湿り気を帯びた重い空気が、コート越しにスーツにまで染み込んで来て違和感を生む。
空気に含まれた過剰な水分は、濃密な霧となって視界をさえぎり、肌にまとわり付く。
潮の香り。そこに微かな、しかし確かに混ざる鉄の臭い。
かつて「血霧の里」と呼ばれ、同胞同士で殺し合いを強要された我が故郷は、今もなお暗い停滞の空気の中に沈んでいた。
この里を支配する、四代目水影の橘ヤグラ。
三尾の人柱力で、その力を使いこなして若くして水影になり、そして突然、過剰なまでの恐怖政治を敷くようになった男。
しかしそれが、うちはオビトによる洗脳のせいだと判明した。
オビト亡き後、その洗脳はどうなったのか? 解けたのか、解けていないのか。
解けていたとしたら、ヤグラはどうするつもりで、今どういう状態なのか?
それを直接確かめるために、私はイタチさんと共に、かつて離れた故郷の土を、再び踏みしめていた。
里を裏切った者、不利益をもたらした者、失敗した者、その疑いのある者……
その全てを軌って、斬り捨てて、何のためかも分からなくなって離れた、故郷の土を。
「懐かしいものも、おぞましいものも、全てがそこにある*1、ですか」
出掛けに、うちはの例の男がそんな事を言っていたのを思い出す。故郷とは、そういうものだと。
「ああ、言っていたな、そんな事も。おかげで嫌な予感しかしない」
久々の故郷は変化が無かったが、帰郷した私の方はだいぶん変わってしまった。
まず格好からして、今の私と隣に立つイタチさんが身に纏っているのは、忍びの漆黒の装束ではない。
ビシッと折り目のついた、紺色のビジネススーツに、ベージュのコートである。
というか、最近うちはの里で忍者装束の忍びを見た記憶が無い。
「理想の世界、か。そこまで大きくは無いが、理想の里なら今、俺たちは作っているぞ。お前も一緒に作らないか?」
戦いの中で、そう語ったイタチさんから差し出された手を、私は取った。
奇妙な縁を感じたのもありますが、何より戦いが絶望的すぎましたからねえ……
鮫肌のチャクラを削る能力は、幸いスサノオにも有効でしたが多勢に無勢が過ぎましたよ。
二十体以上のスサノオは、今でも反則だと思っています。
まあ、付いてきた結果は悪いものではありませんでしたけども。
でも理想の里ってこういうものなんでしょうか?
どんどん忍びの隠れ里という概念から離れたナニカに、日々変わっていっているんですが。
スーツや作業着の忍びたち。交わされる名刺とアイサツと書類。
妙に整った形式の報告書と、日々こなれていく作業システム。
平和に金が稼げている。かつてのそれとは全く違って、仕事をしているという達成感ややりがいもある。
でもなんかコレジャナイ感じが!
ネクタイの結び目を少し緩めたい衝動に駆られながら、私は背中に背負った鮫肌の柄をさすった。
包帯に巻かれた忍刀だけが、私がかつて忍びであった証のように重い。
いやいや忍び忍び! 私は今も現役の忍者ぁ!!
「落ち着け、鬼鮫。我々の目的はあくまで『調査』と『状況の確認』だ」
全く別の事情で動揺した私を気遣って、イタチさんが声をかけてくれた。
私をスカウトした人という経緯もあって、うちはの里に入ってからずっと、こうして気にかけてくれている。
実にありがたいのだが、今のはちょっと違うんですよ……
でも「一瞬、忍者なのを忘れてました」とか正直に言っても誰も幸せにならないので、流れに乗る事にしました。
「分かっていますよ、イタチさん。 ……ですがね、この里の空気は、どうにも肌に合わない」
何とか真面目な空気に戻せただろうか。
そんな精神的な安堵とは逆に、色々な意味で足と体が重い。それを前に押し出すように動かして、霧隠れの里へと潜入した。
霧隠れの里は、山々に囲まれた深い谷間と、切り立った崖の合間に広がる一帯に作られた、まさに隠れ里だ。
しかも霧の発生条件を満たしやすく、その全貌を見渡せる晴れわたった日というのは、数えるほどしか記憶に無い。
建物は円柱状が多く、石やコンクリートで出来ている。木材だとどうしても湿気でダメになってしまうからだ。
そんな建物の壁は、だいたいツタやコケで覆われている。あいつらはいつの間にか、自然に生えてくる。
高低差の大きい地形を、塔やドームが埋めていて、それらを複雑な通路がつなぎ、隙間にはいくつもの水路が流れる。
昼間でも薄暗い霧の中で、ぼんやりといくつもの街灯が光る。
「水路が多いだけあって、橋も多いんですよ。技術のコピー元、もとい師匠として橋造りの職人を招いてもいいかもしれませんね」
軽く観光案内のマネをしながら、イタチさんに里を案内した。
かつて幼い頃に駆け抜けた狭い抜け道。こっそり水面歩行の修行をした池。初めて酒を飲んだ店。
(圧政と情報統制で息苦しかったが、確かにそれだけではなかったな)
確かに、おぞましいものだけではなく、懐かしいものもここにはあった。
その懐かしきツテを辿って、私は反体制側へと連絡を取った。
かつてのアカデミーの同期で、反体制側へ走って、まだ指令が来なかったのと、たまたま出会う事も無く斬っていなかったという、かなり微妙なツテだが、連絡は取れたし、合流も出来た。
うちはの里で学んだビジネスマナーがこの上なく役に立ったのが、イマイチ引っかかりますが、まあ、それはいいでしょう。うまくいったんですから。
そして、事態は急転直下する。
「は? 橘ヤグラが、 自首 した?」
洗脳が解け、正気に戻ったヤグラは、己の犯した殺戮と暴政の記憶に打ちのめされ、なんと自首の形で拘留されているというのだ。
すいません、水影って里のトップなんですけど、どこの誰に自首したんですか?
そんな疑問が頭に浮かんだが、聞きだせるような空気ではありませんでした。
長年溜まりに溜まった霧隠れの里の忍びや、住民たちの怒りが爆発していました。
情報が出回ったのか、私たちが里に足を踏み入れたときの静けさは何だったのかという程、里が騒がしくなっている。
「四代目水影を糾弾せよ!」
「血霧の惨劇の責任を取らせろ!」
「父を返せ! 母を返せ! 家族を、友を返せ!」
これはマズい。
そう思った反体制派は、幹部を集めて会議を開いた。なぜか私たちも参加を願われて、了承した。
「このままだと、暴動待ったなしね」
反体制派―― いや、もう体制の側というか、ヤグラが失脚したので、改革派とでも呼びましょうか。
改革派のリーダーの照美メイが、口火を切った。
それになぜか真っ先に答えたのは、イタチさんだった。
「ならば打てる手は2つ。公開処刑か、その前に裁判をするかだ」
「裁判?」
片目を隠した改革派の幹部の、青という男がいぶかしげに言い、イタチさんは肩をすくめてこう言った。
「民意がここまで高まってしまったんだ。ガス抜きしなければどうしようもないだろう?
裁判という形式で、あらいざらいブチまけてしまえ。いっそ爽快かも知れんぞ?」
『なんだか、あの男に似てきましたね』
この言葉は、言いたかったですが胸にしまっておきました。
そして勢いづいた民衆を抑えるべく、改革派によって急ごしらえながら「特別大裁判」が開かれることとなり。
なぜか外部の監察役として、我々もその法廷へ立ち会う羽目になったのでした。
「まさか、こんな形で再び故郷の長と対面することになるとは」
裁判所として使われる事になった、巨大な石造りの講堂。そこは、殺気と憎悪の混ざった熱気が充満していました。
当たり前だろう。傍聴席には、家族や仲間を奪われた霧隠れの忍びや民たちが詰めかけているのだから。
罵詈雑言やヤジが飛んでいないだけ、マシというもの。
だがそれが一切無いというのも、オカしな話だ。
それだけ恨みが深いのか。それとも、抑えつけられ続けて、声の出し方を忘れてしまったのか。
証言台に立たされた四代目水影 橘ヤグラは、その重苦しい無数の視線にさらされている。
それらの視線を前に、幼い少年のような小柄な体を丸め、ただ黙って頭を垂れていた。
私とイタチさんは、原告側の告発人席の近くに立ち、その光景を見下ろしていた。
私の心の中に渦巻いていたのは、里を捨てた者としての冷めた感情…… だけではなかった。
裏切りに次ぐ裏切り。同胞殺しの命令。里の情報を守るために、仲間を切り捨てさせられたあの地獄。
そのすべてが、あの台の上にいる小柄な男の意図――――あるいは、操られた糸によって引き起こされていたのだという事実が、私の腹の底でじわじわと熱い鉄のように焼けついていた。
その熱が形を持って、私の口から叫びとなって飛び出そうとした時だ。
不意に、講堂の重い扉がギギギと嫌な音を立てて開いた。
「異議あり! ……あ、失礼。まだ裁判始まってませんね。ならそれはそれでオッケー!」
シーーーーーーン
あまりの場違いな登場に、場の空気が凍った。
『オッケーじゃないが。空気読め空気』
そんな心の声が、講堂の人間全てから聞こえた気がした。もちろん私も思った。
しかしこれはマズい。あれは、あの男は。
先ほど場内に響き渡った、あまりに緊張感のない爽やかな声。
スーツ姿にアタッシュケースを抱え、息を切らしながら入ってきたあの男は――
見間違えるはずもない。我が社の特別顧問、あの例の男だった。
「……どうして あの男が ここにいるの です か?」
イタチさんが珍しく、あからさまに嫌そうな顔で眉間を押さえた。
なぜか、見知らぬ外国語を翻訳したかのような不自然な敬語で棒読みだった。
そして、例の男は講堂の空気など知ったことかと、マイペースで語りだした。
「いやあ、間に合って良かった! 湯の国から神威で飛ぼうにも、霧隠れって来た事ないですし! 入るツテも無いってね! でも仕事ですからねえ~……
この度、被告人 橘ヤグラ氏より、事前にお電話(伝心番の術)にて正式に弁護依頼をいただきましたうちはの特別顧問です。どうぞよろしく」
ガタッ!!
原告席の照美メイがイスを倒さんばかりの音を立てて、立ち上がる。
その額には青筋が見えた。
「な、なんですって!? 外部の、しかも『うちは』の者が何の真似ですか! これは我が霧隠れの内部問題です!」
ホントにね。聞いてないんですけどね。報告連絡相談のホウレンソウとは何だったのか。
いや、ホント聞いてないんですよ。だからメイさん「お前らもグルか!?」と、こちらを睨まないで。
特別顧問も、なんか言って。
「いいえ、我が社は国際コンサルティング機関でもあり、ご依頼いただいた以上は被告人 ヤグラ氏の利益と裁判のデュー・プロセス(適正手続き)を守り、守らせる義務があります」
例の男は白々しい笑顔で名刺をサッと差し出すと、被告人 ヤグラの隣、弁護人席へと滑り込んだ。
「さて、本件において被告人 ヤグラ氏の刑事責任能力を追及することは、法的に不可能です。なぜなら彼自身、超常的な瞳術(万華鏡写輪眼)により、長期間にわたり精神を支配されていた……
すなわち、『完全な心神喪失の状態』にあったからです! 彼もまた、真の黒幕による被害者なのです!」
ほぅ……?
何か言って、とは思いましたが…… ずいぶんとユカイな事を言ってくれるじゃあありませんか。
弁護人として堂々と胸を張り、理路整然と主張を展開するあの男。それは別にいい。だが……
『被害者』
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で「ブツン」と何かが切れる音がした。
被害者?
ヤグラが被害者だと? じゃあ、何のために私は仲間を斬った? 何のために西瓜山河豚鬼を殺した?
何のために、争いの無い世界を求めて、暁なんて怪しげな組織に身を投じたんだ!?
気がついた時には、私は傍聴席と告発人席をかき分け、裁判の中央へと足を踏み出していた。
「それで納得しろだと!?」
私の唸るような声が、広い講堂に響き渡った。
例の男が振り返り「おや、鬼鮫さん」と呑気な声を出す。その態度が、さらに私の感情を煽り立てた。
「それで納得しろと言うんですか、特別顧問!!『操られていた』『心神喪失だった』
……そんな言葉ひとつで、これまでの惨劇を帳消しにするつもりですか!? 彼が操られていたとして、それで何人死んだと……
……何人、殺したと思っているんですか……!!」
視界が熱く滲む。
鮫のような私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。自分が泣いていることにすら、最初は気づかなかった。
周りの霧隠れの忍びたちが息を呑むのが分かった。
この私が。元・忍刀七人衆の一人、仲間殺しのロクデナシ。冷血な干柿鬼鮫が、ボロボロと涙を流して叫んでいるのだから。
「斬りました。指令があれば誰でも。味方をです。裏切り者を、里に不利益をもたらした者を、不都合になった者を。あるいはその疑いのあるというだけの者を!
何のために? それがもうわからなくなって…… 疲れたんです。私は疲れ果てて…… 仲間を殺し、嘘を重ねる日々に耐えかねて里を抜けました」
止まらない。感情も、言葉もあふれて止まらない。
うちはの里で暮らす日々に、癒されていたと思っていた。心の傷も、癒えるのだと思っていた。
だが違った。心の底にしまいこんでいただけだったのだ。
「そこに『争いのない理想の世界を作る』と言われ、私は暁に入った!
だが、その暁の陰の支配者こそが…… ヤグラ。アナタを操っていた男だった……!!」
私はヤグラを指差した手を下ろし、痛む胸をかきむしった。
まだ、痛みは止まらない。
「滑稽な話じゃないですか!! 優しい世界を求めて入った組織が、故郷を狂わせた元凶の配下。まさにいいように踊らされる道化ですよ!
そしてその元凶の男は、恐ろしいほどアッサリ殺され、この世から消えてしまった!!」
お前が殺したんだ! と例の男を指差し、それから再びヤグラを指差す。
「橘ヤグラ!! 私にはもう、アナタくらいしか、この痛みをブツける相手がいないんですよ……!!」
吐き出した。
何年も何年も、心の奥底の暗い海に沈めていた泥のような生々しい感情を、すべて吐き出した。
講堂内は静まり返っていた。照美メイも、他の忍びたちも、私の叫びに込められた絶望の重さに気圧され、誰も口を開くことができない。
だが――
目の前に立つスーツ姿の男だけは、一切の動揺を見せずに、ただ静かに私を見つめていた。
「……鬼鮫さん」
例の男は、ゆっくりと歩み寄ると、私の肩にポンと手を置いた。
その手は驚くほど温かく、そして力強く、少しだけ震えていた。
「言えたじゃないですか。ええ、本当に…… よく吐き出しました」
「…………」
「あなたの言う通りです。残酷で、理不尽で、あまりにも救いのない構造だった。あなたが怒り、涙を流すのは当然です。
ヤグラ氏を殴り倒し、ここで殺してしまったところで、誰もあなたを責められないかもしれない」
男はそこで言葉を区切り、一転して傍聴席と原告席全体を見回した。
「ですがね、皆さん。ここでヤグラ氏の首を刎ね、恨みを晴らして……
それで霧隠れの里に、一体どんな利益が残りますか?」
「……は?」
照美メイが呆気にとられた声をあげた。法廷の重苦しい空気が、一瞬で妙な方向へとズレ始める。
今、恨みの話してたよね? お金の話はしてなかったですよ?
しかしこの妙な空気は、うちはの里でよく味わったあの空気で。
私の中からいくらでも湧き出てきていたあの
「ヤグラ氏を処刑したところで、死んだ仲間は返ってきません。それどころか、復讐を果たしたという一瞬の快感の後に残るのは、さらなる荒廃と、長を失った混乱、そして財政破綻です。
今、霧隠れの里に必要なのは『誰かに罪を被せて殺すこと』ですか? それとも『傷ついた里を復興させ、遺族に補償を支払い、未来の飯の種を作ること』ですか!?」
どう反応して良いのかわからない民衆が固まっているスキに、強引に話を展開していく。例の男の得意とするプレゼン方式だ。
あの大蛇丸すら、何度もこれに引っかかっているらしい。
ちょっと真似してみようかと思っていたが、この間営業部の誰かがやってみて盛大にスベッたそうなので、やめようと思い直したヤツだ。
今あらためて目の前で見せられると、やっぱり真似できそうに無いので、正解でしたね。
例の男はアタッシュケースをバッと開くと、厚い書類の束を裁判長の青と、照美メイの机の上に叩きつけた。
「提案します! 『和解および霧隠れの里 法的民事再生パッケージ』です!!」
例の男の独演が始まった。感情の嵐が吹き荒れていた法廷が、徐々に「経営戦略発表会」へと変貌していく。
真似はできないが、勉強にはなる。
「まず、被告人 ヤグラ氏には、刑事責任を免除する代わりに『終身無給・復興労働義務』を課します!
もちろん水影の職は即座に辞任、もしくは解任。そして五代目水影には照美メイ氏が就任!
ヤグラ氏は新水影の下で、一生涯、土木作業とインフラ整備の先頭に立って、タダ働きをしていただきます!」
「な…… タダ働き……!?」
これまで黙っていたヤグラが、目を丸くして顔を上げた。
そういえば、なんでこの人、うちはに依頼しようと思い立ったんでしょうね?
即座に特別顧問が飛んできた事から考えて、何らかの仕込みはあったと思うんですが……
それなら言っておいて下さいよ。思いっきり人生語っちゃったじゃないですか。
「はい、タダ働きです! 三尾の人柱力としての膨大なチャクラと水遁は、整地や治水において重機十台分に相も当する! ソースはそこの『尾の無い人柱力』こと鬼鮫さんです。
死んで灰になるくらいなら、死ぬまでそのチャクラを里の建設に注ぎ込んで下さい!
これが贖罪の一つ目です!」
男は指を一本立て、次に私を指差した。
「そして二つ目! 被害者遺族および鬼鮫さんをはじめとする被害者の方々への補償金! お金で解決というといやらしいですが、必要ですよね?
で、す、が。霧隠れの現在の財政では、到底支払えません。そこで我が『株式会社うちは建設』が、霧隠れの復興事業に出資を行います!」
「えっ、出資!?」
照美メイが食いついた。
彼女は血継限界が差別を通り越して弾圧、粛清される霧隠れにおいて、沸遁と溶遁の2つの血継限界持ちという、察するに余りある人生を送ってきたと思われる。
しかしそんな生まれ育ちだというのに、原作では見事にこのドン底の霧隠れの里を持ち直して見せた、名政治家。
最下層出身からレジスタンスを経て、トップに躍り出て見事に走り抜けたそのバイタリティと嗅覚が「この話を逃すな」と叫んでいた。
だって今の霧にお金貸してくれる所とか、だいぶ後ろ暗い所か、下心ありの外国しか……
ゆえに原作だと、波の国で亡くなったガトーの財産をこっそりパクッた疑惑を一部読者に持たれている。
「霧隠れが持つ豊富な水資源と造船技術、漁業。そして温泉や美しい霧の景観の観光業を活かし、我が社のみならず『クロヘビ運輸』と連携した大物流ルートを構築します!
その事業利益の15%を『血霧被害者救済ファンド』として積立て、遺族への年金として支給します!」
例の男はここまでを一気呵成に捲し立てると、最後に私に向き直り、キラキラと輝く胡散臭い笑顔で、爽やかに笑った。
「さて、鬼鮫さん。『あなたの』ぶつける場所のない『痛み』。それを『みんなの』『お金』と『復興という結果』に変えてみませんか?
ヤグラ氏をここで殺して終わりにするよりも、彼を一生社畜としてこき使い、その成果で傷ついた故郷を救いませんか? 本当の意味で、君たちの勝利は、幸せになることですよ?」
「幸せ、か。なっても、いいんでしょうか。私が、幸せに」
「もちろん! だってあなたも我が社の一員ですからね!」
シアワセハギムデースと、小さく呟く例の男の態度に、肩の力が抜けた。
イタチさんに「お前は昔の俺みたいに真面目すぎる」とたまに言われていましたが、そうですね。
何事も、真面目に取り組まなくても、正面から取り掛からないといけないわけでも、ないんですねえ。
現に講堂内は、静寂に包まれています。それも、先ほどまでのドロドロとした殺気のある静寂ではありません。
全員が「あれ……? もしかしてもの凄く得するのでは……?」と頭の中でソロバンを弾き始めた静寂です。
完全に例の男案件として、深刻さとシリアスが壊されていました。
「新水影就任…… うちはからの資金援助……」
照美メイが、なぜかすでに出来ている書類を食い入るように読み込み、ゴクリと唾を呑んでいます。
そこまで書類が作ってあるとか、もうこれマジで仕込んだだろ。うちはの上層部も知ってましたね?
帰ったらちょっと問い詰めないといけませんねえ。
「水影殿 ……いや、ヤグラ」
書類に笑顔を向けていた照美メイが、表情を一変させた冷たい視線をヤグラに向けた。
ああやって感情をガラッと切り替えるのを目の前で見せられると、女性の怖さが分かりますね。
「貴方に拒否権はありませんよ。どうなのです? この提案、受けますよね?」
ヤグラはタダ働きに思うところがあったんでしょう、苦虫を何匹も噛み潰したような顔をしたが、顔を撫でて表情を戻し、深々と頭を下げた。
「……受けよう。オレの犯した罪が、どれほどの労働で許されるものかは分からない。だが死ぬまで、この身が果てるまで、せめて里のために働かせてくれ……」
ヤグラのその姿には、かつての冷酷な暴君の面影は微塵もなかった。罪を背負い、贖罪を求める一人の男の姿がそこにあった。
照美メイは胸を張り、その視線を受けた裁判長の青がコンコンと木槌を鳴らした。
「判決を言い渡す! 被告人 ヤグラに、終身無給労働および復興事業への人生の提供を命じる! 本裁判はこれにて…… 和解成立とする!」
「「「おおおおおっ!!」」」
傍聴席から、歓声が上がった。
遺族たちも、憎しみの出口を見つけたというよりは「これで食っていける」「ヤグラが一生苦労するなら、いいか」という、非常に現実的な納得を得たようだった。
裁判が終わり、霧の立ち込める講堂の出口で、私は一人たたずんでいた。
あれほど流した涙はすっかり乾き、胸の中にあったドロドロとした塊は、さすがに消えてはいないものの、心の隅に冷えて小さく固まっている。
一度で全てスッキリと憎しみは消えなかった。きっとあのままヤグラにぶつけていても、消えなかっただろう。
憎しみは消えなかったが、区切りは付いた。里は新たな水影のもと復興へ、そして私は……
「鬼鮫」
背後から、イタチさんが歩み寄ってきて、こちらを覗き込み、微笑んでこう言った。
「良い顔になったな」
自覚はあった。あれだけ感情を吐き出して、叫んだのだ。
そりゃあストレスも吹っ飛ぶというものだろう。ただ大勢の前でやってしまったので、過ぎ去った今となっては恥ずかしくもある。
「いやあ、恥ずかしいところを見せてしまいましたよ」
私が苦笑すると、ポンと後ろから背中を叩かれた。
おかしいですね。気配は無かったんですが。
「いやあ! 大勝利、大勝利ですよイタチさん、鬼鮫さん!」
やたらカクカクした文字で『勝訴』と書いた紙を持った特別顧問が、胡散臭い爽やかな笑顔でそこにいた。
もう片方の手には早くも「霧隠れ復興出資協定書」の控えが握られている。
だからアンタ絶対シナリオ作ってただろ。言ってもどうにもならなさそうだから、これくらいしか言いませんが。
「アナタという人は、本当に無茶苦茶です」
私が呆れたように溜め息をつくと、例の男は満足そうに胸を張った。
「ビジネスとはそういうものです。感情のぶつかり合いを、誰しもが納得する利益に変換する。それがコンサルタントの仕事ですよ。
あ、そうそう。鬼鮫さんには、今回の裁判での熱演、そして出張での労をねぎらって、今月の給与に特別手当の申請をしておきますね」
前半と後半の落差がひどい。
しかも後半の方が私には現実的な利益になるあたりが、またヒドいですね。しかし……
「熱演の手当、ですか?」
「ええ。『時間外感情労働手当』です」
「……なんですか、その怪しげな手当は」
私は思わず吹き出してしまった。
本当に、うちはの里で働いていると、悩んでいるのがバカバカしくなってくる。
血霧の里のおぞましい過去も、暁での偽りの理想も、すべてはこの男の持ち込む「ただの現実(資本主義)」の前に溶けて消えていくのだ。
霧が太陽の光の前に、退散するように……
すいません、ちょっとキレイに言い過ぎました。あの男はもっと俗なナニカです。
「さあ、イタチさん、鬼鮫さん! 帰りますよ! 明日は早朝から『うちは建設・警備事業部』の全体朝礼ですからね! 遅刻したら長老の有志たちから長いお説教ですよ!」
「……やれやれ」
イタチさんが小声で呟き、ネクタイを締め直す。
「はいはい、分かりましたよ。全く、うちの会社はブラックなんだかホワイトなんだか、さっぱり分からない」
私は「出番が無かった」と訴える背中の鮫肌を軽く叩き、スーツのジャケットを羽織り直した。
「次に来る時があったとして、私はどんな気持ちで、ここはどんな場所になっていますかね」
離れた故郷の行き先が、少し楽しみだった。
今回は、なんだかんだありましたが、悪い仕事ではなかった。と、思っていた。
「イタチさん! 実はアナタは全部知ってて黙っていたとか、それはないでしょう!」
「許せ鬼鮫。また今度だ」
「また今度やるんですか!?」
私って、誰かの手の平の上というのは、実はまだ変わってないんじゃないですかねぇ?