が最も集中する場所。
しなりが集まり、一撃がいちばん重くなる、その一点だ。
そこへ、棍棒を振り下ろした。
白銀の尾と漆黒の棍棒が激突する。
一瞬遅れて、凄まじい衝撃が広がった。
白い鱗が砕け散り、グラディオンの尾が大きく弾かれる。
その勢いに引っ張られ、竜の巨体まで不自然なほど大きく揺れた。
反撃の軌道を、途中で奪われたのだ。
半身を捻っていた力は行き場を失い、首と胴が強引に引き戻される。
白銀の瞳が、大きく開いた。
読まれた。
そう告げるように。
タクミは止まらない。
尾を弾いた勢いをそのまま利用し、身体を回転させる。
踏み込んだ足を軸に腰を回し、肩を返す。棍棒の先端が低い弧を描き、再び正面へ戻ってくる。
そこへ、グラディオンの頭が戻ってくる。
――この一撃は、届く。
タクミは歯を食いしばり、全身の力を棍棒へ乗せた。
あとは、ただ振り抜くだけ。
渾身の一撃が、グラディオンの頭部へ叩き込まれた。
――衝撃が神殿を貫いた。
今度は、はっきりとした手応えがあった。
白銀の鱗が割れ、その下の骨まで砕ける。頭部から伸びていた角も折れ、光を帯びた破片が宙へ飛び散った。
グラディオンの首が大きくしなり、翼が跳ね上がる。
次の瞬間、グラディオンの巨体が、神殿の中央から横へ吹き飛んだ。
爪が床を削り、深い溝を残していく。
それでも勢いは止まらず、巨体は横倒しになったまま、折れた巨柱の根元へ叩きつけられた。
轟音とともに柱が砕け、大量の石片が降り注ぐ。
白銀の鱗片が、神殿の淡い光を受けて散った。
しばらくして、舞い上がった砂埃が少しずつ収まっていく。
巨柱の根元に倒れたグラディオンは、まだ翼を小さく震わせていた。
先ほどまで感じていた圧倒的な威圧感は、もうほとんど残っていない。
天墜竜グラディオンは、二度と立ち上がらなかった。
それでも、白銀の瞳はタクミを見ていた。
怒っているようにも、憎んでいるようにも見えない。
ただ、最後まで目の前の敵から視線を外さなかった。
やがて、その光がゆっくりと薄れていく。
最期の瞬間、どこか穏やかな目をしていたような気がした。