棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第五十八話 返し手の先

 凄まじい暴風が、神殿全体を一気に包み込んだ。

 

 それまで静かだった空気が、激しく渦を巻き始める。

 

 それは、セラフィーネが操っていた風とはまるで違っていた。

 

 あのエルフの魔法は、美しかった。

 糸のように風を束ね、刃のように空間を切り裂ける。無駄がなく、狙った場所だけを正確に切り裂く、よく洗練された風だった。

 

 だが、今タクミの左手から放たれたものは違う。

 

 荒っぽく、不器用で、ただ力任せだった。

 空気を掴んでねじり、押し潰し、まとめて叩きつける。

 

 風というより、巨大な見えない手で空間そのものを掻き回しているようだった。

 

 床が削られ、砕けた柱の破片が巻き上がる。白灰色の粉が広間中に飛び散り、その勢いはさらに増していった。

 

 グラディオンの翼が大きく揺れ、その巨体が滑空の軌道を失う。

 

 だが、竜は体勢を崩しながらもタクミから目を離さなかった。

 長い首を強引に動かし、喉奥に溜めていたブレスを狙いすまして放った。

 

 しかし、暴風に翼を押され、放つ寸前に首の向きがわずかにずれてしまう。

 たったそれだけで、白いブレスはタクミを外れた。

 

 光線が明後日の方向へ走り、巨柱の上半分を削り取った。

 遅れて崩れ落ちた柱が、大量の砂埃を巻き上げる。

 

 そして、グラディオンの巨体が神殿の高みから押し落とされた。

 

 荒れ狂う風が翼の下へ入り込み、浮き上がろうとする力も姿勢もまとめて奪い取る。

 そのまま白銀の巨体は、神殿の中央へ叩きつけられた。

 

 だが、グラディオンは無防備に落ちたわけではなかった。

 

 落下する間にも、翼にはすでに白い魔力が巡っていた。片翼を畳み、もう片方を身体の前へ回すと、首を引いて胴を丸める。

 そのわずかな時間で、受け身と反撃の準備まで終えていたのだ。

 

(……無理か)

 

 落下した直後の隙を狙っていたタクミは、暴風の外側を走りながら舌打ちした。

 

 グラディオンの巨体は、今も風に押さえ込まれていた。

 翼を広げようとしても、荒れ狂う風が羽ばたきを邪魔し、思うように動けない。

 

 その暴風の中で、竜の頭が左右に動いた。

 白銀の瞳が砂埃の向こうを探るように動き、長い首がわずかに揺れる。

 

 こちらの位置を探している。

 

(……ああ、食らったから分かるよ)

 

 タクミには覚えがあった。

 

 この暴風は、ただ空間を荒らすだけの魔法ではない。

 

 魔力や気の流れまで乱している。

 

 風の中を流れる気配。

 空間に薄く広がる感知の糸。

 相手の重心、筋肉の動き、魔力の溜まり――そういうものを読む感覚を、まとめて掻き混ぜる。

 

 セラフィーネに向けられたとき、自分もまともに動けなくなった。

 あの不快感を、身体が覚えている。

 

 今、グラディオンも同じ目に遭っているのだろう。

 白銀の瞳は開いているが、こちらを正確に捉えられていない。

 

 竜眼による捕捉が、暴風の中で乱れる。

 

 タクミは走りながら左手を向けた。

 

 ――今なら、いける。

 

 掌の先に白い光が生まれ、指の間で細い光が弾けた。

 

 次の瞬間、〈雷撃〉が暴風を突き抜けて走った。

 

 バチィッ、と鋭い音が響き、白い閃光がグラディオンの肩口に直撃する。

 衝撃で鱗が弾け飛び、竜の巨体がわずかにのけぞった。

 

 グラディオンの首がこちらを向こうとする。

 

 だが、タクミはすでに別の位置へ走っていた。

 

 そのままグラディオンの周囲を駆け回りながら、上空へ火球を放ち、続けざまに雷撃を撃ち込んだ。

 

 二発、三発と白い閃光が走り、翼や前脚の付け根を次々に打ち抜いた。そのたびに白銀の鱗が弾け飛び、グラディオンの巨体が小さく揺れる。

 

 グラディオンはほとんど動けなかった。

 

 荒れ狂う風が翼を広げることすら許さず、巨体を上から床へ押さえつけている。雷撃を避ける以前に、この風をどうにかしなければならない。

 

 ――白銀の瞳が細まった。

 

 グラディオンはタクミを追うのをやめ、首を曲げて翼を半ばまで強引に開く。

 

 すると、喉奥に白い光が集まり始めた。

 

(来る)

 

 タクミは走りながら、息を止めた。

 

 白い光は胸から翼へ、翼から尾へと広がり、全身を巡っていく。

 床に食い込んでいた爪が、さらに深く食い込んだ。

 

 次の瞬間、竜の身体から白い衝撃が全方位へ広がった。

 

 暴風が、吹き飛んだ。

 

 渦巻いていた砂塵が一気に押し流され、宙に浮いていた石片も次々に砕けていく。

 白い衝撃輪は、暴風を押し潰すように広がり、神殿の空気を強引に元へ戻した。

 

 視界が開けた。

 

 神殿の中央では、グラディオンが翼を大きく広げていた。白銀の瞳が周囲を見回し、再びタクミの位置を捉えようとする。

 

 盤面が元に戻る。

 

 タクミは、グラディオンの動きをじっと見ていた。

 

(使ったな)

 

 あの衝撃輪。

 なら、少しだけ反動がある。

 

 実際、グラディオンの翼はまだ動ききっていなかった。

 喉奥の白い光も戻っておらず、前脚の爪は深く床に食い込んだままだ。

 

 ――今だ。

 

 そのとき、暴風の消えた上空に赤い光球が浮かんでいた。

 淡く輝く魔鉱石に紛れていたため、グラディオンも気づくのがわずかに遅れた。

 

 白銀の瞳が上を向く。

 

 だが、もう遅い。

 

 真上から落ちてきた火球が、竜の頭部で炸裂した。

 炎と光が一気に広がり、爆発の衝撃で長い首が下へ押し込まれる。

 

 ダメージはほとんどない。

 ――だが、顔が下がった。

 

 その一瞬を、タクミは待っていた。

 

 踏み込みは一瞬。それだけで距離が消える。

 

 白灰色の石を砕きながら、グラディオンの頭部へ向かって飛び込んだ。

 

 狙うのは頭部。

 

 神殿へ入った直後、目を開いた竜に向かって、本能のまま棍棒を振り下ろした、あの軌道。

 

 踏み込みも、角度も、間合いも全て同じ。

 

 ――地に足がついていることを除いて。

 

 振り下ろした棍棒が、グラディオンの顔面を捉えた。

 

 鈍い音とともに白銀の鱗が割れ、竜の頭がわずかに横へ振られる。

 

 その瞬間、グラディオンの尾が動いた。

 

 来る。

 最初と同じ、あの返し。

 顔への打撃を受け流し、その勢いを利用して尾を横薙ぎに振るう、竜のカウンター。

 

 白銀の尾が、空気を裂いて迫る。

 

 だが、タクミの狙いは最初からそこだった。

 

 顔への一撃は確かに当たったが、浅い。

 最初から打ち抜くつもりなどなかったのだ。

 

 最初と同じ返しを引き出すための、囮。

 

 タクミはさらに半歩踏み込み、迫ってくる尾へ向き直った。

 

 狙うのは、尾の力が最も集中する場所。

 しなりが集まり、一撃がいちばん重くなる、その一点だ。

 そこへ、棍棒を振り下ろした。

 

 白銀の尾と漆黒の棍棒が激突する。

 

 一瞬遅れて、凄まじい衝撃が広がった。

 

 白い鱗が砕け散り、グラディオンの尾が大きく弾かれる。

 

 その勢いに引っ張られ、竜の巨体まで不自然なほど大きく揺れた。

 反撃の軌道を、途中で奪われたのだ。

 半身を捻っていた力は行き場を失い、首と胴が強引に引き戻される。

 

 白銀の瞳が、大きく開いた。

 読まれた。

 そう告げるように。

 

 タクミは止まらない。

 

 尾を弾いた勢いをそのまま利用し、身体を回転させる。

 

 踏み込んだ足を軸に腰を回し、肩を返す。棍棒の先端が低い弧を描き、再び正面へ戻ってくる。

 

 そこへ、グラディオンの頭が戻ってくる。

 

 ――この一撃は、届く。

 

 タクミは歯を食いしばり、全身の力を棍棒へ乗せた。

 

 あとは、ただ振り抜くだけ。

 

 渾身の一撃が、グラディオンの頭部へ叩き込まれた。

 

 ――衝撃が神殿を貫いた。

 

 今度は、はっきりとした手応えがあった。

 白銀の鱗が割れ、その下の骨まで砕ける。頭部から伸びていた角も折れ、光を帯びた破片が宙へ飛び散った。

 グラディオンの首が大きくしなり、翼が跳ね上がる。

 

 次の瞬間、グラディオンの巨体が、神殿の中央から横へ吹き飛んだ。

 

 爪が床を削り、深い溝を残していく。

 それでも勢いは止まらず、巨体は横倒しになったまま、折れた巨柱の根元へ叩きつけられた。

 

 轟音とともに柱が砕け、大量の石片が降り注ぐ。

 白銀の鱗片が、神殿の淡い光を受けて散った。

 

 しばらくして、舞い上がった砂埃が少しずつ収まっていく。

 

 巨柱の根元に倒れたグラディオンは、まだ翼を小さく震わせていた。

 先ほどまで感じていた圧倒的な威圧感は、もうほとんど残っていない。

 

 天墜竜グラディオンは、二度と立ち上がらなかった。

 

 それでも、白銀の瞳はタクミを見ていた。

 

 怒っているようにも、憎んでいるようにも見えない。

 ただ、最後まで目の前の敵から視線を外さなかった。

 

 やがて、その光がゆっくりと薄れていく。

 

 最期の瞬間、どこか穏やかな目をしていたような気がした。

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