夜が明けても、勝ったという雰囲気はなかった。
グランデル迷宮前哨基地には、破壊された防柵や木材が残り、辺りには血の匂いが漂っていた。
踏み荒らされた地面には矢じりや砕けた石片が散らばり、ところどころに魔物の体液も染み込んでいた。
空はすでに白み始めていたが、負傷者を運ぶ担架や、防柵を修理する槌音が絶えず響いている。
兵士たちは低い声で言葉を交わし、冒険者たちも辺りを走り回っていた。
そんな前哨基地を見下ろす高台に、アマリアは立っていた。
赤銅色の髪が朝の風に揺れ、黄銅の軽鎧には昨夜の戦いでついた細かな傷が残っている。
赤布を巻いた長槍の穂先にも、乾いた血がこびりついていた。
やがて、背後から重い足音が近づいてきた。
振り返るまでもない。ローレンスだ。
巨大な塔盾を背負った男は、アマリアの少し後ろで足を止めた。
短く刈り込んだ黒髪に無骨な顔つき。相変わらず表情はほとんど変わらない。
「……追うか?」
誰を、とは言わなかったが、聞くまでもなかった。
「いや……」
アマリアはそう答えかけたところで、斜め後ろの見張り台へ声を飛ばした。
「カティア!」
見張り台から、カティアがひょいと顔を覗かせた。
「はいはい、今行くわよっと」
返事と同時に、小柄な影が柵を越えた。
カティアはそのまま飛び降りると、途中で支柱を蹴って勢いを殺し、猫のように軽やかに着地した。
長弓を背負った彼女は、肩を回しながら高台へ駆け上がってくる。
「どうだ?」
アマリアが尋ねると、カティアは迷宮入口へ目を向けた。
普段なら軽口の一つでも返すところだが、今はその顔に笑みがなかった。
「……駄目ね。危険すぎる」
ローレンスがわずかに顔を向ける。
「エルフは下がったみたい。少なくとも入口近くには、まとまった気配はないわ。でも……」
そこで言葉を切ったカティアに、アマリアが尋ねた。
「何が見える?」
「見えるっていうより、感じるのよ。奥の方が、ずっと嫌な感じ」
そこで、彼女は目を細めた。
「上層の気配じゃない。もっと下よ。深層の匂いが、入口まで来てる」
そして、少し声を落とした。
「《死域》の気配よ」
アマリアも迷宮口を見つめた。その横からやや早口の声が割って入った。
「同意見です。非常に、非常に不本意ながら、カティアの感覚は正しい」
やってきたのは、細身の魔導士ダリオだった。片手には小型の魔導測定器を持ち、その後ろから淡い金髪の神官ミレーヌもついてくる。
「不本意って何よ」
「褒めているのですよ。あなたの野性的な直感が、今回は測定結果と一致していると言っているのです」
「それ、褒めてないでしょ」
「事実です」
「ほら、褒めてない」
カティアはむっとした顔を見せたが、ダリオは気にする様子もなく、手元の測定器を指で叩いた。
細い針は小刻みに震えたまま、一定の位置へ戻ろうとしない。
「魔力の流れがおかしいのです。本来なら上へ噴き出してくるはずが、逆に奥で何かに吸われている。大魔奔の前兆としては、かなり嫌な状態です」
「再開するか?」
アマリアが尋ねた。
「いつ再開してもおかしくありません。そもそも、止まっていること自体がおかしいのです」
ダリオは迷宮入口へ目を向け、呆れたように続けた。
「エルフは命懸けでここへ来たのでしょう。まったく、正気の沙汰ではありませんよ」
その横で、ミレーヌが静かに目を伏せた。
「……祈りの先が、途切れています」
全員の視線が彼女へ向いた。
ミレーヌは胸に下げた聖印に指を添えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「祈る時に感じる返しがありません。拒まれているわけでも、届いていないわけでもないんです。ただ……」
そこで少し考え込むと、静かに続けた。
「今は相手にできない。そんなふうに告げられている気がするんです」
カティアが、小さく息を吐いた。
「……正直、舐めてたわ。グランデルの連中がこっちに流れてきた理由、今なら分かる気がする」
全員が、同じことを感じていた。
今のグランデル迷宮は、入口を眺めているだけで、本能が近づくなと警告してくる。
アマリアは再び迷宮入口へ視線を向けて、にやりと笑った。
「――その中を、一人で突っ込んだヤツがいるみたいだな」
名前は出さなかったが、その場にいた全員が誰のことか分かっていた。
タクミ。
二年前のアルマレスで、自分たちが借りを作った男。
名前を知ったのは、戦いが終わった後だった。
魔物の大群の前に、たった一人で立ち続けていた背中。
街が勝利に沸く頃には、もうどこにもいなかった。
礼を言う暇さえ、与えてくれなかった。
ミレーヌが、少し寂しそうに微笑んだ。
「……会って、直接お礼を伝えたかったんですけどね」
アマリアも頷いた。
「今度こそ……顔くらいは見られると思ったんだがな」
その声は、いつもより柔らかかった。
夜明けの光を受けた横顔には、戦場で号令を飛ばす時とは違う、どこか憂いを帯びた表情が浮かんでいる。
それに最初に気づいたのはミレーヌだった。カティアも思わず目を丸くしたが、次の瞬間にはアマリアの表情は元に戻っていた。
「ローレンス。うちの本隊はいつ着く?」
「遅くても、明日の朝までには」
「……なら、ぎりぎり間に合うか」
アマリアは顎に手を当て、少し考え込んだ。
「エルフの本隊も、早くてそのあたりだろう」
すると、ダリオが眉をひそめた。
「希望的観測は危険ですよ。いくら我々が加勢したところで、数も力も向こうが上です。戦力差は明らかです」
「ちょっと。団長が分かってないみたいな言い方しないでよ」
カティアがむっとした顔をする。
「分かっているからこそ、念押ししているのです」
「一言多いのよ!」
「必要な一言です」
二人のやり取りを聞いていたアマリアは、少しだけ口元を緩めた。
「安心しろ。さっき、エレナから速鳥が来た」
その名前を聞いた途端、カティアの顔がぱっと明るくなった。
「エレナが来るの!?」
「ああ。すでに先導隊を連れてリューベンを発った。こっちへ向かっている」
ダリオが、珍しく笑みを浮かべた。
「これは……『双槍の奇跡』の再現ですね」
「エレナさんが来てくれるなら、とても心強いです」
ミレーヌも嬉しそうに微笑み、ローレンスも黙って頷いた。
双槍の奇跡。
二年前、アルマレスを襲った大魔奔で、二人の女が戦線を率い、押し寄せる魔物の群れを打ち破った。
烈槍のアマリアと、女将軍エレナ。
戦場を駆ける太陽と、戦場を制する月。
二人が共に戦ったあの戦いを、人々はそう呼んでいた。
「あの時と同じじゃない!」
カティアは嬉しそうに両手を握った。
「同じではありません」
ダリオがすぐに口を挟んだ。
「敵の種類も地形も違いますし、今回はエルフの本隊まで絡んでいます。喜ぶのは結構ですが、楽観は論外です」
「ほんっと一言多いわね」
「必要な一言です」
「それ二回目!」
アマリアは二人のやり取りに笑いながら、迷宮入口へ目を向けた。
「いい。楽観はしない。だが、勝つ目がないわけじゃない」
そこで少し間を置き、続ける。
「……それに、我々以外にもここへ向かっている連中がいるみたいだぞ」
「連中って?」
カティアが顔を上げた。
「さあな。速鳥の文面は短かったが、各地で動きが出ているらしい」
ダリオが考えるように顎をさする。
「良い知らせ、と受け取ってよろしいので?」
「少なくとも、悪い知らせじゃない」
アマリアがそう答えた、その時だった。
迷宮入口から滲み出していた嫌な気配が、ふっと薄れた。
その場にいた全員が、一斉に顔を向ける。
見た目には何も変わっていない。入口は相変わらず黒い闇に覆われ、その奥がどうなっているのかも分からない。
ただ、先ほどまで感じていた重苦しい圧迫感が弱まった。
「……今、何か消えた気がする」
カティアが不思議そうに呟いた。
ダリオも慌てて測定器を確認する。盤面の針が大きく跳ねたかと思うと、少しだけ下がっていた。
「反応が……変わった?」
何度か盤面を確かめ、首を傾げる。
「何かが壊れたのか。いや、流れが一瞬だけ戻った?」
ミレーヌも胸元の聖印を握りしめた。
「重い気配が、少しだけ遠のいた気がします」
何が起きたのかは、誰にも分からなかった。
アマリアは迷宮入口を見つめたまま、胸の内で呟いた。
(……生きてろよ)
あの男が奥で何をしているのか、何と戦っているのか。
なぜ一人でそこまで行けるのか。
分からないことばかりだったが、少なくとも、まだあの男は戦い続けている。
アマリアは、そんな気がしていた。
「で、団長」
不意にカティアが声をかけてきた。
「タクミ、どうするの? 本当は会いに来たんでしょ」
アマリアの眉が、ぴくりと動いた。
「任務としてな」
「はいはい、任務として」
「カティア」
「何でもないでーす」
アマリアに睨まれたカティアがわざとらしく顔を背けると、アマリアは再び迷宮入口へ目を向けた。
「あの中へ追うのは無理だ。追いつけるとも思わないし、仮に追いついたところで、まともに話ができるとも思えない」
「じゃあ、諦める?」
「馬鹿言うな」
アマリアは口元だけで笑った。
「戻ってきた時に、捕まえる」
「……捕まえるって言い方」
「会って話すという意味だ」
すかさず言い返すアマリアに、ダリオが小さく咳払いした。
「言葉選びには若干問題がありますが、判断としては妥当でしょう。今はグランデルの防衛を優先すべきです」
「そういうことだ」
アマリアは長槍を肩に担ぎ、迷宮入口を見据えた。
「あいつを迎え入れたいなら、まず迎える場所を守らないとな」
そこで、仲間たちへ顔を向ける。
「恩人の留守の間に、借りを返そう。傲慢な奴らにも一発くれてやる。一石二鳥だ」
カティアがにやりと笑う。
「そうこなくちゃ」
次の瞬間には、アマリアの表情が引き締まっていた。
「ただし、浮かれるなよ。迷宮はまだ静かなだけだ。終わったわけじゃない」
その言葉に、全員が気を引き締め直す。
「このまま警戒を維持する。交代は短く回せ。疲れて判断が鈍れば、次は持たない」
「了解」
ローレンスが短く答える。
「カティア、お前は高台から迷宮口と山脈側を見ていろ。どちらも見落とすな」
「任せて」
「ダリオ、魔力の流れに変化があればすぐに報告しろ。推測はいらん。分かったことだけでいい」
「承知しました。非常に不本意ですが、今後は簡潔にします」
「ミレーヌ、救護所を頼む」
「はい」
全員の返事を聞くと、アマリアはもう一度迷宮入口へ目を向けた。
「よし、全員持ち場へ戻れ。夜は越えたが、戦いはまだ終わっていない」
四人がそれぞれの持ち場へ向かうのを見送り、アマリアは長槍を握り直した。
状況が良くなったわけではない。
ラグナ山脈の向こうからは、エルフの軍勢が近づいている。迷宮の奥でも何が起きているのか分からず、大魔奔がいつ再開してもおかしくなかった。
むしろ、これからが本番なのかもしれない。
それでも、迷宮の奥で何かが変わったような気がした。
誰かが踏みとどまり、越えてはならないものを越えたのかもしれない。
その小さな変化は、遠く離れたこの場所にも届いていた。
◇
どこかの部屋で、革紐を締める音がしていた。
卓の上には旅用の食料や短剣、折り畳まれた地図が置かれている。
その横では、一人の男が古びた鞄に荷物を詰めていた。
年季の入った手だった。指の節は太く、甲には古い傷がいくつも残っている。
もう若くはないが、その動きに迷いはなかった。
灰色の外套を羽織った男は、背中も広く、がっしりとした体つきをしている。
これから戦場へ向かうというより、残された義理を果たしに行く。そんな雰囲気だった。
その背中に、声がかかった。
「……パパ。やっぱり行くのね」
扉の前には、一人の若い女が立っていた。灰緑色の髪が、窓から差し込む朝の光を受けて淡く輝いている。
男は振り返らず、荷造りの手も止めなかった。
「――タクミは
革紐を締めながら、当たり前のようにそう答える。
女はしばらく何も言わなかった。
止めるつもりはない。父が行く理由も、その気持ちもよく分かっていた。
それでも、心配だった。
また傷を増やして帰ってくるかもしれない。もしかしたら、今度こそ帰ってこないかもしれない。
「……私の分も、頼むわ」
男の手が、一瞬だけ止まった。
「私には、まだ行けないから」
男は振り返らなかったが、娘の言いたいことは十分に伝わっていた。
「――分かっている」
それだけ答えると、男は革紐を結び終えた鞄を持ち上げた。
そして肩に掛け、そのまま扉へ向かう。
女はもう何も言わず、父の背中を見送った。
やがて、革靴の音が廊下の奥へ遠ざかっていった。
今回は少し本編から離れて、本編が始まる前にタクミと関わった人物たちのお話でした。
彼らとタクミの間に何があったのか、そのあたりもいずれ描いていければと思っています。