棍棒ひとつで迷宮を往く   作:cla29

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第五十九話 借りを返す朝

 夜が明けても、勝ったという雰囲気はなかった。

 

 グランデル迷宮前哨基地には、破壊された防柵や木材が残り、辺りには血の匂いが漂っていた。

 踏み荒らされた地面には矢じりや砕けた石片が散らばり、ところどころに魔物の体液も染み込んでいた。

 

 空はすでに白み始めていたが、負傷者を運ぶ担架や、防柵を修理する槌音が絶えず響いている。

 兵士たちは低い声で言葉を交わし、冒険者たちも辺りを走り回っていた。

 

 そんな前哨基地を見下ろす高台に、アマリアは立っていた。

 

 赤銅色の髪が朝の風に揺れ、黄銅の軽鎧には昨夜の戦いでついた細かな傷が残っている。

 赤布を巻いた長槍の穂先にも、乾いた血がこびりついていた。

 

 やがて、背後から重い足音が近づいてきた。

 

 振り返るまでもない。ローレンスだ。

 

 巨大な塔盾を背負った男は、アマリアの少し後ろで足を止めた。

 短く刈り込んだ黒髪に無骨な顔つき。相変わらず表情はほとんど変わらない。

 

「……追うか?」

 

 誰を、とは言わなかったが、聞くまでもなかった。

 

「いや……」

 

 アマリアはそう答えかけたところで、斜め後ろの見張り台へ声を飛ばした。

 

「カティア!」

 

 見張り台から、カティアがひょいと顔を覗かせた。

 

「はいはい、今行くわよっと」

 

 返事と同時に、小柄な影が柵を越えた。

 カティアはそのまま飛び降りると、途中で支柱を蹴って勢いを殺し、猫のように軽やかに着地した。

 長弓を背負った彼女は、肩を回しながら高台へ駆け上がってくる。

 

「どうだ?」

 

 アマリアが尋ねると、カティアは迷宮入口へ目を向けた。

 

 普段なら軽口の一つでも返すところだが、今はその顔に笑みがなかった。

 

「……駄目ね。危険すぎる」

 

 ローレンスがわずかに顔を向ける。

 

「エルフは下がったみたい。少なくとも入口近くには、まとまった気配はないわ。でも……」

 

 そこで言葉を切ったカティアに、アマリアが尋ねた。

 

「何が見える?」

 

「見えるっていうより、感じるのよ。奥の方が、ずっと嫌な感じ」

 

 そこで、彼女は目を細めた。

 

「上層の気配じゃない。もっと下よ。深層の匂いが、入口まで来てる」

 

 そして、少し声を落とした。

 

「《死域》の気配よ」

 

 アマリアも迷宮口を見つめた。その横からやや早口の声が割って入った。

 

「同意見です。非常に、非常に不本意ながら、カティアの感覚は正しい」

 

 やってきたのは、細身の魔導士ダリオだった。片手には小型の魔導測定器を持ち、その後ろから淡い金髪の神官ミレーヌもついてくる。

 

「不本意って何よ」

 

「褒めているのですよ。あなたの野性的な直感が、今回は測定結果と一致していると言っているのです」

 

「それ、褒めてないでしょ」

 

「事実です」

 

「ほら、褒めてない」

 

 カティアはむっとした顔を見せたが、ダリオは気にする様子もなく、手元の測定器を指で叩いた。

 細い針は小刻みに震えたまま、一定の位置へ戻ろうとしない。

 

「魔力の流れがおかしいのです。本来なら上へ噴き出してくるはずが、逆に奥で何かに吸われている。大魔奔の前兆としては、かなり嫌な状態です」

 

「再開するか?」

 

 アマリアが尋ねた。

 

「いつ再開してもおかしくありません。そもそも、止まっていること自体がおかしいのです」

 

 ダリオは迷宮入口へ目を向け、呆れたように続けた。

 

「エルフは命懸けでここへ来たのでしょう。まったく、正気の沙汰ではありませんよ」

 

 その横で、ミレーヌが静かに目を伏せた。

 

「……祈りの先が、途切れています」

 

 全員の視線が彼女へ向いた。

 

 ミレーヌは胸に下げた聖印に指を添えながら、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「祈る時に感じる返しがありません。拒まれているわけでも、届いていないわけでもないんです。ただ……」

 

 そこで少し考え込むと、静かに続けた。

 

「今は相手にできない。そんなふうに告げられている気がするんです」

 

 カティアが、小さく息を吐いた。

 

「……正直、舐めてたわ。グランデルの連中がこっちに流れてきた理由、今なら分かる気がする」

 

 全員が、同じことを感じていた。

 今のグランデル迷宮は、入口を眺めているだけで、本能が近づくなと警告してくる。

 

 アマリアは再び迷宮入口へ視線を向けて、にやりと笑った。

 

「――その中を、一人で突っ込んだヤツがいるみたいだな」

 

 名前は出さなかったが、その場にいた全員が誰のことか分かっていた。

 

 タクミ。

 

 二年前のアルマレスで、自分たちが借りを作った男。

 

 名前を知ったのは、戦いが終わった後だった。

 

 魔物の大群の前に、たった一人で立ち続けていた背中。

 街が勝利に沸く頃には、もうどこにもいなかった。

 礼を言う暇さえ、与えてくれなかった。

 

 ミレーヌが、少し寂しそうに微笑んだ。

 

「……会って、直接お礼を伝えたかったんですけどね」

 

 アマリアも頷いた。

 

「今度こそ……顔くらいは見られると思ったんだがな」

 

 その声は、いつもより柔らかかった。

 夜明けの光を受けた横顔には、戦場で号令を飛ばす時とは違う、どこか憂いを帯びた表情が浮かんでいる。

 

 それに最初に気づいたのはミレーヌだった。カティアも思わず目を丸くしたが、次の瞬間にはアマリアの表情は元に戻っていた。

 

「ローレンス。うちの本隊はいつ着く?」

 

「遅くても、明日の朝までには」

 

「……なら、ぎりぎり間に合うか」

 

 アマリアは顎に手を当て、少し考え込んだ。

 

「エルフの本隊も、早くてそのあたりだろう」

 

 すると、ダリオが眉をひそめた。

 

「希望的観測は危険ですよ。いくら我々が加勢したところで、数も力も向こうが上です。戦力差は明らかです」

 

「ちょっと。団長が分かってないみたいな言い方しないでよ」

 

 カティアがむっとした顔をする。

 

「分かっているからこそ、念押ししているのです」

 

「一言多いのよ!」

 

「必要な一言です」

 

 二人のやり取りを聞いていたアマリアは、少しだけ口元を緩めた。

 

「安心しろ。さっき、エレナから速鳥が来た」

 

 その名前を聞いた途端、カティアの顔がぱっと明るくなった。

 

「エレナが来るの!?」

 

「ああ。すでに先導隊を連れてリューベンを発った。こっちへ向かっている」

 

 ダリオが、珍しく笑みを浮かべた。

 

「これは……『双槍の奇跡』の再現ですね」

 

「エレナさんが来てくれるなら、とても心強いです」

 

 ミレーヌも嬉しそうに微笑み、ローレンスも黙って頷いた。

 

 双槍の奇跡。

 

 二年前、アルマレスを襲った大魔奔で、二人の女が戦線を率い、押し寄せる魔物の群れを打ち破った。

 

 烈槍のアマリアと、女将軍エレナ。

 

 戦場を駆ける太陽と、戦場を制する月。

 二人が共に戦ったあの戦いを、人々はそう呼んでいた。

 

「あの時と同じじゃない!」

 

 カティアは嬉しそうに両手を握った。

 

「同じではありません」

 

 ダリオがすぐに口を挟んだ。

 

「敵の種類も地形も違いますし、今回はエルフの本隊まで絡んでいます。喜ぶのは結構ですが、楽観は論外です」

 

「ほんっと一言多いわね」

 

「必要な一言です」

 

「それ二回目!」

 

 アマリアは二人のやり取りに笑いながら、迷宮入口へ目を向けた。

 

「いい。楽観はしない。だが、勝つ目がないわけじゃない」

 

 そこで少し間を置き、続ける。

 

「……それに、我々以外にもここへ向かっている連中がいるみたいだぞ」

 

「連中って?」

 

 カティアが顔を上げた。

 

「さあな。速鳥の文面は短かったが、各地で動きが出ているらしい」

 

 ダリオが考えるように顎をさする。

 

「良い知らせ、と受け取ってよろしいので?」

 

「少なくとも、悪い知らせじゃない」

 

 アマリアがそう答えた、その時だった。

 

 迷宮入口から滲み出していた嫌な気配が、ふっと薄れた。

 

 その場にいた全員が、一斉に顔を向ける。

 見た目には何も変わっていない。入口は相変わらず黒い闇に覆われ、その奥がどうなっているのかも分からない。

 

 ただ、先ほどまで感じていた重苦しい圧迫感が弱まった。

 

「……今、何か消えた気がする」

 

 カティアが不思議そうに呟いた。

 

 ダリオも慌てて測定器を確認する。盤面の針が大きく跳ねたかと思うと、少しだけ下がっていた。

 

「反応が……変わった?」

 

 何度か盤面を確かめ、首を傾げる。

 

「何かが壊れたのか。いや、流れが一瞬だけ戻った?」

 

 ミレーヌも胸元の聖印を握りしめた。

 

「重い気配が、少しだけ遠のいた気がします」

 

 何が起きたのかは、誰にも分からなかった。

 アマリアは迷宮入口を見つめたまま、胸の内で呟いた。

 

(……生きてろよ)

 

 あの男が奥で何をしているのか、何と戦っているのか。

 なぜ一人でそこまで行けるのか。

 分からないことばかりだったが、少なくとも、まだあの男は戦い続けている。

 

 アマリアは、そんな気がしていた。

 

「で、団長」

 

 不意にカティアが声をかけてきた。

 

「タクミ、どうするの? 本当は会いに来たんでしょ」

 

 アマリアの眉が、ぴくりと動いた。

 

「任務としてな」

 

「はいはい、任務として」

 

「カティア」

 

「何でもないでーす」

 

 アマリアに睨まれたカティアがわざとらしく顔を背けると、アマリアは再び迷宮入口へ目を向けた。

 

「あの中へ追うのは無理だ。追いつけるとも思わないし、仮に追いついたところで、まともに話ができるとも思えない」

 

「じゃあ、諦める?」

 

「馬鹿言うな」

 

 アマリアは口元だけで笑った。

 

「戻ってきた時に、捕まえる」

 

「……捕まえるって言い方」

 

「会って話すという意味だ」

 

 すかさず言い返すアマリアに、ダリオが小さく咳払いした。

 

「言葉選びには若干問題がありますが、判断としては妥当でしょう。今はグランデルの防衛を優先すべきです」

 

「そういうことだ」

 

 アマリアは長槍を肩に担ぎ、迷宮入口を見据えた。

 

「あいつを迎え入れたいなら、まず迎える場所を守らないとな」

 

 そこで、仲間たちへ顔を向ける。

 

「恩人の留守の間に、借りを返そう。傲慢な奴らにも一発くれてやる。一石二鳥だ」

 

 カティアがにやりと笑う。

 

「そうこなくちゃ」

 

 次の瞬間には、アマリアの表情が引き締まっていた。

 

「ただし、浮かれるなよ。迷宮はまだ静かなだけだ。終わったわけじゃない」

 

 その言葉に、全員が気を引き締め直す。

 

「このまま警戒を維持する。交代は短く回せ。疲れて判断が鈍れば、次は持たない」

 

「了解」

 

 ローレンスが短く答える。

 

「カティア、お前は高台から迷宮口と山脈側を見ていろ。どちらも見落とすな」

 

「任せて」

 

「ダリオ、魔力の流れに変化があればすぐに報告しろ。推測はいらん。分かったことだけでいい」

 

「承知しました。非常に不本意ですが、今後は簡潔にします」

 

「ミレーヌ、救護所を頼む」

 

「はい」

 

 全員の返事を聞くと、アマリアはもう一度迷宮入口へ目を向けた。

 

「よし、全員持ち場へ戻れ。夜は越えたが、戦いはまだ終わっていない」

 

 四人がそれぞれの持ち場へ向かうのを見送り、アマリアは長槍を握り直した。

 

 状況が良くなったわけではない。

 

 ラグナ山脈の向こうからは、エルフの軍勢が近づいている。迷宮の奥でも何が起きているのか分からず、大魔奔がいつ再開してもおかしくなかった。

 

 むしろ、これからが本番なのかもしれない。

 

 それでも、迷宮の奥で何かが変わったような気がした。

 

 誰かが踏みとどまり、越えてはならないものを越えたのかもしれない。

 

 その小さな変化は、遠く離れたこの場所にも届いていた。

 

 

 ◇

 

 

 どこかの部屋で、革紐を締める音がしていた。

 

 卓の上には旅用の食料や短剣、折り畳まれた地図が置かれている。

 その横では、一人の男が古びた鞄に荷物を詰めていた。

 

 年季の入った手だった。指の節は太く、甲には古い傷がいくつも残っている。

 もう若くはないが、その動きに迷いはなかった。

 

 灰色の外套を羽織った男は、背中も広く、がっしりとした体つきをしている。

 これから戦場へ向かうというより、残された義理を果たしに行く。そんな雰囲気だった。

 

 その背中に、声がかかった。

 

「……パパ。やっぱり行くのね」

 

 扉の前には、一人の若い女が立っていた。灰緑色の髪が、窓から差し込む朝の光を受けて淡く輝いている。

 

 男は振り返らず、荷造りの手も止めなかった。

 

「――タクミは戦友(ダチ)だ。放ってはおけない」

 

 革紐を締めながら、当たり前のようにそう答える。

 

 女はしばらく何も言わなかった。

 

 止めるつもりはない。父が行く理由も、その気持ちもよく分かっていた。

 

 それでも、心配だった。

 

 また傷を増やして帰ってくるかもしれない。もしかしたら、今度こそ帰ってこないかもしれない。

 

「……私の分も、頼むわ」

 

 男の手が、一瞬だけ止まった。

 

「私には、まだ行けないから」

 

 男は振り返らなかったが、娘の言いたいことは十分に伝わっていた。

 

「――分かっている」

 

 それだけ答えると、男は革紐を結び終えた鞄を持ち上げた。

 

 そして肩に掛け、そのまま扉へ向かう。

 

 女はもう何も言わず、父の背中を見送った。

 

 やがて、革靴の音が廊下の奥へ遠ざかっていった。




今回は少し本編から離れて、本編が始まる前にタクミと関わった人物たちのお話でした。
彼らとタクミの間に何があったのか、そのあたりもいずれ描いていければと思っています。
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