――魔奔が起きた。
その報せがギルドに届いたのは、夕暮れ前だった。
――迷宮で魔奔発生。負傷者多数。
飛び込んできた伝令の報告に、広間が一気に騒がしくなった。
職員たちが立ち上がり、冒険者たちも何事かと振り返った。
その中を、バルドは重い外套を羽織って歩き出した。
「前哨基地へ行く。職員を五名つけろ」
短い命令に、誰も逆らえなかった。
返事を待つこともなく、バルドはギルドを出た。
◇
前哨基地に着くと、想像していた以上の騒ぎになっていた。
迷宮から戻ってきた冒険者が次々と運び込まれ、広場には負傷者が並んでいる。
薬師やギルド職員がその間を走り回り、あちこちから怒鳴り声が飛んでいた。
「そっちの重傷者を先に運べ!」
「包帯が足りない! 詰所から持ってこい!」
幸い、魔奔そのものはすでに収まっているらしい。
混乱の中で、バルドは職員を指で散らし、一人ひとりの顔を確かめていった。
やがて、石壁の陰に座り込む一団を見つける。
調査団――今日、迷宮へ入った面々だ。
揃って地面に座り込んでいる。怪我らしい怪我はほとんど見当たらないが、全員ひどく疲れていた。
「……生きて帰ったか」
バルドが低く呟くと、座り込んでいた学者が顔を上げた。
「ギルド長……っ、全員……なんとか……」
そこへ、詰所の方から鎧を軋ませて歩く男が現れる。
ヘルマンだ。
鎧には血と土がこびりつき、本人も相当に疲れているようだった。
それでもバルドを見つけると、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「ギルド長」
「状況は?」
「詳しい報告は明日にでも。今は簡単にですが――」
ヘルマンは一度、調査団の方を見た。
「上層で魔物の大群に遭遇しました。途中で完全に退路を塞がれましたが……死者はゼロです。全員戻っています」
「そうか。よく連れて帰ったな」
「……俺の力じゃありませんよ」
ヘルマンが苦い顔をする。
その反応に、バルドは何となく察した。
改めて調査団を見回して――眉を寄せる。
「……タクミはどこだ?」
ヘルマンが眉をひそめるより早く、後方でロイが手を上げた。
「タクミさんなら――」
一瞬、言葉を詰まらせ、苦笑した。
「"チョット ヨウス ミテクル"って言って……戻っていきました」
「どこへだ」
ロイが指さす先、いつもと変わらず迷宮の入口が開いていた。
バルドはしばし視線を止め、低く呟いた。
「……あいつは、いつもそうだ」
◇
翌朝。
灰鉄の門の執務室で、バルドは昨日の調査報告書を読んでいた。
向かいにはヘルマンが立っている。
窓辺の外では、冒険者たちが交代で報告を上げている。
どの顔にも疲労が刻まれていた。
バルドは何枚か紙をめくり、最後まで目を通す。
ヘルマンは背筋を伸ばして、無言でバルドを見据えていた。
紙をめくる音だけが、部屋に響いていた。
しばらくして、報告書を机へ置く。
そこでバルドは、ヘルマンを見上げた。
「……よく書けてる。被害状況も正確だ。……それで――お目当てのタクミはどうだった?」
ヘルマンの眉がぴくりと動いた。
しかし、すぐに顔をしかめて黙り込む。
その反応だけで、バルドには十分だったらしい。
鼻で笑い、紙束を机に置いた。
「中央にいたことがあるって言ったろ。考えることくらい分かる。今回の調査にかこつけて、タクミの実力を見てこいってところか」
ヘルマンは答えなかった。
「ついでに、使えそうなら中央へ引っ張りたい。そんなところだろ?」
ヘルマンは苦い息を吐く。
「……あの男は異常だ。俺は特級と呼ばれる連中を何人も見てきたが、あんな奴は見たことがない」
「……そうだろうな」
バルドは特に驚いた様子もなく答え、そのままヘルマンを見据えた。
「良心があるなら、報告はするな」
バルドは続ける。
「お前も身をもって体験したろう。
中央の連中は、こっちで何が起きてるかなんて、本当のところは分かっちゃいない。タクミがいなくなったら、誰が対処する」
その言葉に、ヘルマンはただ無言だった。
報告書を胸に抱え、黙って敬礼をする。
「……了解しました」
彼が部屋を出ていく背を、バルドは何も言わず見送った。
扉が閉まる。
一人になったバルドは、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
(……それだけじゃねぇな。守るしかねぇか。あいつを)
◇
ギルドを出たヘルマンは、大きく息を吐いた。
昨日の騒ぎが嘘のように、街はいつもの朝を迎えている。
荷車が石畳を走り、店先では商人が品物を並べていた。パンを焼く匂いもどこかから漂ってくる。
ふと視線を向けると、宿の前で見覚えのある背中があった。
タクミだ。
宿の前で、調査団の面々と話している。
昨日は全員、立っているのもやっとだったというのに、今日はもう笑い声まで聞こえてきた。
顔や腕に残った包帯だけが、昨日の出来事を思い出させる。
「元気なもんだな」
ヘルマンが近づくと、タクミが軽く顎を上げた。
「キイタ。 カエル?」
その問いに、ヘルマンは苦笑した。
「出直しだ。調査に使う高価な測定装置を、迷宮でなくしちまった」
隣の学者が肩を落とす。
「予算が……また吹き飛びますよ……」
タクミは少しだけ目を細めた。
「ソレ、ダイジ? ミツケル、テツダウ」
学者は慌てて手を振る。
「い、いえいえ! 命を助けてもらっただけで十分ですから!」
周囲から笑い声が上がった。
その様子を見ていたヘルマンは、ふっと表情を緩めた。
「お前のおかげで、全員生きて帰れた。感謝してる。次も頼むぞ、タクミ」
右手を差し出す。
タクミは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を和らげ、手を握り返した。
「……マタ テツダウよ」
すると、周囲の調査員たちも次々に手を差し出す。
タクミは一人ひとりの手を固く握り、照れたように頷いていく。
やがて調査団は荷をまとめ、馬車へと乗り込んだ。
最後に乗り込もうとしたヘルマンが振り返る。
「おい、次は……あの異常の原因を突き止めるぞ!」
タクミは静かに片手を上げた。
「……マッテル」
馬車が動き出す。
窓から学者たちが手を振り、タクミも小さく振り返した。
車輪の音が少しずつ遠ざかり、やがて街の向こうへ消えていく。
タクミはその場に残り、しばらく馬車が消えた方を見ていた。
やがて、迷宮の方角へと視線を向ける。
昨日、一度戻って確認した時には、すでに魔物の姿はほとんどなかった。
だが――あれだけの魔物が突然上層へ押し寄せた理由は、まだ分かっていない。
(……まだ、終わってない)
肩に担いだ棍棒が、ほんのわずかに震えた。