ごう、と大きな音が背後から響いてきた。
石壁が震え、張りついていた苔がぱらぱらと落ちてくる。
魔物の群れが、階層を駆け上がってきている。
「後ろを振り返るな!」
ヘルマンが叫ぶ。
一行はすぐに立ち上がり、来た道を全力で引き返した。
走りながら、斥候とロイが後ろの気配を探る。
「どんどん近づいてくる! 数が多すぎる!」
「こりゃ……丸ごと押し潰されるぞ!」
兵士たちの顔から血の気が引いていく。
そんな中、ロイは横から鋭い視線を感じた。
戦いの最中に向けられるものとは、どこか違う。
何かを確かめるような目だった。
見ると、タクミがこちらを見ている。
ほんの一瞬、二人の視線が重なった。
「……ウシロ イク」
それだけ言うと、タクミは足を止め振り返った。
棍棒を担ぎ直し、迫り来る敵を正面から迎え撃つ。
「……行くぞ!」
ヘルマンの声に押され、全員が走り続ける。
すぐ後ろから、凄まじい音が響いてきた。
魔物の咆哮。何かが壁に叩きつけられる音。硬いものが砕ける音。
誰も振り返らなかった。振り返る余裕などなかった。
◇
二層目まで戻ってきた頃には、兵士たちはすっかり息を切らしていた。
足取りもかなり怪しい。だが、休んでいる暇はなかった。
「……なんだ、これ」
誰かが呟く。
来た時とは、通路の様子が変わっていた。
石床にはいくつもの亀裂が走り、その一部には大きな穴まで開いている。
何かが下から這い出してきたようにも見えた。
湿った風に混じって、嫌な臭いが鼻につく。
ヘルマンが目を細め、剣の柄を握り締める。
「……前にいる」
同じ瞬間、斥候とロイもすぐに武器を構えた。
「……来るぞ!」
暗い通路の先から、いくつもの影が現れる。
前には魔物。
そして後ろからは、依然として戦いの音が聞こえている。
(まずい……挟まれる!)
ヘルマンの脳裏に最悪の光景が浮かぶ。
しかし、考えている時間もなかった。
「止まるな! 近いヤツから――」
言い終わる前だった。
何かが、真横を一瞬で駆け抜けた。
直後、凄まじい音が響いた。
視界に映った魔物の群れが、次の瞬間には壁のシミと化していた。
硬い鱗を持つリザードマンも、鋭い牙を持つヴァルタイガーも、棍棒に叩き潰され、原型を留めていない。
その向こうに、タクミが立っていた。
返り血を浴びたタクミは、何事もなかったように棍棒を振って血を払った。
そのまま肩へ担ぎ直し、こちらを振り返る。
「……モウ、ダイジョウブ」
その言葉を聞いて、誰かが後ろを振り返った。
「…………」
何も来ない。そこで、ようやく気づいた。
背後から迫っていたはずの咆哮も、轟音も、いつの間にか消え失せていることに。
「まさか……」
誰かが呟き、それきり黙った。他の者たちも同じだった。
誰もがタクミを見ている。
――あの群れを、一人で止めたのか。
そんな彼らを見回して、タクミは深く息を吐いた。
「アト、チョット。ガンバロ」
言い終えると、タクミはさっさと背を向けた。
そのまま先頭に立って歩き始める。
しばらく誰も動かなかった。
やがてヘルマンが歩き出し、それにつられるように兵士たちも後を追った。
出口へ向かう足音だけが、通路に響いている。
さっきまでの騒ぎが嘘だったように、迷宮は静まり返っていた。
ヘルマンは少し前を歩くタクミの背中を見た。
そして誰に聞かせるでもなく、ただ呟いた。
「……人間か、あれは?」