CYBERPUNK BREAK THE EDGE   作:ケーケーケー

3 / 3
AI利用です


第三部

第十一章 死神の足音

 

アダム・スマッシャーが動き始めた翌朝も、ナイトシティは普段と変わらなかった。

 

企業の広告が空を覆い、その下では昨夜の銃撃で開いた穴を誰かが踏み越えていく。ニュースは市内で起きた爆発をギャング同士の抗争として処理し、アラサカの関与には一言も触れなかった。

 

久世アキラは、マラの診療所でメインの検査結果を確認していた。

 

外したクロームによる拒絶反応はない。神経炎症も治まりつつある。外部から送り込まれた攻撃コードの痕跡も除去された。

 

「二十六日間は戦闘禁止だ」

 

アキラが念を押す。

 

ベッドに座ったメインは、軽量義手の指を動かしながら不満そうに答えた。

 

「二週間で十分だ」

 

「二十六日」

 

「俺の身体だぞ」

 

「だから止めてる」

 

「お前、日に日に遠慮がなくなってねえか?」

 

「仲間だからな」

 

メインが言葉を止めた。

 

照れを隠すように鼻を鳴らす。

 

隣では、ドリオが笑っていた。

 

「諦めなさい。アキラは言い出したら聞かないわ」

 

「お前はどっちの味方だ?」

 

「生きている方」

 

メインは反論できなかった。

 

その時、アキラの視界へ警告が表示された。

 

診療所から三ブロック離れた監視カメラが、同時に映像を失った。停電ではない。各機器が一秒ずつ時間をずらして停止している。

 

何者かが、こちらへ向かって監視網を消していた。

 

アキラは窓へ目を向ける。

 

道路を歩く人々が、一人、また一人と立ち止まる。視界に緊急避難命令が表示されたのだろう。何が起きるか知らないまま、企業の指示に従って路地へ逃げ込んでいく。

 

残された道路の中央に、黒い装甲車が止まった。

 

後部扉が開く。

 

鋼鉄の足が、アスファルトへ降りた。

 

「来たか」

 

アキラは立ち上がった。

 

「誰がだ?」とメイン。

 

答える前に、建物全体が震えた。

 

外壁を突き破り、一発の砲弾が診療所へ飛び込んでくる。

 

アキラは時間加速を使わなかった。

 

右手を伸ばし、砲弾を掴む。

 

信管が作動する寸前、内部の起爆回路を《ヘカテー》で焼き切った。勢いを失った砲弾が、手の中で音を立てて潰れる。

 

「裏口から出ろ」

 

アキラは振り返らずに言った。

 

「俺も戦う」とメイン。

 

「今のあんたでは足手まといだ」

 

「言ってくれるじゃねえか」

 

「だから、生きて戻って強くなれ」

 

ドリオがメインの肩を掴んだ。

 

「行くわよ」

 

「だが――」

 

「ここで残ったら、私があんたを担いで逃げる」

 

本当に実行すると分かっているからこそ、メインは口を閉じた。

 

マラと患者たちは、事前に用意していた地下通路へ避難する。原作を知るアキラが、この診療所を選んだ理由の一つだった。

 

最後にドリオが振り返る。

 

「死なないで」

 

「努力する」

 

「そこは言い切りなさいよ」

 

「死なない」

 

今度は、はっきり答えた。

 

診療所の正面扉が吹き飛ぶ。

 

炎と煙の向こうから、アダム・スマッシャーが現れた。

 

人間だった面影はほとんど残っていない。生身の脳と僅かな組織を、巨大な戦闘用義体が覆っている。

 

右肩にはミサイルランチャー。左腕には重機関銃。全身の装甲は、通常兵器では傷一つつけられない。

 

画面越しに見るものとは違う。

 

存在するだけで、空間が狭く感じられた。

 

「お前がオルフェウスか」

 

機械の目が赤く光る。

 

「アダム・スマッシャー」

 

「俺を知ってるらしいな」

 

「よく知ってる」

 

レベッカを押し潰した男。

 

デイビッドを殺した男。

 

ルーシーから、大切なものを奪った男。

 

ただし、その罪はまだ犯されていない。

 

未来の罪を理由に殺すつもりはなかった。

 

「退け。今日は戦う理由がない」

 

アキラの言葉に、スマッシャーが笑う。

 

「理由ならある。俺がお前を壊したい」

 

肩のミサイルが一斉に放たれた。

 

アキラの瞳が紫に染まる。

 

《クロノス》起動。

 

爆発が止まる。

 

アキラはミサイルの間を歩き、一本ずつ向きを変えた。すべての弾頭を上空へ向け、加速を解除する。

 

轟音。

 

十数発のミサイルが夜空で爆発し、炎の花を咲かせた。

 

その光の下で、アキラはスマッシャーの懐へ入っていた。

 

拳を振るう。

 

スマッシャーが両腕で防御する。

 

衝撃が装甲を貫き、二十メートル先の装甲車まで巨体を吹き飛ばした。

 

車体が潰れ、道路へ深い溝が刻まれる。

 

スマッシャーはすぐに立ち上がった。

 

両腕の装甲が割れている。

 

「いい」

 

機械の口から、笑い声が漏れる。

 

「いいぞ。久しぶりに、殺しがいのある肉だ」

 

「俺は肉か?」

 

アキラがコートの埃を払う。

 

「お前よりは多いと思うが」

 

スマッシャーの姿が消えた。

 

サンデヴィスタン。

 

通常の人間には認識できない加速で、アキラの背後へ回る。

 

巨大な拳が振り下ろされた。

 

アキラは振り向きもせず、片手で止めた。

 

「遅い」

 

スマッシャーの頭部を掴み、地面へ叩きつける。

 

アスファルトが陥没した。

 

さらに持ち上げ、今度は建物の壁へ投げる。三枚の壁を突き破り、スマッシャーの巨体が路地へ転がった。

 

戦闘というより、一方的な解体だった。

 

それでもアキラは追撃しなかった。

 

視界の端に、赤い警告が表示されている。

 

診療所の地下。

 

避難経路に仕掛けられた爆弾。

 

スマッシャーは最初から一人ではなかった。戦闘中にアキラが診療所へ注意を向けられないよう、工作員を潜入させていた。

 

『俺を追えば、地下の肉が死ぬ』

 

スマッシャーの通信が届く。

 

『助けに戻れば、俺は消える』

 

アキラは拳を握った。

 

スマッシャーを倒すことはできる。

 

だが、倒している間に患者たちが死ぬ。

 

最強であっても、二か所へ同時に存在することはできない。

 

「選べよ、英雄」

 

スマッシャーが立ち上がる。

 

傷ついた装甲の奥で、赤い目が愉快そうに輝いている。

 

アキラは診療所へ向かった。

 

「逃げるのか?」

 

「次は逃がさない」

 

「次があればな」

 

スマッシャーを乗せた装甲車が走り去る。

 

アキラは地下へ飛び込み、起爆まで残り二秒の爆弾を停止させた。

 

全員が生きていた。

 

戦いには勝った。

 

だが、敵を逃した。

 

メインの前でアキラは無敵だった。

 

銃弾も、ミサイルも、スマッシャーの拳も通じなかった。それでも守るべき人間を人質に取られれば、戦うことすらできない。

 

スマッシャーはそれを知った。

 

そして、アキラもまた知った。

 

一人ですべてを守る限り、同じ方法で何度でも止められる。

 

⸻

 

第十二章 裏切りの値段

 

アキラがスマッシャーと戦っていた頃、キーウィの個人回線には一本の通信が届いていた。

 

発信者はファラデー。

 

『予定が変わった』

 

「あなたの予定は、いつも直前に変わるわね」

 

『メインは使えなくなった。代わりにオルフェウスが入った。契約条件を見直す必要がある』

 

「報酬を上げる話なら聞く」

 

『報酬だけではない。君にはクルーを離れてもらう』

 

キーウィは煙草を灰皿へ押しつけた。

 

「断ったら?」

 

『アラサカへ君の居場所が伝わる』

 

空中に一枚の画像が表示される。

 

幼いルーシーと共に、アラサカの施設から脱出した直後の記録。キーウィが身分を偽装し、追跡データを書き換えた証拠だった。

 

ルーシーは、キーウィが直接救い出した子供ではない。

 

逃走中の彼女と偶然出会い、ネットランナーとして生きる方法を教えただけだ。

 

信じるな。

 

他人も、自分も。

 

それがキーウィの教えだった。

 

信頼は弱点になる。

 

裏切られた時に傷つくくらいなら、最初から誰も近づけなければいい。

 

『ルーシーを渡せ』

 

ファラデーが言う。

 

『そうすれば、君には新しい身分と十分な金を用意する』

 

「考えておく」

 

『賢い返事だ』

 

通信が切れる。

 

キーウィは背後へ拳銃を向けた。

 

「いつからいたの?」

 

「ファラデーが話し始めたあたりから」

 

暗がりからアキラが出てくる。

 

「盗み聞きとは、趣味が悪いわね」

 

「盗んでない。向こうから俺の監視網に入ってきた」

 

「便利な言い訳」

 

キーウィは銃を下ろさなかった。

 

アキラなら、引き金を引く前に彼女を殺せる。

 

それでも彼は動かない。

 

「私を始末する?」

 

「どうして?」

 

「裏切るかもしれない」

 

「まだ裏切ってない」

 

「これからするかも」

 

「その時に考える」

 

キーウィの目が細くなる。

 

「甘いわね。私を信じるの?」

 

「信じてない」

 

予想外の答えだった。

 

「俺は、あんたが怖がってることを信じる」

 

「……何を知ったようなことを」

 

「アラサカに見つかるのが怖い。ルーシーを守り続けるのも怖い。クルーを信じたあと、失うことも怖い」

 

「黙りなさい」

 

「だから、先に裏切る理由を探してる」

 

銃口がアキラの額へ触れる。

 

「それ以上言ったら撃つ」

 

「撃てばいい」

 

「避けるくせに」

 

「避けない」

 

キーウィの指が引き金へかかる。

 

アキラは動かなかった。

 

長い沈黙の後、キーウィは銃を下ろした。

 

「本当に嫌な男」

 

「よく言われる」

 

「私がファラデーへ情報を渡すと言ったら?」

 

「偽物を渡してもらう」

 

アキラは一枚のデータチップを差し出した。

 

中身には、ルーシーの行動記録と、アキラたちがミリテクのサイバースケルトンを奪う計画が入っている。

 

すべて偽情報だった。

 

「二重スパイをやれって?」

 

「嫌なら断っていい」

 

「断ったら、あなた一人で何とかする?」

 

「する」

 

「その結果、またスマッシャーを逃がす?」

 

アキラは答えなかった。

 

キーウィはチップを受け取る。

 

「勘違いしないで。あなたを信用したわけじゃない」

 

「それでいい」

 

「ルーシーにも話さない」

 

「好きにしろ」

 

「報酬は?」

 

「ファラデーから受け取れ」

 

キーウィは一瞬黙り、それから声を立てて笑った。

 

「本当に趣味が悪いわ」

 

彼女はファラデーへ連絡した。

 

『取引を受ける』

 

その瞬間から、裏切りは始まった。

 

ただし、誰を裏切るのかを知っているのは、キーウィとアキラだけだった。

 

⸻

 

第十三章 消せない過去

 

ルーシーは、仲間に隠れてアラサカのネットランナーを狩り続けていた。

 

田中の深層記憶に残っていたデイビッドの適合データ。

 

実験用サンデヴィスタンを使わなかったことで、アラサカは彼への興味を失うはずだった。

 

だが、逆だった。

 

装着していない状態でも高い適合率を示す少年。

 

久世アキラという規格外の存在と接触し、急速に戦闘技術を身につけている。

 

アラサカはデイビッドを、アキラの技術を解明する鍵だと考え始めていた。

 

ルーシーは、その記録を一つずつ消していた。

 

誰にも相談しなかった。

 

デイビッド本人にも、アキラにも。

 

原作と同じ行動だった。

 

変わったのは、見つける者がいたことだ。

 

廃墟の一室。

 

三人目のネットランナーを焼き、接続を切ったルーシーの背後にアキラが立っていた。

 

「やめろ」

 

ルーシーが振り返る。

 

「いつから?」

 

「最初から」

 

「だったら、どうして今まで止めなかったの?」

 

「自分で話すのを待ってた」

 

「話すことなんてない」

 

ルーシーは立ち上がり、接続ケーブルを片づける。

 

「デイビッドを守ってるだけ」

 

「そのためなら、一人で死んでもいい?」

 

「死ぬつもりはない」

 

「メインも同じことを言った」

 

ルーシーの手が止まる。

 

「一緒にしないで」

 

「同じだ。自分だけなら大丈夫だと思ってる」

 

「あなたに何が分かるの?」

 

声が震えていた。

 

「私がやらなきゃ、デイビッドが連れていかれる。あの施設へ。子供たちが次々に焼かれた場所へ!」

 

「分かってる」

 

「分かるわけない!」

 

モノワイヤーがアキラの頬を掠める。

 

一筋の血が流れた。

 

避けようと思えば避けられた。

 

アキラは動かなかった。

 

「あなたは強い。誰にも捕まらない。ネットへ潜っても焼かれない。だから、待っていれば助けてもらえると思える!」

 

「違う」

 

「何が違うの?」

 

「俺は、待てなかった」

 

ルーシーが息を止める。

 

「前の人生で、君たちが死ぬのを見た」

 

初めて、アキラは真実を口にした。

 

「デイビッドも、レベッカも、メインもドリオも。画面の向こうで死んだ。君だけが月へ行って、何も残らなかった」

 

ルーシーは動かなかった。

 

信じられるはずがない。

 

だが、アキラが知るはずのない過去を知っていた理由。起きる前の事故を予測し、メインの症状を見抜き、アラサカの計画を先回りできた理由。

 

すべてが、一つの答えへ繋がる。

 

「私たちは……物語だったの?」

 

「俺がいた世界では」

 

「じゃあ、私が何をするかも知ってた?」

 

「最初はな」

 

「どこまで?」

 

「君がデイビッドへ月を見せること。デイビッドを守るために一人で戦うこと。捕まること。そして、デイビッドが自分の命と引き換えに君を助けること」

 

ルーシーの顔から血の気が引く。

 

「今は違う」

 

アキラは続けた。

 

「グロリアは生きてる。メインとドリオも生きてる。デイビッドはサンデヴィスタンを入れていない。もう俺の知ってる未来じゃない」

 

「それでも、私が同じことをしたら?」

 

「止める」

 

「あなたに何の権利があるの?」

 

「ない」

 

即答だった。

 

「だから、頼む。一人で行かないでくれ」

 

命令ではない。

 

説得でもない。

 

ただの願いだった。

 

ルーシーは唇を噛み、顔を背けた。

 

「怖いの」

 

小さな声だった。

 

「デイビッドに話したら、あの子は自分からアラサカへ向かう。私を安心させるために、自分が大丈夫だって証明しようとする」

 

「それも変わった」

 

「どうして分かるの?」

 

「本人に聞けばいい」

 

扉が開いた。

 

廊下にデイビッドが立っていた。

 

アキラが呼んだわけではない。ルーシーの様子がおかしいことに気づき、自分で追ってきたのだ。

 

「全部聞いた?」

 

ルーシーが尋ねる。

 

「途中から」

 

「なら分かるでしょ。アラサカはあなたを――」

 

「分かった。でも、一人では行かない」

 

デイビッドはルーシーの前へ立った。

 

「俺は、君のために死なない」

 

ルーシーの瞳が揺れる。

 

原作のデイビッドなら言わなかった言葉。

 

「君と生きるために戦う」

 

「同じことでしょ」

 

「違う。死にそうになったら逃げる。勝てないなら助けを呼ぶ。君にもそうしてほしい」

 

デイビッドが手を差し出す。

 

「月へ行くんだろ?」

 

ルーシーはその手を見つめた。

 

「俺を置いて一人で行くなよ」

 

「……それ、私の台詞」

 

彼女は手を取った。

 

二人の指が重なる。

 

アキラは静かに部屋を出た。

 

もう、自分が間に立つ必要はない。

 

その直後だった。

 

《ヘカテー》が緊急警告を発する。

 

ルーシーの首筋にある旧式接続端子から、アラサカ製の休眠コードが起動した。

 

施設にいた頃、逃亡防止のため埋め込まれたもの。

 

十年以上、一度も反応しなかったコード。

 

ルーシーの身体から力が抜ける。

 

デイビッドが抱き止めた。

 

「ルーシー!」

 

アキラが振り返る。

 

窓の外から電磁パルス弾が撃ち込まれた。

 

《クロノス》と《ヘカテー》が一瞬停止する。

 

その一瞬を狙い、壁を破ってアラサカの回収部隊が突入した。

 

アキラは最初の兵士を殴り飛ばす。

 

だが、敵の狙いは戦闘ではない。

 

ルーシーの身体が遠隔操作され、自ら窓へ飛び出した。

 

外には航空艇が待っている。

 

デイビッドが手を伸ばす。

 

指先が触れる。

 

それでも掴めない。

 

ルーシーの身体が宙へ吸い上げられた。

 

「アキラ!」

 

デイビッドの叫びが響く。

 

アキラは飛び出そうとした。

 

同時に、建物下の道路へ大型車両が突入する。荷台に積まれているのは、ミリテク製サイバースケルトン。

 

その周囲には、避難させられていない市民がいた。

 

また選択を迫られた。

 

ルーシーを追うか。

 

落下する兵器から市民を守るか。

 

アキラは一瞬だけ目を閉じた。

 

今までなら、一人で決めていた。

 

「デイビッド」

 

「ああ!」

 

「ルーシーを追え」

 

「でも、下の人たちは!」

 

「俺が守る」

 

デイビッドは迷わなかった。

 

非常階段へ走り、駐車場に待機していたファルコへ連絡する。

 

レベッカとピラルも合流し、航空艇を追う。

 

アキラは窓から飛び降りた。

 

一人で全部を背負うのではない。

 

守るものを、仲間へ預けた。

 

⸻

 

第十四章 月を盗んだ男

 

ファラデーは、計画が成功したと信じていた。

 

ルーシーを確保し、サイバースケルトンをアキラの近くへ運び込んだ。

 

アキラが市民を守れば、ルーシーを連れ去れる。

 

ルーシーを追えば、サイバースケルトンが暴走し、多数の死者が出る。その責任をアキラへ被せることができる。

 

どちらを選んでも、アラサカが勝つ。

 

ただ一つ、ファラデーが計算へ入れていなかったものがある。

 

デイビッドたちは、もうアキラに守られるだけの存在ではなかった。

 

ファルコの車が高速道路を駆ける。

 

前方にはルーシーを乗せた航空艇。

 

「このままじゃ追いつけねえ!」

 

ファルコがアクセルを踏み込む。

 

「追いつかなくていい!」

 

助手席のデイビッドが答えた。

 

後部座席では、レベッカとピラルが武器を確認している。

 

「何か策あんのか?」とレベッカ。

 

「アキラなら、敵を倒すより先に敵が誰か見ろって言う」

 

デイビッドは航空艇ではなく、周辺の交通網を確認していた。

 

アラサカが正規の回収作戦を行うなら、航空艇はタワーへ直行する。だが、機体は海側へ進路を取っている。

 

ファラデーはルーシーを、直接アラサカへ渡すつもりではない。

 

別の場所で取引し、報酬を受け取るつもりだ。

 

「アフターライフの地下駐車場へ向かってる」

 

「どうして分かる?」とファルコ。

 

「この先、あの大きさの航空艇が降りられて、企業の監視が届かない場所は三つ。そのうち二つは昨日から工事中だ」

 

アキラの訓練で覚えた情報だった。

 

「先回りできる道は?」

 

「次を左。その先の搬送用トンネル!」

 

ファルコがハンドルを切る。

 

車がガードレールぎりぎりを滑り、側道へ飛び込んだ。

 

「いい指示だ!」

 

一方、航空艇の内部。

 

ルーシーは拘束椅子へ固定されていた。

 

正面にファラデーが座り、その隣にはキーウィがいる。

 

「残念だったな」とファラデー。「君の王子様は来ない」

 

ルーシーは何も答えない。

 

「オルフェウスは市民を選んだ。デイビッド・マルティネスには、君を助ける力がない」

 

「あなた、人を見る目がないね」

 

「何?」

 

「だから、いつも他人を裏切ることしか考えられない」

 

ファラデーの眉が動く。

 

キーウィが端末を操作した。

 

「取引地点を変更する」

 

「なぜだ?」

 

「追跡を受けている可能性がある」

 

「オルフェウスはサイバースケルトンへ釘づけだ」

 

「彼一人とは限らない」

 

もっともな説明だった。

 

ファラデーは頷き、新しい座標を確認する。

 

その瞬間、航空艇の扉が開いた。

 

警告音。

 

「何をした!」

 

「裏切ったのよ」

 

キーウィが銃を抜く。

 

ファラデーより早く、護衛二人の頭部を撃ち抜いた。

 

ルーシーの拘束が解除される。

 

「どうして?」

 

「金払いが悪かったから」

 

「嘘」

 

「なら、アキラの趣味が悪かったから」

 

キーウィがデータチップを投げる。

 

アラサカの施設でルーシーへ埋め込まれた休眠コード。その完全な解除プログラムだった。

 

「私は誰も信じない」

 

キーウィはファラデーへ銃を向けたまま言う。

 

「でも、信じないことと、売り渡すことは同じじゃない」

 

航空艇が大きく揺れる。

 

側面へ車が衝突した。

 

ファルコが搬送用ランプから車体ごと飛び、空中の航空艇へ体当たりしたのだ。

 

後部ドアが開く。

 

「ルーシー!」

 

デイビッドが飛び移る。

 

足場が揺れ、身体が宙へ投げ出される。それでも扉の縁を掴み、車内へ這い上がった。

 

ルーシーが彼の腕を引く。

 

「遅い」

 

「これでも急いだ!」

 

二人が抱き合う。

 

レベッカとピラルも続いて飛び移った。

 

「感動の再会はあと!」レベッカが叫ぶ。「この飛行機、落ちてる!」

 

ファラデーは混乱の隙に非常脱出装置を起動していた。

 

一人だけパラシュートで離脱する。

 

「逃げた!」

 

ピラルが身を乗り出す。

 

「追わなくていい」とキーウィ。

 

彼女はファラデーの端末から、アラサカとの取引記録を抜き取っていた。

 

「逃げた先を、アキラに送った」

 

ルーシーがキーウィを見る。

 

「最初から?」

 

「途中から」

 

「裏切ったふりをしてたの?」

 

「勘違いしないで。半分くらいは本気で迷ってた」

 

キーウィは視線を逸らす。

 

ルーシーはそれ以上問い詰めなかった。

 

ただ、短く言った。

 

「ありがとう」

 

キーウィの動きが止まる。

 

「そういうの、やめて」

 

「どうして?」

 

「次も助けたくなる」

 

墜落する航空艇を、ファルコが車で押す。

 

通常なら全員まとめて地上へ落ちる状況だった。

 

だが機体の制御系が突然復旧した。

 

アキラから遠隔接続が入ったのだ。

 

『全員いるか?』

 

「ルーシーを確保した!」とデイビッド。

 

『怪我は?』

 

「ない!」

 

『なら、そのまま着陸しろ。俺もすぐに――』

 

通信へ激しい衝撃音が混じった。

 

デイビッドの表情が変わる。

 

「何があった?」

 

一瞬の沈黙。

 

『スマッシャーが来た』

 

⸻

 

第十五章 空から落ちるもの

 

ミリテク製サイバースケルトンは、無人のまま暴走していた。

 

本来は装着者の神経信号で動く兵器だ。だがアラサカは外部制御装置を追加し、市街地へ向けて重力兵器を起動させていた。

 

車両が浮き上がる。

 

建物の外壁が剥がれ、逃げ遅れた人々が空へ引き寄せられる。

 

アキラは《ヘカテー》で制御系へ侵入しながら、落下する人々を一人ずつ救っていた。

 

同時に数百の処理を行う。

 

脳内温度が上昇する。

 

冷却血液が限界へ近づき、視界へ警告が重なる。

 

それでも、止めなかった。

 

最後の子供を母親のもとへ下ろした時、背後から砲弾が直撃した。

 

アキラの身体が建物を突き破る。

 

瓦礫の中から立ち上がると、上空にアダム・スマッシャーがいた。

 

「今度は、守る肉が多いな」

 

「わざわざ待っていたのか?」

 

「弱ったお前を壊す方が楽しい」

 

「前より小物に見えるぞ」

 

スマッシャーの肩部ランチャーが開く。

 

アキラも構えた。

 

だが、遠くから無数の銃弾がスマッシャーへ飛んだ。

 

一発も装甲を貫けない。

 

それでも、赤い巨体の注意を引くには十分だった。

 

「おい、鉄屑!」

 

着陸した航空艇の上で、レベッカが二丁拳銃を構えている。

 

「こっち見ろ!」

 

スマッシャーの視線が彼女へ向いた。

 

アキラの中で、記憶と現実が重なる。

 

空から落ちてくる鋼鉄。

 

逃げずに銃を撃つレベッカ。

 

地面へ広がる血。

 

同じ場面だった。

 

スマッシャーが落下する。

 

レベッカは退かなかった。

 

「今度は当てたぞ!」

 

弾丸が赤い目の一つへ命中する。

 

装甲表面に小さな傷がついた。

 

それだけだった。

 

鋼鉄の巨体が、彼女を押し潰そうと迫る。

 

アキラは《クロノス》を限界まで起動した。

 

時間が完全に停止する。

 

冷却系が悲鳴を上げる。

 

人工血液が沸騰し、皮膚の下で血管が裂ける。

 

それでも走った。

 

レベッカとスマッシャーの間へ入る。

 

落下する巨体を両腕で受け止めた。

 

時間が戻る。

 

地面が大きく陥没する。

 

衝撃だけで周囲の窓が砕けた。

 

だが、レベッカは立っていた。

 

アキラの背後で、一滴の血も流さずに。

 

「言っただろ」

 

アキラはスマッシャーを持ち上げる。

 

「空から落ちてくるなら、落ちる前に撃ち落とす」

 

全力で投げた。

 

鋼鉄の巨体がアラサカ・タワー方向へ飛ぶ。

 

途中の無人ビルへ衝突し、建物ごと崩れ落ちた。

 

「アキラ!」

 

ルーシーたちが駆け寄ってくる。

 

デイビッドはアキラの腕から流れる血を見た。

 

初めて見る傷だった。

 

「怪我してるじゃないか」

 

「冷却系を少し焼いた」

 

「少し?」

 

「三割ほど」

 

「それを少しって言うな!」

 

デイビッドが肩を貸そうとする。

 

アキラは断らなかった。

 

「サイバースケルトンは?」とルーシー。

 

「外部制御を切った。もう動かない」

 

「なら逃げよう」とキーウィ。「スマッシャーを倒す必要はない」

 

正しい判断だった。

 

アキラ一人なら戦える。

 

しかし周囲には仲間がいる。市民もいる。損傷した状態で戦えば、今度こそ誰かを守りきれない可能性がある。

 

撤退すべきだった。

 

瓦礫が吹き飛ぶ。

 

アダム・スマッシャーが立ち上がった。

 

頭部装甲が割れ、右腕が動かなくなっている。それでも残った左腕の重機関銃は、デイビッドたちへ向けられていた。

 

「逃がすと思うか?」

 

銃身が回転を始める。

 

アキラが一歩前へ出た。

 

その肩を、デイビッドが掴んだ。

 

「一人で行くな」

 

「今の君たちでは――」

 

「勝てない。分かってる」

 

デイビッドは認証キーを取り出す。

 

メインから預かったものだった。

 

「だから、俺たちは勝つために戦わない」

 

ルーシーが周辺ネットワークへ接続する。

 

キーウィが反対側から侵入を開始。

 

ピラルが電波妨害装置を展開し、ファルコは市民を乗せて退避経路を走る。

 

レベッカは弾倉を交換した。

 

ドリオから通信が入る。

 

『北側の道路は確保した。メインもいる』

 

『俺は休業中だ!』と背後でメインの声がする。『戦ってはいねえ! 道を塞いだだけだ!』

 

「十分だ」とデイビッド。

 

誰も、スマッシャーを倒そうとはしていない。

 

アキラが戦える場所を作ろうとしている。

 

「三十秒稼ぐ!」とデイビッド。「その間に直せるか?」

 

アキラは損傷状況を確認した。

 

冷却系統を切り替え、予備循環器へ接続。破損した人工筋肉を遮断し、使用可能な部位へ出力を集中する。

 

「二十秒でいい」

 

「強がってないか?」

 

「君ほどじゃない」

 

デイビッドが笑う。

 

「じゃあ二十秒だ!」

 

スマッシャーが発砲する。

 

ルーシーとキーウィが照準システムへ侵入し、銃口を僅かに逸らす。レベッカが残った光学センサーを狙い、ピラルが動作センサーへ偽情報を流す。

 

デイビッドは走った。

 

サンデヴィスタンはない。

 

重装甲もない。

 

それでも遮蔽物を使い、射線を読み、決して同じ方向へ二度動かない。

 

アキラが教えたことを、すべて使っている。

 

十五秒。

 

スマッシャーがルーシーたちの侵入を遮断する。

 

十七秒。

 

レベッカの銃が弾切れになる。

 

十九秒。

 

スマッシャーの左腕がデイビッドを捉える。

 

二十秒。

 

アキラが、その腕を掴んだ。

 

「交代だ」

 

冷却系統、正常。

 

クロノス、再起動。

 

ヘカテー、完全接続。

 

バーサーク、出力上限解除。

 

アキラの全身で、三つのOSが同時に動く。

 

「ここからは俺がやる」

 

⸻

 

第十六章 最強

 

最初の一撃で、スマッシャーの左腕が消えた。

 

アキラの拳が装甲を貫き、肩部の接続機構ごと引き千切った。

 

スマッシャーが頭部レーザーを放つ。

 

アキラは顔を僅かに動かして避け、額へ掌を置いた。

 

「遅い」

 

地面へ叩きつける。

 

装甲が割れる。

 

スマッシャーは脚部スラスターを起動し、至近距離から体当たりを仕掛けた。

 

アキラは真正面から受け止める。

 

二人の足元から亀裂が走り、道路が崩れる。

 

力は拮抗していない。

 

アキラは押し返し、膝蹴りで胸部装甲を砕いた。

 

内部の生命維持装置が露出する。

 

「あり得ん」

 

スマッシャーの声から、初めて笑いが消えた。

 

「肉が、機械を超えるはずがない」

 

「俺の身体も大半は機械だ」

 

「なら、俺と同じだ」

 

「違う」

 

アキラはスマッシャーの胸部へ手を入れた。

 

「俺は、機械になっても人間でいることを選んだ」

 

生命維持装置を引き抜くのではなく、戦闘義体との接続だけを切断する。

 

スマッシャーの巨体が動きを止めた。

 

残された生体部品は死んでいない。

 

だが、もう指一本動かせない。

 

「殺せ」

 

スマッシャーが言った。

 

「断る」

 

「情けか?」

 

「罰だ」

 

アキラは機械の目を見下ろした。

 

「お前はこれから、自分より強い人間に負けた事実を抱えたまま生きる」

 

「俺は人間じゃない」

 

「だから負けた」

 

スマッシャーの視界を停止させる。

 

最強と呼ばれたアラサカの怪物は、誰一人殺すことなく敗北した。

 

静寂が訪れる。

 

デイビッドたちが近づいてくる。

 

レベッカは動かなくなったスマッシャーの頭部を蹴った。

 

「こいつ、本当に死んでない?」

 

「生きてる」

 

「もう一発撃っていい?」

 

「駄目だ」

 

「一発だけ!」

 

「駄目だ」

 

「ケチ!」

 

ルーシーは、アキラではなくデイビッドを見ていた。

 

傷はある。服も破れている。

 

それでも生きている。

 

「無茶しないって言ったよね」

 

「逃げ道は確認してた」

 

「捕まりかけてた」

 

「十九秒までは予定どおりだった」

 

「一秒余計」

 

ルーシーがデイビッドの胸へ額を押しつける。

 

デイビッドは、彼女の背中へ腕を回した。

 

「ごめん」

 

「次は私にも話して」

 

「ああ」

 

「一人で決めないで」

 

「分かった」

 

「絶対?」

 

「絶対」

 

アキラは二人から視線を外した。

 

原作では、この場所に似た広場で、デイビッドはルーシーをファルコへ託した。

 

自分は残り、スマッシャーへ立ち向かった。

 

今度は誰も残らない。

 

全員で帰る。

 

遠くから車のエンジン音が近づく。

 

ファルコが避難者を安全な場所へ送り届け、戻ってきた。

 

助手席にはメイン。

 

後部座席にはドリオとグロリアがいる。

 

「休業中じゃなかったのか?」とアキラ。

 

「戦いには来てねえ」

 

メインが車を降りる。

 

「家族を迎えに来ただけだ」

 

デイビッドが認証キーを投げ返す。

 

メインは新しい右手で受け取った。

 

「仕事は?」

 

「全員、生きてる」

 

デイビッドが答える。

 

メインは周囲を見た。

 

ルーシー、レベッカ、ピラル、キーウィ、ファルコ、ドリオ、グロリア、アキラ。

 

誰も欠けていない。

 

「なら成功だ」

 

メインは認証キーをポケットへ入れた。

 

「帰るぞ」

 

その一言で、戦いは終わった。

 

⸻

 

第十七章 ナイトシティの敗北

 

ファラデーは、市外へ逃げようとしていた。

 

アラサカとの取引記録はキーウィに奪われ、ルーシーの引き渡しにも失敗した。スマッシャーとの通信も途絶えている。

 

残された選択肢は、偽造身分で国境を越えることだけだった。

 

ガレージへ入る。

 

用意していた車の前に、アキラが立っていた。

 

「どうしてここが……」

 

「キーウィが教えた」

 

ファラデーは銃を抜く。

 

アキラは動かない。

 

「待て。取引しよう」

 

「何を売る?」

 

「アラサカの内部情報だ。お前を狙った部署、研究責任者、資金の流れ。全部渡す」

 

「それで?」

 

「俺を逃がせ」

 

「断る」

 

「なら殺すのか?」

 

アキラはファラデーの前へ、一台の端末を置いた。

 

画面には、彼が切り捨ててきた傭兵たちの記録が映っている。報酬を払わず、企業へ売り、証拠を消すために殺させた人々。

 

「死ねば楽になれると思うな」

 

「何をするつもりだ?」

 

「全記録を公開する」

 

ファラデーの顔が引きつる。

 

企業、ギャング、傭兵、フィクサー。

 

彼が裏切ったすべての相手へ、居場所と罪の証拠が送信される。

 

「待て!」

 

「ナイトシティで、自分のやったことから逃げ続けろ」

 

送信が完了した。

 

アキラはファラデーの武器だけを破壊し、背を向けた。

 

その後、ファラデーがどうなったかを知る者はいない。

 

誰かに殺されたという噂もある。

 

顔と名前を変え、街の下層で怯えながら生きているという噂もある。

 

アキラは確かめなかった。

 

彼の物語は、もう自分たちには関係ない。

 

アラサカは、スマッシャーの敗北を隠蔽した。

 

正式発表では、大規模なギャング抗争によって所有施設の一部が損傷したことになっている。

 

しかし、裏社会では真実が広がった。

 

アダム・スマッシャーを倒した男。

 

アラサカの部隊を退け、死者を一人も出さなかったクルー。

 

オルフェウスとエッジランナーズ。

 

アフターライフでは、彼らの名を知らない者はいなくなった。

 

それでも、アキラは専用の酒を注文しなかった。

 

カクテルへ名前をつけられるのは、死んだ伝説だけだからだ。

 

「生きてるうちは、水で十分だ」

 

バーテンダーへそう答えると、レベッカが横から割り込んだ。

 

「つまんねえ! 一番強いやつ頼めよ!」

 

「前に飲ませただろ」

 

「あれは消毒液だった!」

 

「似たようなものだ」

 

カウンターの向こうでメインが笑う。

 

治療を終えた彼は、以前より一回り小さくなっていた。

 

武器も減った。

 

だが、表情は穏やかだった。

 

ドリオと共にクルーへ戻ったものの、以前のように危険な依頼を続けるつもりはないらしい。

 

ファルコは運転を担当し、ピラルとレベッカは相変わらず騒がしい。

 

キーウィは一度クルーを離れた。

 

数週間後、何事もなかったように戻ってきた。

 

誰も理由を聞かなかった。

 

ルーシーだけが、彼女の席へ新しい煙草を置いた。

 

デイビッドはアカデミーへ戻らなかった。

 

代わりに、ネットワーク工学と救急医療を学び始めた。仕事へ出ない日はグロリアの手伝いをし、負傷した傭兵を治療する。

 

戦う才能はある。

 

だが、それだけを使う必要はないと知った。

 

「俺、何になりたいんだろうな」

 

ある夜、デイビッドはアキラへ尋ねた。

 

「知らない」

 

「そこは何か言ってくれよ」

 

「誰かに決めてもらわないと困るのか?」

 

「そういうわけじゃないけど」

 

「なら、ゆっくり決めろ」

 

アキラは夜空を見上げた。

 

「時間はある」

 

原作のデイビッドには、与えられなかったものだった。

 

⸻

 

終章 月に立つ二人

 

半年後。

 

月面都市の展望施設に、二人の影が立っていた。

 

ルーシーはヘルメット越しに地球を見る。

 

かつてブレインダンスで見た景色と、よく似ている。

 

だが、足元の感触も、宇宙服の重さも、隣にいる人間の呼吸も、偽物ではない。

 

「本当に来たな」

 

デイビッドが言う。

 

「時間かかりすぎ」

 

「半年だぞ」

 

「初めて会った時から数えたら、もっと」

 

「その頃から一緒に来るつもりだったのか?」

 

「まさか」

 

ルーシーが笑う。

 

その笑顔を、デイビッドは初めて見たような気がした。

 

悲しみも恐怖も隠すためではない。

 

ただ嬉しいから笑っている。

 

「アキラも来ればよかったのに」

 

「高いところは苦手らしい」

 

「嘘でしょ」

 

「俺たちの時間を邪魔したくないんだってさ」

 

ルーシーは地球へ目を向ける。

 

ナイトシティは、ここからでは見えない。

 

あれほど巨大だったアラサカ・タワーも、街を覆っていた広告も、誰かの人生を決めていた企業も、青い星の表面にある小さな点でしかない。

 

「ねえ、デイビッド」

 

「何?」

 

「次はどこへ行く?」

 

原作では、月が終着点だった。

 

一人で辿り着き、失った人を思い出す場所。

 

今は違う。

 

ここから先を選ぶことができる。

 

「火星は?」

 

「遠すぎ」

 

「ヨーロッパ?」

 

「寒い」

 

「じゃあ、ナイトシティへ帰る?」

 

ルーシーは少し考えた。

 

「あそこには、みんないるから」

 

「うん」

 

「仕方ないね」

 

二人は並んで歩き出す。

 

同じ頃、ナイトシティ。

 

モーテルの屋上で、アキラは月を見上げていた。

 

隣にはレベッカがいる。

 

「今頃、いい感じになってんだろうな」

 

「覗くなよ」

 

「お前じゃあるまいし、月までハッキングできねえよ」

 

「できるならやるのか?」

 

「当然!」

 

階下からメインの声が聞こえる。

 

夕食ができたらしい。

 

グロリアとドリオが料理を並べ、ピラルがつまみ食いをして殴られている。ファルコは酒を持ち込み、キーウィは煙草を吸おうとして窓際へ追いやられていた。

 

誰も死んでいない。

 

誰も欠けていない。

 

アキラは長い間、その光景を見つめた。

 

前世で見た物語は、悲劇として完成されていた。

 

だからこそ美しかったのかもしれない。

 

だが、現実に生きる彼らへ、物語としての美しさなど必要ない。

 

格好悪くてもいい。

 

夢を諦めてもいい。

 

途中で逃げても、誰かへ助けを求めてもいい。

 

生きてさえいれば、続きを選べる。

 

「何笑ってんだ?」

 

レベッカが尋ねる。

 

「笑ってない」

 

「笑ってた!」

 

「気のせいだ」

 

「ルーシーに写真送ろっと。鉄面皮が笑ってます、って」

 

アキラが端末を奪おうとする。

 

レベッカは甲高い笑い声を上げ、屋上を逃げ回った。

 

階下からドリオが二人を呼ぶ。

 

メインが笑う。

 

グロリアが皿を追加する。

 

月から、デイビッドとルーシーの写真が届く。

 

ナイトシティは、その夜も変わらず誰かを呑み込んでいた。

 

それでも、彼らのいる場所だけは違った。

 

この街が奪おうとした命を、すべて奪い返した。

 

伝説になるために死ぬ者はいない。

 

彼らは生きたまま、伝説を越えた。

 

そして久世アキラはようやく理解した。

 

自分がこの世界へ来た理由など、最後まで分からない。

 

だが、何のために生きるのかは、自分で決められる。

 

悲劇を覆すためだけではない。

 

救った者たちと、明日を生きるために。

 

月の光が、ネオンに汚れた街へ降り注ぐ。

 

決して変わらないはずだった物語は、そこで静かに終わった。

 

彼らの人生は、そこから始まった。

 

完

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。